映像制作25年・焼き鳥屋5年、共通するのは『細部へのこだわり』

今回のゲストは、映像制作を手掛ける株式会社 要堂(かなめどう)の代表取締役を務める松本恭直(まつもとやすなお)さんです。松本さんは19歳から映像の仕事に携わり、1997年に同社を設立。現在は映像制作をしながら東京・西麻布に『まほろば』という炭火焼き鳥屋も出店しています。

ワクセルコラボレーターでタレントの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷が、松本さんの仕事観やこだわりなどを伺いました。

セットで作られた異空間に衝撃を受け映像業界を目指す

株式会社要堂-代表取締役-松本恭直×ワクセル

渋沢:松本さんは幼少期から「映像の仕事に就きたい」という夢を持ち、実際に長年映像制作に携わっていらっしゃいます。映像に興味を持ったきっかけを伺えますか?

松本:幼いときに、家の近所にあった東映のスタジオに入る機会があったんです。セットを初めて見て、異空間を作っていることへの衝撃を覚え、「ここで働きたい」と思いました。美術や撮影にも興味を持って、映像会社やテレビ局に行けば自分の夢が叶うと思い、19歳のときにテレビ局でアルバイトをしていました。ただ、その頃は今と違って「テレビの仕事をやらせてやる」という風潮だったので、1カ月働いても小遣い程度しかもらえず、まるで丁稚奉公みたいな感じでしたね。でも、夢もあったんです。映像制作会社に勤め出してからはちゃんと給料がもらえるようになり、20代前半でも20万円、30万円とどんどん上がっていきました。

住谷:そこから起業されていますが、もともと起業願望があったのですか?

松本:まったく起業する気はなかったのですが、勤めていた会社が経営的にうまくいかなくなり、退職せざるを得ない状況になってしまったんです。特に行き先もなくて、ちゃんと給料をもらうにはどうしたらいいのか仲間に相談したところ、「自分でやった方がいいんじゃないか」と言われました。それがどんなに大変なことかわかっていなかったんですが、「映像の仕事はできる」という自負があったので、起業することに決めました。

会社設立から25年「ただ真面目にやり続けただけ」

株式会社要堂-代表取締役-松本恭直×ワクセル

住谷:映像制作の会社を立ち上げ、主にどのような映像を撮られているんですか?

松本:CM、音楽もの、企業もの、イベント映像など、今は映像全般をやっていますが、音楽が一番多いですね。ミュージックビデオだけでなく、最近ではライブでも映像を使うので、そういった映像も作っています。会社を始めた頃はMISIAさんの映像を作らせてもらっていました。たまたま知り合いの関係で出会い、MISIAさんの事務所の社長が良くしてくださったんです。あとはGLAYさん、水樹奈々さんなど本当に幅広く作ってきました。

ミュージックビデオは、本人やレコード会社が曲のイメージを強く固めていることがあるので、そのイメージを汲んで具体的に作ることを大事にしています。そのために話をよく聞き、理解を深めるようにしています。本人も知らないことをこっちで調べて、「こういうやり方もありますよ」って提案することもありますね。

住谷:会社を立ち上げ25年も続いているそうですが、これほど長く続けることができた秘訣を伺いたいです。

松本:秘訣はなくて、ただ真面目にやり続けただけなんですよ。これまで会社が潰れそうなときもあって、土下座してお金を借りたこともありましたしね。でも続けるってそういうことだと思います。必ず悪いこともあるけど、続けていくなかで未来が見えてきて、どんどん面白くなる。私は「カッコいいことをやろう」ってずっと言い続けてきました。

ここ数年は毎年従業員を増やすことにしていて、今は30名ほど在籍しています。雇用を増やすことは大変なことですが、後進を育てることを繰り返しやっていかないとダメだと思ったんです。雇用することが会社作りのベースだと考えているので、意識していますね。好きじゃないと続かない仕事なので、真面目で映像が好きな人を採用しています。

ずっとやりたかったことを形に、西麻布に焼き鳥屋を出店

株式会社要堂-代表取締役-松本恭直×ワクセル

渋沢:松本さんは映像制作をしながら、西麻布に『まほろば』という炭火焼き鳥屋も出店されています。なぜ飲食店を出すことになったのでしょうか?

松本:料理を作るのがすごく好きで映像制作の会社を立ち上げた頃から、ずっとやりたいとは思っていたんです。でも私は昔から器用貧乏で何をやってもそこそこな結果。複数のことをやるとどっちつかずでダメになる気がして、なかなか踏み出せずにいました。

でも起業して20年経って「もう関係ないかな、好きに生きよう」と思い、やりたいことには手を出すようになりました。タレントさんやさまざまな人と幅広く付き合いがあるので、気兼ねなく集まれる場所や自分たちが楽しめる場所があったらいいなとずっと思っていて、ようやくそれが形にできました。もうすぐお店を開いて丸5年になります。

『まほろば』という名前は私の母が提案してくれたのですが、昔の言葉で、“素敵な場所”、“人が集まる場所”という意味があります。昔はお祭りのときに『まほろば』って言葉が使われていたそうですよ。私の父は字がキレイなので、店のロゴを書道で書いてもらい、母と父のコラボレーションになっています。

「料理にもちょっとした驚きを」オリジナリティ溢れるこだわりメニュー

株式会社要堂-代表取締役-松本恭直×ワクセル
株式会社要堂-代表取締役-松本恭直×ワクセル
株式会社要堂-代表取締役-松本恭直×ワクセル

渋谷:本日は食事も用意していただいたのですが、どれも見たことがないような料理で目で見て楽しむこともできますね。

松本:『地鶏もも肉の雲丹(ウニ)乗せ』『レバーパテもなか』『TKG雲丹のせ』の三品をご用意しました。まず『地鶏もも肉の雲丹乗せ』ですが、こちらはもも肉を1日たれに付け込んでいるので柔らかく、だしの風味がきいています。海苔に巻いて食べて、磯の香りも一緒に味わってください。『レバーパテもなか』は、しっとりとしたレバーともなかのさくっとした食感が楽しめます。『TKG雲丹のせ』はご飯の上にメレンゲを乗せています。そうすることでふわっとして、見た目も楽しめ、ご飯は生姜とネギ、だしで炊いた炊き込みご飯になっています。

住谷:一つひとつこだわりを感じますね。こういうオリジナリティのあるメニューはどうやって思い付くんですか?

松本:お店のメンバーと一緒に「こんなメニューにしたら面白いんじゃないか」ってアイデアを出し合いながら作りました。『レバーパテもなか』は、イタリアンやフレンチでレバーパテをパンと一緒に食べることが多いので、「さくっとした食感を合わせるならお煎餅でもいいんじゃないか」などさまざまな案を出しながら、もなかに決まりましたね。

映像業界でエンタメの心得を持っているので、料理にもちょっとした驚きや楽しさを提供したいと思っているんです。映像を作るときも料理を作るときも“こだわりを持って最後まで丁寧に作る”そういう思いを持っています。

渋谷:やりたいことには積極的に取り組んでいるそうですが、次にやりたいことはありますか?

松本:お店を増やしていきたいという気持ちがありますね。『まほろば』の名前を使った、焼肉屋だったり和食屋だったり、たくさんのジャンルのお店があったら楽しいと思うんです。これまで自分がやりたいことを軸に行動してきましたが、それは今後も変わりません。ただ、経営者としての責任も感じているので、しっかりと後進育成にも努めながら自分のワクワクする未来をつくっていきたいですね。


『ウールマン』こと上野伸悟さんが語るウールの魅力と環境問題

レダ ジャパン株式会社の代表取締役である上野伸悟(うえのしんご)さんは、25年以上も生地の仕事に携わっており、なかでもウールに特にこだわっているところから、『ウールマン』として親しまれています。環境に優しく、優れた機能性を持つウールの魅力を伝えながら、環境問題について発信する活動もされています。

ワクセル総合プロデューサーの住谷とメディアマネージャー三木が、ウールの扱い方やアパレル業界が及ぼす環境問題についてなど、上野さんにお話を伺いました。

夏は涼しく冬は暖かい、防汚性も高いウールの驚くべき機能性

レダ-ジャパン株式会社-代表取締役-上野伸悟×ワクセル

三木:上野さんはウールをこよなく愛する『ウールマン』として知られています。世の中にウールの素晴らしさを伝えるために活動されていて、ファッション業界に一石を投じるような発信にも注目が集まっています。本日は、業界についての正しい知識を上野さんから伺いたいと思います。まずは、ウールが他の繊維素材とどう違うかお聞かせください。

上野:繊維は大きく分けて『天然繊維』と『合成繊維』があります。天然繊維は自然から生まれたもので、合成繊維は石油などから生まれたもの。

ウールは羊の毛から作られているため、天然繊維に含まれます。また、ウールは羊が過酷な環境を生き抜けるよう、 “夏は涼しく冬は暖かい”という特徴を持っています。さらに防汚性が高いので汚れがつきにくく、落ちやすい。頻繁に洗わなくてもよいため、水や電気の使用も少なくすみ、最後は土に還って養分となるという、とてもエコな素材です。

三木:近年は「ウールが環境に良い」と注目されていますが、なかにはウールの扱い方に悩まれている人もいると思います。私も洗濯機に入れて、縮めてしまったことがあります。

上野:ウールは擦るだけなら縮まず、濡らしただけでも縮みません。ただ、この両方が合わさると、『フェルト化』といって繊維が絡み合って縮んでしまいます。ウールは汚れにくいので洗わないのが一番なのですが、洗う場合は水に浸して、ウール用の洗剤で軽く押してあげる程度で十分です。汚れが落ちやすい繊維なのでそれでキレイになりますよ。

僕はレダ ジャパンでウールを仕事で扱うようになりました。あまりの着心地の良さに驚き、ウールのよさを知ってしまってからは、それ以外のものを着られなくなってしまいましたね。今日もインナー、下着はもちろん、靴下や靴もすべてウールです。

イタリアファッション界のレジェンド「チェルッティ」の偉業

レダ-ジャパン株式会社-代表取締役-上野伸悟×ワクセル

上野:僕の経歴を順番に説明すると、高校卒業後はプロゴルファーを目指していました。しかし、自分で決めた期限までにプロになれなかったので22歳でゴルフをやめ、生地の代理店に勤めることになったんです。代理店にいた時には、イタリア留学をしています。

その後、レダ ジャパンの創立メンバーとして営業職に就いたのですが、給料面に関するミスマッチから退職。転職先の日本のアパレルメーカーで洋服の作り方を勉強している際に、「Lanificio Cerruti Japan (ラニフィチオ・チェルッティ・ジャパン)の社長をやってくれないか」と声をかけてもらいました。

チェルッティとは人の名前で、イタリアファッション界のレジェンドです。つい先日91歳でお亡くなりになりました。今でこそ「ファッションといえばイタリア」というイメージがありますが、実はイタリアは”ファッション後進国”でした。
イタリアには縫製工場がありますが、当時はロンドンやパリの下請けという存在でした。誰も見向きもしなかったイタリアの生地を、チェルッティが世界に広めたと言っても過言ではありません。あのジョルジオ・アルマーニ(ファッションブランド「アルマーニ」の設立者)もチェルッティの下で働いていたんですよ。

20年以上前から環境問題に配慮してきた生地メーカー「レダ」

レダ-ジャパン株式会社-代表取締役-上野伸悟×ワクセル

三木:ラニフィチオ・チェルッティ・ジャパンで社長をしていた時に、レダ本社から「戻ってきて」と熱いラブコールがあったと伺っています。

上野:2018年の年末に、突然レダ イタリア本社の人事部長とのミーティングがセッティングされ、「営業マネージャーとして戻ってきてほしい」と言われました。しかし、当時の私はチェルッティ・ジャパンの社長に満足していたので、「(レダ ジャパンの)社長じゃなきゃ嫌だよ」と伝えたら「じゃあ、社長でいいです」と返事をいただけました。

冒頭でも話したとおり、レダが作るウールの生地はものすごくいいものなんです。自分でも“欲しい”と思うほど高品質だったので、「社長になったらこの洋服を着て、みんなに知ってもらうことができる」と胸が高鳴りましたね。

さらに、当時は環境問題への取り組みに注目が集まっている時期でした。レダは20年以上前から環境に負荷をかけない活動を続けていて、ソーラーパネルで発電し、水資源を無駄にしないためにろ過施設を持っています。環境問題を世の中に広めるという僕がやりたかった活動とマッチしたので、レダ ジャパンへ戻ることを決意しました。

完全オートメーション化された工場で生産、圧倒的な”コスパ”

レダ-ジャパン株式会社-代表取締役-上野伸悟×ワクセル

住谷:20年以上も前から環境問題について取り組まれているとは驚きです。上野さんが思うREDA(レダ)の一番の強みとはなんでしょうか?

上野:レダは1990年代に工場を一新しているのですが、その時に完全オートメーションのサステナブルな工場を作りました。CO2をあまり出さず、水をキレイにすることを考えて設計されています。

現在はサステナブルに関心が高まり、環境保全に取り組む会社が多いと思いますが、レダは20年以上前から行っているので何も変わりません。レダの工場見学に行くとロボットが糸を運んでいるのが見られますよ。完全オートメーション化して作られているので、他のイタリアブランドの生地に比べると、品質がいいのにとてもお手頃な価格です。圧倒的に”コスパ”がいいところが強みだと思っています。

それでも高いと言われますが、みなさん洋服を買うときに値段しか見ていない人が多いですよね。洋服を買うときは「何でできていて、誰が作っていて、最後どうなるか」を意識して買ってほしいと思います。

洗濯するだけで環境汚染につながる事実

レダ-ジャパン株式会社-代表取締役-上野伸悟×ワクセル

三木:洋服を買うときに見るべきところを具体的に教えていただきたいです。

上野:今では多くの衣服が海外で作られていて、非常に安く売られています。品質やブランドにもよりますが、Tシャツが1着1,000円で売られていることもありますよね。でも、それは生地を作っている人がお金をもらえていないということなんです。洋服があまりにも安すぎると「作っている人たちが苦労している」と、思ってもらいたいですね。

安いから海外で作ることが多いですが、それにより日本の縫製工場は仕事が無くなり、どんどん潰れています。日本で貧困が増えているのは、国内の仕事が少ないことも影響しているはずです。そして、この問題はアパレル業界に限ったことではないと思います。

住谷:短期的に物事を見た結果が今の状況なんですね。上野さんの今後のビジョンについても伺いたいです。

上野:多くの人がポリエステル製の洋服を持っていると思いますが、実は洗濯するだけで環境汚染につながっているということを知ってもらいたいです。ポリエステルから出るマイクロプラスチックが海に流れて汚染物質と合体し、それを魚が食べているので魚の中はプラスチックだらけと言われています。私たちはその魚を食べているわけです。WWF(世界自然保護基金)が過去の研究を分析した結果、私たちが1週間に摂取するプラスチックの量はクレジットカード1枚分にもなるそうです(※1)。まずはそういった事実を多くの人に知ってほしいですね。

また、日本の1人当たりのプラスチック使用量はアメリカに次いで世界第2位(※2)です。医療器具などプラスチックを絶対に使わないといけないものもありますが、洋服については使用を止めようと思えば止められますよね。ウール、綿、麻など1枚だけでも天然繊維のものにするなど、そういったことから始めてみてほしいです。

このような情報を発信し続けて、僕の活動やビジネスを通してファッション業界の環境問題について考えてくれるようになれば嬉しいですね。そして、それをきっかけに「環境が良くなった」と言ってもらえるようにしていきたいです。

出典:
※1WWFプレスリリース「先週食べたのはクレジットカード、今週も食べるとペン?」
※2環境省「プラスチックを取り巻く国内外の状況」

 


年間200軒以上のパン屋をハシゴする”パン王子”こと浅香正和さんのパンに懸ける想い

今回のゲストは、関西を中心にパンコーディネーターとして活躍している浅香正和(あさかまさかず)さんです。

浅香さんは、“パンでつながり、笑顔になる”ことをミッションに掲げ、パンの情報を発信し続けています。「パン業界に貢献したい」という浅香さんの強い想いについてお話を伺いました。

MCは、ワクセルコラボレーターであり、タレントとして活躍されている渋沢一葉さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。

年間で200店舗を巡り、パンの魅力を発信

パンヲカタル主宰-浅香正和×ワクセル

渋沢:
本日のゲストは、“パン王子”こと浅香正和さんです。浅香さんは、パンコーディネーターとして関西を中心に活動し、メディアを通してパンの魅力について発信し続けています。パン業界を盛り上げるために、2010年には「幸せ発掘プロジェクト」を立ち上げました。

浅香:
パン職人って自分の想いやパンについて発信することが苦手な人が多いので、それを拾いあげて代弁しようと2010年にブログを始めました。そもそも僕はパンに関わる会社で働いていたのですが、その会社の会長が「パン業界に貢献したい」という想いを強く持っている方でした。現在の活動を始めたのも、「会長のパンへの想いを継承したい」と考えたからです。

渋沢:
浅香さんは関西をメインにパン屋を巡っていると伺いましたが、年間でどのくらいの店舗に訪れているのですか?

浅香:
年間200店舗ほどです。1日に5店舗を巡ることもあり、1店舗につきパンを3個は買うので、1日で15個食べることもありますね。買ったあとは公園などで食べていますが、パンについてブログで発信したりライティングの仕事をいただいたりしているので、食べながら文章を書き、また次の店舗に向かっています。

文章を書く時、僕はパンの特徴を分解して捉えるようにしています。まずは食べる前にパンをよく見て、香りを確かめます。見た目や食感、のど越し、余韻、飲み込んだ時に最後に残る風味や香りなど…。パンはとても奥深いので、長く書き続けられていますね。

パンをきっかけにして”人”が繋がっていく

パンヲカタル主宰-浅香正和×ワクセル

渋沢:
2010年にパンシェルジュマスターを取得したと伺いましたが、どのような資格なのですか?

浅香:
「コンシェルジュ」と「パン」を掛け合わせた名前になっているのですが、パンの歴史や作り方、マーケティングなどについて幅広い知識を持っていることを証明する資格です。

僕はパンシェルジュマスター取得だけでなく、もっとパンに関わろうと2015年に「パンヲカタル」プロジェクトを始めました。
“パンを中心に人が繋がっていくことって素敵だな”と感じたことがきっかけだったので、「パンでつながり、笑顔になる」を明確なミッションに掲げています。小麦畑に行くイベントを開いたり、行政から依頼を受けて地域活性化のためにベーカリーマップを作ったりしています。

住谷:
その活動がメディアにも大きく取り上げられていますよね。浅香さんは元々バンドマンをされていたそうですが、当時の経験が「パンヲカタル」に繋がっていることもあるのでしょうか?

浅香:
高校を卒業後、会社員として働きながらビジュアル系のバンド活動をしていたんですが、27歳の時に解散しました。当時は歌詞を作っていたこともあり、パンについてライティングする時は歌詞を書くようなイメージで書いています。僕は「伝えたい」という気持ちを強く持っているのですが、今はパンを通して表現できているので、僕のなかではバンドもパンも繋がっていると思っています。

今は亡き会長の想いを伝え続けたい

パンヲカタル主宰-浅香正和×ワクセル

渋沢:
18歳で入社した会社がパンのフィリング(具材)メーカーとのことですが、あまり聞き馴染みのない業界だと思いました。

浅香:
カスタードクリームやチョコクリーム、あんこ、カレーなど、パンのフィリングを作る会社に入社しました。僕もこの会社に就職するまでは、そんな業界があることも知らなかったです。

当時は、高卒で就職する場合、近隣の会社から選ぶのが一般的でした。また、衣食住に関わる仕事に就くのが一番安定していると言われていたので、ひとまず食に関わる会社を選んだのが入社の理由です。54歳で独立しましたが、18歳から53歳までの35年間お世話になりました。

まだ在職中にパンに関する活動を始めたのですが、さまざまなメディアに出るようになって、「仕事とのバランスが取りにくい」と感じることがよくありました。当初は会社の売上に貢献できるほどの活動ではなかったので、会社との折り合いも難しい状況にありましたね。社内的にも独立した方がいいという雰囲気が強く漂っていて、もう今しかないと思い独立に至りました。

住谷:
評価されてもおかしくない活動だと思うのですが、当時はあまり評価されなかったんですね。努力しても周りの理解も得られない状況は、僕だったら諦めてしまうと思います。浅香さんがそんな状況のなかでも、活動を続けられた理由を伺いたいです。

浅香:
僕は「業界にも会社にも貢献したい」とずっと伝えていたのですが、活動と会社をうまく繋げられませんでした。しかし、これまで活動を続けてこられたのは、「亡くなった会長の想いを継承したい」という気持ちが強かったからです。今でも自分が迷った時は「会長だったらどうするだろう?」と考え、原点に立ち返ることができています。僕はパン屋さんが喜んでくれることをずっとしていきたいです。

パンは身近な生活のなかにある

パンヲカタル主宰-浅香正和×ワクセル

住谷:
独立後の現在は、主にどのような活動をされているのですか?

浅香:
地域活性化のプロジェクトを中心に行っていて、最近では大阪環状線のスタンプラリーを作りました。また福祉事業所のコンサルティングとして、商品開発や販売促進のサポートも手がけています。

最近「パンブーム」ってよく耳にしますが、僕はその言葉にとても違和感を覚えています。パンは生活のなかにあるものなので、ブームという表現がしっくりきていません。僕にとってパンの一番の思い出は、父親が休みの日にパンを買ってサンドイッチを作ってくれたことです。それくらいパンは身近で、日々僕らのそばにあるものだと思います。

渋沢:
最後に、浅香さん自身の展望についてお聞きしたいです。

浅香:
今、パンについて情報発信している方はたくさんいます。キレイな写真を撮る方もいて、正直そういう技術について僕は敵わないと思っています。でも、パンへの想いや、パンを作られている方の想いを届けたいという気持ちは誰よりも強いと思うので、今後も自分の言葉でパンの魅力を発信し続けていきたいですね。自分自身がパンを楽しんで、それを見て皆さんがパンを楽しみたいと思ってくれたら、こんなに嬉しいことはありません。


布団の常識を「干す」から「洗う」へ

フトン巻きのジロー株式会社取締役会長・森下洋次郎さんは、もともとIT関連の事業で失敗した経験がありますが、コインランドリー業界に可能性を感じ、「布団洗い」というサービスを確立しました。

今回は、失敗をチャンスに変え、次々と新しいことにチャレンジする森下さんのエネルギーの源や物事の捉え方など、たくさん聞かせていただきました。

ワクセル総合プロデューサーの住谷と、メディアマネージャーの三木が、MCを務めています。

「小さくても良いから自分で歯車を作りたい」大企業を卒業して起業

フトン巻きのジロー株式会社取締役会長・森下洋次郎×ワクセル

三木:
本日のゲスト、森下洋次郎さんの経歴をご紹介します。

1977年に奈良県生駒市で生まれ、1989年からの中高6年間はラ・サール学園に通い、鹿児島県で寮生活をされていました。2000年に慶應義塾大学商学部を卒業し、渡米してインターンシップに参加。同年に世界大手会計事務所プライスウォーターハウスクーパース(以下、PwC)に入社されました。

2006年にはIT企業を設立したほか、2015年に立命館大学客員教授にも就任されています。そして2017年、フトン巻きのジロー株式会社を設立されました。

住谷:
世界でも有数な会計事務所「PwC」に入られて、その後起業に至るまでにはどのような経緯がありましたか?

森下:
PwCは素晴らしい会社で、研修制度や評価制度も整っていて、サラリーも不服はありませんでした。一方で、すべてが整っているがゆえに、自分が大きな歯車の中にいることに気づかされました。
200~300名ほどが参加する規模のプロジェクトでは「自分がいなくても、このプロジェクトは回っていくだろうな」と常々考えていましたね。
そして、大きな歯車の一部でいるよりは、小さくても良いから自分で歯車を作りたいと考えるようになりました。

僕の世代には、グリーとかミクシィとかSNSの会社を起業してミリオネアになった人がたくさんいて、「ITの波に乗るしかない」と、起業したのがバズー株式会社でした。

バズーを設立した当時はまだガラケーが全盛期の時代で、ガラケーサイトを作る事業をしていました。メールと検索を合わせた「メルケン」というサービスを作りましたが、まったく流行らず。その後もどんどん新規事業を立ち上げましたが、失敗の連続でした。結果的に社員をリストラして、とても苦しい経験をしました。

事業に失敗、人生のどん底をブログで発信

フトン巻きのジロー株式会社取締役会長・森下洋次郎×ワクセル

住谷:
エリート街道を歩んでいるように見えますが、そんなに苦しい経験をされたのですね。

森下:
ある新入社員からリベンジブログを書かれたこともあります。うちの会社を中傷する内容で、かなり炎上しました。当時、内装費を5,000万円かけて森ビルにオフィスを立ち上げたのですが、約1年で閉めることになりました。原状復帰に2,000万円かかって、リベンジブログのクレーム電話が殺到するオフィスに1人残って、人生のどん底を味わいましたね。

でも、どん底の経験を自分のために残しておきたいと思い、ブログで失敗談を赤裸々に綴りました。思いがけずブログに反響があって立命館大学の方から連絡をもらいました。

「失敗体験を学生に語ってほしい」という内容で、それまで失敗をさらけ出す経営者がいなかったので、学生たちにはかなりウケましたね。それをきっかけに日本でグローバルリーダーを育成するプロジェクトに、立命館大学の客員教授として関わらせてもらうこともできました。

住谷:
IT起業家からランドリー業界と、かなり方向転換をされていますよね。どのような変化があったのでしょうか?

森下:
バズーで新規事業に次々とチャレンジしてほぼ失敗しましたが、ひとつだけ軽くヒットしたものが民泊事業でした。

7、8年前に「Airbnb(エアビーアンドビー)」が日本に上陸し始めて、ちょうどオリンピックの東京開催も決まって、外国人観光客が急激に増えていました。
民泊事業をするために新宿や渋谷のマンションを50部屋くらい借りて、お客さまがチェックアウトする度にベッドメイキングをして、シーツを洗うためにコインランドリーに行きました。

都内のコインランドリーって「汚い、暗い、怖い」の3つが揃って「3K」と呼ばれているのですが、そんなコインランドリーに僕みたいにAirbnbをやっている人たちが行列を作って待っているんです。それを見て、自分でやった方が良いのかもしれないと思ったんですよね。

ニッチ産業である「コインランドリー」に可能性を見出す

フトン巻きのジロー株式会社取締役会長・森下洋次郎×ワクセル

三木:
民泊を行った経験から、コインランドリーという新たな事業の展開が生まれたんですね。

森下:
立命館大学の客員教授としてアメリカに渡った時に、”イノベーションの鬼”と言われる方から教わったことも大きなきっかけになりました。イノベーションを起こすには「業界がニッチであること」「ニッチで産業として成り立っていること」が必要だとその方に教わりました。まさにコインランドリーのことだと思いましたね。

事業を始めるにあたって、競合を避けたいと思い、沖縄での開業を選択しました。鹿児島で生活していた経験から、鹿児島は東京より2年くらい文化が遅れているという実感があったので、沖縄なら3年くらい遅れているんじゃないかと予想を立てました。

『タイムマシン経営』と言って、良い文化を先に仕入れて展開する方法がありますが、東京にあるちょっとおしゃれなコインランドリーを沖縄で作れば絶対に勝てるって目論見がありました。沖縄は高温多湿なので乾燥機の需要があったので、戦略が見事に当たりました。
一般的にコインランドリーの平均月商は40万円と言われていますが、僕が作ったお店は初月から月商100万円を達成。勢いに乗って、民泊で儲けたお金を全部つぎ込んで、沖縄にコインランドリー6店舗を一気に出しました。

業界で圧倒的に勝つために「布団洗い」サービスを確立

フトン巻きのジロー株式会社取締役会長・森下洋次郎×ワクセル

森下:
コインランドリーは無人でできるので、不動産業の人が税金対策にやることが多くて、地元の地主には資本で負けてしまうと思いました。圧倒的に勝つためには、他の人がまったく考えないようなことを実現しなければなりません。そのために、まずは自分自身が店舗に立って接客を始めました。僕は沖縄県民のことがまったくわかっていないというハンデもあったので、徹底的にマーケティングしようと考えました。

三木:
コインランドリーに接客する人がいるのは新しいですね。

森下:
東京から最新の大型機械を仕入れていたので、家では洗えない大物、毛布やカーペットや布団を入れてって接客していました。
でも、みなさん「布団って洗えるの?」って言うんですよ。つまり布団は干すものだと思っていて、洗うって発想を持っていないんですね。これは今までありそうでないサービスだと思いました。

通常、敷布団をそのまま洗うと壊れてしまいます。敷布団の加工方法って色々ありますが、断面にした時に貫通していない縫い方のものは洗濯機の振動で綿が寄ってしまうので、洗濯ができません。そのため、洗濯できるように布団を固定して巻きつける「フトン巻き」って方法を考えました。

エネルギーの源は「常に新しいことに挑戦し、自分自身を変えること」

フトン巻きのジロー株式会社取締役会長・森下洋次郎×ワクセル

住谷:
それでフトン巻きが始まったんですね。森下さんの物事を捉える視点に驚きがいっぱいです。

森下:
コインランドリーを利用する人は全国的に10%程度と言われています。つまり10人に1人しか使わないニッチ産業なんです。ところが布団に関しては、掛け布団、敷布団、何かしら絶対持っていますよね。つまりフトン巻きのサービスを確立させることでマス産業にできるんです。

住谷:
布団とコインランドリーのコラボレーションですね。ニッチな産業にマス産業を入れて広げていくという発想が面白い。

森下:
コインランドリーって全国に2万店舗ほどあるのに、市場は1,000億円規模の小さい産業です。でも僕たちが独自に調査したデータによると、布団は一人当たり2、3枚持っているので、日本には3億枚の布団があることになります。これを1枚2,000円で洗うと考えて、単純計算すると6,000億円の産業が作れるわけです。3年前にこんな大ボラを吹いて全国展開しようとスタートして、今は81店舗まで増やすことができました。

三木:
森下さんは本当にイキイキと話されて、ご自身の事業をとても楽しんで取り組まれていることが伝わってきますが、そのエネルギーはどこから来ているんですか?

森下:
生きていくエネルギーの源泉って、「常に変わっていくこと」「新しいことに挑戦していくこと」つまり自分自身を変えていくことしかないと思います。それを毎日愚直にやっていくことは意識していますね。僕はコミュニティの中であまり上手に影響力を発揮できた方ではなくて、それが悔しかったという思いも強いです。同じ人間なのに上手くいっている人たちがいて、「自分にできないはずがない」という悔しい思いをバネにしたからこそ、ここまで来られたのかもしれませんね。

一度は逃げた東京にもう一度勝負を挑みたい

フトン巻きのジロー株式会社取締役会長・森下洋次郎×ワクセル

三木:
森下さんが今後掲げるビジョンを聞かせてください。

森下:
フトン巻きのジローは「日本国民のふとんを洗い尽くす」をミッション・ビジョンとして掲げているので、まずは洗い尽くして布団の常識を「干す」から「洗う」に変えていきたいです。

ある企業で検証してもらったところ、実は天日干しのダニの撲滅率はかなり低いそうです。ダニの糞などはアレルギーの原因になるので、絶対に洗った方が良いんです。キレイになることはもちろん、アレルギーの予防対策に繋がっていく社会性のあることをしっかり伝えていきたいです。現在はCMを作ったり、こういう素晴らしいメディアの取材を受けたりといった活動をさせてもらっています。

現状の店舗規模では3億枚洗い尽くそうとすると、単純計算で500年掛かってしまいます。もっと出店数を増やしていく必要がありますし、同時に今後は宅配デリバリーサービスを強化していきたいと考えています。

フトン巻きのジローは郊外を中心に展開していますが、それは車社会と相性がいいからなんですね。僕はもともと東京から逃げるように沖縄に行ったので、東京で勝負して勝ちたいという気持ちがあります。そのためにはウーバーイーツのようにスマホで簡単に予約して、デリバリーが成立するようなサービスを実現させなければいけません。

今後ハウスクリーニングも含めて清潔全般に関しては、フトン巻きのジローで担当させてもらえるようにして、「ジロー」と言えば『ラーメン二郎』ではなく、『フトン巻きのジロー』と言われるようにブランドを確立させたいです(笑)。


山形を盛り上げるために、できることはなんでもやりたい

今回のゲストは、野球やサッカーを代表するスポーツ業界で長年に渡って活躍され、現在は株式会社モンテディオ山形の代表取締役を務める相田健太郎(あいたけんたろう)さんです。

プロ野球チーム、プロサッカークラブで培われた力を生かしながら、モンテディオ山形の運営に尽力する相田さんのご経験について、お話を伺いました。

MCはワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷です。

ワクセル×相田健太郎氏対談

川口:

相田さんは1974年、山形県南陽市に生まれ、その後4歳から9歳までと中学時代の3年間をアルゼンチンで過ごされました。日本に帰国後、東洋大学を卒業し、旅行会社に入社したのち、2003年には株式会社フットボールクラブ水戸ホーリーホックに転職されています。相田さんの、サッカーへの想いについてお伺いしたいです。

相田:
前職の会社でサッカー大会を開催する部門にいた時に、Jリーグに営業に行きました。そこでたまたま、アルゼンチンでサッカーを指導してくれていた人と再会したんです。

その方に「Jリーグで働かないか?」と誘っていただき、御茶ノ水にある日本サッカー協会ビルで働くものと思い承諾したんですが、結果的に縁もゆかりもない水戸に赴任していました(笑)

川口:
そんなことがあったんですね。
その後、2007年に東北楽天ゴールデンイーグルスの運営会社に移られて、野球業界に参入されています。

相田:
野球は日本のプロスポーツ界で一番大きいので、業界を見てみたいという気持ちがあり、野球業界に移りました。
また、当時は自分自身が未熟だったこともあり、サッカー業界でお金を稼ぐということに限界を感じてしまっていたんです。
たまたま野球の話をいただき、「給料が高く、お金を稼げるところに行きたい」と思ったんですよね。

住谷:
サッカー業界と野球業界の違いはありましたか?

相田:
全然違いましたね。
当時の野球業界は本当にキラキラしていました。

イーグルスは東北に新しくできたばかりの球団で、当時は平均年齢が30歳くらいだったので、特にそう感じたのかもしれません。
IT企業を代表する楽天が球団を作るというところから、驚きが凝縮されていて本当に面白かったです。

社長から任命され、再びサッカー業界へ

ワクセル×相田健太郎氏対談

川口:
野球業界に入られたのちに、楽天ヴィッセル神戸株式会社に出向されています。再びサッカー業界にいくことになり、心境はどうでしたか?

相田:
ある野球の試合当日、立花社長(楽天野球団代表取締役社長)の向かいの席に僕が座っていたんです。
そこで突然「相田!」と呼ばれて、
「お前サッカーやっていたよな?サッカーの仕事をするなら、強化する部門の方がいいって言ってたけどやれるのか?」と聞かれました。
「どうでしょう…」と答えたんですけど、
「とりあえず2週間行ってこい。明日朝9時に神戸の練習場に立っておけ(笑)」と言われたんですよ。

住谷:
とんでもない展開の早さですね。

相田:
その後、立花社長に「明日は、仕事はあるのか?」と聞かれ、僕は一瞬返答に困ってしまいました。
立花社長がすごかったのは、会話をしている横で、秘書の方が僕が2週間泊まる宿と飛行機の手配を始めていたのです。その場で「今夜、最後のフライトで神戸に行けます」と言われました。
その時、誰か一人連れて行っていいと言われたので、球団にいた分析の男の子を一緒に連れて、急遽神戸入りしました。

住谷:
まずは2週間とのことでしたが、その期間にどんなことをされたんですか?

相田:
僕が行った一週間後にポドルスキ選手(ルーカス・ポドルスキ氏:元ドイツ代表サッカー選手)が入団して、彼からは「クラブのここが良くない、もっとこうした方がいい」など数々の指摘をいただきました。
ハード面の改善は僕らも課題があると思い、僕が滞在していた2週間で課題をあぶり出して、その場でできることは急いで片づけました。

2週間の確認作業後、「残りの課題はこれです。誰に引き継ぎましょう?」と立花社長に聞いたところ、「誰って、お前がやるんだよ(笑)」と言われ、そこから出向で神戸に行くことになりました。
誰か別の人がやると思って課題をたくさん書いたのですが、失敗でしたね(笑)

「地元山形に貢献したい」という想いから、モンテディオ山形の社長に

ワクセル×相田健太郎氏対談

川口:
そして2019年に株式会社モンテディオ山形の代表取締役になられていますが、これはどのような経緯だったのでしょうか?

相田:
楽天イーグルスにいた時に、モンテディオ山形の株主であるアビームコンサルティングのスタッフとお話する機会があり、それをご縁に前任の社長から声を掛けてもらいました。
これまで培ってきたさまざまな経験を活かして、地元山形に直接貢献できることが嬉しいですし、引き受けることにしました。

川口:
私は山形の放送局でアナウンサーをしていた経験もあるので、サポーターとしてモンテディオ山形の紹介をさせていただきます。始まりは1984年、NEC山形サッカー同好会として発足し、1991年に「モンテディオ山形」にチーム名が変わりました。
イタリア語で山を意味する「モンテ」に神を意味する「ディオ」つまり「山の神」です。山々に囲まれた地域なのでピッタリの名前ですよね。

相田:
スタジアムの周りも全部山です。
僕はスタンドから見るあの風景がすごく好きです。

川口:
チームの主な経歴として、2009年に初のJ1昇格を果たしましたが、2012年にJ2に降格。再度、2015年に4年ぶりのJ1復帰を果たす。
2019年にまたJ2となりましたが、J1参入プレーオフに進出しています。
そして2021年シーズン途中にピーター・クラモフスキーさんが監督に就任して現在に至ります。

選手だけではなくスタッフの戦い方が重要

ワクセル×相田健太郎氏対談

相田:
2015年に僕はまだいなかったですが、話を聞くとすごいんです。
J1昇格プレーオフで6位から優勝してJ1に上がり、本当に奇跡的な勝ち方をした一戦があるんですよね。

川口:
当時山形でアナウンサーをしていて、取材でパブリックビューイングの会場にいたんですが、会場のカメラが揺れて音も割れて、みなさん大喜びしていました。
2015年J1に上がった年は、県内がいつも以上に「モンテブルーカラー」で溢れて、地域にプロチームがある素晴らしさを実感した年になりました。

相田:
地元のチームが優勝するとかタイトル取ると本当に盛り上がるんですよね。
でも2015年のシーズンに、最速でJ2降格を決めてしまったのも山形で、そういう不名誉な記録も持っています。
J1に上がるだけでなく、戦い続けてより上に行くことを目的にしないとダメだと思いました。

住谷:
当時はJ1に上がることがゴールになってしまっていたんですね。

相田:
イーグルスで学んだことは選手だけが頑張るのではなく、フロントスタッフがどう戦うかが重要だということです。
我々だったら観客動員とか、売上を作ってチームの強化費に回すとか、選手だけじゃなく運営側も一丸となって、「みんなでJ1に行こう!」という共通意識が大事だと思います。

平均観客動員数6,000人から8,200人にアップ

ワクセル×相田健太郎氏対談

相田:
僕が入った時は観客動員数の平均が6,000人程度だったので、まずはこのベースを上げることを考えました。
過去J1で盛り上がった時の動員数が平均で1万人くらいだったので、正直あまり良い数字とは言えません。
J1に上がった時には、満員にすることが重要だという話をスタッフとして、動員数を7,500人まで伸ばすことを目標にしたのが2019年でした。
選手だけではなくスタッフも含めて全員が共通の目標に向かったことで、観客動員数が8,200人を超えて、全試合の累計動員数が一番多い年になりました。

住谷:
しっかり結果が出されているのがすごいですね。観客数を増やすためにはどういった工夫をされたんですか?

相田:
就任する前に一度、モンテディオ山形の試合を観に行ったことがあるんですが、言葉を選ばずに言うと、当時はすごい「つまらない興行」だと感じたんです。モンテディオ山形を知っている人しか行きたくないような内輪な空間という印象でした。

そもそもスタジアムが山形市内にあると思っていたのに、山形駅に着いてからさらに20分かかると聞かされた時は「もう帰りたい」って思ったほどです(笑)
公式サイトを見ても、スタジアムの行き方の案内もなく、お客さまを呼び込む施策というのが全くありませんでした。

そこで、イーグルスに行った経験が活きたのです。イーグルスは元々「1.5軍選手が集まったチーム」と言われていたので、初年は全然勝てませんでした。
だからイーグルスは、たとえ試合に負けていても人を呼ぶために何をしたらいいか、徹底的に追求する球団になったんですよね。
イーグルスのスタジアムに行くとわかりますが、観覧車があったり、外野に人工芝の広場があったり、まるで遊園地のようで、野球にあまり興味がない人でも楽しめる作り込みがされています。

一流の外国人選手を誘致し、地域をさらに盛り上げる

ワクセル×相田健太郎氏対談

川口:
あまり興味がない方にも試合を観にきてもらうことはハードルが高いと思いますが、他にも何か工夫はされていましたか?

相田:
幸い、我々のスタジアムは運動公園の中に立地していて自然に恵まれているので、そこを最大限活用することを考えました。
より多くのお客さまに来ていただくために、僕らの力でできることはなんでも変えていこうと今も試行錯誤しています。

住谷:
今後の展望については、どのようにお考えでしょうか?

相田:
すごく不本意なんですが、今年クラブの歴史上初めてシーズンの途中で監督を解任しました。でも今回初めて外国人の監督を採用して、僕らが目指すサッカーチームになってきています。

そもそも山形県自体、外国人が少ないところなので、外国人の一流選手を呼ぶことに課題を感じています。
外国の一流選手は、5LDK以上の広い家や、お子さんがいたらインターナショナルスクールに入れたいなどの要求があります。行政の方とも話し合いながら、今後は外国人の方々が家族で安心して住めるような場所に変えていきたいと思っています。
モンテディオ山形の活動によって山形がさらに注目される都市にしたいですね。また、今後はワクセルともコラボレートして、演出映像なども一緒に作ったりなどしながら、山形をさらに良くしていくことに尽力したいと考えています。


ファッションを通して人や地球とつながりたい

今回のゲストは現役大学生でありながら起業家としてスカーフブランド「ROSEFFY(ロゼフィー)」を立ち上げている廣瀬彩乃(ひろせあやの)さんです。

ROSEFFYのスカーフは再生素材を使い、土へ還るサステナブルなファッションアイテムです。
*ROSEFFY:「Rose」(英語で”バラ”)と「Fluffy」(英語で“ふわっとした”)の2つを組み合わせ、“ふわっと香るバラのような心地良さを届けたい”という想いを表現しています。
廣瀬さんのスカーフやサステナブルといった分野に興味を持った背景や、どのような想いでブランドを立ち上げているのかを詳しくお伺いしました。
(MC:ワクセル総合プロデューサーの住谷・メディアマネージャーの三木)

祖母のスカーフをきっかけに、ブランドの立ち上げを決意

廣瀬彩乃×ワクセル_20211025廣瀬さん土に還るスカーフ1

三木:
廣瀬さんはサステナブルスカーフブランド「ROSEFFY」だけでなく、2020年9月にSDGsを啓蒙するプロジェクト「HANDS UP(ハンズアップ)」も立ち上げられ、「SDGs×オシャレ」をテーマに活動の幅を広げていらっしゃる、今後注目の学生起業家です。

住谷:
学業と並行して起業するのって、すごいバイタリティですよね。
起業に至ったきっかけや、スカーフに着目した背景を教えてください。

廣瀬:
もともとファッションが好きだったのですが、スカーフというファッションアイテムに着目したきっかけは、祖母が使っていたお古のスカーフを受け継いだことでした。

私自身コロナの影響を受け、計画していたロサンゼルス留学に行けなくなり、すごく落ち込んでいました。
そんな私を見て、祖母が優しく私にスカーフを巻いてくれました。その時、「スカーフって、世代を超えて受け継がれていくものなんだ」と、とても感動して、そのような文化を大切にしたいと思ったのです。

服やカバンにスカーフを巻くだけで、いつもと違う印象に見えますよね。スカーフは使いまわしができて、トレンドも問わない、とてもサステナブルなアイテムです。
私はそれまでスカーフをファッションに取り入れたことがなかったんですが、一度使ってみるとどハマりしてしまって、自分でデザインしてみたいと思うようになった程です。

スカーフを通して、環境問題に取り組んでいきたい

廣瀬彩乃×ワクセル_20211025廣瀬さん土に還るスカーフ2

廣瀬:
起業に至った理由を一言で言うと、「自分の想いを形にしたかった」からです。
ファッション業界が抱えるマイナスな部分をプラスにしたいなと。
スカーフを通して、「環境問題に取り組みたい」という私の気持ちを形にして、皆さんに伝え広げていきたいと思いました。

SDGsという言葉に興味を持ち調べたところ、ファッション業界が地球環境に大きな負荷を与えていることを知りました。

また、あまり知られてはいないですが、ファッション業界は世界で第二位の環境汚染産業だと言われていて、大きな問題となっています。
そういった顕在化した課題など、今まで知らなかった一面を知り、これは変えていくべきだと思ったのです。

自分の力で変えることは難しくても、自分と同じ世代に伝えていくことはできると思い、友人と一緒に「HANDS UP」の活動を始めました。

好きで始めたことならば、悔いを残さずやりきりたい

廣瀬彩乃×ワクセル_20211025廣瀬さん土に還るスカーフ3

廣瀬:
自分がやりたいと思ってやり始めたことなので、好きで始めたことなら悔いを残すことなくやりきりたいという気持ちが私の原動力です。
自分の夢に向かって動いていると、応援してくれる仲間や周りに共感してくださる方もいました。そんな時に、「まずできることから始めてみるのが大事」という声を聞いて、クラウドファンディングにも挑戦しました。

住谷:
廣瀬さんが挑戦したクラウドファンディングでは、開始半日で目標金額を達成されたそうですね。
それだけ多くの方に応援されているという証拠だと思うのですが、やはりSNSでの発信も努力されたのですか?

廣瀬:
発信はすごく頑張りました。
後ろ盾がない普通の学生ということもあり、信頼を得るなど壁はありましたが、クラウドファンディングは自由に想いを伝える場所だと思ったので、SNSを使って動画や、写真・文章で表現をしました。

ちなみに同時に動かしていた「HANDS UP」は、<イベント>、<SDGsスゴロク>、<グッズ販売>、<講演会>の主に4つの活動を行っています。

イベントでは、ヨガとビーチクリーン(海岸清掃)を組み合わせて、ゴミ拾いをしてからヨガをするイベントを行い、楽しみながら環境問題や自然にも触れてもらっています。
講演会では、ファッションをメインに、素材の話をしたり、服から出るマイクロプラスチックがおよぼす影響についてお伝えしています。

もちろん「土へ還る」サステナブルファッションアイテム・ROSEFFYのスカーフも、使う素材にこだわっています。「キュプラ」と呼ばれる再生繊維で、本来は綿糸には使用されずに破棄されていたものでしたが、資材の有効活用のために開発された素材です。焼却したときに有害物質が発生せず、微生物によって分解される性質を持っています。
また、「ムレにくい」「なめらか」「温度調節に優れている」「光沢のある高級感」といった機能性にも着目し、スカーフの生地に取り入れることを決めました。

ファッションを軸に、地球や人に貢献できることを考えたい

廣瀬彩乃×ワクセル_20211025廣瀬さん土に還るスカーフ4

三木:
廣瀬さんのTwitterを拝見しましたが、フードロスについても取り上げられていらっしゃいましたね。
そういった観点も次の視野に入れているのですか?

廣瀬:
はい、私ができる範囲はまだまだ小さいかもしれませんが、フードに限らず世界には色々な「ロス」問題があるので、それを解決できるよう動いていきたいです。

それに合わせて、ROSEFFYのロゴも刷新しました。「人と人がつながるような円」をイメージしたデザインで、ファッションやオシャレを通して地球や人、たくさんのつながりを作っていきたいという思いがこもっています。

ワクセルのように共感してくださる方々とのつながりを大事にして、まずはROSEFFYを育てていきます。
SDGsという言葉がよく使われるようになりましたが、昔はそんな言葉を用いないで、きちんと地球に寄り添った生き方をしていたはず。言葉にとらわれず人の思いや考え、温かさに触れていけるような企画をしていきたいです。

今後もファッションを軸として、少しでも環境について考える機会を作っていくことが目標です。

住谷・三木:
ワクセルでもエシカルをテーマにしたプロジェクトを行っております。
今後もぜひ、コラボレートをして一緒にイベントを開催したりと、思いを広げていきたいですね。


捉え方一つでコロナ禍がチャンスに!動き続けることで事態は好転する

株式会社チャスの代表取締役 菊池康弘さんは、2021年の6月に都内で唯一の木造映画館『シネマネコ』をオープンしました。

菊池さんは地元・青梅(おうめ)で飲食店の運営をしており、コロナ禍の中でも次々と店舗を出店させ、映画館のプロジェクトも同時並行させるという驚きの行動力の持ち主です。

今回は、ワクセル総合プロデューサーの住谷とタレントでワクセルコラボレーターである渋沢一葉さんが、菊池さんのその人柄や地元への想いなどを伺いました。

蜷川幸雄さんに直談判、俳優を志しニナガワスタジオ入所

住谷:
今回のゲストは都内で唯一の木造映画館を作られた菊池康弘さんです。

菊池さんは2002年、20歳の時に俳優を志し、2004年に蜷川幸雄さん主宰のニナガワスタジオに入所されています。
その後2011年、29歳の時に俳優業を辞め、地元の青梅で炭火やきとり『火の鳥』を開業。
そして今年6月に都内で唯一の木造映画館『シネマネコ』をオープンしました。

とても気になる経歴をお持ちですが、まずは俳優業を目指されたきっかけを教えてください。

菊池:
高校卒業してから夢もなくずっとフリーターをしていたんですけど、オーディション雑誌に目が行くようになり、自然と舞台とか映画に出たいと思うようになったんです。

アルバイト情報誌で俳優募集の記事を見つけ、応募したのがきっかけでした。
入所に80万円かかるけど舞台の主演をやらせてもらえるという契約で、当時はアルバイトで稼いだお金を全部突っ込んで入所しましたが、結局主演をやらせてもらえることはなく、インチキ事務所でしたね。

渋沢:
私も芸歴が長いので色々な話を聞きますけど、トップクラスにダメな事務所ですね。

菊池:
2年くらいいたんですけど、ここにいたらダメだと思って辞めました。
主演もできず実績も作れず終わってしまい、ちゃんとした世界を見たいと思ってニナガワスタジオのオーディションを受けて入所しました。

住谷:
ニナガワスタジオって、誰でも入れるようなところじゃないですよね?

菊池:
その時は150人くらい受けていて、受かったのが10人くらいでしたね。
僕、20歳で結婚して子どもがいたんですけど、経歴書に子どもがいることを書いていたら、蜷川さんに「子どもがいるなら止めろ。役者の世界は甘くないぞ」ってオーディション中に落とされたんです。

でもオーディションの後、稽古場の裏口で6、7時間蜷川さんを待ち伏せして、「演技が下手で落とされるのはいいけど、家族がいることが理由で落とされるのは納得がいかない」と直談判して、合格させてもらいました。

飲食店の喜び見出し地元青梅に焼鳥屋開業

住谷:
すごい行動力ですね。
普通家族や子どもがいたら安定した道に行く人が多いと思うのですが。

菊池:
家庭ができて自分のやりたいことを諦めるっていうのが嫌だったんです。
夢を追って実現できる姿を子どもにも見せたいと思って。

住谷:
29歳の時に俳優を辞めて焼鳥屋を開業されていますが、これはどういう経緯で?

菊池:
俳優の仕事は死ぬまでやっていこうと思うくらい好きだったんですけど、29歳の時にふと俳優をやっている場合じゃないと思ったんです。
役者では食べていけないので10代の頃から飲食店でずっとアルバイトをして、12~3年くらいはアルバイトで生計を立てていたんですけど、本当に貧しくて。
俳優を辞めたのをきっかけに地元の青梅に戻って焼鳥屋を始めました。

住谷:
なぜ焼鳥屋だったんですか?飲食業にはもともと興味があったとか?

菊池:
全然なかったです。
飲食店のアルバイトを10年以上やってきましたけど、生活のため家族を養うためにやっていたので、あまり好きにはなれませんでした。

でも地元に戻ってからバーテンの仕事をして、お客さんの希望に合わせてメニューを出していたらすごく盛況で、お客さんが喜んでくれているのを感じて「飲食って面白い」と思えて独立を決めました。

初めて持った店舗がもともと焼鳥屋の居抜きだったんですが、その焼鳥屋がなくなり、地域の方たちから「また焼鳥屋をやってほしい」という声が上がっていたので、それをヒントに始めたんです。

渋沢:
その後、32歳の時に株式会社チャスを設立されて、多店舗展開をされていますね。

ボヤやコロナにめげず、従業員の生活を守るため多店舗出店

菊池:
現在は焼鳥、串揚げ、海鮮、餃子がメインの4店舗を運営していて、焼肉屋も間もなくオープンします。
青梅はあまり飲食店が多くないので、自分がやりたいことよりはニーズを掘り出して展開をしています。

住谷:
飲食店なのでコロナの影響が直撃したのでは?

菊池:
そもそもコロナになる前の年末に、一番の稼ぎ頭だった150人キャパのお店でボヤが起き、お店自体がダメになってしまったんです。
年末だったこともあって300人、400人の予約が入っていたのに、それがなくなり会社の経営が危なくなってしまいました。
でも従業員やその家族の生活がかかっているので、お店を出すしかないと思って、ボヤから1ヶ月後には海鮮のお店を出していましたね。

渋沢:
1ヶ月!?行動が本当に早い!

菊池:
みんな職を失ってしまうことになるので、止まっていられなかったんですよ。
海鮮のお店はキャパが50人くらいだったので、ボヤを出した大箱のお店の規模には足りないので、また餃子のお店を出しました。
でもコロナで緊急事態宣言が出て採算が合わないのでさらにもう1店舗出して、結局コロナ禍の間に3店舗出しています。

住谷:
緊急事態宣言が出て普通は落ち込んでしまうと思うんですけど、そこからかなり攻めていますね。

菊池:
周りの飲食店がどんどん辞めていくので、普段では空かないような良い物件が空くこともあって、捉え方によってはチャンスだったんです。
僕はじっとしているほうが怖いんですよね。
これまで動き続けて、あれはダメ、これは良かったとその都度学んできたので、動かないことのほうが怖い。

今は4店舗ありますが、売り上げも上がって、新たに社員も増えて、動き続けたことが好転していると思うんです。
スポーツでもそうだと思うんですけど、オフェンシブに攻めたほうが逆に守れるような気がして、僕の経営スタイルは攻めの姿勢が強く出ていると思います。

「また青梅で映画が観たい」地域住人の夢を叶える

住谷:
逆境でも攻めることが大切なんですね。
2018年にシネマネコプロジェクトを始動させていますが、このプロジェクトとは?

菊池:
僕も知らなかったんですけど、青梅って映画の街としてすごく賑わっていたそうなんです。
お店の常連さんから「また青梅で映画が観たい」という声がすごく多かったので、お店を支えてもらった恩返しにエンタメを届けたいと思ったんですよね。
青梅の人ってみんな温かくて、商売していても住んでいてもすごくウェルカムな感じで、居心地が良い。
だから自分の会社もそうですけど、自分の行動範囲を全部地元で収めるために、ないものは自分で作るっていう発想になりました。

渋沢:
『シネマネコ』ってネコがモチーフになっていますがそれはなぜですか?

菊池:
もともと青梅は養蚕(ようさん)が盛んな織物の街だったんですが、蚕をネズミが食べてしまうので、ネズミ退治のために街中にネコがたくさんいたそうです。
ネコを祀っている神社があったり、ネコをモチーフにした映画の看板があったり、街中がネコのPRをしているので、ネコと映画を組み合わせて『シネマネコ』にしました。

住谷:
地元愛があふれるような名前ですね。
今年の6月にオープンされていますが、それまでに苦労したこともあったのではないでしょうか?

菊池:
そもそも映画館を作ったことがないので、どうしたらいいのか分かりませんでした。そこで、全国の色んなミニシアターを訪ね、館長さんにどうやって作ったのか話を聞くことから始まりました。

今回もともと建っている木造建築をリノベーションしたんですけど、その建物が国の有形文化財に登録されていて、外観をいじってはいけない決まりだったんです。
中だけリノベーションするんですが、映画館って建築基準法や消防法に特に厳しくて、建築の難易度がとても高く、審査の手続きだけでも1年くらいかかりましたね。

渋沢:
上映する映画も菊池さんが選定しているんですか?
お客さんの層に合わせる必要があるから難しそうですね。

菊池:
60~80代の地元の高齢者の方が頻繁に来てくれるので、その人たちが喜んでくれそうな作品を流しています。
まだオープンして4ヶ月くらいですけど、多い方だと20回くらい来てくれていますね。
もともとあった映画館に行かれていた世代の方がたくさん来てくれて、本当に映画館が復活するのを待ち望んでいてくれたようです。

地域にないものを作り続けて、青梅の盛り上げ役になりたい

住谷:
今回木造映画館ということが大きなポイントだと思うのですが、木造の良さはどういったところに?

菊池:
まずは館内に入ると木の香りがして、天井が高くて木の梁が見えて、みなさんが見慣れている映画館とは違ったものを感じられます。
昭和初期の建築物をリノベーションして作られた映画館は全国でも本当に少なく、東京では唯一ここだけなので、それだけでも見に来てほしいです。

住谷:
ご高齢の方たちが特に来てくれているようですが、どうやって認知してもらったんですか?

菊池:
青梅を盛り上げたいと思って始めたプロジェクトなので、地元商店街や商工会に協力してもらって、商店街中にポスターを貼ってもらいました。
全然知らない人とみんなで作り上げたので、作るまでの課程がすごく楽しかったです。

作っている段階でおじいちゃんやおばあちゃんが見学に来てくれて、クラウドファンディングのやり方が分からないからって、直接僕にお金渡してくれる人もいましたね。
映画館で収益を出すのって難しいですけど、人の気持ちを満たして、喜びや感動を与える事業は大事だなと感じます。

渋沢:
映画館に併設したカフェも作られたそうですね。
今後はどういう場になってほしいとお考えですか?

菊池:
映画館というコンテンツだけでは来るお客さんが限られてしまうと思ったので、みんなが集まれる場を作りたいと思いカフェを併設させました。
コロナで人と人の触れ合いが厳しくなっていますが、やはり触れ合いって大事なので、シネマネコがコミュニティ形成の場になってほしいですね。
カフェメニューはネコをモチーフにしたものを用意し、シネマネコのグッズの展開も始めているので、青梅の新しい魅力となって地域活性化に繋がってくれると嬉しいです。

住谷:
菊池さん自身の今後の展望も伺いたいです。

菊池:
僕の会社は地元の盛り上げ役になりたいという会社なので、これからも地域にないものを作って、地域が活性化して元気になってくれればいいですね。

僕個人の野望としては映画を作りたいです。
プロデュースかディレクションかまだ分かりませんが、青梅でオールロケした作品を
俳優時代の仲間と一緒に作って自分の劇場で上映したいです。

住谷:
ワクセルで映画プロジェクトを立ち上げて支援も行っているので、そういうところでも繋がれたら嬉しいです。


日本に貢献する100人の社長を育てたい

2003年に設立された株式会社てっぺんは、渋谷や中目黒で鉄板・焼鳥居酒屋『てっぺん』を運営しています。
てっぺんで毎日行われる朝礼は名物となっており、そのノウハウを生かした研修事業を手掛けているのも特徴的です。

今回のゲストは、同社に入社してわずか6年で代表取締役に就任した和田裕直(わだひろなお)さんです。

和田さんは1987年に長野県で生まれ、2007年にエコール辻調理師専門学校に入学しました。卒業後はフランスの三ツ星レストランで修行をされました。

ワクセル総合プロデューサーの住谷とメディアマネージャーの三木がMCとして、和田さんが株式会社てっぺんに入社した経緯や、人を育てる極意などをお聞きしました。

父が叶えられなかった夢を引き継ぐ

住谷:
まず和田さんが飲食業を選んだ理由をうかがいたいです。

和田:
父から言われた言葉がきっかけでした。
僕の父は建築会社の専務をしていて、ゆくゆくは会社を継ぐだろうと言われていたのですが、その会社の社長が婿を取り社長に就かせたので、父は社長になれなかったんです。

当時僕は中学2年生で、バスケの大会終わりに父が運転する車の中で「俺は社長になる夢を諦めた男だから、お前は夢を叶えなさい」って言われて、それから父が叶えられなかった「社長になる」が自分の夢になりました。

そして、一番手っ取り早く社長に登り詰める方法を考えた結果が料理だったんです。

住谷:
社長になるために飲食業界に入られたんですね。

フランス料理の修行をされていたのに、『てっぺん』に入社されたのはなぜでしょうか?

和田:
フランスから帰ってきて恵比寿のレストランで働いていたのですが、そこのシェフが独立することになり、ついていくことにしたんです。
お店ができるまでの3か月間ほどアルバイトをして待つことになったんですが、その間に自分の誕生日を迎えたんですよね。そのお祝いに、知り合いが連れて行ってくれたのが『てっぺん』で、そこで人生が変わるくらいの衝撃を受けました。

三木:
どのような衝撃を受けたんですか?

衝撃と憧れを感じた「てっぺん」との出会い

和田:
スタッフみんなが輝いていたんです。
てっぺんのスタッフはみんなお客さんの顔を見て仕事をしていて、その姿を見て自分は切り付けが合っているか、接客に問題がないかなど、シェフの顔を見て仕事をしていたことに気づきました。
衝撃と憧れを感じて、その日にここで働くと決めましたね。

住谷:
その日に!?
フランス料理から居酒屋に転向することに抵抗はありませんでしたか?

和田:
親戚には反対されましたね。
例えが悪いですけど、その当時の居酒屋はどこにも就職できない人が働くというイメージがあったので、「せっかくフランスまで行って、居酒屋で働くなんて」と言われました。
でも最終的には両親が、背中を押してくれました。

住谷:
和田さんはスタッフの働きぶりに人生が変えられるほどの衝撃を受けていますが、てっぺんではどのようなモットーを持って営業されているんですか?

和田:
てっぺんが提供する価値は、「どれだけ人の欲求を満たし、貢献できているか」と定義付けています。
目の前にいる人のどんな欲求を満たせるのか、どんな貢献ができるのか、常に意識して営業するようにしています。

住谷:
その意識を持つために工夫されていることはありますか?

和田:
人材教育についての話になりますが、僕は「自分で決める」ことを大切にしています。

例えば子供の頃、親から無理矢理行かされていた習い事って続かないけれど、自分でやりたいと思って始めた習い事は続くし、一生懸命練習しますよね。
それって自分で決めているから、言い訳ができないことが大きいと思うんです。
だからこそ、うちの会社でも「自分で決める」という意識をみんなが持っています。

住谷:
会社員の経験を経て思うんですが、言われたことをやる人の方が圧倒的に多く、自分で決めるってなかなかできることではないと思うんです。
どうやってみんな自分で決められるようになるんでしょうか?

安易に納得しないからこそメンバーと喧嘩

和田:
「安易に納得はするな」と伝えています。
最近、僕も色んな店長と喧嘩するようになったんですけど、それって僕が言ったことに対して安易に納得していないってことだから、嬉しいんですよね。
納得もしてないのに「やります」って言うから愚痴や不満が増えると思うので、その人が「よしやるぞ」と決めるまで徹底的に話し合うことが大切だと思っています。

住谷:
たしかに言われるがままで、納得しないまま行動すると続かないですよね。

和田:
実はうちの会社は入社も自分で決めさせるので、採用に対して合否をつけていません。
3時間くらいかけて入社希望者と面接するんですが、その時間の8割は「君はうちでは難しいよ」って話をしています。

三木:
3時間も!?
しかもはっきり難しいと伝えるんですね。

和田:
入社するということは会社に命を使ってもらうということなので、そのメンバーと共に自分も命を張れるのかを考えると最低3時間はかかるんです。
思い切り向き合って、残りの2割の時間はこの会社に入ったらどんな未来が待っているのか、人生がどう変わっていくのかについて話します。

そして最後に朝礼を受けてもらって、やるかやらないかを自分で決めて、後日僕に連絡してもらうようにしています。

住谷:
自分で決めて働いているから、みなさんイキイキとされているんですね。
和田さんはてっぺんに入社されて1年で総料理長になり、そこから6年後には取締役になっていますが、通常では考えられないスピードだと思います。

責任は自分から掴み取るもの

和田:
責任って「取らされる」と考える人が多いと思うんですけど、うちの会社では責任は「自分から掴み取るもの」という考えが浸透しています。
その考え方はてっぺんの創業者である大嶋会長の時代からあったので、僕もどうせやるなら料理長より総料理長だなと思って役職を取りにいったんです。

三木:
役職を前のめりに取りにいったんですね。
そういう前のめりさが伝染していくんでしょうね。

和田:
ただ僕が社長になった1年目は本当にポンコツでした。
リーダーには、コントロール型とメンター型の2種類あると言われていて、コントロール型は権限や威圧、立場などを使って強制的に人を動かすのですが、メンバーのエネルギー持続性が低い。
メンター型は、尊敬と憧れを使って人を動かすので、永続力のあるエネルギーが生まれます。

大嶋会長はまさにメンター型なんですけど、僕は完全にコントロール型でみんなを支配しようとしていました。

住谷:
今では想像がつきませんね。
コントロール型からメンター型に変えられたんですね。

和田:
人生が変わるきっかけがあったんです。

ある一人の女性店長に「和田が言っていることが正しいことはわかる。だけど怖いという感情が一番に来て、何も入ってこなくなる。もう辞めたい」って言われて、これは自分が変わらないといけないと気づきました。

その日から「感情であたらない」「不機嫌な顔を絶対に見せない」「誰もが笑えない時に誰よりも笑えるリーダーになる」と3つの誓いを立てたんです。
そして自分を変えてから、見る見るうちに業績が上がっていきました。

三木:
その女性店長は辞めずに残られたんですか?

和田:
今年結婚を機に退職しましたが、自分の務めを全うして次のメンバーに託していってくれました。

時代を生き続けるために自分を変異させる

三木:
家族みたいですね。
和田さんはどういう人と仕事をしたいと思うんですか?

和田:
僕はヘッドハンティングをすることもよくあるんですが、誘うメンバーとは必ず夢を語っていますね。

夢を語った時に、この人となら面白い人生になるんじゃないかと感じて声をかけるんです。

住谷:
僕は会社員をしている時に夢を語ることなんてありませんでした。
大人になってからも夢を語り合えるって素敵ですね。
和田さんの夢を聞いてみたいです。

和田:
夢って誰かから引き継がれていくものだと感じていて、僕は社長にはなれましたけど、まだまだ大嶋会長の夢の途中にいると思っています。

僕の今の夢は、日本に貢献できる人を育て続けることなんです。
一国一城って言葉がありますけど、百国百城というビジョンを持って、てっぺんを中心に、つながりのある社長を100人育てたいですね。
ようやく今年その第1号のメンバーが出ました。

住谷:
このトークセッションを聞いている人は20代、30代の方も多いと思いますので、夢を達成するために大事にしていることなど、メッセージをお願いします。

和田:
今、コロナもありとんでもない時代になったと感じているんですが、こういう時代を生きる20代、30代の人こそ変異していくことが必要だと思います。
てっぺんは創業19年目になるんですが、これからも在り続けるために変えるべきことはバンバン変えていこうと思っています。

みなさんもこのタイミングで何かに挑戦して自分を変異させ、40代、50代になった時には日本の経済を牽引するリーダーになっていてほしいですね。

「亡くなったら宇宙に輝く星になる」実現へ

今回のトークセッションのゲストは、葬儀業界で司会・企画など幅広い仕事をされ2017年に株式会社SPACE NTKを設立し、宇宙葬を手掛ける葛西智子(かさいともこ)さんです。

葛西さんが取り組む、人ひとり分の遺骨を宇宙に打ち上げるという世界初の試みについて、そして宇宙葬とは何か、葛西さんが大切にしている故人への尊厳についてお話していただきました。

MCはワクセルコラボレーターでラジオパーソナリティの窪田有美(くぼたゆみ)さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷知厚が務めています。

母と仏教の教え 命に向き合う

住谷:
今日は宇宙葬について知らない人もたくさんいるので、どういったものか詳しく聞かせていただきたいです。
また、なぜ宇宙葬をやろうと思ったのか、きっかけについても伺いたいと思います。

葛西:
子どもの頃に「人って亡くなったらどうなるの?」って親に聞いたことのある人も多いと思うのですが、私は母に「亡くなったら夜空に輝く星になるのよ。」って聞かされて、それが強く印象に残っていたんです。

さらに私は小中高と仏教の学校に通っていて、故人の尊厳を大切にするという教えをずっと受けていた影響も大きいと思います。

窪田:
命に向き合うことが多かったんですね。

葛西:
最近は海洋散骨や樹木葬といった自然葬をする人も増えてきたんですけど、ふと「そういえば空に行くのがない。」と気づいたんです。

小さい頃に、亡くなったら星になりたいと思っていたことを思い出し、また仏教学校で学んだ‘’人は宇宙から生まれ、そしてやがて宇宙に還っていく‘’という教えもリンクして、「宇宙葬をやるしかない!」と思い至りました。

住谷:
宇宙葬というのはこれまでやっている人はいなかったんですか?

葛西:
実はアメリカでは24年前の1997年から行われています。
小指くらいの大きさのロケットペンダントに遺骨を入れて、人工衛星に搭載して打ち上げるという方法です。

でもそれを日本でやろうと思ったときにできないことが分かりました。

海外旅行感覚で宇宙に行く時代へ

窪田:
どうして日本ではできないんですか?

葛西:
日本でロケットを打ち上げているのはJAXAくらいしかなく、頻度がとても少ないんです。

ところがアメリカでは月に何回もロケットを打ち上げています。私が今回ロケットを打ち上げる契約をしたアメリカの航空宇宙メーカー・SpaceXも毎月必ず飛ばしています。

窪田:
さらりと契約と仰っていますが簡単に契約できるものなんですか!?

葛西:
きっかけは、2017年9月に宇宙港と呼ばれるスペースポートへのツアーに参加したことでした。

10日間くらいアメリカにいたんですが、SpaceXをはじめ、アメリカの宇宙旅行会社であるVirgin Galacticや、航空宇宙企業のBlue Originなどに行かせてもらいました。
その時SpaceXに唯一いた日本人の技術者と会うことができたんです。

その方は男性で私の息子くらいの年齢なんですけど、これはチャンスだと思って「ゆくゆくは宇宙葬をやりたい。」ということを伝えて、メッセージのやり取りをするような関係になれたんです。

住谷:
アメリカでは若い方が活躍しているんですね。

葛西:
アメリカの宇宙業界ってすごいんですよ!
20代の人たちが頑張っていて、実力が認められれば年齢関係なく評価されています。

その後、私は2018年の世界宇宙開発会議に参加し、宇宙葬についてのプレゼンをしたんですけど、その時の会議ではジェフ・ベゾスさん(Amazonの創始者でBlue Originを設立)が講演していたんです。

窪田:
何を語られていたんですか?

葛西:
今まではテストや訓練をクリアした宇宙飛行士しか宇宙に行けなかったけど、これからは民間の誰でも宇宙に行く時代になる、とおっしゃっていました。
例えば日本からアメリカに行く体力があれば誰でも宇宙に行けてしまうんです。

窪田:
海外旅行に行く感覚で宇宙に行けるようになるんですね。

亡くなった方を想う 一番の供養に

葛西:
いざ宇宙葬をやろうというタイミングに、その技術者の彼に「いよいよ宇宙葬をやる時が来たの、頼んだよ。」って連絡したんです。そうしたら、なんとその子はSpaceXの創始者イーロン・マスクさんの右腕で、すぐにイーロン・マスクさんに話が伝わりました。

連絡してから2日後には「OK!」って返事が来て、「どうせだったら世界初のことをやろう。」と逆に提案されました。
「少量の遺骨じゃなくて、人ひとり分、壺ごと打ち上げよう!」って!

窪田:
驚きの連続ですね!
素朴な疑問なんですが、遺骨を打ち上げてゴミになることはないんですか?

葛西:
弊社が行う宇宙散骨は人工衛星に遺骨を搭載して、地球から大体500~600㎞ほど離れたところまでロケットで打ち上げ、その後は地球の軌道を5~6年旋回することになります。
人工衛星に搭載されたままなので、SpaceXが絶えず監視をしてくれるんです。

そしてやがては大気圏に突入して、燃えて無くなってしまうので、ゴミにはなりません。
私は流れ星になると言っています。

窪田:
本当に星になれるんですね。

葛西:
はい、5~6年ずっと星になって輝くことができます。
故人の尊厳を大切にするということは、亡くなった方のことを想うことなんです。
夜空を眺める度に故人のことを想う、それが一番の供養になるはず。

また空から大切な人が自分たちのことを見守っていてくれる、そんな気持ちにもなれます。
私は自然葬の中でも宇宙葬が、一番人間の尊厳を大切にしてくれる形だって確信しているんです。

行動することで共感してくれる人が集まる

窪田:
素敵な話ですね。何か死ぬことが怖くなくなってきました。
すごく壮大な話なので実現できることがとても信じられません。

葛西:
もう大変でした!
SpaceXからは「自分で人工衛星を造りなよ。」って言われて…。
当たり前に人工衛星を研究して造っている彼らにとっては、簡単なことなんですよね。

でも天下のイーロン・マスクさんから「やりなさいよ。僕たちは応援するから!」って言われたら、もうやるしかないじゃないですか!

窪田:
まったく想像がつかないんですけど、人工衛星を造るにはどういうルートを辿るんですか?

葛西:
株式会社船井総合研究所が宇宙ビジネスサロンを展開しているので、まずは「人工衛星を造ってくれる人がいないんです。」って相談しました。

その会社には、来年日本人で初めて宇宙旅行に行く予定の稲波紀明(いなみのりあき)さんがいて、彼が自分事のように喜んで、「僕がなんとかするから。」って言ってくれたんです。
彼の人脈のお陰で、日本にも宇宙開発をしている若者が本当にたくさんいることが分かりました。

住谷:
葛西さんのその行動力に感化されて、応援してくれる人や協力者が現れるんでしょうね。

窪田:
日本にそんなに夢を持った若者たちがいるなんて頼もしく感じますね。
でも技術があっても資金面なんかとても大変そう。

葛西:
当然宇宙に挑むので、ある程度は予想して用意していましたけど、もうまったく追いつきません。
それが一番大変だったんですけど投資家の方たちとも出会えて、少しずつ売上も上がってきてなんとかなるようになりました。

自分がアタックして、どんどん行動すると共感してくれる人がどんどん集まって来るって感じましたね。

子どもに夢を与え続けることが使命

窪田:
一体どのくらいの料金で宇宙葬ができるのかとても気になります。

葛西:
本当にお手軽にできるような料金でセットアップしました。
人ひとり分の遺骨、パウダー状にして2kgくらいの重さになるんですが、そちらは1,000万円。

でもこの金額は難しい人も多いと思うので、100gくらいの少量の遺骨であれば100万円で打ち上げることができます。
こちらのサイズは子犬や子ネコなどのペットにもちょうどいいと思います。

さらに少量、小瓶のジャムくらいの量であれば50万円でできます。

住谷:
そのくらいの金額であれば手が届くと思えますね。
お墓に高いお金を払うと考えると宇宙葬の方がいいって思う人も多いでしょうね。

葛西:
さらに遺骨の他にも髪や爪といったDNAが1万円、願いを書いた短冊、これは子どものお小遣い感覚でも利用できるよう3000円で打ち上げられるようにしました。
短冊は全国から100万枚が集まって、子どもたちってそれだけ宇宙に夢を託しているんだと感じましたね。

来年以降は、指輪や時計など火葬では入れられないものも、一緒に打ち上げられるようにするつもりです。

住谷:
今回お話を聞いて本当に想いと行動力があれば何でもできるんだなって思えました。
最後に葛西さんの今後の展望を教えてください。

葛西:
宇宙散骨だけに留まらず、いずれは月に遺骨を持って行きたいと思っています。

あと私、こども食堂(地域の自治体を主体に子どもたちに食事を提供するコミュニティ)と関わりを持っているんですが、障がい者の方や虐待を受けている子どもたちって夢を無くしてしまっている子が多いと感じていて、そういう子どもたち夢を与え続けてあげられる存在になりたいんです。

奉仕活動も自分の使命だと思っているので、ワクセルさんと一緒に夢を叶えるお手伝いをしていきたいですね。

住谷:
葛西さんのその行動力を生かしてぜひ一緒にやっていきたいです。


「ほめる」は人のためならず、ほめることで自分の心を整える

一般社団法人日本ほめる達人協会理事長、西村 貴好さんにインタビューさせていただきました。

西村さんは泣く子もほめる、ほめる達人「ほめ達!」としてご活躍されています。

大学卒業後は大手不動産会社に就職され、最年少トップセールスという記録を樹立されています。その後、家業のホテル経営を経験し、覆面調査会社C’sを創業されました。

それらの経験から、ほめることの重要性に気づかれ、2010年に「一般社団法人日本ほめる達人協会」を設立され、理事長に就任されています。

西村さんは日本ほめる達人協会の発起人であり、第1号の「ほめ達!」です。

「ほめ達!」は、目の前の人やモノ、仕事で言えば商品やサービス、起きる出来事などに独自の切り口で価値を見つけ出す『価値発見の達人』のことです。

引用元:一般社団法人日本ほめる達人協会公式サイト

今回はインタビュー記事第2弾。前回に引き続きインタビュアーは、ワクセルコラボレーターの渋沢一葉(しぶさわいよ)氏、ワクセル運営責任者の住谷知厚(すみたにともひろ)です。最後までお楽しみください。

前回記事はこちら

「ほめ達!」は人の価値を発見して伝える達人

渋沢:まずは「ほめ達!」とは何か、ご説明いただけますか?

西村:「ほめ達!」はほめる達人のことです。われわれが定義する「ほめる」とは、「おだてる」「おべんちゃらを言う」「相手にとって耳触りのいいことを言う」ことではなく、「価値を発見して伝える」ことです。いくら価値があるものでも、その価値を伝えられなければ価値がないのと同じです。

人のいいところはもちろん、商品やサービスについても価値を伝えられるようになるので、ビジネスにおいても役に立ちます。さらに、できごとの価値も発見して伝えるので「ピンチをチャンスに変える力」という経営者やリーダーには必須の能力も身につきます。

つねに他人に関心をもち、価値を伝える

住谷:人の価値を見極める方法について教えてください。

西村:どこをほめるかも「ほめ達!」が大事にしているところです。人間の脳はなまけ癖があるので、放っておいてもいい所を探しません。

つねに相手に関心を持ち、事実を見つけ、それが ”誰に” ”どのように” 役立っているかも伝えていくことが重要です。さらに、相手に対して関心をもっていることを伝えることもほめることになります。

渋沢:なるほど。。奥が深いです!まさに達人ですね。わたしも人をほめるのは好きで、よく人をほめるのですが、相手から「嘘っぽいね」と言われることがあります。どうしたらいいのでしょうか?

西村:ここにも大事なポイントがあるんです。実は”ほめている人”と”ほめられている人”を比べると、”ほめている人”のほうが豊かなんです。ほめるは人のためならず、まわり回って自分の幸せになるんです。

むしろほめることで相手がドン引きすることもあります。それでもほめるのは、自分自身が豊かになるからです。

まずは事実をほめて伝える。それが伝わらなければ「〇〇さんも言ってたよ」といったかたちで、第三者の声もつかう。それでも相手が謙遜して伝わらない場合は、「少なくともわたしはそう思っているんです」と主観で押し切ってしまいます。

渋沢:とても勉強になります!いい話を聞けたので、わたしも人をほめてみようと思います。講演会などでは、いつもこのようなお話をされているんですか?

西村:前回の講演会では、ワクセルさんの質問にお答えするというかたちでしたね。

住谷:はい、前回の講演内容をフリップにまとめさせていただきました。とても好評でしたので、一つずつ解説していただければと思います。

自分で自分を承認することで心の穴が埋まる

住谷:まずは「承認欲求を満たすために」について解説をお願いいたします。

西村:マズローの欲求段階説によると、一番下から「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」と段階になっていて、この順番に満たしていくと人は幸せを感じるそうです。

日本で生きていると「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」までは満たされやすいのですが、「承認欲求」から急に満たされていない人が増えてきます。「承認欲求」というと、「他者から認められたい欲求」と思っている人が多いのですが、実は「自分で自分を認めてあげること」がとても重要なのです。

自分を認めていない人は心に穴があいていて、他人からの承認を受け入れられません。心の穴は閉じるには、自分の嫌なところも認め、受容して許すことが必要です。心の穴が閉じると本当に他人を承認できるようになります。

自分の嫌なところを認めているからこそ、他人の嫌なところに共感できるようになり、他人を承認できるようになります。

幸せや成功をつかみたいなら魅力的な人と一緒にいるべき

住谷:続いては「環境を選択する」についてお願いします。

西村:人は弱い生き物で、環境にとても影響を受けます。「幸せになりたい」「成功したい」と思うのであれば、「幸せ」「成功」に対して自分と同じ価値観をもっている人と一緒にいるべきです。

さらに、自分が使う言葉を選択することも重要です。前向きな言葉を発していると、前向きな言葉を使う人たちが集まってきます。つまり、言葉を選択することで環境は選択できます。

魅力的な人は魅力的な言葉を使い、魅力的な考え方になり、魅力的な行動になるので、結果的に魅力的な人たちといつも一緒にいるのです。

住谷:西村さんにとって「魅力的な人」とはどのような人ですか?

西村:一緒にいたい、一緒に生きていきたいと思う人ですね。また、まわりから「この人のためなら何でもします」と思われている人は魅力的だなと感じます。きっと、目の前の人のために全精力を注げる人なのだと思います。

渋沢:魅力的という言葉にもここまで深みがあるんですね。女性は魅力的になるためにエステに行ったり漠然と自分磨きをする人が多いですが、まず言葉や考え方から変えるべきなのだとわかりました。

「ほめる」よりも重要な「ねぎらい」の力

住谷:「ねぎらいの力」についてもお聞かせください。

渋沢:仕事で疲れているときに「渋沢さんお疲れ様です。渋沢さんが一番頑張っていますよね」と言われると、とても嬉しいです。できる人ほどねぎらいの声をかけてくださいますよね。

西村:「ほめる」と「ねぎらう」は厳密には違います。「ほめる」とは相手の行動が一定の基準を超えたときに評価すること。それに対して「ねぎらう」とは、相手が立場上やって当たり前のことを気づいて共感し、感謝を伝えることです。

実は「ほめ達!」は、ほめることよりねぎらうことを大事にしています。ありがとうの反対は当たり前、当たり前だと思っていることに気づいて感謝する。これができると心に余裕がある人にみえます。

住谷:頭では余裕が大事とわかっていても、心に余裕がもてないときはどうしたらいいですか。

西村:自分がどのようなときに余裕がなくなるのかを知っておくことが重要です。メタ認知、ハイヤーセルフとも言いますが、自分を客観視することで冷静になり、もう一人の自分が「余裕がなくなっているよ」と気づかせてくれるようになります。

目的に向かうためであれば目標は変えていい

住谷:「目的と目標の違い」について解説をお願いします。

西村:「目的」は追い続けるもの、「目標」は達成されていくものです。「目的」は変わらないものですが、「目標」は数値化されていたり期限がついていたりするもので、目的の達成のために必要であれば変わっていきます。

壁にぶつかったときはいったん立ち止まり、目的に向かうために別の道を行くことはOK。挫折することもありますが、挫折を心の栄養にして適切に目標を変えていくことは、成功者も必ずやっています。

夢や目的がない人は、まずそれを明確にしている人と一緒にいることで影響を受けるといいです。誰かの夢を応援することが、自分の夢を応援する練習にもなります。素敵なモデルや師匠をぜひ見つけてください。

本気度を確認するバロメーターは3つ

住谷:「本気度を確認するバロメーター」とは何でしょうか?

西村:3つあります。まず「協力者が現れるか」、次に「恥ずかしいと思わなくなっているか」、最後に「まわりからの誹謗中傷が全部アドバイスに聞こえるか」。

協力者が現れるまで同じことを伝え続けることが重要です。わたしは「ほめ達!」の千問家(せんもんか)だと思っています。千種類の問いに答え、さらに一つの質問に対して千回以上答える。同じ質問を受けても毎回丁寧に答え、毎回ブラッシュアップしています。常に最新、最高のものを提供していて、今日も自己ベストを更新しています。

成長した未来の自分にプライドをもつ

住谷:「プライドは未来にもつもの」について伺わせてください。

西村:邪魔なプライドはいりません。日々少しずつでもいいから成長していけば、3年後の自分はさらに素敵になっている。成長した未来の自分から見ると、今の自分は恥ずかしい状態のはずです。今の自分が一番カッコ悪い、だから挑戦できるのです。

「挑戦して失敗したらカッコ悪い」そんなプライドは邪魔でしかありません。本当のカッコよさは無様の先にあります。誰よりも新たなことに挑戦し、誰よりも失敗し、誰よりも学び続けて成長する未来にプライドをもって活動しています。

住谷:未来というと、何年先の自分をイメージされていますか?

西村:何年先という具体的な数字はありませんが、3年経てば成果が出るとは思っています。いつも考えていることは、今この瞬間に全力で望むこと。今の積み重ねが3年後に繋がっていると考えています。

ほめるは人のためならず、自分のためにほめる

住谷:「ほめる価値について」お聞かせください。

西村:一番大事なことは、ほめることを相手のコントロールに使わないこと。相手を動かすためにほめると、すぐ相手に伝わります。ほめるは人のためならず、ほめることの一番の価値は自分に返ってくることなんです。

ほめることができると、自分自身の心が整います。そして、心に余裕ができることでまわりの人との関係性がよくなります。心に余裕がないと、人のいい所は見つけられません。人をほめられない人は、「自分の心には余裕がありません」と言っているようなものです。

なまけ癖のある脳を意識して使うことも重要です。ほめることのもう一つの価値は、脳の使い方を学ぶこと。他人の価値を発見することで、ビジネスの価値も発見できるようになります。さらに心が整い、リーダーとしてのパフォーマンスも上がるのです。

モチベーションは悔しいと感謝の二段階ロケット

住谷:「モチベーションは二段階ロケット」とは、どのような意味でしょうか?

西村:モチベーションは「悔しい」と「ありがとう」の二段階ロケットです。スタートアップ企業の経営者や、これから起業していく人は莫大な心のエネルギーが必要です。ロケットが大気圏を突破していくときに、大きなエネルギーが必要なのと同じです。

燃料は「悔しい」「負けたくない」「もっと成功したい」「世の中にないものをつくって認められたい」といった感情で、自分もまわりも火傷するくらいの大きなエネルギーです。

このエネルギーを使い切ると、次は感謝が原動力となりエネルギーが出せます。感謝によるエネルギーはマグマの横で湧きだしている温泉のようで、大きなエネルギーではあるが自分もまわりも癒してくれます。

3Sを使って相手をほめる

渋沢:「ほめ達!」のメソッドとは何でしょうか?

西村:たくさんあるのですが、すぐにできるのは口癖を使うことです。「ほめ達!」の3Sというものがあり、「すごい」「さすが」「すばらしい」を言うだけで「ほめ達!」になれます。

渋沢:普段あんまり言われない言葉なので、実際に言われると嬉しいですね。

西村:そうなんです。暗闇に光るろうそくのように人が集まる存在になれるんです。

自分の短所はまわりの人の長所を受け止めるためにある

住谷:「助けてもらう強さを身につける」についてお聞かせください。

渋沢:わたしは全部自分でやってしまって、甘えることが苦手なんですよね。

西村:わたしも経営者たるもの、自分が完璧でなければならないと考えていました。すべて自分でマネージメント、ハンドリングしないといけないと思っていたのです。そのため、人に助けてもらうことがとても苦手でした。

あるとき「ジグソーパズルのでっぱりが長所、へこみが短所だとすると、へこみは誰かのでっぱりを受け止めるためにある」という話を聞いて考え方が変わりました。一か所だけ出でっぱらせておいてほかは凹ませておくと、いろいろな人の長所を受け入れることができ、ピースが大きく広がっていきます。更に、ピースに描かれている絵柄、つまりビジョンが魅力的で、わたしもこの絵の一部になりたいと思われると最高です。

自分がどの程度の山に登りたいのかも重要です。ハイキングに行くなら自分だけで行けばいいです。しかし、エベレストなど高い山に登りたいのであればチームを組む必要があります。自分のビジョンが大きくなるほど人に助けてもらう必要があります。ぜひ、助けてもらわなければ到達できないくらいの大きな目的、目標をもってください。