にじのわコーヒー&ビアスタンド 平田泰之
コーヒー&ビアスタンド
『にじのわ』代表
おそらく日本一不器用な珈琲屋

自身の生きづらさと向き合い発信を続ける平田泰之(ひらた やすゆき)さんの連載コラム第11弾です。かつて父の歪んだ価値観に支配されていた平田さんが、違和感を抱き「解毒」へと至る転換点を振り返ります。家族からの影響とどう距離を置くか、自らの足元を見つめ直す気づきを投げかけます。
コラムNo.1にて、途中、父に関してこのように書かせて頂きました。
『父は、口にこそ出しませんが、『俺はこんなこと知ってるんやで!どや!!』という見下しをさりげなくしながら、それでいて隠すことをせず、人を見下し続けないと生きていけない哀れな生き物だと思います』
2025年に入ってから、父と会ったのは2月20日、JR大阪駅の駅ビル内で、生計のためにやむを得ず2023~24年と働いていた父の会社を退職する意図を伝えた時(この時もさんざんマウンティングをされたり、こちらの話を無視されたり、最後まで徹底的な精神的虐待やマルトリートがあった)のみなのですが、ますます父については、『哀れだ…』とつくづく感じることが増えています。
信じて頂けるかは分かりませんが、この観点は、父が僕に対してやっていたような見下しをやり返しているなどではなく、心の底から感じる深い憐憫…のような感じなのです。きっと父は今後も永久に、僕に対する見下しを止めない&止められないだろうから。

もし僕がなまじっか人生がうまくいっていて(具体的にはおかたい仕事についていて収入もまあまああったり、とかしたら)、今も親の言いなりで頭のおかしな存在のままだったなら…と思うと、本当にゾッとします。
僕は今の仲間たちから笑顔で迎えられることが絶対になかったばかりか、父や母と同じように、非常に巧妙かつ狡猾なやり方で、僕はこの世を凌辱・汚染し続けていたかもしれません。僕も人を見下し続けないと生きていけない哀れな化け物になっていたかもしれません。そして当然のごとく忌み嫌われ、孤独を深め、今身の回りにたくさんいる、心が健やかで温かい仲間達には、決して恵まれなかったことでしょう。
そうして歪んだ僕の心がもたらす暴虐の矛先はもしかしたら、実際の僕はまだ結婚歴もなく子供もいませんが、僕の妻になってくれる人、その妻との間にできた子供だったかもしれない……そんな恐ろしいifも考えてしまうことがあります。
特に30代も後半になってきた今は、特に、僕より10歳以上も年が若い友人知人ができることも結構増えており、こんな僕を信用してくれる若い彼らを深く傷つけていたり、酷い扱いをしていたかもしれないと思うと、本当に背筋が凍るような思いです。
一方で、『どうやら今の僕はそんな「ひどいヤツ」じゃないみたいだ。ああ、本当に良かった』とも思うのです―――そしてまた、父のような生物に対する哀れみが、深まっていきます。
そんな僕が2024年の後半頃から思うことのもう一つが『僕は、不器用でよかった』ということでしょうか。
嘘をつくことがとても下手で、社交辞令を言うのも言われるのも大嫌い、良くも悪くも本当の事しかうまく言えないから……だから、こんな僕のことが、おそらく害虫と同じかそれ以上に嫌いな人もたくさんいるでしょう。今の僕の自殺願望に起因する現象の一つがおそらくこれです。
一方で、不器用だからこそ、僕は『父や母のようにはなれない』生き物でもある僕、それは、天の神様が僕にセットしてくださっていた『安全装置』のようなものだったかもしれません。(ちなみに僕は、何か特定の宗教を信仰しているわけではなりませんが、世界中の神的なものを尊ぶ心は持っていたいと思います)
あっという間に傷ついた心に付け込まれ、洗脳され、異常な生物へと変貌していってしまった僕が、今になっては素晴らしい友人達や仲間達、尊敬に値する人たちと行動ができていることが、僕が異常人格から脱却できた証拠かもしれません…。
過去のコラムで書いたこともありますが、2013年3月31日、大阪梅田某所のタリーズコーヒーで、悪魔に魂を売ったように変貌してしまった旧友から『お前と友達になれるかは50:50やわ!!!』などと罵詈雑言を吐かれた時から、本当に長かった。

高校生から大学生の約7年間、母への不信や怒りが増し父への傾倒がひどくなってきた中学時代も入れると約10年間にかけて、僕は、父の言う偏った意見や思想(それもかなり強いナルシシズムを伴う)を疑うこともなく鵜呑みにする、完全にカルト宗教の信者のようになっていました。
人生において全く役に立たないどころか、有害ですらある思想を正しいことであるかのように植え付けられ、しかしそんな父のいうことを全く疑うことの無かった僕は、『茹でガエル』のようになっていったのです。
大学時代の僕はまた、心の境界線が完全に壊れてしまい(もちろん当時はその自覚無し)、ますます父に洗脳され、自己啓発セミナーにもハマりかけたことがありました。今思えばお金を無くしてしまうだけの、かなり危険性の高いセミナーも結構あったと思います。これも健全な社会観や人間観を、特に父のアジテーション等によって破壊されていた影響は間違いなく関係しているでしょう。
また、自分の利益しか頭になかったり、まともな話し合いができなかったりなど、今と比べても明らかに人格的に異常な人間が周りに寄って来ることも当時は今と比べても明らかに多かったです。これは僕も同じくそのような下劣な生き物になっていた証拠でもあるでしょう。僕自身が今と比べても、何かと自己中心的で姑息、卑劣な考え方をすることも、まあなんと多かったことか…。
今も稀に、僕に『自己中』『エゴイスト』のレッテルが貼られることがあるのですが、その度に『まだあの時の、呪わしい化け物になった俺がいるのか…』と恐ろしく、同時に死にたくもなります。やはり自分のような命は消えた方が、社会貢献になるのではと思う自分は、今も強く残っていますーーー他方で、「平田はそんな酷いヤツやキモいヤツじゃない!」「平田君は優しい人だ」と言って下さる方々が年々、僕にしてはかなりの数増えていて、その方々もまた心優しく健やかな方だからこそ、自らこの世を去る代わりにこの世にい続けることを選び続けられている…そんな気もしています。

そんな父の洗脳が解け始めるきっかけになったのは、大学3~4回生の頃の、就職活動です。
精神がおかしくなり、それからいわゆる『マシンガントーク』をやりがちだった当時の僕。振り返れば当時の僕は慢性的なストレス等異常な環境から、胸が圧迫されるような感覚がほぼずっとあったことを今でも思い出します。当時の僕が快活に見えた人もいたでしょうが、内心は恐怖や不安、強迫観念などでいっぱいでした。
父はそんな僕を『コミュニケーション能力が高い』『会話能力が高い』『営業職に向いている』と褒めてきました(もちろんこれも、間違ったことを正しいと思い込ませ、僕を暴走させ、社会から孤立させ、僕を効率よくこの世から排除するための作戦だったでしょう)。
これを信じ込んだ僕は、果たして営業系の募集ばかり受けてしまいました―――ちなみに実際の僕は営業職は全く向いていないと思います(また、『接客業』と『営業』の違いも、この年になって今更ですが深く感じることがあります)。
各社の人事部の方々ももちろんその会社で人を見る目に長けた凄腕ばかり、当然のごとく落ちまくりました。一方で、営業系以外の仕事の場合は、2時、3時、最終面接と行くことがまあまあありました。就職活動は、リーマン・ショックの不況のあおりもあり長期化し(余談だが、僕が社会に出るのが異常に怖くなった理由の一つは、僕が子どもの頃から父が『不景気や!不景気や!!』とどや顔で言いまくってきて、社会に希望を持てなくなったこともとても大きい)、就職できないかもしれない恐怖も相まって、精神も相当に疲弊しきっていきました。
洗脳が解け始めるきっかけになったのは、僕の誕生日である10月6日ごろ、大阪府東部にあるとあるメーカーの最終面接に落ち(振り返れば営業職志望で唯一最終面接まで行った会社かも)、その時に父は、母と一緒になって、僕のことをこき下ろしまくりました。
あまりの心のダメージとショックからか、何を言われたかすら思い出せないのですが、とにかくめちゃくちゃなことを言われまくったのはぼんやりと覚えています。彼らが僕に対して行ったことは、いわば非常に強い激しさを伴う虐待行為です。苦しんでいる僕を更に苦しめることで、僕をこの世から消せる最高のチャンスだと、彼らも思ったのかもしれませんが。
この時の父の仕打ちから、『母だけではなく、父もやはりおかしいのではないか』という疑念が大きくなっていきました。
後のコラムで、毒親からの『解毒』についても書こうと思いますが、その解毒に大いに役立った書籍『自助論』(サミュエル・スマイルズ)等がいよいよ効き始めてきたのかもしれません。

その後2011年11月、まさに『勤労感謝の日』(もともとは神社にとって非常に重要な『新嘗祭』の日でしたが)の前後ごろに、2つの会社から内定を頂くことになります。ちなみにどちらも営業系の仕事ではありませんでした。
お断りした会社は大阪市北区にあるコンピューター系の会社で、こちらは民事再生になってしまった最初の会社と違い、今も存続しています。この前者の会社について、両親は徹底的にこき下ろしてきたのですが、もしかしたら『この会社に行くことで息子は幸せになってしまう=息子をこの世から消せなくなってしまう』と直感的に思ったのかもしれません。だとしたら、恐ろしいまでの未来予知能力です。
その後も虐待の嵐は止まりませんでした。卒業旅行で2月に一人で東南アジア(インドネシア、ベトナム、マレーシア)に3週間ほど行き、インドネシアでインチキガイドに騙されかけた経験を帰国してから話したら僕を侮辱したりもありました。そして、あの日を迎えます。
2011年3月11日、午後2時ごろ。
『東日本大震災』が起きた時、関西も少し揺れたのですが、卒業証明書をもらうべく大学に向かう電車に乗っていた僕は全く揺れに気づきませんでした、
そして、津波に飲まれるVTR等、悲惨な映像は僕たちの目にもテレビを通して飛び込んできます。これに対しての父の反応は、こうでした。
『映画みたいやなぁ!映画みたいやなぁ!!』
そしてその時の父の顔は、笑顔でした。ニカニカと笑い、目が輝いていました…。
この3年後、『この震災の爪痕は絶対に目に残しておかないといけない』という想いから、僕の安月給の一部をはたいて、初めて東北を訪問し、石巻、女川、仙台の震災跡を訪問することができました。その後も2度、東北を訪れましたが、本当に優しくしてくださった方もいらして、それを思い返しても本当にこの父の発言と表情は、未来永劫、絶対に、許すことができません。50~60代と社会経験をかなり積んできた人間の発言と態度とは到底思えません。
昨年(2025年)は世界では、スペイン等では熱波から山火事が起きたり、ロシアのカムチャツカ半島で大地震と津波があったりしました。セルビアの首都ベオグラード、インドネシアの首都ジャカルタで大きなデモがあったりもしました。今なおそうした天災や人災を笑いの種にしているのでしょうか。
3.11―――あの津波が起きた日は、僕の洗脳が、完全に解けた日だったかもしれません。あれだけの犠牲や被害が出た日がそのような日になってしまうという点では、正直なところ、あの震災の被害がそれほど無かった関西出身の僕であっても非常に複雑な気持ちになるのですが…。

東日本大震災の混乱の中、大学を卒業し、瀬戸内海の離島へと就職のため引っ越した僕。入社から1ヶ月後の最初のGWに、最初の帰省をしました。この時に今なお忘れられない父の罵倒・罵声があります。
何かの拍子で父と口論になり(どんな内容だったかは忘れてしまいました)、その時に父はハッキリと、あのニタニタ顔を浮かべながらこう吐き捨てたのです。
『お前なんかこき下ろしてるけどな』
そして、怒りと屈辱、悲しみに震える僕に、僕が子どものころからの常套句をぶつけ続けます―――『ほぉ~ら怒りよった~!もっと怒れ怒れ~!』『イライラするのは暇人がすることや~!』
かくて、離島に戻った僕は、いよいよフラッシュバックがひどくなり、例えばデスクワーク中に、まるでフリーズしたかのように数分止まってしまうなど、仕事にも悪影響が出始めました。そしてAmazonで『毒になる親』『不幸にする親』を注文して読んだのは、先のコラムで書いた通りです。そして2011年9月、両親との対決を、初めて行いました。彼らがどれだけ僕を虐待して苦しめてきたのか、そのすべてを明かしたのです。なお、僕は大阪を離れていたため、対決はメールで行いました。
父は、1通目のメール返信、その冒頭の方に、なんと、『私たちは泰之の応援団』と言い出したのです。
子どものころから平気で僕を侮辱し、からかい、バカにし、恐怖を植え付け、洗脳し、人格も何もかもを壊し―――これらの行為を差し置いて、自らの、僕に対する言動や行為を『応援』と言ったのです。
僕は徹底的に抗弁しましたが、その後も論点をそらし続け、そして今に至るまでずっとそうであるように、一言の謝罪もしませんでした。
その後、実家に帰ることがありましたが、その時の父は…僕が、両親によって永遠の傷をつけられたと話したら『お前だって俺たちに永遠の傷をつけるかもしれへんやろ!!』と抗弁し、自らの罪を認める様子は全くありませんでした。
この父の言動と態度は人間(のフリをした生き物)はここまで姑息で、卑劣で、最低になれることを示しているのではないでしょうか。
せめて僕ら一人一人は…このような最低な生き物になってしまわない道を選ばなくては、この人類社会は最悪の形で滅びを迎えるのではと思います。いや、その時滅ぶのは、人類どころか、地球全体かもしれません。それくらい、僕を製造した両親の毒性と危険性は非常に高いと思います。

先のコラムでも書いたように、僕は2011年10月、離島での勤務が勤め先の民事再生のため、加えて、大阪で再就職先が決まったため、島を去り、大阪に戻ることになります。そして、翌月、勤務先での激しい精神的暴力を受け、超強烈なトラウマが残り、その会社を去ることになりました。
2011年11月18日金曜日にとどめと言っても過言ではない虐待を当時の上司から『打合せ』と称して1:1で閉じ込められた小部屋で受けた頃くらいに、もう一人暮らしを続けることができない、泣く泣く実家に戻るしかないということから両親には相談しており、翌日2011年11月19日に実家に戻り、その会社の情況を両親に語りました。
父は、半ばどやった感じで、その会社がいかに異常であるかを語り、僕が実家に戻ることは承諾してくれましたが、この時、父が問題の会社に放った数々のこき下ろしも、結局は自分がいかに優れた人物か、真っ当な人物かを証明するために都合が良かったから放ったものなのではないかと今でも思います。
実家に戻ってから、やはり僕への虐待が再開されました。
当時の父は宝飾関係の個人経営をしており、大阪市中央区・船場にあった父の事務所(僕が徹底的な洗脳を受けた現場に度々なってきた)に、”アルバイト”に行くことがありました。
その時も、前職で受けたトラウマの辛さを話した時、ニタニタしたどや顔で、前を見ろと、過去は忘れろと言われました。それも、僕がアスペルガー症候群の診断を受けた後、その特性の影響で僕が人一倍トラウマが残りやすい特性を認知しての発言です。
加えて、アルバイトの中で、今思い返しても信じられない光景と言動と出くわすことになります。
シルバーアクセサリーに確か値札を付ける作業をしていたと思うのですが、父は、値札を付ける時に一部の金具を曲げる時、なんとニッパーなどを使わず、自分の歯を使う=噛んで曲げていたのです。
その仕事のコツを教える上で、非常に性的かつ卑猥な表現を用いてきたこともあります。発言の内容は今でもかなり覚えているのですが、コラムに載せるには過激すぎるため載せられないほどです。
お客様に提供する金属アクセサリーを、ピンセットなどを遣わす、歯で噛んで曲げる、そして噛んだ跡を拭こうともしない……なんという野蛮、なんという下劣さ。
父からの虐待もまた、僕が実家に帰ってきてからも止まることはなく、むしろその陰湿性が増している点では母と同じでした。もしかしたら僕の対決後、僕が実家に帰ってくることにもなり、『どうすれば息子を絶望させつつ追い詰められるか』そんな会議でも、僕がいない所でしていたのかもしれません。僕からの「対決」を仕掛けられたこともあり、ますます本気で僕を消そうと企んだ可能性は十分に考えられます。
そして、社会に対するトラウマにパンパンに満たされ、仕事も収入もない僕を、効率よく『命を絶たせる』には、この時は彼らにとって最高のチャンスだったのかもしれません。