にじのわコーヒー&ビアスタンド 平田泰之
コーヒー&ビアスタンド
『にじのわ』代表
おそらく日本一不器用な珈琲屋

母からの虐待に関するコラムをこれまで2つ載せましたが、このような陰惨な記録を、たとえ断片的にでも根気よく読もうとしてくださった皆様、そして、僕のことをネガティブな意味で決めつけたりせずに向き合ってくださる皆様には、改めて心から感謝申し上げます。
ずっと、ずっと、この出口のない牢獄のような家からは出たかった。 実家からの「脱出」も20代を過ごしてきて、30代に入ってからも実家にいざるをえなくなり、そしてそれでもなお、母は虐待を止めませんでした。
彼女たちは一見虐待を止めたふりをしましたが、それは彼女(とその夫)が、更に巧妙化された虐待方法を思いつき、即座に実行に移していただけでした。 彼女たちは、僕を虐待していた時に人生で一番イキイキとしていたことを、全身からさりげなく表現していました。
彼らの虐待を愛するその本質は、僕の幼少期と何も変わりませんでした。
『あと少し…あと少しで、この「失敗作」(=排除すべき息子、つまり僕)をこの世から消せる!』
『長かった…あと少しで、私たちの悲願である、我が息子を消し去ることの実現が!!』 『この存在さえあとは消滅してくれれば、私たちの老後と死後は天国の極みだ!!』
…母は、そんなことを、僕の父と共に思っていたかもしれません。
折しも僕が31歳の時は、コーヒーと、それに関わる人たちとの出会いを果たしていた時でした。2021年5月、長年の念願だった一人暮らしを始めます。それまでのことも交えながら、僕が30代になってもなおも続いた母の虐待について話していきます。

2012年12月~2018年5月と、障害者雇用でとある大手メーカーに勤めていました。
この職場までは片道90分、電車を2回乗り換えねばならず、その乗り換えが階段のアップダウンがとても激しく、精神力も体力も著しく削られるものでした。乗っている電車も満員電車で、座ることができません。
職場に向かう途中で通過する駅、そして職場の最寄り駅の雰囲気が5年半の間でもどうしても好きになれず、かといって転職もできず、本当に辛かったです。
不幸中の幸いで、勤め先の社員さんはいい人も多く、20代の頃だから辛うじて耐えられていたのかもしれませんが、僕は毎朝、家を出る時は英語やドイツ語で罵詈雑言を激しく吐きまくりながら出社しているような有様でした。たとえば、英CNN、英BBCや独ZDFといった英語圏・ドイツ語圏ニュース番組にその時の僕が映れば、『ピー音』で埋め尽くされるレベルで、です。そんな僕を、母は徹底的に、ガン無視していました(※当時の父は、早朝には家を出ていた)。
また別のコラムで書きますが、この会社でも、障害者支援の核となる複数の社員から、度重なる、誤解や偏見に基づくモラハラや不当な扱いを受け、かといって給料は初任給同然(手取り15万円くらい)から何年もずっと変わらず、副収入もなく、うつ症状も出始めてついに耐えられなくなり、2018年5月にこの会社を去りました。
初任給同然の給料で長年働かされながらも、時には英語が必要になる仕事を任されていた僕は、当時の担当の課長さんからは『本音を言うと辞めないでほしい』と言われたこと、送別会を開いて頂けたことは今でもはっきり覚えています。『おまえなんかとっとと辞めちまえ』等と思われていなかったことは、せめてもの救いでしょうか。
その後、プログラマーを目指すべく、何十万円も払ってプログラミングスクールに入ったり、プログラミングを支援している就労移行支援事業所にも入りましたが、特に後者は散々で、支援者からの精神的虐待レベルにも相当する不適切な扱いにも遭いました。
そんな中、無職になり10ヶ月が経った、2019年3月、僕の失業保険も切れる頃……
LinkedInというSNSがありますが、そこで不当な勧誘があり、相手もとにかく不透明な話しかしがたらない、僕の身の上話などは全部無視してくる、詳しく聞いてみてもかなり怪しかったので断ろうと思う旨を母に話しましたが、これが間違いでした。母は、
『(断るのに)無職であることを言い訳にしたりして!イッヒヒヒヒヒヒ!!!!』
と、僕の一番のコンプレックスである無職であることを、『人生で一番イキイキしている顔』をしながら、ありったけの残酷さを全開にして侮辱してきたのです。
これには、さすがに僕も激昂しましたが、母の攻撃性、暴力性、残虐性は、その予想のはるか上をいっていました。 僕の抗弁に対して、次から次から次から次へと言い訳を思いつき、それを瞬時に発し、そのあまりの母の冷酷さと嗜虐性に僕はとうとうパニック状態になり、『ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…!!!』と荒く呼吸をしながら、限界を迎えました。 その僕の様子を見て、母は、『あんたはおかしいッ!!!!!』と僕に対して絶叫、罵倒しました。
このことがきっかけで、ようやく僕は、『この親がまともになることは、永遠に無い』と諦めきることができました。ですが、あまりに遅い気づきでした。
僕もまた、両親と同じく、非常に冷酷で残虐な一面も持っている一方で、僕は、優しすぎたのかもしれません。いや、そんな偽りの優しさでも持っていなければ、この両親に瞬時に存在を抹消されてしまうことを、本能レベルで分かっていて、ずっとそうするしかなかったのか…?
僕の部屋は鍵をかけることができる部屋だったので、この先、僕は鍵をかけてこの部屋―――20代の時、僕に闘う力をくれたかなり暴力性の高いゲームをしたりして過ごしていた僕の寝室でもある―――で過ごすことが増えました。
ちなみにこの時僕の母は、なんでわざわざ部屋に鍵をかけるのだろうと訝るばかりで、その原因が自分にあると振り返ることは全くしなかったことを後日暴露しました。それも、全く罪悪感を感じていないような、さらっとした口調で…。
自分のことしか考えられない母親の影響、そして言葉を真に受けてしまう特性がある僕は、厳しい環境下で、自分の心を守るために、部屋に鍵をかけ、心に鍵をかけ、頑なにならざるを得ない宿命だったのでしょう。

母も父も、ターゲットにしている僕の『心を開かせる達人』であり、しかし一度彼女たちに心を開けば、一見地獄に見えない地獄を超える地獄へと瞬時に誘われてしまいます。
その一例が『拒絶のうなずき』と僕が呼んでいる彼女のうなずき方です。本来はもっと激しい言葉でこのうなずき方を呼んでいましたが、メディアとして適切な表現としてこう呼びます。
2019年3月の母の侮辱があってから、僕は食事も一人でとるようになりました。鍋などの料理も、わざと両親たちより後でとるようにしました。
彼らと同じテーブルにつき、コミュニケーションの中で精神や尊厳を徹底的に踏みにじられてしまうのを防ぐためです。
ですが、僕が一人で食事をとっている時に、母はわざわざ横に腰かけてきて、テレビ番組を主な話題にペラペラと僕に話を投げかけてきます。 そこで僕が僕なりの考えや意見を言うと、まるで僕を拒絶するかのように、うざったそうに、なおかつオーバーに、無言でうなずくことを繰り返すのです。これが、僕の母の「拒絶のうなずき」です。
僕が魂で会話している内容が、真に拾われ、尊重されることは絶対にありません。父もそうですが、これが彼女のやり方です。
僕の人格は、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、両親たちに尊重されることは、ありません。 僕の意見も、考えも、全て、バカにされてなかったことにされてしまうのです。
僕は、生きる価値のない存在。生きていてはいけない命。消えなくてはいけない、存在してはいけない、有害な命―――
両親以外でも、僕がそのように思った末に、命を自ら断つことを望む方は多いかもしれません。ただ残念なことに、僕にもホイホイとこの世を自らの手で退場できなくなってしまった理由が、できすぎてしまったのです。―――別のコラムで書こうとも思っていますが、僕が2010年3月、高校時代の友人が自らの手で逝ってしまうという体験をしており、その体験があったことも関係しているかもしれません。今の僕には、両親が望まなかったに違いない、良き人々とのつながりが日に日に増え、そして強くなっているからです…。
時代は戻り2012年、僕が発達障害の診断を受け、望まぬ無職の中で支援を受けつつ、障害者雇用の再就職を目指していた頃、僕が職業訓練を終えてようやく就職活動に舵を切り始めてしばらくしてから、『あんたいつになったら就職すんのぉ!?!?』と罵倒してきたことがありました。
この2012年から彼女なりに加害メソッドをより洗練させてきたのか、僕が望まずして無職になってしまったこと、就職できずにいることを、あからさまに罵倒してくることは無かったこと、しかしながら、僕の尊厳を一瞬で破壊できる瞬間を見逃さずに罵倒や侮辱を加えてくる点も、この当時の特徴でもあるでしょうか。

30代に入って始まった僕のコーヒー人生。その道に入って数ヶ月後、間違いなく、今後も続くコーヒー人生においても、最悪レベルの事件がありましたーーーその加害者は、母です。
2020年1月に、僕は、後に僕をコーヒーの道に連れてきてくださる我が命の恩人と出会い、その7ヶ月後の8月、僕はコーヒーの仕事をする上で非常に重要な道具である、電動コーヒーミル『みるっこ』を、無職・無収入でありながら、たまたま手元にあったなけなしの臨時収入をはたいて手に入れましたーーーこの『みるっこ』、新品だと55,000円くらいするのですが、奇跡的に、フリマアプリで3万円少々で入手できたのです。今もこのミルを使っていますが、大きなトラブルが起きたことは2026年4月現在まで一度もありません。
その時の僕の喜びは、まさに人生最大級でした。これほど嬉しかったことは、その後の人生を含めてもあまりないなかったのではないかと思えるくらい嬉しかったことでした。
母は、その僕の喜びを瞬時に察したのか、僕が寝ている布団の上に置いてあった、『オートカット付コーヒーミル みるっこ』と書かれた、まだみるっこ本体が中に入っている外箱を指さして、こうはやし立てました。
『そんな汚いもん置いて!!イッヒヒヒヒヒ!!!!!』
…この苦しみと悲しみを細かく語るだけで、1000文字は余裕で超えてしまうので、詳細は僕がInstagramに投稿した内容を見て頂くと早いかもしれません。
(『みるっこ』にまつわる今回の事件について書いたInstagram投稿のURL:https://www.instagram.com/p/DNQPnL7z95Y/ )
この母の嘲笑以来、実は僕は、心の底から安心して、生きる喜びを感じることが、もはや不可能というくらい難しくなってしまいました。あの時のように喜べば、僕はまた母にああされたように心も魂も全部、虐げに虐げ抜かれた挙句に打ち砕かれるのではないか、僕が生きる最後の希望すらも徹底的に破壊しつくされるのではないか――-臆病な僕にとっては、どうしてもこの恐怖が勝ってしまうのです。
この惨劇のちょうど約5年後、2025年8月6日。僕は我が命の恩人と共に、大阪万博のパビリオンで、あの時『汚いもの』と蔑まれたミルを使ってコーヒーを提供しました。
僕が万博に立つことに、賞賛や応援を向けて下さる方々がたくさんいてくださいました。 この時、ようやく、あの時母に、満面の笑顔と残忍さと共に打ち砕かれた僕の心が、ようやく数%は戻ってきたのかな、というところです。

前述の『みるっこ事件』から数ヶ月後、僕は、わが命の恩人のつてで、週1~2で間借りカフェをさせて頂くことになりました。 この経験が無ければ、僕は社会と繋がることも適わないまま、たった一人で、惨めに、哀しみと絶望にまみれて、自ら命を絶っていたことでしょう。
そんな間借りカフェにおいて、コーヒー豆を保管するべく冷蔵庫が必要になり、僕は仕方なく母に相談することにしました。
僕はコーヒーの活動をしていることは両親には一切言わないようにしていました。また虐待されるリスクがあるためです。 しかし、母は開口一番、こう言いました。
『あんた、コーヒーの活動してるんやろ?素晴らしいやんか』
と。
でも、一つ前の項目を思い出してみてください。
外箱を指さし『汚いもの』ととても大きな声を上げて、目をキラキラと輝かせて大笑いした母です。僕にとって、大切な、大切な、『みるっこ』の外箱を指さして。
…僕は、その母のダブルスタンダードに対して、もはや我慢できず、激昂しました。
『ふっざけんなよ!!!!!てめええええええ!!!!』 と、僕はもはや近所迷惑も顧みる余裕もなく、巨大な怒号をあげました。
言い訳の達人である母は、次々と言い訳を繰り出し、僕はそれに対して、自分を守るために言葉を武器にして対抗しました。僕は、叫び狂い、次々と母の言い訳を倒す「戦闘マシーン」と化していました。
それくらい徹底しなければ、倒せないほどの言い訳を、僕の母は並べ立てまくったのです。 どのようなやり取りをしていたのかはもはや思い出せませんが、きっとそれだけ、僕の記憶が消し飛ぶほど、非道な言葉を、母は多数並べ立ててきたことは間違いないでしょう。自分を「戦闘マシーン」にでも変えなければ、僕は毒母という理不尽に呑み込まれて消されていた。
そして、怒りに震える僕は、思わぬ展開を手にします。 僕の激昂を前に、当時65歳を迎えた母は、こう漏らしたのです。
『もう一緒に暮らしていかれへんし、私の年金使って一人暮らししたら…?』
ずっと、ずっと、ずっと、この出口のない牢獄・拷問部屋のような家から出たくてたまらなかった僕は、こうして、2021年に入り、30歳を過ぎてようやく、一人暮らしへの道筋をつけました。
母の年金をもらいながら(正確には”受けた被害への賠償”として?)、始まった一人暮らし。 その後、2022年12月まで僕は母の年金で家賃を払い、一人暮らしをしていました。(2023年から、生計のために仕方なく父の会社で働くことになり、そのために母からの「賠償」が途絶えたのです)
実家のある大阪府池田市を離れ、大阪市での一人暮らしが始まってからも、かつての虐待被害による凄まじいフラッシュバックの津波にもがき苦しみましたが、一人暮らしが進むにつれ、まともな支援者や理解者を得ながら、朝、目が覚めたらあの毒親たちと会わなくてはならない圧倒的な絶望から離れ、何とか今は生きています。