経験を活かし選手の気持ちに寄り添うスポーツキャスター

今回のゲストはロンドンオリンピック100メートル背泳ぎと400mメドレーリレーの2種目でメダルを獲得した寺川綾(てらかわあや)さんです。選手時代は「もっと頑張らないと」という気持ちでやっていたと語る寺川さん。競技から離れた後は後進の育成にも携わり、スポーツキャスターとして活躍しています。

ワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈(かわぐちまりな)さんと、総合プロデューサーの住谷が、寺川さんのこれまでの経験やスポーツキャスターとしてのこだわりなどを伺いました。

レベルの高い環境に身を置いたことでオリンピックを意識

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川口:本日のゲストは競泳元日本代表、オリンピックメダリストの寺川綾さんです。寺川さんは、2012年ロンドンオリンピック100m背泳ぎと400mメドレーリレーの2種目で銅メダルを獲得。競技活動を卒業された後は、テレビ朝日の番組『報道ステーション』のスポーツキャスターとして活躍されています。最初にオリンピックの話を伺いたいのですが、寺川さんが水泳を始めたきっかけは?

寺川:水泳を始めたのは3歳のときでした。小児ぜん息を発症して、病院の先生に「水泳は全身運動だからぜん息にも良いよ」とおすすめされてスイミングスクールに通うことになったんです。当時は泳ぐのが楽しいというより、友達に会いに行くという感覚で通っていましたね。でも気づいたら選手育成コースに入っていて、いつの間にかレベルの高い人たちに囲まれていました。

周りには自分より泳ぎがうまかったり、速かったりする子がたくさんいたので、自分が水泳に向いていると思ったことは一度もないです。だから選手時代は「もっと頑張らないと」という気持ちでやっていましたね。周りにオリンピック選手がたくさんいて、オリンピックに出たいというよりは、「出なきゃいけないんだ」という感覚が強かったです。

チームとしての団結力がメダル獲得への原動力に

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川口:選手時代にたくさんの苦労があったかと思いますが、ご自身のなかで最も大きい挫折というと何が思い浮かびますか?

寺川:初めてのオリンピックに出場したのが、大学2年生のときで2004年のアテネオリンピック。決勝に残ることが目標で、実際にその目標は達成することができました。でもやっぱり日本代表として出るからにはメダルをとらなければいけない、それなりの成績を残さなければいけないという周りからの期待があったんです。

決勝には出られたのですが、8人のなかで8位という結果でした。自分のなかでは当初の目標は達成できていたので、泳ぎ終わった後も「よし」という気持ちでプールから上がったんです。でも最初に掛けられた言葉が「残念でしたね」という言葉でした。

自分では納得のいく結果だったんですが、その言葉を聞いて「これじゃダメなんだ」って挫折したというより、へし折られた気持ちになりましたね。自分は満足していても、もっと上の結果を求められていて、そこに対応しきれていない自分に対して悔しくなりました。オリンピックの厳しさを教えてもらった経験でしたね。

川口:オリンピック2回目の出場となる、2012年のロンドンオリンピックでは2種目で銅メダルを獲得されています。念願のメダルだったと思いますが、いま振り返ってみてメダルをとれた一番の要因は何だったと思いますか?

寺川:競泳って個人種目なんですけど、団体競技のようにチームとしての団結力があって、誰かが活躍するとみんな「私たちも!」という気持ちが強くなります。日本のチームとしてメダルを獲得するという目標があって、そこに向かってみんなでクリアしていこうという団結力があったんです。

やっぱり先輩方がオリンピックで代々築き上げてきた結果を「私たちの代で崩してはいけない」という気持ちが強かったんだと思います。そういったチームの力がメダルをとるうえで大きかったですね。

水泳好きの人間としてまだまだ先がある

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川口:ロンドンオリンピックでメダルを獲得された翌年の2013年に競技を卒業されていますが、この時『引退』ではなく『卒業』という表現を使われたのはどのような思いがあったのでしょうか?

寺川:実は引退会見のときまったく話す言葉を準備できていなかったんです。引退会見というと、多くの人が「寂しい」と涙を流すイメージだったのですが、私の場合まったく悲しくありませんでした。自分の感情が想像していたものとまったく違い、うまく考えがまとまらなかったんです。

もちろん競技者としては引退なんですけど、水泳というものは一生続けられるスポーツです。選手ではなくなるけど、これからは選手以外の人たちともプールで触れ合っていけるんだとワクワクする気持ちもあったんです。

水泳が大好きなひとりの人間としてはまだまだ先が続くという思いだったので、引退という言葉は何か違うって思いました。

川口:競技から離れた後は後進の育成にも携わりながら、いまではすっかりおなじみの姿になった『報道ステーション』のスポーツキャスターを2016年から務められています。スポーツキャスターという仕事にもともと興味はあったのですか?

寺川:全然なかったです(笑)。選手のときはテレビ取材があってもあまり表に出ないように意識して、カメラから隠れる感じでした。そのため、声を掛けてもらったときは「絶対できない」と思っていました。

でもやり始めてみるとさまざまな競技に出会えて、色んな選手の話を聞かせてもらって「こんな楽しいことがあるんだ」って思うようになったんです。

話を聞いていくなかで、その選手ならではの競技に対する考え方やプロセスを知れて、これまでの自分とはまったく違う考え方ができ、すごく刺激になっています。だからいまは現場が大好きで、その楽しい仕事を続けさせてもらっていることが幸せでしかないですね。

選手のことをたくさんの人に伝えていきたい

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川口:話を聞くときに意識していることは何ですか?

寺川:私自身、頑張ってきたことに対しての結果に「残念」って言葉を付けられたときの悔しいのか、悲しいのかよくわからない複雑な感情がいまでも強く残っています。他の選手にはこういった思いをさせたくないと思っていますね。

どんな結果であれ、そこに向けて頑張ってきた選手に対して、「この言葉は失礼になるのではないか」と、常に意識をしながらお話を伺っています。

あと、お話を伺っている選手に対して、別の選手について聞くことも失礼なことだと私は思っているので、あまり聞かないようにしています。

カンペには「これ聞け!」と書いてあるんですが、見えていないふりをして……(笑)。私は選手だったこともあるので、どうしても選手に寄り添い過ぎている自覚はあって、反省することもあるんですけどね。

住谷:最後に寺川さんが今後どんなことに挑戦していきたいのか伺いたいです。

寺川:どちらかというと新しいことではなくて、いまやっていることを土台にして続けていきたいです。

スポーツ選手ってたくさんいて、どんどん世代交代をしていきます。多くの競技があり、そんななかでベテラン選手が頑張っていたり、その壁を越えようと若い選手が頑張っていたり、本当にたくさんの選手が努力を重ねています。

今後もそういった多くの選手の話を聞いて、それを自分の言葉でさまざま人に伝えていけたらいいなと思っています。

格闘家デビュー5戦5勝4KO!44歳の挑戦者が挑む極限の世界

今回のゲストは、2回目の登場となる安彦考真(あびこたかまさ)さんです。安彦さんはJリーグ最年長デビューの記録を保持する元Jリーガーです。自身の職業を『挑戦者』とし、常に新たな挑戦に臨んでいます。2022年2月に格闘家としてプロデビューし、これまでにアマチュア・プロの試合で5戦5勝4KOという結果を残しています。今回は格闘家としての安彦さんの挑戦について詳しく伺いました。

MCはワクセルコラボレーターで『走るMC・ラジオパーソナリティー』として活躍する岡田拓海(おかだたくみ)さんとワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。

40歳を超え、Jリーガーそしてプロ格闘家デビュー

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:本日のゲストは2度目の登場となる安彦考真さんです。前回は安彦さんがどのような方なのか、そして格闘家として活躍するようになったルーツをじっくりお聞きしました。今回は格闘家としての安彦さんを掘り下げていきます。

住谷:まずは安彦さんのこれまでの経歴を簡単に伺えますか?

安彦:僕はプロサッカー選手のマネジメントなどの仕事をしていたのですが、39歳のときに仕事を全部辞めて、Jリーガーを目指し始めました。志を持って始めた仕事だったはずなのに、いつしか生活するための仕事になっていて、自分に嘘をつき続ける人生に納得ができなくなったんです。

これまでにしてきた後悔を取り戻すことを決め、40歳でJリーガーになり、41歳で最年長デビューの記録を残すことができました。そして3年間のJリーガー生活を終え、引退セレモニーで「次は格闘家を目指す」と公言し、2022年2月に44歳で格闘家のプロデビューをすることができました。

極限の緊張から解放され、試合後は体重が7kgも増加

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:40歳を超えてJリーガーとプロ格闘家デビュー、この2つの経歴を持っている人はまずいないので、本当にオンリーワンですよね。現在、安彦さんはアマチュア・プロ通算5戦5勝4KOという素晴らしい戦歴を残されています。格闘家としてデビューされて率直にどうですか?

安彦:改めて考えてみると、ものすごい日々を送っていたと感じますね。試合前は減量していて、「苦しいな、でもストイックにやれているな」と実感はあったんです。けど、振り返ると「とんでもない世界に飛び込んだな」という感覚が強くなりました。ずっと緊張状態だったので、それが解放されたんでしょうね。終わった後は食欲が爆発してしまって、「俺ってこんなに食べるんだ!?」って自分でも驚くくらいの量を食べています。

岡田:安彦さんはビーガンなので、食へのこだわりが強いですよね。試合が終わった後は最初に何を食べましたか?

安彦:試合後はそこまで食欲が湧きませんでしたが、ビーガンのパンケーキやチョコ、アイスなど甘いものを食べましたね。普段から食事はオーガニックのものにしていて、食品表示もすごく気にして見ています。でも、試合が終わった途端にタガが外れてしまって、66kgだった体重が今では73kgになってしまいました。

「自分がどこにいるかもわからない」リングに立った緊張感

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

安彦:いま思えば試合当日は喉の渇きも強くて、すごく緊張していましたね。試合では指が露出しているオープンフィンガーグローブを使いますが、通常のグローブより、顔面や骨へのダメージが大きくなります。

試合前にメディカルチェックをしてくれたドクターが偶然知り合いだったんですが、「44歳でプロデビューすること自体おかしいけど、オープンフィンガーは考えられないよ。僕は心配だよ」と言われて、余計に怖くなっちゃいました(笑)

緊張のせいでデビュー戦は、方向がわからなくなりました。インターバルで青コーナーに戻らないといけないのに、全然違う方向に向かってしまって、自分がどこにいるかもわからない状態でしたね。

相手しか見えないくらい試合に入り込んでしまっていて、セコンドの声も聞こえていなかったです。でも2戦、3戦と試合数を重ねて、4戦目のプロデビューの試合では少し冷静になれました。周りを見渡して仲間のいる場所がわかるくらい落ち着いていて、相手をよく見て試合することができました。

「思考と肉体の間に精神がある」格闘技で気づいた新たな感覚

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:プロデビューまでに場数を踏んだ結果ですね。プロデビューというプレッシャーがあるなか、冷静になれたことはすごいです。

安彦:格闘技をするようになって、人間には思考とは別に『精神』というものが存在することを感じました。もともとは思考がすべてで、体を動かすことは脳と肉体の伝達作業だと思っていたんです。でも頭で考えるほど緊張して、判断が遅くなってしまいます。

いざというときに反応してくれるのは肉体なので、思考に委ねていては格闘技で通用しません。精神の状態が良いときに体が直感的に動いてくれるので、思考と肉体の間に精神があって、精神をコントロールする必要があることがわかりましたね。

岡田:言っていることはなんとなくわかるんですが、僕や住谷さんが実感することは難しそうですね(笑)

住谷:これは極限状態になった人にしかわからない世界なのかもしれませんね。

五感が研ぎ澄まされた「侍」の世界を体感

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

安彦:だから、これは“侍の世界”なのかなって気がします。侍のいた時代って常に刀を持っていて、いつ切られてもおかしくないわけじゃないですか。そんなときに頭で思考して、後ろから不意打ちされたら絶対かわせないですよね。

でも精神を穏やかに保つことができたら、五感が研ぎ澄まされて、パッと振り向けたり即座に対応できたりします。第六感というか、そういった直感的なものも含めて肉体が瞬時に反応できるんです。

だから頭で考えて体を動かすというより、体が動いてから頭で考えるという順番に変えないと、格闘技はできないとわかりました。格闘技を始めて、そういう新しい世界を知ることができたのは大きな体験でしたね。

岡田:格闘技で精神的なところに大きな変化もあったようですが、肉体的な変化はありますか?サッカーと格闘技だと使う筋肉が大きく変わりそうですよね。

安彦:サッカー選手は、下半身が太くて上半身が細くなる人が多いですが、格闘技をしてそれが逆になりました。足がシャープになっていって、上半身が大きくなりましたね。極端に言えば男性のトイレマークみたいな(笑)

体型も大きく変わって、心も体もどんどん格闘家になっていることを感じますね。今後もさまざまな変化を楽しみながら、職業『挑戦者』として挑戦することの楽しさを伝えていきたいです。

前回のトークセッション記事


バドミントンから車いすフェンシングへ!美人アスリート河合紫乃さんの笑顔の秘訣

今回のゲストは、車いすフェンシング日本代表の河合紫乃(かわいしの)さんです。

河合さんはもともとバドミントン社会人リーグの選手でしたが、股関節の手術の後遺症で左下肢の不全麻痺を負い、車いす生活を余儀なくされました。辛い経験を乗り越え、車いすフェンシングに転向して日本代表として活躍。さらに、モデルとしても活躍する河合さんの笑顔の秘訣を伺いました。

MCはワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。

「何でもいいから輝きたい」寝たきり生活からパラアスリートへ

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:河合さんは2018年に車いすフェンシングを始め、その後1年足らずで日本代表に選出され、さまざまな国際大会に出場されています。車いす生活となり、バドミントンからフェンシングに競技を転向したのはどういった理由があったのでしょうか?

河合:小学生の頃にバドミントンを始めて、それから17年間バドミントンをしていました。障がい者になり、パラバドミントンから「メダルに近いよ」と声を掛けてもらったのですが、そのときの私は握力が8kgしかなくて、バドミントンをするのは難しいと感じました。また、健常時の自分と比べて葛藤することがわかっていたので、それなら新たな競技にチャレンジしたいと思ったんです。「ゼロからチャレンジして世界で活躍したらどれだけカッコイイだろう」って。たまたま車いすフェンシングという競技が東京パラリンピックに向けて選手を募集していることを知ったので、「これにしよう」とノリで決めました(笑)

住谷:車いす生活になってからフェンシングをするまでの間に落ち込んだり、何もしたくないと思ったりしたことはなかったですか?

河合:治療のため2年間寝たきりで引きこもりになりました。体重も30kgまで減ってしまい、げっそりして人とも喋れない状態でしたね。でも、入院中、大学時代にバドミントンで一緒に全国優勝をした後輩が、東京オリンピックの候補に挙がっていることを知りました。その後輩と「一緒に東京五輪に出よう」と約束していたことを思い出し、「何でもいいからもう一度輝きたい」と思ったんです。

より成長するために「高い目標を持つ」

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:そもそも車いすフェンシングとはどういうスポーツなのでしょうか?

河合:私が専門にしている『エペ』という競技は、とにかく相手よりも先に突くっていうシンプルなルールです。健常者のエペの場合、相手選手の全身が有効面となりどこでも先に突いたら勝ちとなります。車いすの場合は、車いすを固定して戦い、下半身を突いてもポイントにはなりません。上半身だけでどうやったら相手が前に出てくるか、しぐさなどで駆け引きを行います。すごく頭を使う競技で、駆け引きの仕方などはバドミントンと似ていると思います。

エペで使う剣の重さは770gほどあります。それを片手で持つのですが、私は最初握力が8kgほどしかなかったので、試合が3分間あるのに2分も持つことができませんでした。そのときにコーチからは「やめた方がいいんじゃない」って言われましたね。
でも、バドミントン選手時代の根性というか、負けたくないという気持ちが蘇り、「絶対見返すぞ」と思ったんです。そこからはすごく大変でしたが、2年間かけて今の身体に戻していきました。

代表に入ってからは「結果を残さなくてはいけない」「応援や支援をしてくれる人に恩返しをしなければいけない」というプレッシャーが強くて、最初は苦しかったです。でも「自分を信じてやるしかない」「高い目標を持てば何かが変わるかもしれない」という気持ちで、人としても障がい者としてももっと成長できると信じて今も頑張っています。

「まぁいいか」精神で現実を受け入れ、笑顔を取り戻す

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:河合さんにお会いするにあたってSNSをたくさん拝見しました。笑顔の写真が多くて、見ているだけでパワーをもらえるなと思いました。

河合:私は健常者の経験もあるので、障がい者には“かわいそうなイメージ”があることを知っています。「不幸」とか「笑えないんじゃないか」とか、私も思っていました。実際、私は障がい者になったばかりの頃、現実を受け入れられず笑えませんでした。でもこの障がいがなくなることはないので、考え方を変えるしかないと思い、「まぁいいか」って受け入れることにしたんです。慣れれば苦しくもないし、この身体で何をしようかという考え方に変えることができて、笑顔を取り戻すことができました。

そして、障がい者になってからさまざまな方にお会いする機会も増えました。今回のトークセッションの機会も自分が障がい者になっていなかったら実現しなかったものですよね。だから本当に今の出会いを大切にしているんです。出会う人が増えるほど、たくさんの考え方を知ることもできますしね。今では、障がい者になってすごく楽しいと思えるようになりました。

「成功に変えるから失敗はない」パラアスリートになって得た強さ

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

住谷:河合さんは車いすフェンシングだけではなく、モデルとしても活躍されています。なぜやってみようと思ったのですか?

河合:実はモデルはフェンシングをする前からやっています。今でも続けているのは「世の中の障がい者の概念を変えたい」と思っているからです。障がい者だからポージングができないといった概念を変えたいんです。始めるきっかけは何でもいいと思っていて、「やってみようかな」って軽いノリで始めることがほとんどですね。

住谷:ノリで始めてみて失敗したことはありませんか?

河合:失敗は今のところありません。周りはどう思っているかわからないですけど、必ず成功に変えちゃうので、失敗はないと思っています。私は障がい者になり、パラアスリートになってから強くなったんです。車いすだとコンビニに行っても棚の上部にある商品は手が届かなくて、これまでの自分だったら諦めていました。今では見ず知らずの人に「すみません、助けてください」と言えるようになりました。

最初は一人では外にも出られず、常に誰かいないと行動できなかったんですが、フェンシングを始めてから考え方がどんどん変わっていきました。なるべく自分でやるけど、どうしても一人でできないことは誰かに助けを求めればいいと思っています。勇気を出して自分から声を掛ければ必ず周りの人が助けてくれるので、できないことがあっても「まぁいいか」と思う気持ちが少しずつ出てきました。

「弱い自分はもういない」挑戦することで実感

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:東京タワーに自力登頂したと伺っています。その挑戦はなぜしようと思ったのですか?

河合:それもノリですね(笑)。私の友人に東京タワーを外階段で上るアスリートがいて、その方に相談して「やってみようかな」って。私は左のお腹から足まで感覚がなくて力もまったく入らないので、右腕で手すりを持って左手に持った杖を足代わりにして上りました。東京タワーの外階段は約600段あって、健常者は15分くらいで上るそうなので私は1時間で上ると目標を立てました。半分くらい進んだところで、酸欠で頭がくらくらしてきてほぼ記憶がないんですが、周りのサポートの人たちがインスタライブを撮影していたので、「変な顔はできない」と思って頑張りました(笑)。結局44分で上り切り、この挑戦を達成したことによって「昔の弱い自分はいない」って実感をすることができましたね。

川口:そんなすごいことを達成したばかりなのに、SNSで「次の挑戦は何にしようかな」という投稿を見ました。「もう!?」ってビックリしたんですが、今後他にも挑戦してみたいことはありますか?

河合:スカイツリーや富士山にも登ってみたいですね。24時間テレビなどの企画で登れたら楽しそう。さまざまな人に私の挑戦を見てもらって「自分も一歩踏み出そうかな」と思ってもらえたら、それが一番うれしいですね。

これから2024年のパラリンピックに向けてチャレンジを続けていきますが、その後の生き方も最近よく考えています。私はやっぱりスポーツが好きなので、アスリートとして生きていきたいです。スパルタンレースという世界最高峰の障がい物レースにも、いつか出てみたいですね。何もできないと諦めていた空白の数年間を取り戻すために、さまざまなことに挑戦していきたいです。


人生を通して「挑戦」し続けるメッセージを届けたい

今回のゲストは、Jリーグ初出場の最年長記録を持つ安彦考真(あびこたかまさ)さんです。安彦さんはコーチ、通訳、選手マネジメントと多角的にサッカーに携わった後、40歳でJリーガーになりました。また、現在は格闘家として活動しており、いつでも「挑戦者」であることを信念にしている方です。今回は安彦さんが挑戦し続ける理由や想いについて詳しく伺いました。

MCは、ワクセルコラボレーターでラジオパーソナリティーとして多方面で活躍中の岡田拓海さんと、ワクセルメディアマネージャーの三木が務めました。

サッカー強豪校への推薦が叶わずヤンキー高校に

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

三木:本日のゲストの安彦さんは1978年に神奈川県で生まれ、高校生の時にご自身で新聞配達をして資金を貯めブラジルに短期留学をされています。2016年にはサッカー日本代表の選手マネジメントに就任。2018年に40歳でJリーガーになり、翌年2019年に41歳でJリーグの最年長デビューという記録を保持されています。そして、2021年には格闘家へと転向されました。

今日は安彦さんのこれまでの経験を、どんどん掘り起こしていきたいと思います。

岡田:まず気になるのは、高校生の頃にご自身で新聞配達をされてまでブラジルに行かれた理由です。どうして留学をしようと思ったのですか?

安彦:中学生の時に推薦でサッカーの強豪校に入れる予定だったんですが、偏差値が足りなかったために推薦が取り消されてしまい、泣く泣く地元のヤンキー高校に通うことになりました。サッカー部に入ったのですが、先輩はみんなリーゼント。まともにサッカーをするような環境ではありませんでした。

でも、そんななかで高校2年生の時に部活仲間の一人がブラジルに行ったんですよ。それが大きな衝撃で「同級生が行けるなら自分も行ける」と思ったんです。キングカズさんに憧れている世代だったこともあり、親にブラジルに行きたいと話したら「部活もまともにやらない、勉強もしない、ワイシャツも来て行かない、そんな奴がふざけるな」と言われてしまったんです。

でも、確かに親が言っていることが正しいと思い、自分で何とかするために新聞配達のアルバイトを始めました。貯まったお金を親に持って行ったら「そういう覚悟があるなら行かせよう」と許可が降り、高校3年生の夏に初めての短期留学に行きました。

Jリーガーを目指すが挫折「嘘の重ね着人生」がスタート

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:高校を卒業した後も、またブラジルに行かれていますよね。

安彦:Jリーグの舞台に行くためにはサッカー強豪校に入ることが王道なのですが、僕はヤンキー高校に行ってしまったのでブラジルで実績を作るくらいしか方法がなかったんです。

2回目の留学中、2年目でようやくプロ契約まで漕ぎ着けたんですが、契約書にサインをした翌日に右ひざの靭帯を切ってしまい、プロ契約を破棄されてしまいました。けれど、なんとか留まる方法を考え、12歳以下のコーチを買って出てクラブに残れることになりました。

岡田:ケガをして、それでもクラブに残ると切り替えられたことに驚きます。日本に戻ってからはどういったキャリアを歩まれたのですか?

安彦:リハビリをし、静岡のプロサッカークラブ「清水エスパルス」の入団テストを受けました。当時の僕は21歳で、周りは高校生ばかり。テストが始まるとボールを高校生にどんどん奪われて、開始早々で怖くなってしまったんです。

でも30分3本勝負だったので、2本目で頑張ればいいと思い、1本目はこれ以上ミスをしないよう、声を出すけどボールは受けないというセコイことをしたんですよね。次で挽回するつもりだったのですが、1本目が終わった後、監督に呼ばれて「もういいよ、シャワー浴びて帰りな」と言われてしまいました。

その後の僕の行動が人生に大きな影響を及ぼすのですが、僕は周りに対して「俺は結構いいプレーをしたけど監督と合わなかった」「チームと合わなかった」と自分がビビってしまったことを隠して虚勢を張ったんです。そこから僕の“嘘の重ね着人生”が始まりましたね。

生徒の行動力に突き動かされ、自分のやり方でJリーガーを目指す

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:男は特に虚勢を張ってしまいますよね。安彦さんは日本代表選手のマネジメントもされていたそうですが、それは具体的にどういったことをされるのでしょうか?

安彦:「大宮アルディージャ」の通訳の仕事を経て独立し、選手のマネジメントに行きつきました。僕がやっていたマネジメントとは、たとえば選手が「ベストファザー賞を取りたい」となった時に、勝利インタビューで子どもの話題を出すなどの戦略を立てることでした。3年後、5年後に選手のブランディングになるようなマネジメントです。

三木:コーチのようなことをしているイメージがありましたが、ブランディングプロデュースだったのですね。

岡田:安彦さんはさまざまな立場でサッカーに携われていますよね。そんなキャリアを積みながら再びJリーガーを目指されていますが、これはどういった経緯があったんですか?

安彦:僕はマネジメントの仕事をしながら通信高校の講師もしていました。不登校の子や補導歴・退学歴のあるやんちゃな子が通っていて、そういう子たちを更生させることを目指していました。僕が受け持った授業では、“一次情報が大事”というテーマで「10回の素振りより1回のバッターボックスだ」ということを伝えていたんです。

そして、授業中にある生徒が手を上げて報告してくれました。
「買いたい本があったけど、お金がなかったからクラウドファンディングをしてみました。300円しか集まらなかったです。」
それを聞いたクラスメイトたちは笑っていましたが、「生徒がバッターボックスに立った」という事実を目の当たりにして、膝からガクンと落ちるくらいとショックを受けました。

「お前のモヤモヤしている人生、それでいいのか?」って言われた気がしたんです。その生徒の行動が僕を突き動かして、人生の後悔を取り返しに行くことになったんですよ。

人生の後悔を取り戻しJリーガーデビュー

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

安彦:人生の後悔を書き出してみて、一番時間が経っていて取り返しづらいものが、あの時に虚勢を張って、嘘をついた自分でした。どう考えても40歳でJリーガーなんて無理ですけど、一番難しいものがそれだったので、取り返すことに決めました。

その時Jリーガーを見ていて、お金を出すクラブが上で、お金をもらう選手が下という主従関係が強くなっている気がしていたので、これを変えるチャンスでもあると思いましたね。その日のうちに「仕事辞めます」と電話をし、2017年の夏、39歳からJリーガーを目指し始めました。

岡田:当時“年俸120円のJリーガー”というニュースが流れた時、僕は正直「この人は何を考えているんだろう」と思いました(笑)。安彦さんのなかでお金は問題ではなかったのですね。

安彦:そもそも40歳のおじさんは入団テストを受けさせてもらえません。入団するために「給料を受け取らない」という戦略を立てました。その代わり観客席を20席分もらい、自分で1万円売れば1試合で20万円入るので、その売上のパーセンテージをクラブに渡すという交渉をしたんです。クラウドファンディングを使うなど、別のところで収入を得ることで「切りたきゃ切りなさい」と、クラブと対等でいられました。

岡田:安彦さんのこれまでのビジネス経験を活かした方法ですね。40歳でJリーガーになり、41歳で最年長での初出場記録を更新されています。当時はどんな心境でしたか?

安彦:「やっと出られた」のひと言ですね。ただ、当時ものすごい数のアンチもいました。試合に出ればアンチにも認めてもらえるだろうと思ったんですが、もともとジーコさんが持っていた最年長デビュー記録を越えて「ジーコ超えてるんじゃねえよ」ってアンチが来て、結局何をしても言われるんだなと(笑)。でも、デビューしてチームに貢献することもできたので、僕としてはやり切った思いでしたね。

代名詞は「挑戦者」格闘家へ転向

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:安彦さんの挑戦はまだまだ終わらず、現在は格闘家として活動されています。どんな気持ちでチャレンジしようと思ったのでしょうか?

安彦:“今”を語れる代名詞を持ちたいと思ったんです。よく、「○○大学出身」とか代名詞を語る人がいますが、それは過去のことで今を語っていません。僕は今を語れるものが欲しかったんです。

自分の一番の代名詞は「挑戦者」であることと決めて、今よりも過酷なことを目指そうと思った時に格闘技が思い浮かびました。みんなが見ている「RIZIN」というリングに立って、挑戦者というメッセージを伝えていくことを目指しています。

岡田:考えや行動にここまで一貫性がある方は、なかなかいないのではないかと思います。安彦さんが描いている今後のビジョンを伺いたいです。

安彦:現在、アスリートや会社員の今後を応援する「LIFETIMEプロジェクト」という新規事業を、企業と一緒に手掛けています。先ほども話に出しましたが「今を語れる代名詞」を内省で見つけてもらうという取り組みです。僕のこれまでの経験や考え方をノウハウとして残せるよう、事業体として確立させていくことを目指しています。

また肉体的な挑戦で言うと、2022年2月にプロデビューが決まり、「44歳でプロ格闘家の最年長デビュー」という記録が増えます。弱っている自分、妥協しそうな自分、情けない自分など「僕の人生」を見せながら、それでも前に進もうという挑戦し続けるメッセージを届けられたら嬉しいですね。


人生終わりだったのに、今、生きている。こんなラッキーなことはない

“障がいのある人もない人もみんなで一緒に楽しむ「スポーツ×文化」の祭典”として、2012年からスタートした「スポーツ・オブ・ハート」。第1回から参加し、現在はイベントの名誉理事を務める車いすランナー・廣道純さんを今回のゲストにお招きしました。

ワクセル総合プロデューサーの住谷がインタビュアーを務め、イベントの成り立ちや今後の展望をお聞きしました。

オリンピアン、パラリンピアンが一堂に会する新たなイベント

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:まず最初にスポーツ・オブ・ハートの名誉理事、廣道純さんのプロフィールをご紹介します。廣道さんは、1973年12月21日に大阪府でお生まれになり、10代半ばでバイクの事故により半身不随となりました。

その後は日本初のプロ車いすランナーとして活躍。800m種目において、2000年シドニーパラリンピック銀メダル、2004年アテネパラリンピック銅メダル、2008年北京パラリンピック8位、2012年ロンドンパラリンピック6位と、世界トップレベルの成績を残されています。

現在も競技中心の生活の傍ら、テレビコメンテーターやラジオパーソナリティ、全国各地での講演活動、大会やイベントの運営などにも積極的に取り組まれています。

今年で9回目の開催となったスポーツ・オブ・ハートに、廣道さんは第1回目から参加されています。一体どのような経緯で参加するようになったのですか?

廣道:発起人の兵頭さんという方が、第1回目のイベント1週間前に「来週こんなイベントやるんだけど、スケジュールどう?」とわざわざ大分県までやってきたんです。東京開催ですし1週間前なので、「えっ!?」ってとても驚きましたね(笑)。

でも、オリンピアンとパラリンピアンが一緒にステージに上がってトークショーをしたり、スポーツ体験会をやったり、アーティストがライブをするというイベントの内容を聞き、驚きつつも興味が湧きました。それまでパラリンピアンとオリンピアンが一緒に何かをするとか、芸能人と何かをするといった発想は誰も持っていなかったからです。スケジュールが空いていたこともあり、第1回目は普通に参加者として楽しみました。

オリンピックが盛り上がりをみせる一方で、パラリンピックは認知度が低い。その差を考えたときに「テレビでやるかやらないかだ」と兵頭さんは思ったそうです。だったら、テレビで活躍している人たちとパラリンピアンが一緒にステージに上がったら、「あの人もすごい人なんだ」と視聴者は錯覚を起こします。それを続けていけば「錯覚でなく、本当にすごい人に変わる」という発想だったようです。

「毎回新しいことを取り入れたい」と年々イベントが進化

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:現在ではスポーツ・オブ・ハートの名誉理事に就任していますが、どのような経緯があったのでしょうか?

廣道:第1回目に参加したときに「こんなことができるんだ!?」という驚きがありました。でもオリンピアンやアーティストをゲストに呼ぶためにお金がかかってしまい、第1回目がものすごい赤字だったんです。

ただ、兵頭さんが「そんなの時間をかけて返していけばいい。来年もやるぞ」って言っていたことが印象的でした。選手でもないし、僕たちからしたら全くの他人が、そこまで僕たちのためにイベントをやってくれたことに感銘を受け、「絶対に協力しなければ」と思いました。

第2回目からは実行委員に入って、第3回目では一般社団法人を設立することになりました。法人のトップはパラアスリートの方が良いと言われて、名誉理事になって今に至ります。

スポーツ・オブ・ハートは東京で始まりましたが、兵頭さんが大分出身であることと、私も車いすレースのために大阪から大分に移り住んでいたため、第5回目から東京と大分の2ヶ所で開催しています。今年は中継を繋いで2ヶ所で同日開催という初の試みをしました。

同じことを繰り返すうちに、「前回も来てくれた人の興奮度がどうしても低くなってしまう」とスタッフみんなが感じていて、毎回何か新しいものを取り入れることを意識しています。最初はスポーツのイベントに応援ライブが入るだけでしたが、途中から催し物にファッションショーが追加。さらには、パラアスリートやちびっこランナー、芸能人が一緒にタスキを繋いで走るノーマライズ駅伝というものが加わり、どんどん進化してきました。

「もっとみんなに満足して欲しい」という発起人とスタッフの気持ちが強くて、せっかくだからあれもしよう、これもしようって毎回ド派手なことをしてしまうんです。今回なんて花火を上げますから(笑)。

アクシデントにもチームワークで乗り切る

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:今回のスポーツ・オブ・ハートにはお笑い芸人のダイノジさんが来られていて、色んな人に応援されているイベントなんだと感じました。

廣道:東京ではダイノジの2人がMCをやってくれることが多いですね。ダイノジは大分出身なんですけど、大分開催の第1回目から参加して一緒に盛り上げてくれています。大分会場はお笑い芸人「Wエンジン」のえとう窓口君が何度もMCとして来てくれていますが、秋のこの時期はイベントのためにスケジュールを押さえてくれているそうです。高橋尚子さんも第1回目から毎回、応援団長として陸上教室をやってくれています。

他にもライブをしてくださるアーティストがたくさんいて、著名人がまた今年も行こうと思ってくれるのが一番嬉しいですね。

住谷:イベントを開催するにあたってどんな苦労がありますか?

廣道:パラスポーツだけ、健常者のスポーツだけ、と別々でやるとなったら簡単だと思います。でも、コラボして一緒に味わってもらうことが僕のなかでのコンセプトなので、ブッキングには毎回悩まされていますね。

直前になって参加が決定する著名人や、「やっぱり参加できない」など、本番が近くなると色々なごちゃごちゃが起こります。でも窓口君とかダイノジが来てくれると、台本にないことも臨機応変に考えて対応してくれて、チームワークでなんとかなっています。

「もっとパラスポーツを知ってもらいたい」イベントの全国行脚が目標

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

廣道:「他のイベントではこんなことないよ」ってタレントさんに言われるくらい、色々ハプニングが起こるイベントなんです(笑)。
色んなミスが起こってしまうけど、現場のみんながその場で修正してステージ上ではきちっとできているよう見えます。お客さんにもきちっとできているように伝わっているみたいですね。

住谷:私にもそう伝わりました(笑)。今後イベントでやってみたいことはありますか?

廣道:今は東京と大分の2ヶ所で大規模なイベントを開催していますが、今後は全国各地を回ってみたいと思います。東京、大分と同じ規模でやるのは難しいと思うので縮小した形になるかもしれませんが、この2ヶ所プラス毎年1ヶ所でも開催地を増やしていきたいです。現地に足を運んでもらって少しでも多くの人が関わってくれることで、もっとパラスポーツのことを知ってもらいたいと考えています。

住谷:私もそういう活動が必要だと思い、今回ワクセルとしても協力させてもらいましたが、廣道さんが考える課題は何でしょうか?

廣道:一番の課題はパラスポーツ全体の発信力の弱さです。パラスポーツは、“障がいを持った人の特別なスポーツ”と、位置づけられることが多いです。パラスポーツのことを発信したいと思っていても、どこに発信していいかもわからず、観てほしい人にパラスポーツの情報がたどり着かない。大会でも観客は選手の家族や友人がほとんどというのが現状です。

それでも、観てくれたらファンになってくれると思うので、もっと発信していくことが必要です。今は著名な方々がお客さんを呼んでくれないと成り立たないイベントですが、最終的には障がい者も健常者も分け隔てなく、共生社会に沿ったイベント、当たり前に誰もが楽しめるイベントを増やし、お客さんが集まるようにしたいですね。

「残された今あるものを工夫して楽しむ」パラアスリートの考え

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:私も一度観たらファンになると思います。全国各地にスポーツ・オブ・ハートを必要としている人が絶対いるはずです。障がいを持った人たちが輝く場や、取り上げる機会を作っていくことが不可欠ですね。

廣道:障がいを持ったアスリートがステージに上がることによって、障がい者の見方が変わると思います。「可哀そうな人」から「障がい者のスター」に変われば、それを見ていた障がいを持つ子どもたちが「僕もあのステージに上がりたい」って思うはず。障がいを持ってもこんなに輝かしい世界があることを知って、「障がい者になったけどまぁいいか、あそこで頑張ろう」って思ってもらえたら良いですね。

歩けなくなった、片方の手足が使えなくなった、目が見えなくなった、そうなると何もできないと絶望を感じる人が多いです。でもそうじゃない。残されたものがあったらそれを使って工夫して楽しんでいけば良いのです。それがパラアスリートのそもそもの考え方です。足が動かなくても、腕を鍛えたら車いすでフルマラソンを1時間20分くらいで走れますから。

住谷:廣道さんにも落ち込んでしまう時期はありましたか?

廣道:私は怪我を負った直後「死なないで良かった、助かった」ってスタートしたので全く落ち込むことはなかったです。リハビリの先生から「あんたはリハビリの必要はない、スポーツをやりなさい」って言われて、退院して本当にすぐ車いすマラソンを始めました。普通はどうしても落ち込んでしまうものですが、アスリート仲間と話していると私と同じような考えの人も何人かいましたね。

「障がい、国籍、性別関係なくそこに集まったみんなが楽しむ」そんな世の中に

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:廣道さんのような人が障がいを持つ人の希望になっていくのだと思います。廣道さんはどうやって自分をモチベートしているんでしょうか?

廣道:子どもの頃からっていうのもありますが、私は事故を起こして「あの時死んでいたんだ」ってずっと思っているんです。「人生終わりだったのに、今生きているこんなラッキーなことはない」「あの時よりひどいことにはなっていない」って思うので落ち込みません。

住谷:先ほど全国でイベントをしたいという話もありましたが、廣道さんの展望やこれから社会がどうなっていけばいいかなど、お聞きしたいです。

廣道:障がい者も健常者も性別も国籍も関係なく、そこに集まったみんなが楽しむというコンセプトでスポーツ・オブ・ハートは成り立っています。ノーマライゼーションがどんどん進化して、”ダイバーシティ”や”インクルージョン”などの言葉が生まれ、本当にさまざまな人がいて当たり前という世の中になっています。オリンピックは観るけれど、パラリンピックは知らないなんて時代遅れなんですよね。

スポーツ・オブ・ハートの展望は、スポーツだけでなく、今コラボしている文化やアート、ファッション、それ以外にも色んな分野とコラボしていきたいです。スポーツはできないけれどファッションなら参加できる、絵を描くことなら参加できるといったイベントにし、そのイベント内容のような世の中になっていったら面白いと思います。

だからみなさん、ぜひ応援をお願いします。


どんなときでもプラスの意味づけを!野球を通して人生の勉強をしてきた!

元プロ野球選手で現在は野球解説者・野球評論家の桧山進次郎(ひやましんじろう)さんにインタビューさせていただきました。

桧山さんは1991年に阪神タイガースにドラフト4位で入団、2003年にはチームを優勝に導き、優秀選手賞を獲得されました。2008年からは代打として活躍し「代打の神様」と呼ばれるようになりました。

2013年に引退されてからは野球解説者、評論家、YouTuberとしても活動されています。今回は野球選手時代や引退後の活動について、話を伺いました。

インタビュアーはフリーアナウンサーの川口満里奈(かわぐちまりな)さん、ワクセル総合プロデューサーの住谷知厚(すみたにともひろ)です。最後までお楽しみください。

低迷している阪神タイガースを強くしようと意気込んで入団

住谷:野球を始めたきっかけをお聞かせください。

桧山:父親と2つ上の兄が野球をやっていたので、物心ついたころには野球をやっていました。家の前に公園があり、そこで野球の練習をしていました。体を動かすことが好きだったので、野球ができないときは友達と鬼ごっこやかくれんぼをしていました。

住谷:昔から応援していた阪神タイガースに入団していかがでしたか?

桧山:大学時代は比較的活躍できていたため、プライドも強く「ドラフト3位までに入ったら入団する」と宣言してドラフトに臨みました。しかし結果は阪神にドラフト4位で指名され、正直残念な気持ちでした。

さらに当時の阪神が低迷期であったこともあり、入団するかを悩んでいました。その時に、父から「昔から阪神ファンだったじゃないか。自分がチームを強くしたらええやろ!」と言われ、入団を決断しました。

阪神タイガースに入団してからは、大学野球とのレベルの違いを実感しましたね。トレーニングルームで10歳以上離れた真弓明信(まゆみあきのぶ)選手と一緒になり、自分よりはるかに重いウェイトでトレーニングをされているのを知ったときは衝撃でしたね。

また、新庄剛選手の肩の強さにも驚きました。プロ野球選手でも新庄選手以上に肩が強い人をみたことがありません。加えて足がとても速く、しかもどんどん走りが加速するタイプなので2塁3塁へと走り抜ける姿は迫力がありました。

川口:新庄選手との印象的なエピソードはありますか?

桧山:吉田義男(よしだよしお)監督のときに、新庄選手と3,4番を打っていた時期がありました。お互い感情を表に出さないタイプだったのですが、ある日吉田監督に呼び出され「打てなくて悔しくないのか!もっと感情を表に出せ!野球は心だ!」と怒られました。

このころ僕らはプロ野球にも慣れてきて、なんとなく毎日を過ごしているような感覚もありました。しかし、監督に怒られたことがきっかけで感情を表に出すようになりました。これはとても重要なターニングポイントでした。

上手くいかない時期も「人生の勉強」だとポジティブにとらえる

住谷:阪神タイガースが低迷していた時期、チームはどのような状態でしたか?

桧山:実はわたしが入団した年、阪神タイガースは優勝しているのです。しかし、その後攻撃力不足により低迷してしまいました。選手は他球団との実力差を肌で感じているので、今年は優勝できないなというのがわかります。

優勝できなければ順位はあまり意味がない、そうなるとそれぞれが個人の成績を残そうとして、チームとしてのまとまりがなくなっていました。

川口:チームがバラバラになっていると精神的につらいと思いますが、メンタルのケアはどうされていましたか?

桧山:阪神タイガースではレギュラーとして試合に出られていたのですが、そのことに安心しないように他球団を意識するようにしていました。自分がもし他球団にいたとしたら、レギュラーはとれないと感じていたので、危機感をもって練習をしていました。

野村監督時代に自分の成績が落ち込んでいた年があり、戦力外通告されるかもと思っていた時期もありました。他球団でもレギュラーにはなれる実力はないと感じて、どうしようととても悩みました。

「もう自分はおわった。でもまだ頑張りたい。」という葛藤がありました。野球をやめることも考え、いろいろ考えた結果「自分は野球を通して人生を勉強させてもらっているんだ」と思うようになりました。

このように考えられるようになり、とても楽になりました。自分のことも好きになり、一生懸命野球に取り組めるようになりました。もし一生懸命やってダメだったとしても、後悔なく第2の人生にチャレンジできるなとも思っていました。

住谷:野球でやり残したことはありますか?

桧山さん)ないですね。自分の中では精一杯やってきたので「もっと練習しておけばよかった」などの心残りはないです。しいて言えば、もっと早く「野球を通じて人生勉強させてもらっている」ということに気づくことができたら、もっといい成績が出せたかなとは思います。

若手選手を指導するときも、「実力はあるし、はやく気づけたらいいな」と思うことはあります。ただ自分自身も30歳になってから気づいたので、悩んで自分で気づくことが必要かなと思います。

住谷:野球に限らず、20代の方は頑固になってしまうことも多い気がしますが、いかがでしょう?

桧山:たしかに多いと思います。ただ、頑固なことが悪いわけではなく、芯があることはとても大切です。人の意見に振り回されるのではなく、自分の芯をもったままいろいろな意見も取り入れていくことが重要ではないでしょうか。

若者の勢いはとても大事です。パワーがあるので、それを活かしながらいろいろな意見を取り入れて、同時にブレーキも使えるようになるといいです。また、最短距離を進むだけではなく、回り道や寄り道することも大切です。

準備していれば失敗しても学べることがある

住谷:代打を通じて学んだことはありますか?

桧山さん)監督の意向で、若手に出場機会を与えて成長させようとしている時期でした。もちろんその気持ちはわかりますが、阪神タイガースの成績も奮わず、自分の出場機会が減ったことに対してストレスはありました。

ただ、レギュラーの選手とはまったく違い、一歩引いたところから試合を見ていて、いざという時に出場するというのはとてもいい経験でした。レギュラー選手とはまったく違う世界なので楽しかったですし、同じホームランでも代打として打ったときの喜びは格別でした。

川口:「代打の神様」と呼ばれていましたが、代打として何を大切にされていましたか?

桧山:代打に限らず、代走や控えのピッチャーは短い出場時間のために入念に準備をしています。「こういう状況になったら出番だからな」と言われているので、そこに向けてコンディションやテンションを上げていきます。

ただ、急に状況が変わって出番がなくなることもあります。テンションを上げた状態でネクストバッターサークルに入ったにも関わらず、出番がなくなると精神的にかなりつらいです。

そのため、テンションは一気に上げるのではなく徐々に上げ、バッターボックスに入るタイミングで最高になるようにしていました。

代打を通して、準備の大切さを実感させてもらいました。もちろん準備していてもうまくいかないことはありますが、準備しないで失敗するほうが嫌でした。また、準備して失敗した場合は、その準備が次のチャンスに活きてくるので無駄にはなりません。

いろいろな挑戦が経験となり、ほかのことにも役立つ

川口:現在は野球以外にもいろいろなことに挑戦されていますが、経験を増やすことにどのような意義を感じていらっしゃいますか?

桧山:いろいろなことに挑戦することで、どうやったらできるかなと工夫をこらしたり考えたりします。その経験がまた別のことに役立つことがあります。

例えば釣りの場合、魚との駆け引きを学ぶことができます。人とのコミュニケーションも同様に駆け引きがあるので、釣りで学んだことがとても役立ちます。また、ライブに参加したり、テレビに出演したりするときは「どうやって盛り上げているんだろう?」と考え、盛り上げ方を宴会の場などに活かしています。

ファン感謝デーで初めてのモノマネを提案したのはわたしでした。当時、的場寛一(まとばかんいち)選手が能力はあるのに怪我で思うように活躍できておらず、モノマネに挑戦してもらったらとても評判がよく、彼の知名度も上がりました。

川口:とても気遣い上手だなと感じるのですが、ほかにも気をつけていることはありますか?

桧山:人に何かを伝えるときは、相手の状態をよく確認するようにしています。アドバイスをしていいタイミングなのか、もう少し悩ませておいて自分で気づいた方がいいタイミングなのかを見極めます。また、怒る場合でも本気で怒る場合もあれば、怒ってるフリをすることもあります。

うまくいってないときこそ、プラスの意味づけをしていく

住谷:これからやってみたいことはありますか?

桧山:今までは団体スポーツで頑張ってきたので、今度は個人の力を試せる ”商売” をやってみたいですね。そのために今はたくさんの人と会ったり、チャレンジをしています。何かやりたいものを見つけたいなと思っています。

川口:素敵ですね。現役を引退されてもなおチャレンジし続けたい、というモチベーションの源は何ですか?

桧山:チャレンジしている自分が好きですし、仮にチャレンジが失敗に終わったとしても自分磨きになって成長できるからです。そして、子供や後輩、友だちが悩んでいるときに「似たような経験したことあるよ」と言って学んだことををシェアできたらいいなと思います。人が一番の宝物ですからね。

川口:人が大好きなんですね。

桧山:そうですね。騙されたこともありますが、それも今ではポジティブに解釈して、そういう経験があったからこそ今があると思っています。

川口:前向きに変換できるところが素敵ですよね。

桧山:うまくいっているときは誰でもポジティブに考えられるので、うまくいっていないときにどうポジティブに変換するかが重要ですよね。

車を擦ってしまったときに「なんだよー」とイライラするか、「擦ったということは運転が雑になっているに違いない。安全運転を心がけよう」と思うかで大きく違います。自分にとってプラスになるように意味づけするように意識しています。

自分の芯をもちながらチャレンジする

住谷:20~30代の若者に向けて最後に一言お願いします。

桧山:20~30代になると、ある程度自分の考えがかたまりつつある時期だと思います。その時期に、いろいろな人の意見に耳を傾けて、新たな自分を発見できるとさらに成長できます。

今までと違った自分を見つけ出すには、チャレンジが重要です。そして、チャレンジすることに対して正直に向き合ってください。向き合ったときにどうしたらいいか迷うこともありますが、そのときはもう一人の自分を置いて客観的に見るようにしてください。


ベクトルは常に自分に向けて、失敗から学ぶ。

元サッカー選手で川崎フロンターレ リレーションズ オーガナイザーの中村憲剛さんにインタビューさせていただきました。
インタビュアーは元山形放送所属、2014年度のNNNアナ ウンス大賞新人部門で優秀賞を受賞されたフリーアナウンサーの川口満里奈さんです。

中村さんは2003年に川崎フロンターレへ入団、2006年には日本代表へ初選出、2016年に はJリーグ年間MVPを獲得されています。J1リーグでは通算3回の優勝も経験され、日本を 代表するサッカー選手でした。

2021年1月に現役を引退し、現在は川崎フロンターレリレーションズオーガナイザーとし て活躍。
同月には18年間の活躍をまとめた書籍『THE LEGEND 中村憲剛 2003-2020』 (三栄書房)を発売されました。

その他、ミズノブランドアンバサダーやJFAロールモデルコーチ、JFA Growth Strategist(JFA グロース・ストラテジスト)、育成年代への指導、解説活動など、多方面で 活躍されています。

今回は、18年間の現役時代や引退してからの生活についてインタビューしましたので、最後までお楽しみください。

サポーターに喜んでもらうことをして、サポーターを増やす

川口:川崎フロンターレはユニークなグッズがたくさんありますが、なぜグッズが多いのですか?

中村:川崎フロンターレはJ2リーグからスタートし、僕が加入した2003年の時点 ではサポーターもあまりいませんでした。

ホームスタジアムである等々力陸上競技場(神奈川県川崎市)に足を運んでもらうためには、自分たちからアプローチする必要がありました。

そのため、選手が考えたグッズや記念グッズなど、なんでもグッズにして多くの人に興味をもってもらおうとしました。これが現在も受け継がれ、いろいろなグッズが販売されています。

例えば、真っ白のミニサッカーボールは選手からサインを書いてもらえるようになっていて人気がありますね。
ほかにも、ご祝儀袋やポチ袋といった珍しいグッズも販売しています。

「プロサッカー選手はボールを蹴ることで稼ぐ」というイメージをもって入団したのですが、グッズの企画やイベントへの参加など、ほかの役割も多くて驚きました。

川口:サポーターと銭湯に行ったこともあるんですよね?

中村:はい、引退してからサポーターと銭湯に行かせていただきました。現役時代にはきっかけがなかっただけで、もし機会があれば行っていたと思います。

ただこれには裏話があり、銭湯に入ることは事前に知らされていませんでした。

銭湯に到着して「ロッカーの中を見てください」と言われたので開けると、桶とタオルが入っていたんです。それを見た瞬間「あ、入るんだな」と思いました(笑)

そして、サポーターと裸の付き合いをさせていただきました。
自分でも何をやっているんだろうと思いながら入っていましたが、サポーターや浴場組合の方々が喜んでくれたのは嬉しかったです。

そして、この写真や記事をインターネットにあげることで興味をもち、スタジアムに足を運んでくださる方もいらっしゃいました。

このように、最初は川崎フロンターレや中村憲剛を知らない人も、イベントやインターネットを通じて興味をもってくれます。
そして、スタジアムに試合を観にきて、応援してくれるようになるのです。

このようなことを地道に継続してきて、川崎フロンターレは今のような知名度の高いチームになりました。
もちろん、お客さんとの交流が苦手という選手もいるので、それぞれの得意分野を活かし合えたらと思います。

川口:中村さんはお客さんとの交流はお好きですか?

中村:好きですね。お客さんの反応がダイレクトにわかるので楽しいなと思います。
自分が楽しめて、来場者も増えたら最高じゃないですか。

サッカー選手はスタジアムに足を運んでくださる方たちが払ってくれる入場料やグッズ収入などからお給料をいただいています。
そのため、自分たちから積極的に知ってもらい、スタジアムに足を運んでもらい応援していただくことも重要だなと感じます。

新型コロナウイルスの影響でサポーターのありがたみを再認識した

川口:昨シーズンは現役ラストシーズンでしたが、サポーターへの特別な想いはありましたか?

中村:昨シーズンは新型コロナウイルス感染症の影響で、観客が少ない試合が多かったですね。

自分がリハビリ中のときに、1回だけ無観客試合があり観客席から観ていたのですが、正直 とても味気ないなと感じました。
ボールを蹴る音、選手と監督の声だけが響いていました。

そこから少しずつサポーターが増えたときに、声は出せなくても、サポーターのみなさんがいてくれるだけでこんなに雰囲気が変わるのかと驚きました。
チャンスになると、観客の念というのでしょうか、空気がガラッと変わるんです。

以前からサポーターの存在のありがたみは感じていましたが、昨シーズンはラストシーズンということもあり、特に感謝の気持ちが強くなりました。

サポーターに応援してもらうなかで「サッカーができることは当たり前じゃないんだ」と、改めて感じることができてよかったです。

日本代表に選出されたのは、プロに入ってからの努力

川口:2003年から2021年にかけての、現役時代18年間を振り返っていかがですか?

中村:長かったなと思います。
18年というのは、生まれた赤ちゃんが高校3年生になりますから。

若手の選手に「2003年のとき何歳だった?」と聞くと、「小学生でした」や「生まれていません」といった答えが返ってきて驚きます(笑)

キャリアのなかでも、2006年に日本代表に選ばれた経験は大きかったですね。
それまでアンダーカテゴリーと呼ばれる、世代別の日本代表(U-18など)にも入ったことがなかった ので本当に嬉しかったです。

日本代表に入る前に選ばれた大きな代表は、小学校6年生のときの関東選抜でした。
それ以降は代表に選ばれたことがなかったので、学生時代は劣等感も抱いていました。

ただ「プロになってからは自分の努力次第だ」と思って努力した結果、日本代表の座をつかみ取ることができました。

日本代表に選ばれたことに自信をもってプレーする

川口:はじめて日本代表に選ばれたときはどのような気持ちでしたか?

中村:試合から帰る途中で強化部長から電話があり、驚きのあまり「本当ですか!?」と言いました(笑)

最初に日本代表に合流したのは横浜で、オシム監督は近くで見るととても大きかったのを覚えています。

当然、周りは日の丸を背負ってきた有名な選手ばかり。ずっと日本代表を応援する側だったことので、気おくれするところや、お客さん感覚が抜けず変な感じがしました。

今振り返ると、自分も日本代表なので、もっと堂々としたらよかったなと思います。

川口:新しい場所に挑むとき、気おくれすることがあると思いますが、どう対応しますか?

中村:僕の場合は、ボールを蹴り出したらほかの選手と対等だと思ってプレーしていました。自分は実力を認められて選ばれているのだから、自信もってアピールすべきだと考えていました。

オシム監督の戦術は「考えて走るサッカー」がキャッチコピーでした。学生時代から考えてプレーしてきた自分にとっては、順応しやすく充実感もあって楽しかったです。

南アフリカW杯での後悔が成長に繋がった

川口:2010年の南アフリカW杯で悔しい経験をしたと聞きましたが、どのような経験でしたか?

中村:2010年の南アフリカW杯代表にも選ばれましたが、グループリーグでは出番がありませんでした。

それでも、自分は攻撃的な選手だったので、勝利することが大切な決勝トーナメントでは出場できると思って準備をしていました。
自分が得点に絡んで日本をベスト8に導こうと意気込んでいましたね。

予想通り、決勝リーグ1回戦のパラグアイ戦で起用されましたが、得点はできずPK戦で負けてしまいました。何回か得点のチャンスもあったのですが、決めきれず大きな後悔をしまし た。

特に、玉田選手からのパスを合わせられなかったことをとても悔やんでいます。
自分の選択ミスによってパスがずれてしまい、決められませんでした。正しい選択をしていれば確実に決められたシーンだったので、自分が決めたらベスト8だったと思うと忘れられません。

もし同じシチュエーションになったときに、今度は確実にゴールを決められる選手になろうという気持ちが、そこから僕を成長させてくれました。

サッカーにひたむきに向き合って努力をした結果、年間MVPを獲得できた

川口:その成長の先に得られたのが、2016年のJリーグ年間MVPだと思います。36歳での選出は歴代最年長、ギネス世界記録にも登録されていますが、選ばれたときはどのような気持ちでしたか?

中村:当時はどれだけいいパフォーマンスができるかだけを考えていたので、36歳という年齢は正直気にしていませんでした。純粋に自分がやってきたことを評価されて嬉しかったです。

今振り返ると36歳で獲得したのはなかなか凄いなと思います。Jリーグに36歳で現役の選手はほとんどいないので、ジワジワと実感しています。年齢に関係なく、努力次第で結果を変えられるんだと証明できたのが嬉しかったです。

川口:年間MVP獲得の際、サッカーに向き合う姿勢も評価されていたと思います。サッカーを続ける上で一番大事にしてきた考え方、向き合い方をお聞かせください。

中村:サッカーが好きな気持ちをもち続けることが大切だと思います。とにかく上手くなりたかったので「昨日より今日、今日より明日上手くなるためにはどうしたらいいか」を考えるのが楽しかったです。
あとは、年齢が上がるにつれて試合にも使われにくくなるので、試合に出るために工夫するのもやりがいがありました。

ベクトルは常に自分に向けて、失敗から学ぶ。

川口:自分を冷静に客観視することを大切にされていると思いますが、なぜでしょうか?

中村:自分の主観だけで話すと、失敗を周りのせいにしてしまいます。失敗したときに客観的に自分を見つめ、できない自分を受け入れることが先に進むために必要だなと思っています。

川口:日本代表に入れなかった時期は、どうやってメンタルを切り替えていましたか?

中村:自分が代表に呼ばれないようなパフォーマンスをしていたら納得できますし、呼ばれておかしくないパフォーマンスでも呼ばれないなら、それはしかたないと割り切っていました。
代表に呼ばれるまで高いパフォーマンスを維持しようと思っていました。

あとは、日本代表に入ることがすべてではないと考えていました。まず大事なのは所属クラブの勝利なので、クラブで結果を残すことを最優先にしていました。

代表に選ばれていた時期も、全力でクラブを勝たせたことが評価されていたので、クラブでの活躍があってこそ代表入りできたと確信しています。

代表に呼ばれないときは、「それはそれ。呼ばれない時期なんだな」と思うようにしていました。自分にベクトルを向けて、常にいいプレーをすることだけに集中すること。
誰もが「なんで中村を代表に呼ばないんだよ」と言うくらいのプレーをすれば、いつかは呼ばれるはずなので。

川口:やりたい仕事ができずに、やりたくない仕事をやらなければいけない状況のときは、どう捉えたらいいでしょうか?

中村:まずは自分ができることを100%やることが、あとでやりたい仕事ができたときに役にたちます。

大切なのは準備をしておくことです。今頑張ることが望む未来につながっているので、目を向けるべきは「今」。
何をやったらうまくいくか、自分にベクトルを向けて考えてみてください。

今与えられている仕事にも意味があるはずなので、それをどのように自分にとってプラスの理由に変えていくのかが重要です。

川口:いろいろな失敗を糧にしてきたと思いますが、失敗に対する恐怖心はありますか?

中村:致命的な失敗は避けるようにしているので、怖くはないですね。ある程度は失敗して、そこから学ぶことが大切だと思っています。

サッカー人生でも失敗と成功を積み重ねて、自分のプレースタイルができ上がってきました。失敗は積極的にするべきだと思います。

あとは、失敗をどう捉えるかも大切です。失敗からは何も学ぶものがないという人もいれば、失敗から学ぶ人もいます。

僕自身、失敗したあとは悔しくて「学ぶものはない!」と思ってしまうのですが、あとから振り返ると課題がわかってきます。

そして、課題を修正することで成長できるので、これを繰り返してきました。

これからはプレー以外で自分を表現する

川口:今後の目標をお聞かせください。

中村:「未定」ですね。今は指導者や解説者になるといった目標は、あえて立てていません。

今は見聞を広める時期だと思っているので、いろいろなお仕事をやらせていただいています。どんな方向にも行けるように準備している感覚です。

18年間狭い世界にいましたが、今は大海原に出た気分です。

それに伴い、自分の表現方法も変わってきました。以前はプレーで表現していましたが、今は今回のようなインタビューやテレビなどでの表現を求められています。
そのため、プレー以外に人としての深みと厚みを出す必要があります。

ありがたいことに、表現できる場をいただけているので、期待に応える必要があるなと感じます。なぜ呼ばれたのか、何を話したらいいのかを瞬時に判断する必要がありますから。

とはいえサッカーでもチームの勝利のために一瞬一瞬判断しながらプレーしていたので、似ているなと思います。


自分に確信があればすべてが楽しい

阪神タイガース特別補佐の藤川球児さんにインタビューさせていただきました。

1999年阪神タイガースに入団後、メジャーリーグ(MLB)でも活躍され、現在は阪神タイガースの特別補佐を務められています。

藤川選手の代名詞といえば驚異的な伸びを特徴とする直球「火の玉ストレート」。2021年1月20日には著書『火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟』を出版されています。

今回は野球のみならず、仕事観などについてもお話をうかがいましたので、ぜひ最後までお楽しみください。

相手を観察し、伝わりやすい方法で伝える

インタビュアー:阪神タイガース時代、JFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)の一角として活躍されましたが、当時のお話をお聞かせください。

藤川:最初はわたしが1番活躍していませんでした。しかし、どんどん成長していったので、3人を比較したときに久保田選手が少し劣っているように映っていたようです。

久保田選手がメディアに非難されていることもあったので、支えようとは思っていました。久保田選手のストレス発散方法は飲みに行くことだったので、毎日一緒に飲みに行っていました。

JFKと呼ばれてはいましたが、わたしは「2人がいなくても自分はマウンドに立つ」と決めていました。

自分はできると思ってやっていたので、楽しくて仕方なかったです。試合数や責任が増えていくのも頼られている証拠だと感じていたので、大歓迎でした。

ベテランになったときは役割が変わり、劣勢の時に投げることが多かったので、そのための準備をしていました。

オンとオフをわけることでメンタルを強く保つ

インタビュアー:藤川選手のメンタルの強さの秘訣を教えてください

藤川:わたしはグラウンドと家でまったく人格が違います。自分が2人いると思っているんです。

そのため、こういうインタビューをあとで映像や文章でみると「こんなこと話したっけな?」と思うんです。

おそらく、グラウンド内とグラウンド外の自分を現役時代から分けていたからだと思います。

男性でわたしのオンとオフの境目がわかるのは兄だけだと思います。兄は「何があっても球児を理解できる男性は自分だけだろう」と言っています。

オンとオフのギャップが大きいので、よく驚かれます。今後はオンとオフが合わさった状態になりたいなと思っています。

多くの経験の集大成が「火の玉ストレート」

インタビュアー:ストレートに一点集中することに迷いはありましたか?

藤川:「火の玉ストレート」は最初からあったわけではありません。高校時代はむしろ変化球が多かったです。

いろいろやってみた結果、25歳のときにでき上がったものなんです。事業も何回も失敗してやっとうまくいくと思いますが、わたしにとってはそれが火の玉ストレートでした。

つまり、野球人生で培ってきたものの集大成が火の玉ストレートなんです。

それに、みなさん火の玉ストレートだけを投げていたと思っているかもしれませんが、実際は火の玉ストレートを軸にいろいろな球を使い分けていました。

だからこそ、いろいろな選手に指導ができます。

何を得て、学びとるかは自分次第

インタビュアー:最後にメッセージをお願いします

藤川:自由に話させてもらいましたが、ここから何を学びとるかは自由です。このインタビューから自分なりに何かを得てもらえたらと思います。


過去は変えられないけど、今がんばれば未来は変えられる。

お笑い芸人の猫ひろしさんにインタビューをさせていただきました。

​真っ赤な衣装でネタをする姿が印象的な猫ひろしさんですが、マラソン選手としても活動されていらっしゃいます。2011年には国籍をカンボジアに変更し、2016年リオデジャネイロオリンピックでカンボジア代表として出場されました。

​今回のインタビューでは、一つのことを長く続けることに対する大切さや、人とのご縁など、経験談もとにをお話いただきました。新しいチャレンジをするのに年齢は全く気にしないという猫ひろしさんからは、目標達成するために本当に集中すべきことは何なのかについて、学べることが多いと思います。

お笑い芸人としても長く活動し、さらにマラソンも10年以上のキャリアがある猫ひろしさん。継続するコツや、目標設定のやりかたをお聞かせください。

猫ひろし:そうですねー、継続のコツ……。あまり意識しないことですかね?

マラソンをやっていると、「きつくないんですか?」「毎日走れないんですが…」という相談を受けることがあります。僕がよくコーチに言われているのは、「人間、朝起きたら、歯を磨く習慣がある。それと同じように、まず起きたらジャージに着替えて、水分だけは摂って、とにかく走ってくれ」って。

​「きつい/きつくない」ではなく、脳に順化させて「走るのが普通」にするように、と言われています。

当然、練習には強弱があるので、きつい練習もあります。そのときは憂鬱になったりするんですが、それでもやるようにしています。小さな目標を作ってそれをひとつずつクリアするようにしています。僕の場合は、オリンピックや大きなレースといった目標があるので、その目標にから逆算して小さい目標を作る。それを1個ずつクリアしていくと、タイムに表れる。そしたら楽しくなる。

「小さな目標を決めて達成する」というように工夫しています。

コーチから、「水泳選手は一日中プールにいて、プールで生活している」と聞いたんです。だから僕の場合は、「移動は全部走るくらいのイメージ」と言われたので、毎日極力走るようにしています。変な言い方なんですが、辛くてもあまり一喜一憂はしないようにしています。

インタビュアー:お笑いの世界では、結果を出されている方はごく一部だと思います。猫ひろしさんが結果を出された一番の原因はなんですか?

猫ひろし:結果を出しているかはわからないですけれど…(笑)

売れる・売れないは関係なく、お笑いが好きでずっと芸人をやっている人を見ると、すごく幸せそうに見えるんです。なんでかなと思うと、自分が好きなことをずっと続けている人が一番強いんですよ。

ずっと続けられる人は、好きなものがある。それがすごくいいなって思います。だから僕の場合は、マラソンもやってますが、僕は基本芸人というスタンスを持っています。いわゆる「足の速い芸人」(笑)

​ずっと芸人をやっていた中で、マラソンランナーもやろうと思ったきっかけは何ですか?

猫ひろし:マラソンを始めたきっかけは、番組の企画です。

マラソンはやったことなかったのですが、昔から足が速かったので、なんとなく自信はありました。芸人として番組に出て、「速いと目立つから、ここで目立たないと!」って思って走ったら活躍して、そこから走る仕事がたくさん来たんですよ。でもそれだとマラソン大会の仕事は来ても、一夜漬けみたいな感じでやっているため、長続きしなかったんです。

ちょうどその頃、運良く東京マラソンが始まり、オファーがありました。足が速いということで仕事が来ているわけですから、そこで恥ずかしい走りをしたら番組の人にも申し訳ないなと思って、その時に初めてコーチをつけたんです。マラソンは、努力したら努力した分だけタイムに表れるんですよ。それが結構性格にあって、走るたびにタイムが上がったので、ハマりました。

昨日もマラソン練習で走ったので、身体がバキバキなんですよね(笑)

​インタビュアー:42キロを走るのは、1ヶ月で何回くらいあるのでしょうか?

猫ひろし:40キロ走は、2週間に1回はやっています。大会があるかないかでメニューは違うんですが、平均すると月に2回程度になりますね。

ネタにもあるのですが、ゴール後は冷たいものが飲みたいのに、カンボジアでは温かいコンソメスープが用意してあるので絶望的ですよ。しかも寒い時期のレースではなく、暑い時期なので。ネタに思われるかもしれませんが、本当のことです。

日本での常識とはかけ離れていると言うか、マラソン大会のフォーマットがまだわからないんだと思います。コンソメスープは高級ホテルのサービスです。僕がそのレースで1位を取ったから、記念に飲んでくれって言われました。わかります?

1位って、スープが誰よりも熱いんですよ(一同爆笑)。「ありがとうございます」っていいながら、飲んでいたのですが、めちゃくちゃ熱かった。

実は、レースのフォーマットが整っていないのは、カンボジア以外でも結構多いんですよ。東南アジアやリオでもそうでした。国籍を変えてから、日本の凄さがわかりました。海外に出てから、より一層、日本って凄いんだなと。

​新しいことにチャレンジする時に大事にしていることはありますか?

猫ひろし:そうですね。まずは、年齢。選手の中では、自分が一番下だという意識を十分に持ちましたね。

あとは、芸人だからというのもあるかもしれませんが、笑わせること。場で馴染まないといけませんから。マラソンは個人競技ですけれど、みんなで練習するため、和を大事にしました。世界で活躍するスポーツ選手もよく言ってるんですが、海外の人を笑わせるんだったら、下ネタが一番いいそうです。みんな「ガハハ」って笑って、「お前、いいな!」って言われる。

ベトナムでの合宿の話なのですが、カンボジアの選手とは全員仲はいいので、毎回下ネタで笑わせてたんです。そしたら、ベトナムの選手が来て、僕の部屋に行列ができるんです。「あれを見せてくれ、下ネタを見せてくれ!」って。もう、学校の部活みたいな感じですよ。

男性の場合は、下ネタで一瞬で仲良くなりますよ。ただ、海外の女性は恥ずかしがるから絶対に言っちゃ駄目だっていわれますね。それはカンボジアでも変わりません。

​世界中の国々という選択肢がある中、カンボジアを選ばれた理由は何ですか?

猫ひろし:カンボジアを選んだきっかけも、元々は番組がきっかけです。

​その頃、マラソンの仕事はたくさん来ていたんですが、芸人の仕事がどんどん減っていったんです。そんなとき、堀江貴文さんの番組にゲストで出演したんですよ。その番組のテーマは、一発屋の芸人さんが堀江さんのところに行ってアイデアをもらうというもの。僕が行ったときは「猫ひろし再生計画」って書いてあって、僕に対して失礼だ(笑)と思いました(笑)。東国原さんみたいに「選挙に出て話題を作ろう」とか「東大に受からせて話題作りをしよう」とか。東大受験は去年堀江さん自身がやっていましたよね。

​案はたくさんあったのですが、「足が速いから、国籍を変えてオリンピックに行くのはどう?」って言われて、最初はタイムで調べるところからやったんです。向こうも冗談で言ってたんですよ、1回目のゲストだったので。

それを聞いた時に、1つの絵が浮かんだんです。スタートラインに、オリンピック常連のアフリカの人たちがいる中、僕がこの格好でスタートしたら面白いよなって思って。「やります!」って僕が言って、番組はそれで終わったんですけれど、偶然、堀江さんのスタッフにカンボジアでゲストハウスをやっている人がいて、番組とは切り離した上で話が進みました。

堀江さんとはそれで終わりだったんですけれど、「そんなに気になるんだったら、カンボジアにちょっと行きませんか」と言われ、何回も行って走ってたら、タイムがどんどん早くなっていきました。そんなこともあり「カンボジアで大会があるからそれに出て、もし入賞したらやりませんか?」と言われ、入賞したタイミングで、国籍を移してやることを決意しました。

たまたま、人とのご縁で起こったことです。きっかけは堀江さんの番組ですね。

​スポーツ選手の引退後のセカンドライフを応援する意味で、あったらいいなと思えるようなビジネスモデルやサービスはありますか?

猫ひろし:引退されたスポーツ選手の間で問題になってますもんね、「引退して仕事がなくなった」って。マラソンの人もそうですけれど。

​それだけひとつのことをやるのは、美しいことなんですけれどね。ただ、現実問題、競技を辞めた時に「あ、なにもない!」ってなって、そこから焦る人が多いと思います。僕個人の考えとしては、ひとつのことを一生懸命やっている人は、必ず助けてくれる人がいたりします。それを見逃さずにいれば、結構どうにかなるんじゃないかと思っています。

僕の場合は、マラソンを一生懸命やっていたから、堀江さんにアイデアを貰って、形になりました。とにかく、ひとつをずっとやるのが素晴らしいことだと思います。

あったらいいなと思う仕組みは、たくさんの人と話せる場所があると良いですよね。お笑いだけだと、お笑いのことしか情報は入ってきません。よほどの天才だったら、なんとかなると思いますが、そうじゃない人の方が多いのが現実です。色々な職業の人と話して刺激をうける事が、すごく大事だと思います。

例えば、僕もマラソンをやるようになってから、色々なランナーと接する機会が増えました。芸人だけやってたらわからなかったことも多い。アンテナを常に張っておいて、なんか面白い人がいそうだなと思うと、そのコミュニティや人には会いに行くようにしています。

​カンボジアの国籍を取ったけれど、戻るんじゃないか!?など、色々な批判が当時あったと思います。批判の捉え方や自分の糧にする解釈法など、プラスにするため何かされていましたか?

猫ひろし:国籍を変えてマラソンランナーになる。きっかけは番組ですし、カンボジアの人に対して失礼なことをやっているかも知れません。そのため、ある程度は批判もあるだろうなと思っていました。

一番救われたことは、カンボジアの選手から、応援してもらっていることですね。

ただ、僕はちゃんと練習をしていますし、彼らもその姿を見ていて、戦って勝ち取っているわけですから。彼らはそれに対して、猫ひろしが行くべきだと応援してくれています。彼らが応援してくれているので、ほかのことはあまり気にならないですね。

ちなみにカンボジアでは、そんなにニュースになっていなかったんです。スポーツにそんなに関心がなかったというのもありますけどね。日本ではすごくニュースになったので、当時は色々と落ち込んだりしました。しかし、結局カンボジアではニュースになってない。行ってもない、見てもいない人が、ほとんど言うじゃないですか。だから、そんな気にならなかったです。あとは、何があろうとずっと走ることは決めていたので、少しずつ状況が変わっていきましたね。

インタビュアー:マラソンは個人競技とはいえ、一緒に練習をして汗をかいている仲間がいるという意味ではチームなのかなと思います。仲間たちとの良い関係性があったから、評論家や外部の批判が気にならなかったのでしょうか?

猫ひろし:そうですね。自分ではネットは見ないんですけれど、知り合いから「なんかこんなこと言ってるよ」と、自分からキャッチしなくてもどうしても入ってきます。でもそこを気にしても、マイナスしかないから、それを逆に、力にする人やネタにする人もいます。

僕は結構傷つきやすいので、ネットの情報などは見ないです。

嶋村:起業する時も周りの人から色々と言われることも多いので、スポーツも企業も同じだなと思いました。

これまでたくさんの挑戦をし、人の想いを大事にされている猫ひろしさんの座右の銘や格言はありますか?

猫ひろし:猫…猫……ねこじゃないな。あります!

​講演会などをやらせてもらっている時に必ず言うようにしているのは、「過去は変えられないけれど、今を頑張れば未来は変えられる」。

​僕は番組がきっかけに、国籍を変えてオリンピックを目指したので、カンボジアの人に迷惑をかけているかもしれない。でも、そこばかりを気にしても過去は変わりません。今頑張れば、未来は変わる。だから常に今を頑張ろうと思っています。あと、自分がカンボジア人になって、自分にできることはないかなと常に思っています。

​最後に、これから目指している若手の起業家に一言お願いします。

猫ひろし:年齢・性別関係なく、どんどん挑戦していったらいいと思います。考えるだけでやらない人が多いので、失敗を恐れずにどんどんやってください。やっぱり1回だけの人生だから、周りのことを気にせずに、もちろん悪いことをやっちゃいけないですけれど、いいことをやって失敗する分には、気にしない方がいいです。

どんどんやれって感じですかね。