50歳を目前にBreakingDownに出場!クリエイティビティはボブ・サップの力の源

今回のゲストは、2023年8月26日に開催されたBreakingDown(ブレイキングダウン)の出場でも話題となった、格闘家であり研究者のBob Sapp(ボブ・サップ)さんです。2002年に日本の総合格闘技に未経験からの出場を果たし、”BEAST(ビースト)”の名で一躍時の人となったボブ・サップさん。現在はタイに拠点を置き、途上国へのチャリティ活動や、サステナブルなエネルギーの研究活動にも力を入れています。BreakingDown出場を決意した理由と、現在の活動、これからのビジョンについてお伺いしました。笑いやジョークを交えながら話すボブ・サップさんの人柄にも、ぜひご注目ください。

ボブ・サップさんプロフィール
ボブ・サップさんトークセッション動画

あの“BEAST(ビースト)”がBreakingDownに参戦!その理由とは

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住谷:本日のゲストはボブ・サップさんです。まずは、2023年8月26日に行われたBreakingDown(ノッコン寺田さんとのマッチ)に参戦を決意されたきっかけを教えてください。

ボブ・サップ:私は今年(2023年)の9月22日で50歳になります。それでも常に思うのは、若くいたい、楽しんでいたい。ということです。私にとって「楽しむ」というのは頭を使ったりして、クリエイティブなことをしていくこと。BreakingDownにはそんなクリエイティブな要素が詰まっていると思ったので、今回参戦しようと思ったんです。

私が一番寂しいのは、私が戦っていたんだ、ということが忘れられてしまうこと。今回のような機会をいただけたおかげで、またエキサイティングな経験をさせてもらえてよかったです。

住谷:格闘家として現役で活躍されていた頃は、”BEAST(ビースト)”と呼ばれていたかと思いますが、ボブ・サップさんはそのことをどう感じていらっしゃったんですか?

ボブ・サップ:BEASTというのは、全ての生物の組み合わせなんです。子猫、ライオン、ゴリラなど。たくさんの生物の特徴を持ち合わせているってすごく面白いでしょう。それが私そのものなんです(笑) 

格闘家を志したきっかけと、記憶に残るマッチとは?

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住谷:現役時代の試合で一番記憶に残っている試合はなんですか?

ボブ・サップ:日本ではアーネスト・ホーストとのマッチ、そしてノゲイラ戦が印象的ですね。

でも、最も印象的なのは、マイク・タイソンとの”対峙”です。マイクとは、試合とまではならなかったのですが、なんとこの対峙だけで、YouTubeでの再生回数が2億1000万回を超えたんです。あと少しで戦えるところでしたので、残念でしたね。

住谷:そもそも、なぜ格闘家になろうと思ったんですか?

ボブ・サップ:昔々あるところに、ボブ・サップという子がいてね(笑) 彼はプロフェッショナルレスリングのWCWを見に行ったんだ。なんとそこで、衝撃的なK-1のタフマッチを見てしまったんだ。これが彼の格闘家への熱を掻き立てた、”BEAST”の起源になるんですよね。

また、Jake Paul(ジェイク・ポール)というYouTuberがいます。彼はボクシングですが、経験ゼロの状態から、次々と勝利を収めていきました。私の現役時代も、彼のように格闘技経験ゼロの状況から、総合格闘技において勝利を収めるという経験ができましたね。

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住谷:その後、テレビなどのメディアにも出演される機会が増えてきたかと思いますが、どんな心境でしたか?

ボブ・サップ:日本語は少しだけ勉強しました。でも何より大事なのは、大きな声、そして大袈裟なボディランゲージ(笑) とにかく全身で自分を表現していました。緊張も少しありましたが、日本のファンの方は特に喜んでくださる方が多かったので、私も嬉しかったです。

日本では道を歩いているとファンの方々が声をかけてくださることも多いです。その時は欠かさず、サインなどのファンサービスをするようにしています。

毎朝、科学や先進技術について研究!水や食べ物を必要とする人々のために

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住谷:普段ボブ・サップさんはタイにいらっしゃると伺ったんですが、今取り組んでいる活動はなんですか?

ボブ・サップ:たくさんの人を救う可能性がある、緑の力、植物の力、水の力、そしてソーラーエネルギーについて毎朝勉強しています。科学の勉強をすることが楽しいんです。昔から興味があった科学への情熱をどう生かせばいいかと考えた時に、タイではどんどん研究をしていいよ、と声がかかったんです。だから私にとって、タイはまさにパラダイスです(笑)

住谷:ボブ・サップさんは名門大学を卒業されていますが、幼少期からずっと勉強をされてきて、今でも学び続ける原動力はなんでしょうか?

ボブ・サップ:科学を勉強するモチベーションは、科学によって人の心が開くことです。以前、アフリカに”All natural water filters(全自然フィルター)”を持っていった際、40,000人もの子供たちが水を飲めるようになったんです。科学のおかげで命が救えた。そう考えると、いてもたってもいられなくなり、今では研究をしながら、数多くのチャリティプログラムに参画しています。

特に力を入れているアフリカのチャリティプログラムでは、人々が綺麗な水を飲めるようにすることはもちろん、植物を食べられるようにすることで、現地の方々の食事の提供、栄養管理を実現したいと思っています。

住谷:科学を学ぶ上で難しかったことや、今日ぐらいサボろうかな、と思ったことはなかったですか?

ボブ・サップ:私はありがたいことに世界中の科学者のみなさんと良い関係を築けているので、いつでも世界の科学者に1:1の家庭教師をしてもらうことすらできるほどです(笑) たまにリフレッシュしたくなった時は、家に巨大な水槽があり、そこでアロアナを飼っているのでそれを眺めたりしていますよ。80kgを超える魚なので、水槽は多分この撮影部屋よりも大きいくらいで、もはや水族館です(笑)

住谷:最後に、ボブサップさんの今後のビジョンを聞かせてください。

ボブ・サップ:私のビジョンはさらに革新的で、サステナブルなエネルギーについて知ることです。そのサステナブルエネルギーの源は大きく分けると、
・Water power (水の力)
・Solar power (ソーラーの力)
・Wind power (風の力)
なので、これらについてもっと知りたいです。

また、植物に関する先進技術もかなり奥が深いので、知っていきたいです。全ての人々は食べ物が必要であり、植物には多くの人々に食糧を提供し、命を救う可能性を秘めています。そのために自分の研究が少しでも役に立てばという思いで、日々研究に励んでいます。

※本トークセッションの内容を動画でご覧になりたい場合は下記で視聴できます。
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ラグビーを通して地域活性化に貢献!「ラグビー×SDGs」を推進する原動力とは

今回のゲストは中部大学ラグビーチームの監督を務めている長江有祐(ながえゆうすけ)さんです。2015年にラグビーワールドカップのバックアップメンバーに選出され、現在はクラブチーム『春日井シティウォリアーズ』を設立されるなど、ラグビーと共に人生を歩んでこられました。

選手のセカンドキャリアの可能性や、子供や女性のクラブチームの設立など、ラグビーを通した社会貢献、地域活性化に力を注いでいます。

選手のセカンドキャリアの可能性、ラグビー×SDGsを推進

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住谷:本日のゲストは中部大学ラグビーチームの監督をされている長江有祐さんです。長江さんは2001年、中部大学春日丘高校入学後にラグビー部入部、2004年に京都産業大学で1年生から公式戦にレギュラー出場し、2008年にリコーブラックラムズに加入。2014年、豊田自動織機シャトルズ愛知へ移籍し、2015年にラグビーワールドカップのバックアップメンバーに選出されました。2020年には近鉄ライナーズに加入し、翌年、勇退。現在はクラブチーム『春日井シティウォリアーズ』を設立、代表を務められています。

長江:『春日井シティウォリアーズ』では、現役生活を送るなかで感じた、「夢を追いかけるための場所」「引退した選手が自分の価値を活かす場所」、そして「ラグビー×SDGsを生み出していく場所」といった、日本ラグビー界にとって必要な場所をつくる組織として運営しています。

日本ではトップレベルのリーグでも「企業スポーツ」と言われるとおり、社員選手がほとんどになり、引退後はスポーツから遠ざかってしまうことが多いのが現状です。それはあまりにももったいないので、仕事をしながらトップレベルでプレーする社員選手のセカンドキャリアの可能性を考えています。現在では女子ラグビーチームや子どものアカデミーも設立し、あらゆる環境を整えているところです。

今日はワクセルの住谷さんにも、ラグビーを体験していただきたく、中部大学の部員と一緒に楽しんでいただければと思います。

部活動を通して、社会で活躍できる人材を育成

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住谷:タックルもスクラムも、あれを続けながら試合をやるのは本当にすごいと思いました。部員の選手はみんな素晴らしかったですが、チームづくりで大切にしていることは何ですか?

長江:選手には自主性を大切にしてもらっています。自分たちで状況を判断して、コミュニケーションを取ること。そして、どうやって課題を解決していくか、みんなで話して、アイデアを出し合っていこう、そういうことに挑戦してみようと指導しています。

なので、チーム内では会話がたくさんあります。部活動は教育の場ですから、単に勝てばいい、勝利至上主義ではなくて、高い満足度で、引退・卒業していってほしいという思いがありますね。

トップレベルの選手ほどラグビーだけというわけではないので、僕は部活も学業も、社会につながるようにしていきたいと思っています。たとえば、うち(中部大学ラグビー部)だったら学生がコーチになって子ども向けにラグビーを教えていますが、そういう活動をどんどんやって社会に出ても活躍できる人材を育てていきたいと思っています。

住谷:学生がコーチになるというのは斬新ですね。最初は苦労したのでは?

長江:どこもやっていないことですから、最初は大変でしたね。だからこそ僕はやった方がいいと思い、最初に共同主将制のリーダー陣と話し合いました。

共同主将制というのは、複数人で主将をやるというものです。主将というと一人だとイメージする方も多いと思いますが、複数人で役割を分担したり、さまざまな視点で物事を捉えることができるので、今スポーツ界でも増えている考え方です。

そのリーダーたちが、「どこもやっていないからこそやるのは面白い」と言ってくれ、力になってくれたのが大きいですね。僕は去年の4月中旬から中部大学に入り、そこから改革していったので、時間はあまりなかったんですけど、その時に、4年生が積極的に動いてくれたので、チームがスムーズに動きました。今までチームを引っ張ってきた4年生が新しいことに一緒に動いてくれることで、下級生も自然と動くようになります。そうして、笑顔とコミュニケーションが溢れる場になっています。

ラグビー界のジェンダー平等に貢献する

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住谷:女性のラグビー部員もいますが、チームで工夫されていることは?

長江:僕がこのチームに入った時は、女性選手が数名いましたが、部としては活動していませんでした。見学しているだけの状態では良くないと思ったので、大学側にも「この子たちの人生のために、女性部員は活動させないというのは違うと思う」と意見をしました。そして大学の部活動ではなくて、クラブチーム化することにしました。

中部大学の女子選手だけではなくて、他の大学からも、愛知県内の専門学校に通っている子や、会社員なども入れてチームをつくりました。「ラグビーが大好きだから続けたい。だけど続けられる環境がなかった」という人たちに来てもらいたかったんです。

その大学、企業に入らないとラグビーができないというのではなく、どんな人でもラグビーができるという状態をつくり、社会人で働きながら、ラグビーでも活躍できる女性が増えていくことで、ラグビー界のジェンダー平等のようなことも進んでいきます。

学生と社会人が交流することで、さまざまな経験も身に付く可能性もありますし、場を整えることで人が集まってミュニケーションが生まれます。この文化が根付くことで、のちに『伝統』という形になると考えています。

住谷:場を整え、文化を根付かせるんですね。では、今後のビジョンを教えてください。

長江:そうですね。やりたいことが多すぎて困るぐらいなんですけど、究極を言うと「ラグビーを通して笑顔が溢れる社会を作っていきたい」です。それにはもっと活動の幅を広げていきたいですね。社会にまだ出ていない学生でも、愛知県内にとどまらず岐阜県でもイベントを開催していますし、もっと広げていきたいです。

あとは女性と子どもとのつながりもさらに作っていきたいと思います。中部大学では、ラグビーの女子チームと子ども向けのアカデミーを設立しました。

女子チームに関しては、いずれは日本一を目指していけるようなチームにしていきたいです。地域企業の支援もいただきながら、一緒になってラグビーと地域をもっと盛り上げていきたいと思います。地域の起爆剤となるチームに成長できたらいいですね。とにかく「ワクワクできること」をどんどんやっていきます。

「どっちの自分がより成長しているか」WWEでMVPを獲得した155cmの小さな巨人KAIRIのチャレンジ精神

今回のゲストは女子プロレスラーのKAIRIさんです。KAIRIさんは日本女子プロレス団体スターダムに入門し、その後、アメリカ最大のエンターテインメントプロレス団体WWEに挑戦したこともあるスター選手です。身長155cmと小柄な選手ながら、常に進化をし続けるKAIRIさんに、そのチャレンジ精神についてお話しを伺いました。

身長155cmというハンディを乗り越えられたワケ

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大坪:今回のゲストは女子プロレスラーのKAIRIさんです。KAIRIさんは大学卒業後、一般企業の内定を蹴って、林下詩美選手などスター選手を輩出する日本女子プロレス団体スターダムに入門。輝かしい戦績を残し、チャンピオンベルトをいくつも獲得してスター選手として活躍しました。

その実績を掲げてアメリカ最大のエンターテインメントプロレス団体WWEに挑戦し、一躍スター街道を駆け上がりました。現在は古巣のスターダムにて日本に復帰し、現役として活躍されています。

住谷:内定を蹴ってプロレスに行くってすごいですね。

KAIRI:大学まではヨット競技をやっていて、日本代表も経験しました。自己紹介では、『海賊王女』と名乗り、海賊モチーフのコスチュームやガウンを着ていました。

就職活動をするなかでヨットを続けるか迷いましたが、社会勉強もしたかったので、一般企業の内定をもらいました。でも大学って単位を取り終えると卒業まで暇になりますよね。人前に出ることが苦手だったので、それを克服したくて、たまたま誘われた舞台に出演することにしました。

趣味程度で始めたんですが、プロレスがテーマの舞台に出たときに、観に来ていたスターダムの風香さんという方に「向いていそうだからプロレスをやってみないか」と誘われたのが、プロレスの道に進んだきっかけです。
もともと演技をするとか、表現することが好きだったので、「ちょっとやってみようかな」って軽い気持ちで始めたらハマって、そこからのプロレスにつながっていくので、ちょっと変わっていますね。
プロレスの勉強と役作りのために、後楽園ホールにプロレスを観に行ったことがあるんですが、その時、本当に感動しちゃったんです。

大坪:でも、プロレスって、激しくて痛い。怖くなかったですか?

KAIRI:怖いですよね。私も155cmと小柄ですし、絶対向いていないと思っていましたが、観に行ったら自分より華奢で細身な若い女の子たちが、ありのままの自分をさらけ出して、ボコボコになっても髪がぐちゃぐちゃになっても、なりふりかまわず一生懸命戦っている姿、そして勝つ姿に一目で感動しました。

それでやりたいと思ったんですが、最初は親には言えなくて内緒で入門しました。当時『銭形金太郎』というバラエティ番組があって、たまたまスターダムの寮が取材されることになってしまい、私が映ってしまったので、放送される直前に腹を決めて親に言いました(笑)。

親には「1年本気でやって何も芽が出なければちゃんとやめるから。また就職活動するからチャンスをください」と話しました。親も心配はしていましたけど、「やってみれば」と言ってくれたのでよかったですね。

大坪:スターダムのプロテストでは追試からのスタートだったとか。

KAIRI:物覚えが悪く、人よりもうまくできない、不器用な雑草タイプの人間なので、勉強もスポーツも、誰よりもできないところからのスタートでした。途中、何度も辞めたいと思いました。周りからも向いてないから他のことをやったほうがいいとか、センスを感じないないとか、いろいろ言われることが多く、自分もそう思っていましたね。

でも、昔から途中で何かを諦めることができない性格で、やめたほうが後悔しそうだと思ったんです。ヨットも演技も好きだったんですが、ヨットは自分の目標としていた結果を出せて満足したので辞めました。

プロレスってエンターテインメントでもあるし、スポーツでもあるところが良くて、スポーツが大好き、表現が大好きな自分にとって、どちらもあるプロレスは夢の世界。なので、演技するよりプロレスなのかなと思って、選択しました。でも最初3年間ぐらいはまったく芽が出なかったんですよね。同期の方がチャンピオンになったりして結果を出していたので、当時は本当に危機感を感じていました。

何事も続ければチャンスは必ず来る

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住谷:そこから世界最大のWWEに挑戦しようと思ったのはどうしてですか?

KAIRI:恩師から言われた「できるできないじゃない。何事もやるかやらないかだよ」という言葉が自分の中にずっとありました。ヨットも最初の1年は最下位ばかりで周りからも才能がないと言われていたんですが、3年生になって初めてインターハイで準優勝するなど結果を残すことができました。「何事も続ければチャンスは必ず来る、やり続けることが大事だな」と思ったんです。

プロレスでも最初は全然うまくいかなかったけれど、続ければ何かが変わるという思いが自分の中にありました。WWEに挑戦しないかと声をかけてもらって、すごく光栄だったんです。

でも当時、スターダムの選手会長でしたし、アメリカに行くのは半年以上悩みました。英語もそんなにしゃべれないし、通訳ももちろんいません。ひとり暮らしで全部自分でやらないといけないのは本当に大変だと感じました。

アメリカって結果を出さないと、契約途中でも切られることもあるすごくシビアな世界なので、本当に迷いました。でもそのときもやっぱり断った方が後悔すると思ったんです。最初は環境に慣れることに精一杯でしたし、人間関係をイチから構築しないといけないのが大変でしたけど、行って良かったと思っています。

日本とアメリカ両方の良さを活かして、プロレス界を盛り上げたい

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住谷:不安があっても絶対に一歩を踏み出すと決めていらっしゃるんですね。

KAIRI:未来を想像してみて、たとえばその道を選んで、うまくいかなかった場合と、それを断ってモヤモヤしている自分と2パターンを考えたときに、やっぱり挑戦している自分の方が輝いているし、成長できる考えます。

WWEに関しても、世界中から一流の選手が集まるので、キャラクターも被ったらいけないし、唯一無二の存在でいないといけません。すごい人たちばかりなので、「あの人はすごい」って周りと比べてしまいますが、大事なのは自分のキャラクターを作ることです。

私には“海賊”っていうキャラクターがあるから他人と比べる必要なんてないし、それを教訓にしました。周りがすごすぎて、自分のダメなところばかりに目がいっちゃう時期って誰にもあると思いますが、「自分にしかないところは何だろう」って考えて、そこを伸ばしていくようにしたら、こんなふうに自分でも奇跡のような結果、MVPを獲ってチャンピオンベルトを巻くこともできました。

WWEでは一流選手であればあるほど、舞台裏での振る舞いがすごいです。マイクパフォーマンスを練習したり、ウォーミングアップを欠かさないとか、決して準備を怠りません。

ご飯を食べていたら急に呼ばれて今からマイクパフォーマンスしてくれとカメラの前に立たされることもあるし、試合はないと言われていたのに、ホテルに戻ったら試合をやってほしいと呼び戻されることなども日常茶飯事。いつ呼ばれてもいいように、常にコンディションを整えてスタンバイしておくことが必要です。

あと、スタッフさん一人ひとりの名前を覚えてしっかり目を見て挨拶をするとか、謙虚な人がたくさんいます。私も現場に甘んじることなく、もっと謙虚に生きようと思いました。

どんな一流の選手でも、落ち込んでいたり泣いている姿を見ることがありますが、プライベートでどんなに辛いことがあっても、カメラが回るとすぐに切り替えて目の前のお客様を楽しませるというプロ根性があります。そんな一流のプロの心得をWWEで学びました。

WWEの契約期間3年間は、寝る暇もないくらいに全力でやり切ったので、達成感もありました。日本とアメリカはプロレスのスタイルが全然違いますが、どちらも5年ずつくらい学んで、両方の良いところを吸収できたので、引退までにもう1回、日本で表現してみたいと思い、帰国しました。

大坪:今後はどんなことに挑戦してみたいですか?

KAIRI:アメリカと日本どちらでもプロレスを学んでいるので、両方のいいところを融合させて新しい自分をもっと表現したいです。プロレスを知らない方にも届けられるような、プロレス界全体を盛り上げていける人間になれたらいいなと思います。

私は本当に不器用でなかなかできなかった人間なので、できない人の気持ちにも寄り添ってあげられると思います。なので、自信をなくしている人を応援したり、後輩を育てることもしていきたいと思います。

「アスリートを雇用する仕組みをつくりたい」プロ格闘家から経営者へ

今回のゲストはプロレスラー、経営者、社団法人の理事、学校の校長など、いくつもの顔を持つ池本誠知(いけもとせいち)さんです。

池本さんはプロの格闘家として活躍しながら、総合格闘技スタジオ『STYLE』というジムを開設。37歳で一度格闘家を引退されましたが、41歳でプロレスラーとして復帰し、今なお現役で活躍しています。

ワクセルコラボレーターの岡田拓海(おかだたくみ)さんと、総合プロデューサーの住谷が、池本さんの経歴や今後の目標について詳しく伺いました。

テレビをきっかけに14歳でプロレスラーを目指す

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岡田:本日のゲストは、株式会社STYLE代表取締役社長の池本誠知さんです。池本さんは、2007年に総合格闘技スタジオ『STYLE』を開設。2008年には、DEEP(格闘技の一種)ウェルター級チャンピオンを獲得しました。

2013年にプロ格闘家を引退、株式会社STYLEを設立し、格闘家のセカンドキャリアを応援する事業を開始。そして2017年にプロレスラーとして現役復帰し、2018年にSTYLE高等学院を開校。今なお、“戦う校長”として活躍しています。

さらに2022年5月には著書『一生疲れない体になる ゆる筋の作り方』を出版されました。

住谷:気になることが多すぎて、何から聞いたらいいのか困ってしまいますが(笑) そもそも池本さんはプロレスラーを目指されていたんですよね?

池本:14歳の時にテレビで天龍源一郎さんの試合を見て、魂が震えるくらい感動して、プロレスラーを目指し始めました。プロレスラーになるため、格闘技のジムに行ったり、柔道部に入ったりして、結果的に格闘技のプロとして37歳までずっとやっていましたね。

最初に総合格闘技を目指したのは、僕の師匠に当たるジムの代表に出会ったことが大きかったです。「お前、格闘技のセンスあるからプロを目指さないか?」と言われ、才能あるんだったら一旦こっちでやってみようと思ったのですが、結局のめり込んでしまいました。

でもどこかで「プロレスラーになりたい」という思いがずっと残っていて、引退してからダメージを抜くために4年間ほど休憩して、41歳からプロレスラーになり、現在5年目です。

格闘技で培った人間力を仕事につなげる

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岡田:現在はプロレスラー以外にも、ジムの経営などもされていますが、「今何しているんですか?」って聞かれたら、どのように自己紹介されるんですか?

池本:ジムの多店舗経営、学校の校長、社団法人の理事、プロレスラー、この4つが大きな柱です。学校では、通信制の高校と連携したダブルスクールという形を採っていて、格闘技を週に2、3回学びながら、高卒資格が取れるようになっています。

好きな格闘技がいっぱいできて、僕が経営するジムが11店舗あるので、そこでアルバイトをすることもできます。トレーナーの資格を取って、そのまま社員になった子もいますね。

格闘技をやっていると諦めない気持ちとか、継続する力が養われ、『人間力』を上げることにつながっていると思います。でも多くの人が格闘技で学んだ経験を、別のことにうまく置き換えられないんですよね。

たとえばうちの生徒のなかでも、強い子はコーチが見ていないところでも、ひとりでしっかり練習をしています。一方で、弱い子はコーチが見ていないところで手を抜きます。

仕事も一緒で、見ていないところで頑張っている子の方が絶対成長しますよね。そうしてアスリートとして培った人間力や経験を、仕事につなげてあげられるようにしたいんです。

人を喜ばせることが一番の喜び

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岡田:池本さんは格闘家としてのキャリアを積み上げてから、まったく経験のないところから経営者になっていますが、なぜ経営にシフトチェンジしたのですか?

池本:32歳で借金まみれになったことが岐路でした。ランクが上がってきて、暮らしを良くしたり、人に奢ったりする機会も増えていきましたが、実際はバイトだけで食べている状態。練習時間が増えるとバイトの時間が減って、生活がどんどん苦しくなって、食べていくには一旦集中して稼ぐ必要があると考えました。

その時にセコンドについている子がたまたま空手の先生をしていて、「空手の生徒が100人いて、これだけの収入があるんですよ。池本さんだったら、こんなにキャリアがあるから格闘技を教えたら食べていけますよ」と言われました。

その話を聞いて一緒に町道場を始め、半年でお客さんを集めて物件を借りました。経営を学んだことはなかったですが、自分が格闘家として勝ち続ければお客さんが増えると考えました。そして予想が当たり、無敗でチャンピオンになった時にお客さんがすごく増えました。引退する頃には2店舗になり、従業員も何人か抱えるようになりましたね。

2店舗でも十分食べていけるようにはなりましたが、格闘技をするなかで自分自身について、大きな気づきがあったんです。やはり一番の目標はチャンピオンになること。僕はチャンピオンになった時のことをよくイメージトレーニングしていたんですね。

チャンピオンになった時にどういう感情になって、お客さんに向かってどんな言葉を話すか、ホテルに戻ってベルトを見ながらシャンパンを飲んで涙を流す。このような事を本当にリアルにイメージして、実際に涙まで流れて、次の日起きた時に昨日ベルトを獲ったんじゃないかって錯覚するくらいでした。

ただ、実際にチャンピオンになった時に、ホテルでベルトを見ても涙が流れなかったんです。「なんで嬉しくないんだろう?」と不思議に思いました。それでも「応援して良かった」「夢をもらいました」「勇気をもらいました」など、そういう言葉がメールでいっぱい届いた時に、涙が止まらなくなりました。

そこで自分はベルトを取って、「みんなを喜ばせたかったんだ」と初めて気づきました。人が喜ぶことが自分にとって一番嬉しいことだと気づき、そういう生き方をしていこうと思ったんです。自分のためにはエネルギーが出ないので、引退後は自分のように困っているアスリートや格闘家を雇用する仕組みをつくっていこうと、店舗を広げて学校も作りました。

レッスンを通じて地域貢献

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岡田:店舗を広げていくなかで、うまくいかないことや大変なこともあったのではないですか?

池本:問題だらけでしたね。でも僕は格闘技の試合の時には親に手紙を書いたり、部屋の掃除をしたり、常に死ぬことを覚悟していました。

そんな風に命を懸けてきた人間が、ビジネスでちょっとしたことで挫けることはないですよ。強い相手と闘うのと一緒なので、そういう気持ちでやれば問題なんて大したことではなかったですね。

店舗を拡大していくと「すごい」と言ってもらえるので、一時期100店舗を目指していたこともありました。自慢したいという自我が芽生えてしまったんでしょうね。でもそれって本当に良いことなのかと、改めて考え直しました。

本当に価値があって必要とされる店舗だったら、誘致されるし勝手に広がるはずです。それならば、拡大するより価値を上げていこうと方向性を変えました。まずは店舗を出している地域の区役所など、地域の困りごとがわかるところに行って、何ができるか聞くことから始めましたね。

現在はシングルマザーの方を集めたレッスン、コロナの影響で増えた引きこもりの方を呼んだレッスン、市のイベントで60、70代の方に向けたレッスンもさせてもらっています。

地域のためにもなりますが、そういう場に社員やスタッフが行き、指導することで、自分が世の中の役に立っていると気づくことができます。役に立っている実感を持つことで、視座が高まり、社会貢献をしようと我々の成長にもつながっています。

健康寿命を延伸させるためのデバイス開発

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岡田:地域の人々の役に立ち、さらにスタッフの意識も高めることができているのですね。プロレスラー、経営者、教育者など色んな顔を持つ池本さんですが、今年の5月には本まで出版されています。「筋肉は鍛えなくていい」という帯の言葉にインパクトがありますよね。

池本:僕はプロレスラーなので鍛えまくってますけどね(笑) そうはいってもジムを経営するなかで、筋トレやウェイトトレーニングを一般の方がやるのはハードルが高いと感じています。

続けられないお客さんをたくさん見てきて、もっと簡単にできるトレーニングを紹介したいと思ったんです。姿勢を起こしているだけで重力に逆らったトレーニングになるので、重いものを持って鍛えることをしなくてもいいよということを書きました。

住谷:人に喜ばれることをして、色々な人とコラボレーションしていくってことがワクセルの目的なので、ぜひ一緒に何かやれたら嬉しいです。個人的には、痩せるための何かがあれば是非お願いします(笑)

岡田:トレーニングの内容も拝見して、すごくわかりやすく簡単なものばかりだと感じました。これだけ多方面で活躍する池本さんが、次にどんなことに挑戦するのかが気になります。

池本:世の中の人口分析からすると、2025年に人口の半数が50歳以上になるそうです。今も問題になっていますが、医療費や介護費の増大がより大きな問題になってきます。

そのため、現在50歳以上の方の健康寿命の延伸を目指して、立命館大学とオムロンヘルスケアさんと協力して一緒にデバイス開発をしています。そのデバイスから得たデータを健康寿命の延伸に結び付けて、キックボクシングのクラスを大阪発でつくり、全国に広げていくことが今の目標です。

ヴィーガン格闘家・安彦考真さん発案!ワクセルとのコラボで生まれたヴィーガンサンドを販売

2022年8月20日に第1回「MiraPla(ミラプラ)」が、横浜市にある洋光台北団地で開催されました。

MiraPlaは「地球のことを、知って、学んで、楽しむフェスティバル」というテーマのイベントです。サスティナブルなモノ・コトに関わるマルシェやワークショップが用意され、キッチンカーも多数出店されました。

今回のイベントでは、コラボレーターの安彦考真(あびこたかまさ)さんが、キッチンカーを出店。ワクセルとのコラボレートで実現した限定60食のヴィーガンサンドは、大盛況で完売となりました。

ヴィーガンになり世界観が大きく変化「もっと世の中に広めたい」

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住谷:記念すべき第1回「MiraPla」で一緒にキッチンカーを出させていただき、安彦さん考案のヴィーガンサンドが大盛況でしたね。今回なぜヴィーガンサンドを出そうと思われたのですか?

安彦:Jリーガーの時にそれまでの食事を変えてヴィーガンになりました。それからパフォーマンスがすごく上がって、性格も若干ですが穏やかになったんです(笑)

ヴィーガンになって3年くらい経ちますが、自分の中の感覚や世界観が大きく変わりました。これほどの影響を自分だけで留めておくのはもったいないと思い、世の中にもっと広めたいと考えるようになったんです。

でもヴィーガンって、「健康的だけど薄味で美味しくなさそう」というイメージが強いですよね。だから美味しくて、ガッとかぶりつきたくなるヴィーガンのサンドイッチを出したいと思ったんです。

安彦さんこだわりの食材を使ったヴィーガンサンド

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住谷:今回出されたヴィーガンサンドには、どんな食材が使われているんですか?

安彦:かぶりつきたくなるようなサンドイッチだけど、中身は繊細なものを使いたいと、食材には非常にこだわりましたよ。まずバンズは、僕が大好きな米粉100%グルテンフリーの『お米パン 八』のものを使わせていただきました。

具材は僕がよく行く『WE ARE THE FARM渋谷店』にサポートしていただき、トマトとケールを提供してもらいました。ケールはスーパーフードと呼ばれている食材で、野菜なのにたんぱく質も入っていて、間違いなく身体にいい食材だと思っています。

そして肝心の味付けについては、ワクセルコラボレーターでもある『HEMP CAFE TOKYO』の宮内達也シェフに監修をお願いしました。

ヴィーガンサンドが生まれたきっかけはワクセルとのつながり

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住谷:『HEMP CAFE TOKYO』は宮内シェフがオーナーを務める、ヴィーガン料理専門店ですね。以前ワクセルのトークセッションのゲストとしても登場いただき、このような形でコラボが実現してとても驚きです。

安彦:もともとは、僕がワクセルの収録において宮内シェフが作ったブリトーを食べて美味しさに感動し、宮内シェフのお店に通い始めたのが始まりです。だからこのヴィーガンサンドを作ろうと思ったのは、ワクセルとのご縁がきっかけなんです。

今回、皆さんが美味しそうに食べている姿を見て「良かったなー」と思いました。僕が作っているわけではないですが、僕が言い始めてできたものなので、売れるかどうかも大事ですが、美味しいか美味しくないかが重要だと思っていたので。

「鋭敏な五感を取り戻したい」食を通して人生を豊かに

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住谷:今回初めてヴィーガンサンドのプロデュースをされたわけですが、今後もヴィーガン料理を広めていく活動を続けていくのですよね。どういった未来を思い描いているのですか?

安彦:僕は食を通して、人の心や人生を豊かにできたらいいなと思っています。そのひとつの方法が「五感を取り戻す」ことなんです。

世の中が発展したこともあって、みんなイヤホンをしているじゃないですか。しかもこの時期はマスクをして、サングラスまでして耳にすごく負担をかけていますよね。イヤホンを取ればセミの声、風の音、夏の雰囲気を味わえるのに、五感を自ら遮断してしまっている人が多くいます。

食事についても大味を好む人が多いので、もっと繊細な味に敏感になってほしいんです。だから鋭敏な五感を取り戻すきっかけを、食を通して提供していきたいと考えています。匂い、味、食感といったものを全部楽しめる“食育”を届けていきたいですね。

トークセッションに出していただいたことで色々なつながりができて、ワクセルの持つ仲間とのつながりというパワーを感じたので、今後も一緒に広げていきたいです。

躰道世界大会4連覇の覇者が説く体の原理原則とマインドセット

今回のゲストは躰道(たいどう)世界大会4連覇を成し遂げ、躰道の道場『己錬館』(これんかん)の館長、整骨院の院長という顔も持つ中野哲爾(なかのてつじ)さんです。

ワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈さんと、総合プロデューサーの住谷がMCを務め、体の構造に精通している中野さんに、体の原理原則や武道家としてのマインドなどを伺いました。

躰道は空手から派生し戦後につくられた新しい武道

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川口:本日のゲストは躰道の世界大会で4連覇されている中野哲爾さんです。中野さんは躰道での経験を生かして整骨院『日月』(ひづき)の院長としても活躍しています。私は躰道という武道を初めて聞いたのですが、改めて躰道がどのようなものかを教えていただきたいです。

中野:躰道は、すごく簡単に言うと、沖縄空手から派生した全身で戦う武道です。沖縄に祝嶺正献(しゅくみねせいけん)先生という空手範士8段の方がいて、その方によって戦後直後につくられました。躰道として独立してからの歴史だけを考えると、比較的新しい武道ですね。

空手など立ち技の格闘技は、倒れてしまうと“待て”が掛かりますが、躰道の場合は“待て”が掛かりません。戦争の最中は倒れる状況がいくらでも起こりますが、それでも戦いが中断されることはありませんよね。躰道はそういう実戦を想定して、倒れているところから蹴るとか、倒れながら蹴るとか、どんな状況でも戦うルールとなっています。

また攻撃を受けることもダメで、どんな攻撃も避けないといけません。そのため、サッカーのボレーシュートのようなアクロバティックな動きが多くなっています。躰道は視界訓練にもなりますし、三半規管の検知能力の訓練にもなると思います。

基礎を深掘りして理解することが強さの秘訣

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川口:中野さんはそもそもいつ躰道を始められたのですか?

中野:幼稚園のときにフルコンタクト空手の経験はあったのですが、躰道を始めたのは大学1年生からです。高校の先輩がたまたま進学先の大学の躰道部に所属していて、大学受験後の高校生だった私に「練習に遊びにおいで」と声を掛けてくれたのがきっかけでした。

川口:大学1年生から始められて、これだけの成績を残されていることに非常に驚いています。世界大会4連覇を果たした強さの秘訣は何だと思われますか?

中野:それは基礎練習が大好きなことが影響していると思いますね。僕は基礎を深掘りして理解することがとても大事だと思っていて、原理原則とか法則性とか、そういうことを知りたいと考える性分なんです。

たとえば、挨拶や返事をすることって、ずっと変わらず残っていますよね。そういう慣習にはすごく意味があるものと、なんとなく踏襲されているものの2種類があると思います。その意味がある部分を抽出できればすごく役立つと思うのです。

何百年も淘汰されなかった部分をちゃんと理解して身につけるのは、とても合理的ですよね。一つひとつを「なんでだろう?」と深掘りし、スポーツ科学や医療の面から紐解いて、意味を理解するようにしています。

「勝つことじゃなく成長すること」が目的だから緊張しない

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住谷:これが、さまざまな大会で優勝経験を持つ方の考えなんですね。中野さんは試合のときでも緊張をしないと伺いました。なぜ緊張せずに試合に臨めるのですか?

中野:大会でなぜ緊張するかというと、「負けたくない」「失敗したくない」という執着があるからです。私の場合は、3つの考えをとても大切にしています。
「変えられることを変える勇気」
「変えられないことを受け入れる心の静かさ」
「変えられることと変えられないことを見分ける知性」
この3つを理解していれば、緊張するというシチュエーションは存在しなくなります。

試合の勝ち負けを決めるのは自分ではなく審判です。他人が全部決めることなので、勝つか負けるかを心配しても仕方がないんですよね。だから試合の勝ち負けに執着するのではなく、「試合を通して自分が成長すること」を目的にすれば緊張のしようがありません。

また、私は「負けないと見せられない指導もある」と考えています。子どもたちは負けて泣きじゃくったり、勝ってはしゃいだりしますが、負けたときに潔い振る舞いをして、負けてもカッコいい姿を教えることは、試合でしかできません。実は世界大会2回目で引退しようと思ったのですが、自分自身が大会に出ている方が指導の浸透率が上がると思ったので、出場を続けています。

体の不調の改善方法は同じ姿勢を取り続けないこと

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川口:中野さんは整骨院の院長でもあるということで、今回私たちの体の悩みも聞いていただけたらと思っています。私は首が前に出てしまうという姿勢の悩みがあるのですが、どうしたら改善できるのでしょうか?

中野:首が前に出てしまう人には、肩を引いてしまう特徴があります。そうすると肩甲骨に押し出されて首が前に出てしまうんです。そのため肩を引くのではなく、肩甲骨を落とすことを意識することが大切ですね。

でも、実は正しい姿勢でいることが体に良いわけではなく、一番大切なのは同じ姿勢を続けないことです。人間って動いていないとダメなんですよ。だから反り腰になっても猫背になっても良くて、とにかくずっと同じ姿勢でいることがダメです。

デスクワークし続けて体に不調をきたす人がいますが、マメに立ち上がったり、同じ姿勢を取り続けないことで体の不調が改善されるはずです。私は患者さんに「整骨院に来るよりも30分おきに立つ方が楽になりますよ」と言っています。

自ら健康を手に入れるための教育のインフラづくりをしたい

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住谷:中野さんはYouTubeチャンネルを開設されていますが、どんな内容を配信しているのですか?

中野:整骨院の先生だと、肩こりを改善する方法や痩せる方法などを配信している人が多いと思いますが、私は体の原理原則をお伝えしたいと思っています。たとえば武道を通した分かりやすい体の使い方、解剖学で紐解かれている普遍的な骨の数など、体のことを伝える活動をしています。

先日もぎっくり腰になった患者さんがいたのですが、「先生の言った通りにしたら治った」と言っていました。体のことを知れば知るほど自分で対処ができるようになるのです。YouTubeを始めたのは、医院に来ることがゴールではなく、自分自身で健康を獲得できる人を増やしたかったからです。

たとえば成人の骨の数は206個あるんですが、小学生のときに頭から骨盤まで覚えて、中学生で残りの骨格を覚える。そして、高校生で筋肉、大学生になったら神経と、だいぶゆっくりとしたペースで学んでも、社会人になり親になる頃には体の原理原則が分かるようになっていますよね。私はそういう教育のインフラづくりのお手伝いをしたいんです。そこを目指して今後も活動を続けていきたいと思います。

経験を活かし選手の気持ちに寄り添うスポーツキャスター

今回のゲストはロンドンオリンピック100メートル背泳ぎと400mメドレーリレーの2種目でメダルを獲得した寺川綾(てらかわあや)さんです。選手時代は「もっと頑張らないと」という気持ちでやっていたと語る寺川さん。競技から離れた後は後進の育成にも携わり、スポーツキャスターとして活躍しています。

ワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈(かわぐちまりな)さんと、総合プロデューサーの住谷が、寺川さんのこれまでの経験やスポーツキャスターとしてのこだわりなどを伺いました。

レベルの高い環境に身を置いたことでオリンピックを意識

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川口:本日のゲストは競泳元日本代表、オリンピックメダリストの寺川綾さんです。寺川さんは、2012年ロンドンオリンピック100m背泳ぎと400mメドレーリレーの2種目で銅メダルを獲得。競技活動を卒業された後は、テレビ朝日の番組『報道ステーション』のスポーツキャスターとして活躍されています。最初にオリンピックの話を伺いたいのですが、寺川さんが水泳を始めたきっかけは?

寺川:水泳を始めたのは3歳のときでした。小児ぜん息を発症して、病院の先生に「水泳は全身運動だからぜん息にも良いよ」とおすすめされてスイミングスクールに通うことになったんです。当時は泳ぐのが楽しいというより、友達に会いに行くという感覚で通っていましたね。でも気づいたら選手育成コースに入っていて、いつの間にかレベルの高い人たちに囲まれていました。

周りには自分より泳ぎがうまかったり、速かったりする子がたくさんいたので、自分が水泳に向いていると思ったことは一度もないです。だから選手時代は「もっと頑張らないと」という気持ちでやっていましたね。周りにオリンピック選手がたくさんいて、オリンピックに出たいというよりは、「出なきゃいけないんだ」という感覚が強かったです。

チームとしての団結力がメダル獲得への原動力に

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川口:選手時代にたくさんの苦労があったかと思いますが、ご自身のなかで最も大きい挫折というと何が思い浮かびますか?

寺川:初めてのオリンピックに出場したのが、大学2年生のときで2004年のアテネオリンピック。決勝に残ることが目標で、実際にその目標は達成することができました。でもやっぱり日本代表として出るからにはメダルをとらなければいけない、それなりの成績を残さなければいけないという周りからの期待があったんです。

決勝には出られたのですが、8人のなかで8位という結果でした。自分のなかでは当初の目標は達成できていたので、泳ぎ終わった後も「よし」という気持ちでプールから上がったんです。でも最初に掛けられた言葉が「残念でしたね」という言葉でした。

自分では納得のいく結果だったんですが、その言葉を聞いて「これじゃダメなんだ」って挫折したというより、へし折られた気持ちになりましたね。自分は満足していても、もっと上の結果を求められていて、そこに対応しきれていない自分に対して悔しくなりました。オリンピックの厳しさを教えてもらった経験でしたね。

川口:オリンピック2回目の出場となる、2012年のロンドンオリンピックでは2種目で銅メダルを獲得されています。念願のメダルだったと思いますが、いま振り返ってみてメダルをとれた一番の要因は何だったと思いますか?

寺川:競泳って個人種目なんですけど、団体競技のようにチームとしての団結力があって、誰かが活躍するとみんな「私たちも!」という気持ちが強くなります。日本のチームとしてメダルを獲得するという目標があって、そこに向かってみんなでクリアしていこうという団結力があったんです。

やっぱり先輩方がオリンピックで代々築き上げてきた結果を「私たちの代で崩してはいけない」という気持ちが強かったんだと思います。そういったチームの力がメダルをとるうえで大きかったですね。

水泳好きの人間としてまだまだ先がある

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川口:ロンドンオリンピックでメダルを獲得された翌年の2013年に競技を卒業されていますが、この時『引退』ではなく『卒業』という表現を使われたのはどのような思いがあったのでしょうか?

寺川:実は引退会見のときまったく話す言葉を準備できていなかったんです。引退会見というと、多くの人が「寂しい」と涙を流すイメージだったのですが、私の場合まったく悲しくありませんでした。自分の感情が想像していたものとまったく違い、うまく考えがまとまらなかったんです。

もちろん競技者としては引退なんですけど、水泳というものは一生続けられるスポーツです。選手ではなくなるけど、これからは選手以外の人たちともプールで触れ合っていけるんだとワクワクする気持ちもあったんです。

水泳が大好きなひとりの人間としてはまだまだ先が続くという思いだったので、引退という言葉は何か違うって思いました。

川口:競技から離れた後は後進の育成にも携わりながら、いまではすっかりおなじみの姿になった『報道ステーション』のスポーツキャスターを2016年から務められています。スポーツキャスターという仕事にもともと興味はあったのですか?

寺川:全然なかったです(笑)。選手のときはテレビ取材があってもあまり表に出ないように意識して、カメラから隠れる感じでした。そのため、声を掛けてもらったときは「絶対できない」と思っていました。

でもやり始めてみるとさまざまな競技に出会えて、色んな選手の話を聞かせてもらって「こんな楽しいことがあるんだ」って思うようになったんです。

話を聞いていくなかで、その選手ならではの競技に対する考え方やプロセスを知れて、これまでの自分とはまったく違う考え方ができ、すごく刺激になっています。だからいまは現場が大好きで、その楽しい仕事を続けさせてもらっていることが幸せでしかないですね。

選手のことをたくさんの人に伝えていきたい

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川口:話を聞くときに意識していることは何ですか?

寺川:私自身、頑張ってきたことに対しての結果に「残念」って言葉を付けられたときの悔しいのか、悲しいのかよくわからない複雑な感情がいまでも強く残っています。他の選手にはこういった思いをさせたくないと思っていますね。

どんな結果であれ、そこに向けて頑張ってきた選手に対して、「この言葉は失礼になるのではないか」と、常に意識をしながらお話を伺っています。

あと、お話を伺っている選手に対して、別の選手について聞くことも失礼なことだと私は思っているので、あまり聞かないようにしています。

カンペには「これ聞け!」と書いてあるんですが、見えていないふりをして……(笑)。私は選手だったこともあるので、どうしても選手に寄り添い過ぎている自覚はあって、反省することもあるんですけどね。

住谷:最後に寺川さんが今後どんなことに挑戦していきたいのか伺いたいです。

寺川:どちらかというと新しいことではなくて、いまやっていることを土台にして続けていきたいです。

スポーツ選手ってたくさんいて、どんどん世代交代をしていきます。多くの競技があり、そんななかでベテラン選手が頑張っていたり、その壁を越えようと若い選手が頑張っていたり、本当にたくさんの選手が努力を重ねています。

今後もそういった多くの選手の話を聞いて、それを自分の言葉でさまざま人に伝えていけたらいいなと思っています。

格闘家デビュー5戦5勝4KO!44歳の挑戦者が挑む極限の世界

今回のゲストは、2回目の登場となる安彦考真(あびこたかまさ)さんです。安彦さんはJリーグ最年長デビューの記録を保持する元Jリーガーです。自身の職業を『挑戦者』とし、常に新たな挑戦に臨んでいます。2022年2月に格闘家としてプロデビューし、これまでにアマチュア・プロの試合で5戦5勝4KOという結果を残しています。今回は格闘家としての安彦さんの挑戦について詳しく伺いました。

MCはワクセルコラボレーターで『走るMC・ラジオパーソナリティー』として活躍する岡田拓海(おかだたくみ)さんとワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。

40歳を超え、Jリーガーそしてプロ格闘家デビュー

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:本日のゲストは2度目の登場となる安彦考真さんです。前回は安彦さんがどのような方なのか、そして格闘家として活躍するようになったルーツをじっくりお聞きしました。今回は格闘家としての安彦さんを掘り下げていきます。

住谷:まずは安彦さんのこれまでの経歴を簡単に伺えますか?

安彦:僕はプロサッカー選手のマネジメントなどの仕事をしていたのですが、39歳のときに仕事を全部辞めて、Jリーガーを目指し始めました。志を持って始めた仕事だったはずなのに、いつしか生活するための仕事になっていて、自分に嘘をつき続ける人生に納得ができなくなったんです。

これまでにしてきた後悔を取り戻すことを決め、40歳でJリーガーになり、41歳で最年長デビューの記録を残すことができました。そして3年間のJリーガー生活を終え、引退セレモニーで「次は格闘家を目指す」と公言し、2022年2月に44歳で格闘家のプロデビューをすることができました。

極限の緊張から解放され、試合後は体重が7kgも増加

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:40歳を超えてJリーガーとプロ格闘家デビュー、この2つの経歴を持っている人はまずいないので、本当にオンリーワンですよね。現在、安彦さんはアマチュア・プロ通算5戦5勝4KOという素晴らしい戦歴を残されています。格闘家としてデビューされて率直にどうですか?

安彦:改めて考えてみると、ものすごい日々を送っていたと感じますね。試合前は減量していて、「苦しいな、でもストイックにやれているな」と実感はあったんです。けど、振り返ると「とんでもない世界に飛び込んだな」という感覚が強くなりました。ずっと緊張状態だったので、それが解放されたんでしょうね。終わった後は食欲が爆発してしまって、「俺ってこんなに食べるんだ!?」って自分でも驚くくらいの量を食べています。

岡田:安彦さんはビーガンなので、食へのこだわりが強いですよね。試合が終わった後は最初に何を食べましたか?

安彦:試合後はそこまで食欲が湧きませんでしたが、ビーガンのパンケーキやチョコ、アイスなど甘いものを食べましたね。普段から食事はオーガニックのものにしていて、食品表示もすごく気にして見ています。でも、試合が終わった途端にタガが外れてしまって、66kgだった体重が今では73kgになってしまいました。

「自分がどこにいるかもわからない」リングに立った緊張感

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安彦:いま思えば試合当日は喉の渇きも強くて、すごく緊張していましたね。試合では指が露出しているオープンフィンガーグローブを使いますが、通常のグローブより、顔面や骨へのダメージが大きくなります。

試合前にメディカルチェックをしてくれたドクターが偶然知り合いだったんですが、「44歳でプロデビューすること自体おかしいけど、オープンフィンガーは考えられないよ。僕は心配だよ」と言われて、余計に怖くなっちゃいました(笑)

緊張のせいでデビュー戦は、方向がわからなくなりました。インターバルで青コーナーに戻らないといけないのに、全然違う方向に向かってしまって、自分がどこにいるかもわからない状態でしたね。

相手しか見えないくらい試合に入り込んでしまっていて、セコンドの声も聞こえていなかったです。でも2戦、3戦と試合数を重ねて、4戦目のプロデビューの試合では少し冷静になれました。周りを見渡して仲間のいる場所がわかるくらい落ち着いていて、相手をよく見て試合することができました。

「思考と肉体の間に精神がある」格闘技で気づいた新たな感覚

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:プロデビューまでに場数を踏んだ結果ですね。プロデビューというプレッシャーがあるなか、冷静になれたことはすごいです。

安彦:格闘技をするようになって、人間には思考とは別に『精神』というものが存在することを感じました。もともとは思考がすべてで、体を動かすことは脳と肉体の伝達作業だと思っていたんです。でも頭で考えるほど緊張して、判断が遅くなってしまいます。

いざというときに反応してくれるのは肉体なので、思考に委ねていては格闘技で通用しません。精神の状態が良いときに体が直感的に動いてくれるので、思考と肉体の間に精神があって、精神をコントロールする必要があることがわかりましたね。

岡田:言っていることはなんとなくわかるんですが、僕や住谷さんが実感することは難しそうですね(笑)

住谷:これは極限状態になった人にしかわからない世界なのかもしれませんね。

五感が研ぎ澄まされた「侍」の世界を体感

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安彦:だから、これは“侍の世界”なのかなって気がします。侍のいた時代って常に刀を持っていて、いつ切られてもおかしくないわけじゃないですか。そんなときに頭で思考して、後ろから不意打ちされたら絶対かわせないですよね。

でも精神を穏やかに保つことができたら、五感が研ぎ澄まされて、パッと振り向けたり即座に対応できたりします。第六感というか、そういった直感的なものも含めて肉体が瞬時に反応できるんです。

だから頭で考えて体を動かすというより、体が動いてから頭で考えるという順番に変えないと、格闘技はできないとわかりました。格闘技を始めて、そういう新しい世界を知ることができたのは大きな体験でしたね。

岡田:格闘技で精神的なところに大きな変化もあったようですが、肉体的な変化はありますか?サッカーと格闘技だと使う筋肉が大きく変わりそうですよね。

安彦:サッカー選手は、下半身が太くて上半身が細くなる人が多いですが、格闘技をしてそれが逆になりました。足がシャープになっていって、上半身が大きくなりましたね。極端に言えば男性のトイレマークみたいな(笑)

体型も大きく変わって、心も体もどんどん格闘家になっていることを感じますね。今後もさまざまな変化を楽しみながら、職業『挑戦者』として挑戦することの楽しさを伝えていきたいです。

前回のトークセッション記事


バドミントンから車いすフェンシングへ!美人アスリート河合紫乃さんの笑顔の秘訣

今回のゲストは、車いすフェンシング日本代表の河合紫乃(かわいしの)さんです。

河合さんはもともとバドミントン社会人リーグの選手でしたが、股関節の手術の後遺症で左下肢の不全麻痺を負い、車いす生活を余儀なくされました。辛い経験を乗り越え、車いすフェンシングに転向して日本代表として活躍。さらに、モデルとしても活躍する河合さんの笑顔の秘訣を伺いました。

MCはワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。

「何でもいいから輝きたい」寝たきり生活からパラアスリートへ

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:河合さんは2018年に車いすフェンシングを始め、その後1年足らずで日本代表に選出され、さまざまな国際大会に出場されています。車いす生活となり、バドミントンからフェンシングに競技を転向したのはどういった理由があったのでしょうか?

河合:小学生の頃にバドミントンを始めて、それから17年間バドミントンをしていました。障がい者になり、パラバドミントンから「メダルに近いよ」と声を掛けてもらったのですが、そのときの私は握力が8kgしかなくて、バドミントンをするのは難しいと感じました。また、健常時の自分と比べて葛藤することがわかっていたので、それなら新たな競技にチャレンジしたいと思ったんです。「ゼロからチャレンジして世界で活躍したらどれだけカッコイイだろう」って。たまたま車いすフェンシングという競技が東京パラリンピックに向けて選手を募集していることを知ったので、「これにしよう」とノリで決めました(笑)

住谷:車いす生活になってからフェンシングをするまでの間に落ち込んだり、何もしたくないと思ったりしたことはなかったですか?

河合:治療のため2年間寝たきりで引きこもりになりました。体重も30kgまで減ってしまい、げっそりして人とも喋れない状態でしたね。でも、入院中、大学時代にバドミントンで一緒に全国優勝をした後輩が、東京オリンピックの候補に挙がっていることを知りました。その後輩と「一緒に東京五輪に出よう」と約束していたことを思い出し、「何でもいいからもう一度輝きたい」と思ったんです。

より成長するために「高い目標を持つ」

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川口:そもそも車いすフェンシングとはどういうスポーツなのでしょうか?

河合:私が専門にしている『エペ』という競技は、とにかく相手よりも先に突くっていうシンプルなルールです。健常者のエペの場合、相手選手の全身が有効面となりどこでも先に突いたら勝ちとなります。車いすの場合は、車いすを固定して戦い、下半身を突いてもポイントにはなりません。上半身だけでどうやったら相手が前に出てくるか、しぐさなどで駆け引きを行います。すごく頭を使う競技で、駆け引きの仕方などはバドミントンと似ていると思います。

エペで使う剣の重さは770gほどあります。それを片手で持つのですが、私は最初握力が8kgほどしかなかったので、試合が3分間あるのに2分も持つことができませんでした。そのときにコーチからは「やめた方がいいんじゃない」って言われましたね。
でも、バドミントン選手時代の根性というか、負けたくないという気持ちが蘇り、「絶対見返すぞ」と思ったんです。そこからはすごく大変でしたが、2年間かけて今の身体に戻していきました。

代表に入ってからは「結果を残さなくてはいけない」「応援や支援をしてくれる人に恩返しをしなければいけない」というプレッシャーが強くて、最初は苦しかったです。でも「自分を信じてやるしかない」「高い目標を持てば何かが変わるかもしれない」という気持ちで、人としても障がい者としてももっと成長できると信じて今も頑張っています。

「まぁいいか」精神で現実を受け入れ、笑顔を取り戻す

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川口:河合さんにお会いするにあたってSNSをたくさん拝見しました。笑顔の写真が多くて、見ているだけでパワーをもらえるなと思いました。

河合:私は健常者の経験もあるので、障がい者には“かわいそうなイメージ”があることを知っています。「不幸」とか「笑えないんじゃないか」とか、私も思っていました。実際、私は障がい者になったばかりの頃、現実を受け入れられず笑えませんでした。でもこの障がいがなくなることはないので、考え方を変えるしかないと思い、「まぁいいか」って受け入れることにしたんです。慣れれば苦しくもないし、この身体で何をしようかという考え方に変えることができて、笑顔を取り戻すことができました。

そして、障がい者になってからさまざまな方にお会いする機会も増えました。今回のトークセッションの機会も自分が障がい者になっていなかったら実現しなかったものですよね。だから本当に今の出会いを大切にしているんです。出会う人が増えるほど、たくさんの考え方を知ることもできますしね。今では、障がい者になってすごく楽しいと思えるようになりました。

「成功に変えるから失敗はない」パラアスリートになって得た強さ

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住谷:河合さんは車いすフェンシングだけではなく、モデルとしても活躍されています。なぜやってみようと思ったのですか?

河合:実はモデルはフェンシングをする前からやっています。今でも続けているのは「世の中の障がい者の概念を変えたい」と思っているからです。障がい者だからポージングができないといった概念を変えたいんです。始めるきっかけは何でもいいと思っていて、「やってみようかな」って軽いノリで始めることがほとんどですね。

住谷:ノリで始めてみて失敗したことはありませんか?

河合:失敗は今のところありません。周りはどう思っているかわからないですけど、必ず成功に変えちゃうので、失敗はないと思っています。私は障がい者になり、パラアスリートになってから強くなったんです。車いすだとコンビニに行っても棚の上部にある商品は手が届かなくて、これまでの自分だったら諦めていました。今では見ず知らずの人に「すみません、助けてください」と言えるようになりました。

最初は一人では外にも出られず、常に誰かいないと行動できなかったんですが、フェンシングを始めてから考え方がどんどん変わっていきました。なるべく自分でやるけど、どうしても一人でできないことは誰かに助けを求めればいいと思っています。勇気を出して自分から声を掛ければ必ず周りの人が助けてくれるので、できないことがあっても「まぁいいか」と思う気持ちが少しずつ出てきました。

「弱い自分はもういない」挑戦することで実感

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川口:東京タワーに自力登頂したと伺っています。その挑戦はなぜしようと思ったのですか?

河合:それもノリですね(笑)。私の友人に東京タワーを外階段で上るアスリートがいて、その方に相談して「やってみようかな」って。私は左のお腹から足まで感覚がなくて力もまったく入らないので、右腕で手すりを持って左手に持った杖を足代わりにして上りました。東京タワーの外階段は約600段あって、健常者は15分くらいで上るそうなので私は1時間で上ると目標を立てました。半分くらい進んだところで、酸欠で頭がくらくらしてきてほぼ記憶がないんですが、周りのサポートの人たちがインスタライブを撮影していたので、「変な顔はできない」と思って頑張りました(笑)。結局44分で上り切り、この挑戦を達成したことによって「昔の弱い自分はいない」って実感をすることができましたね。

川口:そんなすごいことを達成したばかりなのに、SNSで「次の挑戦は何にしようかな」という投稿を見ました。「もう!?」ってビックリしたんですが、今後他にも挑戦してみたいことはありますか?

河合:スカイツリーや富士山にも登ってみたいですね。24時間テレビなどの企画で登れたら楽しそう。さまざまな人に私の挑戦を見てもらって「自分も一歩踏み出そうかな」と思ってもらえたら、それが一番うれしいですね。

これから2024年のパラリンピックに向けてチャレンジを続けていきますが、その後の生き方も最近よく考えています。私はやっぱりスポーツが好きなので、アスリートとして生きていきたいです。スパルタンレースという世界最高峰の障がい物レースにも、いつか出てみたいですね。何もできないと諦めていた空白の数年間を取り戻すために、さまざまなことに挑戦していきたいです。


人生を通して「挑戦」し続けるメッセージを届けたい

今回のゲストは、Jリーグ初出場の最年長記録を持つ安彦考真(あびこたかまさ)さんです。安彦さんはコーチ、通訳、選手マネジメントと多角的にサッカーに携わった後、40歳でJリーガーになりました。また、現在は格闘家として活動しており、いつでも「挑戦者」であることを信念にしている方です。今回は安彦さんが挑戦し続ける理由や想いについて詳しく伺いました。

MCは、ワクセルコラボレーターでラジオパーソナリティーとして多方面で活躍中の岡田拓海さんと、ワクセルメディアマネージャーの三木が務めました。

サッカー強豪校への推薦が叶わずヤンキー高校に

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

三木:本日のゲストの安彦さんは1978年に神奈川県で生まれ、高校生の時にご自身で新聞配達をして資金を貯めブラジルに短期留学をされています。2016年にはサッカー日本代表の選手マネジメントに就任。2018年に40歳でJリーガーになり、翌年2019年に41歳でJリーグの最年長デビューという記録を保持されています。そして、2021年には格闘家へと転向されました。

今日は安彦さんのこれまでの経験を、どんどん掘り起こしていきたいと思います。

岡田:まず気になるのは、高校生の頃にご自身で新聞配達をされてまでブラジルに行かれた理由です。どうして留学をしようと思ったのですか?

安彦:中学生の時に推薦でサッカーの強豪校に入れる予定だったんですが、偏差値が足りなかったために推薦が取り消されてしまい、泣く泣く地元のヤンキー高校に通うことになりました。サッカー部に入ったのですが、先輩はみんなリーゼント。まともにサッカーをするような環境ではありませんでした。

でも、そんななかで高校2年生の時に部活仲間の一人がブラジルに行ったんですよ。それが大きな衝撃で「同級生が行けるなら自分も行ける」と思ったんです。キングカズさんに憧れている世代だったこともあり、親にブラジルに行きたいと話したら「部活もまともにやらない、勉強もしない、ワイシャツも来て行かない、そんな奴がふざけるな」と言われてしまったんです。

でも、確かに親が言っていることが正しいと思い、自分で何とかするために新聞配達のアルバイトを始めました。貯まったお金を親に持って行ったら「そういう覚悟があるなら行かせよう」と許可が降り、高校3年生の夏に初めての短期留学に行きました。

Jリーガーを目指すが挫折「嘘の重ね着人生」がスタート

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:高校を卒業した後も、またブラジルに行かれていますよね。

安彦:Jリーグの舞台に行くためにはサッカー強豪校に入ることが王道なのですが、僕はヤンキー高校に行ってしまったのでブラジルで実績を作るくらいしか方法がなかったんです。

2回目の留学中、2年目でようやくプロ契約まで漕ぎ着けたんですが、契約書にサインをした翌日に右ひざの靭帯を切ってしまい、プロ契約を破棄されてしまいました。けれど、なんとか留まる方法を考え、12歳以下のコーチを買って出てクラブに残れることになりました。

岡田:ケガをして、それでもクラブに残ると切り替えられたことに驚きます。日本に戻ってからはどういったキャリアを歩まれたのですか?

安彦:リハビリをし、静岡のプロサッカークラブ「清水エスパルス」の入団テストを受けました。当時の僕は21歳で、周りは高校生ばかり。テストが始まるとボールを高校生にどんどん奪われて、開始早々で怖くなってしまったんです。

でも30分3本勝負だったので、2本目で頑張ればいいと思い、1本目はこれ以上ミスをしないよう、声を出すけどボールは受けないというセコイことをしたんですよね。次で挽回するつもりだったのですが、1本目が終わった後、監督に呼ばれて「もういいよ、シャワー浴びて帰りな」と言われてしまいました。

その後の僕の行動が人生に大きな影響を及ぼすのですが、僕は周りに対して「俺は結構いいプレーをしたけど監督と合わなかった」「チームと合わなかった」と自分がビビってしまったことを隠して虚勢を張ったんです。そこから僕の“嘘の重ね着人生”が始まりましたね。

生徒の行動力に突き動かされ、自分のやり方でJリーガーを目指す

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:男は特に虚勢を張ってしまいますよね。安彦さんは日本代表選手のマネジメントもされていたそうですが、それは具体的にどういったことをされるのでしょうか?

安彦:「大宮アルディージャ」の通訳の仕事を経て独立し、選手のマネジメントに行きつきました。僕がやっていたマネジメントとは、たとえば選手が「ベストファザー賞を取りたい」となった時に、勝利インタビューで子どもの話題を出すなどの戦略を立てることでした。3年後、5年後に選手のブランディングになるようなマネジメントです。

三木:コーチのようなことをしているイメージがありましたが、ブランディングプロデュースだったのですね。

岡田:安彦さんはさまざまな立場でサッカーに携われていますよね。そんなキャリアを積みながら再びJリーガーを目指されていますが、これはどういった経緯があったんですか?

安彦:僕はマネジメントの仕事をしながら通信高校の講師もしていました。不登校の子や補導歴・退学歴のあるやんちゃな子が通っていて、そういう子たちを更生させることを目指していました。僕が受け持った授業では、“一次情報が大事”というテーマで「10回の素振りより1回のバッターボックスだ」ということを伝えていたんです。

そして、授業中にある生徒が手を上げて報告してくれました。
「買いたい本があったけど、お金がなかったからクラウドファンディングをしてみました。300円しか集まらなかったです。」
それを聞いたクラスメイトたちは笑っていましたが、「生徒がバッターボックスに立った」という事実を目の当たりにして、膝からガクンと落ちるくらいとショックを受けました。

「お前のモヤモヤしている人生、それでいいのか?」って言われた気がしたんです。その生徒の行動が僕を突き動かして、人生の後悔を取り返しに行くことになったんですよ。

人生の後悔を取り戻しJリーガーデビュー

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

安彦:人生の後悔を書き出してみて、一番時間が経っていて取り返しづらいものが、あの時に虚勢を張って、嘘をついた自分でした。どう考えても40歳でJリーガーなんて無理ですけど、一番難しいものがそれだったので、取り返すことに決めました。

その時Jリーガーを見ていて、お金を出すクラブが上で、お金をもらう選手が下という主従関係が強くなっている気がしていたので、これを変えるチャンスでもあると思いましたね。その日のうちに「仕事辞めます」と電話をし、2017年の夏、39歳からJリーガーを目指し始めました。

岡田:当時“年俸120円のJリーガー”というニュースが流れた時、僕は正直「この人は何を考えているんだろう」と思いました(笑)。安彦さんのなかでお金は問題ではなかったのですね。

安彦:そもそも40歳のおじさんは入団テストを受けさせてもらえません。入団するために「給料を受け取らない」という戦略を立てました。その代わり観客席を20席分もらい、自分で1万円売れば1試合で20万円入るので、その売上のパーセンテージをクラブに渡すという交渉をしたんです。クラウドファンディングを使うなど、別のところで収入を得ることで「切りたきゃ切りなさい」と、クラブと対等でいられました。

岡田:安彦さんのこれまでのビジネス経験を活かした方法ですね。40歳でJリーガーになり、41歳で最年長での初出場記録を更新されています。当時はどんな心境でしたか?

安彦:「やっと出られた」のひと言ですね。ただ、当時ものすごい数のアンチもいました。試合に出ればアンチにも認めてもらえるだろうと思ったんですが、もともとジーコさんが持っていた最年長デビュー記録を越えて「ジーコ超えてるんじゃねえよ」ってアンチが来て、結局何をしても言われるんだなと(笑)。でも、デビューしてチームに貢献することもできたので、僕としてはやり切った思いでしたね。

代名詞は「挑戦者」格闘家へ転向

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:安彦さんの挑戦はまだまだ終わらず、現在は格闘家として活動されています。どんな気持ちでチャレンジしようと思ったのでしょうか?

安彦:“今”を語れる代名詞を持ちたいと思ったんです。よく、「○○大学出身」とか代名詞を語る人がいますが、それは過去のことで今を語っていません。僕は今を語れるものが欲しかったんです。

自分の一番の代名詞は「挑戦者」であることと決めて、今よりも過酷なことを目指そうと思った時に格闘技が思い浮かびました。みんなが見ている「RIZIN」というリングに立って、挑戦者というメッセージを伝えていくことを目指しています。

岡田:考えや行動にここまで一貫性がある方は、なかなかいないのではないかと思います。安彦さんが描いている今後のビジョンを伺いたいです。

安彦:現在、アスリートや会社員の今後を応援する「LIFETIMEプロジェクト」という新規事業を、企業と一緒に手掛けています。先ほども話に出しましたが「今を語れる代名詞」を内省で見つけてもらうという取り組みです。僕のこれまでの経験や考え方をノウハウとして残せるよう、事業体として確立させていくことを目指しています。

また肉体的な挑戦で言うと、2022年2月にプロデビューが決まり、「44歳でプロ格闘家の最年長デビュー」という記録が増えます。弱っている自分、妥協しそうな自分、情けない自分など「僕の人生」を見せながら、それでも前に進もうという挑戦し続けるメッセージを届けられたら嬉しいですね。