「アスリートを雇用する仕組みをつくりたい」プロ格闘家から経営者へ

今回のゲストはプロレスラー、経営者、社団法人の理事、学校の校長など、いくつもの顔を持つ池本誠知(いけもとせいち)さんです。

池本さんはプロの格闘家として活躍しながら、総合格闘技スタジオ『STYLE』というジムを開設。37歳で一度格闘家を引退されましたが、41歳でプロレスラーとして復帰し、今なお現役で活躍しています。

ワクセルコラボレーターの岡田拓海(おかだたくみ)さんと、総合プロデューサーの住谷が、池本さんの経歴や今後の目標について詳しく伺いました。

テレビをきっかけに14歳でプロレスラーを目指す

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岡田:本日のゲストは、株式会社STYLE代表取締役社長の池本誠知さんです。池本さんは、2007年に総合格闘技スタジオ『STYLE』を開設。2008年には、DEEP(格闘技の一種)ウェルター級チャンピオンを獲得しました。

2013年にプロ格闘家を引退、株式会社STYLEを設立し、格闘家のセカンドキャリアを応援する事業を開始。そして2017年にプロレスラーとして現役復帰し、2018年にSTYLE高等学院を開校。今なお、“戦う校長”として活躍しています。

さらに2022年5月には著書『一生疲れない体になる ゆる筋の作り方』を出版されました。

住谷:気になることが多すぎて、何から聞いたらいいのか困ってしまいますが(笑) そもそも池本さんはプロレスラーを目指されていたんですよね?

池本:14歳の時にテレビで天龍源一郎さんの試合を見て、魂が震えるくらい感動して、プロレスラーを目指し始めました。プロレスラーになるため、格闘技のジムに行ったり、柔道部に入ったりして、結果的に格闘技のプロとして37歳までずっとやっていましたね。

最初に総合格闘技を目指したのは、僕の師匠に当たるジムの代表に出会ったことが大きかったです。「お前、格闘技のセンスあるからプロを目指さないか?」と言われ、才能あるんだったら一旦こっちでやってみようと思ったのですが、結局のめり込んでしまいました。

でもどこかで「プロレスラーになりたい」という思いがずっと残っていて、引退してからダメージを抜くために4年間ほど休憩して、41歳からプロレスラーになり、現在5年目です。

格闘技で培った人間力を仕事につなげる

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岡田:現在はプロレスラー以外にも、ジムの経営などもされていますが、「今何しているんですか?」って聞かれたら、どのように自己紹介されるんですか?

池本:ジムの多店舗経営、学校の校長、社団法人の理事、プロレスラー、この4つが大きな柱です。学校では、通信制の高校と連携したダブルスクールという形を採っていて、格闘技を週に2、3回学びながら、高卒資格が取れるようになっています。

好きな格闘技がいっぱいできて、僕が経営するジムが11店舗あるので、そこでアルバイトをすることもできます。トレーナーの資格を取って、そのまま社員になった子もいますね。

格闘技をやっていると諦めない気持ちとか、継続する力が養われ、『人間力』を上げることにつながっていると思います。でも多くの人が格闘技で学んだ経験を、別のことにうまく置き換えられないんですよね。

たとえばうちの生徒のなかでも、強い子はコーチが見ていないところでも、ひとりでしっかり練習をしています。一方で、弱い子はコーチが見ていないところで手を抜きます。

仕事も一緒で、見ていないところで頑張っている子の方が絶対成長しますよね。そうしてアスリートとして培った人間力や経験を、仕事につなげてあげられるようにしたいんです。

人を喜ばせることが一番の喜び

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岡田:池本さんは格闘家としてのキャリアを積み上げてから、まったく経験のないところから経営者になっていますが、なぜ経営にシフトチェンジしたのですか?

池本:32歳で借金まみれになったことが岐路でした。ランクが上がってきて、暮らしを良くしたり、人に奢ったりする機会も増えていきましたが、実際はバイトだけで食べている状態。練習時間が増えるとバイトの時間が減って、生活がどんどん苦しくなって、食べていくには一旦集中して稼ぐ必要があると考えました。

その時にセコンドについている子がたまたま空手の先生をしていて、「空手の生徒が100人いて、これだけの収入があるんですよ。池本さんだったら、こんなにキャリアがあるから格闘技を教えたら食べていけますよ」と言われました。

その話を聞いて一緒に町道場を始め、半年でお客さんを集めて物件を借りました。経営を学んだことはなかったですが、自分が格闘家として勝ち続ければお客さんが増えると考えました。そして予想が当たり、無敗でチャンピオンになった時にお客さんがすごく増えました。引退する頃には2店舗になり、従業員も何人か抱えるようになりましたね。

2店舗でも十分食べていけるようにはなりましたが、格闘技をするなかで自分自身について、大きな気づきがあったんです。やはり一番の目標はチャンピオンになること。僕はチャンピオンになった時のことをよくイメージトレーニングしていたんですね。

チャンピオンになった時にどういう感情になって、お客さんに向かってどんな言葉を話すか、ホテルに戻ってベルトを見ながらシャンパンを飲んで涙を流す。このような事を本当にリアルにイメージして、実際に涙まで流れて、次の日起きた時に昨日ベルトを獲ったんじゃないかって錯覚するくらいでした。

ただ、実際にチャンピオンになった時に、ホテルでベルトを見ても涙が流れなかったんです。「なんで嬉しくないんだろう?」と不思議に思いました。それでも「応援して良かった」「夢をもらいました」「勇気をもらいました」など、そういう言葉がメールでいっぱい届いた時に、涙が止まらなくなりました。

そこで自分はベルトを取って、「みんなを喜ばせたかったんだ」と初めて気づきました。人が喜ぶことが自分にとって一番嬉しいことだと気づき、そういう生き方をしていこうと思ったんです。自分のためにはエネルギーが出ないので、引退後は自分のように困っているアスリートや格闘家を雇用する仕組みをつくっていこうと、店舗を広げて学校も作りました。

レッスンを通じて地域貢献

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岡田:店舗を広げていくなかで、うまくいかないことや大変なこともあったのではないですか?

池本:問題だらけでしたね。でも僕は格闘技の試合の時には親に手紙を書いたり、部屋の掃除をしたり、常に死ぬことを覚悟していました。

そんな風に命を懸けてきた人間が、ビジネスでちょっとしたことで挫けることはないですよ。強い相手と闘うのと一緒なので、そういう気持ちでやれば問題なんて大したことではなかったですね。

店舗を拡大していくと「すごい」と言ってもらえるので、一時期100店舗を目指していたこともありました。自慢したいという自我が芽生えてしまったんでしょうね。でもそれって本当に良いことなのかと、改めて考え直しました。

本当に価値があって必要とされる店舗だったら、誘致されるし勝手に広がるはずです。それならば、拡大するより価値を上げていこうと方向性を変えました。まずは店舗を出している地域の区役所など、地域の困りごとがわかるところに行って、何ができるか聞くことから始めましたね。

現在はシングルマザーの方を集めたレッスン、コロナの影響で増えた引きこもりの方を呼んだレッスン、市のイベントで60、70代の方に向けたレッスンもさせてもらっています。

地域のためにもなりますが、そういう場に社員やスタッフが行き、指導することで、自分が世の中の役に立っていると気づくことができます。役に立っている実感を持つことで、視座が高まり、社会貢献をしようと我々の成長にもつながっています。

健康寿命を延伸させるためのデバイス開発

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岡田:地域の人々の役に立ち、さらにスタッフの意識も高めることができているのですね。プロレスラー、経営者、教育者など色んな顔を持つ池本さんですが、今年の5月には本まで出版されています。「筋肉は鍛えなくていい」という帯の言葉にインパクトがありますよね。

池本:僕はプロレスラーなので鍛えまくってますけどね(笑) そうはいってもジムを経営するなかで、筋トレやウェイトトレーニングを一般の方がやるのはハードルが高いと感じています。

続けられないお客さんをたくさん見てきて、もっと簡単にできるトレーニングを紹介したいと思ったんです。姿勢を起こしているだけで重力に逆らったトレーニングになるので、重いものを持って鍛えることをしなくてもいいよということを書きました。

住谷:人に喜ばれることをして、色々な人とコラボレーションしていくってことがワクセルの目的なので、ぜひ一緒に何かやれたら嬉しいです。個人的には、痩せるための何かがあれば是非お願いします(笑)

岡田:トレーニングの内容も拝見して、すごくわかりやすく簡単なものばかりだと感じました。これだけ多方面で活躍する池本さんが、次にどんなことに挑戦するのかが気になります。

池本:世の中の人口分析からすると、2025年に人口の半数が50歳以上になるそうです。今も問題になっていますが、医療費や介護費の増大がより大きな問題になってきます。

そのため、現在50歳以上の方の健康寿命の延伸を目指して、立命館大学とオムロンヘルスケアさんと協力して一緒にデバイス開発をしています。そのデバイスから得たデータを健康寿命の延伸に結び付けて、キックボクシングのクラスを大阪発でつくり、全国に広げていくことが今の目標です。

ヴィーガン格闘家・安彦考真さん発案!ワクセルとのコラボで生まれたヴィーガンサンドを販売

2022年8月20日に第1回「MiraPla(ミラプラ)」が、横浜市にある洋光台北団地で開催されました。

MiraPlaは「地球のことを、知って、学んで、楽しむフェスティバル」というテーマのイベントです。サスティナブルなモノ・コトに関わるマルシェやワークショップが用意され、キッチンカーも多数出店されました。

今回のイベントでは、コラボレーターの安彦考真(あびこたかまさ)さんが、キッチンカーを出店。ワクセルとのコラボレートで実現した限定60食のヴィーガンサンドは、大盛況で完売となりました。

ヴィーガンになり世界観が大きく変化「もっと世の中に広めたい」

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住谷:記念すべき第1回「MiraPla」で一緒にキッチンカーを出させていただき、安彦さん考案のヴィーガンサンドが大盛況でしたね。今回なぜヴィーガンサンドを出そうと思われたのですか?

安彦:Jリーガーの時にそれまでの食事を変えてヴィーガンになりました。それからパフォーマンスがすごく上がって、性格も若干ですが穏やかになったんです(笑)

ヴィーガンになって3年くらい経ちますが、自分の中の感覚や世界観が大きく変わりました。これほどの影響を自分だけで留めておくのはもったいないと思い、世の中にもっと広めたいと考えるようになったんです。

でもヴィーガンって、「健康的だけど薄味で美味しくなさそう」というイメージが強いですよね。だから美味しくて、ガッとかぶりつきたくなるヴィーガンのサンドイッチを出したいと思ったんです。

安彦さんこだわりの食材を使ったヴィーガンサンド

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住谷:今回出されたヴィーガンサンドには、どんな食材が使われているんですか?

安彦:かぶりつきたくなるようなサンドイッチだけど、中身は繊細なものを使いたいと、食材には非常にこだわりましたよ。まずバンズは、僕が大好きな米粉100%グルテンフリーの『お米パン 八』のものを使わせていただきました。

具材は僕がよく行く『WE ARE THE FARM渋谷店』にサポートしていただき、トマトとケールを提供してもらいました。ケールはスーパーフードと呼ばれている食材で、野菜なのにたんぱく質も入っていて、間違いなく身体にいい食材だと思っています。

そして肝心の味付けについては、ワクセルコラボレーターでもある『HEMP CAFE TOKYO』の宮内達也シェフに監修をお願いしました。

ヴィーガンサンドが生まれたきっかけはワクセルとのつながり

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住谷:『HEMP CAFE TOKYO』は宮内シェフがオーナーを務める、ヴィーガン料理専門店ですね。以前ワクセルのトークセッションのゲストとしても登場いただき、このような形でコラボが実現してとても驚きです。

安彦:もともとは、僕がワクセルの収録において宮内シェフが作ったブリトーを食べて美味しさに感動し、宮内シェフのお店に通い始めたのが始まりです。だからこのヴィーガンサンドを作ろうと思ったのは、ワクセルとのご縁がきっかけなんです。

今回、皆さんが美味しそうに食べている姿を見て「良かったなー」と思いました。僕が作っているわけではないですが、僕が言い始めてできたものなので、売れるかどうかも大事ですが、美味しいか美味しくないかが重要だと思っていたので。

「鋭敏な五感を取り戻したい」食を通して人生を豊かに

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住谷:今回初めてヴィーガンサンドのプロデュースをされたわけですが、今後もヴィーガン料理を広めていく活動を続けていくのですよね。どういった未来を思い描いているのですか?

安彦:僕は食を通して、人の心や人生を豊かにできたらいいなと思っています。そのひとつの方法が「五感を取り戻す」ことなんです。

世の中が発展したこともあって、みんなイヤホンをしているじゃないですか。しかもこの時期はマスクをして、サングラスまでして耳にすごく負担をかけていますよね。イヤホンを取ればセミの声、風の音、夏の雰囲気を味わえるのに、五感を自ら遮断してしまっている人が多くいます。

食事についても大味を好む人が多いので、もっと繊細な味に敏感になってほしいんです。だから鋭敏な五感を取り戻すきっかけを、食を通して提供していきたいと考えています。匂い、味、食感といったものを全部楽しめる“食育”を届けていきたいですね。

トークセッションに出していただいたことで色々なつながりができて、ワクセルの持つ仲間とのつながりというパワーを感じたので、今後も一緒に広げていきたいです。

躰道世界大会4連覇の覇者が説く体の原理原則とマインドセット

今回のゲストは躰道(たいどう)世界大会4連覇を成し遂げ、躰道の道場『己錬館』(これんかん)の館長、整骨院の院長という顔も持つ中野哲爾(なかのてつじ)さんです。

ワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈さんと、総合プロデューサーの住谷がMCを務め、体の構造に精通している中野さんに、体の原理原則や武道家としてのマインドなどを伺いました。

躰道は空手から派生し戦後につくられた新しい武道

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川口:本日のゲストは躰道の世界大会で4連覇されている中野哲爾さんです。中野さんは躰道での経験を生かして整骨院『日月』(ひづき)の院長としても活躍しています。私は躰道という武道を初めて聞いたのですが、改めて躰道がどのようなものかを教えていただきたいです。

中野:躰道は、すごく簡単に言うと、沖縄空手から派生した全身で戦う武道です。沖縄に祝嶺正献(しゅくみねせいけん)先生という空手範士8段の方がいて、その方によって戦後直後につくられました。躰道として独立してからの歴史だけを考えると、比較的新しい武道ですね。

空手など立ち技の格闘技は、倒れてしまうと“待て”が掛かりますが、躰道の場合は“待て”が掛かりません。戦争の最中は倒れる状況がいくらでも起こりますが、それでも戦いが中断されることはありませんよね。躰道はそういう実戦を想定して、倒れているところから蹴るとか、倒れながら蹴るとか、どんな状況でも戦うルールとなっています。

また攻撃を受けることもダメで、どんな攻撃も避けないといけません。そのため、サッカーのボレーシュートのようなアクロバティックな動きが多くなっています。躰道は視界訓練にもなりますし、三半規管の検知能力の訓練にもなると思います。

基礎を深掘りして理解することが強さの秘訣

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川口:中野さんはそもそもいつ躰道を始められたのですか?

中野:幼稚園のときにフルコンタクト空手の経験はあったのですが、躰道を始めたのは大学1年生からです。高校の先輩がたまたま進学先の大学の躰道部に所属していて、大学受験後の高校生だった私に「練習に遊びにおいで」と声を掛けてくれたのがきっかけでした。

川口:大学1年生から始められて、これだけの成績を残されていることに非常に驚いています。世界大会4連覇を果たした強さの秘訣は何だと思われますか?

中野:それは基礎練習が大好きなことが影響していると思いますね。僕は基礎を深掘りして理解することがとても大事だと思っていて、原理原則とか法則性とか、そういうことを知りたいと考える性分なんです。

たとえば、挨拶や返事をすることって、ずっと変わらず残っていますよね。そういう慣習にはすごく意味があるものと、なんとなく踏襲されているものの2種類があると思います。その意味がある部分を抽出できればすごく役立つと思うのです。

何百年も淘汰されなかった部分をちゃんと理解して身につけるのは、とても合理的ですよね。一つひとつを「なんでだろう?」と深掘りし、スポーツ科学や医療の面から紐解いて、意味を理解するようにしています。

「勝つことじゃなく成長すること」が目的だから緊張しない

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住谷:これが、さまざまな大会で優勝経験を持つ方の考えなんですね。中野さんは試合のときでも緊張をしないと伺いました。なぜ緊張せずに試合に臨めるのですか?

中野:大会でなぜ緊張するかというと、「負けたくない」「失敗したくない」という執着があるからです。私の場合は、3つの考えをとても大切にしています。
「変えられることを変える勇気」
「変えられないことを受け入れる心の静かさ」
「変えられることと変えられないことを見分ける知性」
この3つを理解していれば、緊張するというシチュエーションは存在しなくなります。

試合の勝ち負けを決めるのは自分ではなく審判です。他人が全部決めることなので、勝つか負けるかを心配しても仕方がないんですよね。だから試合の勝ち負けに執着するのではなく、「試合を通して自分が成長すること」を目的にすれば緊張のしようがありません。

また、私は「負けないと見せられない指導もある」と考えています。子どもたちは負けて泣きじゃくったり、勝ってはしゃいだりしますが、負けたときに潔い振る舞いをして、負けてもカッコいい姿を教えることは、試合でしかできません。実は世界大会2回目で引退しようと思ったのですが、自分自身が大会に出ている方が指導の浸透率が上がると思ったので、出場を続けています。

体の不調の改善方法は同じ姿勢を取り続けないこと

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川口:中野さんは整骨院の院長でもあるということで、今回私たちの体の悩みも聞いていただけたらと思っています。私は首が前に出てしまうという姿勢の悩みがあるのですが、どうしたら改善できるのでしょうか?

中野:首が前に出てしまう人には、肩を引いてしまう特徴があります。そうすると肩甲骨に押し出されて首が前に出てしまうんです。そのため肩を引くのではなく、肩甲骨を落とすことを意識することが大切ですね。

でも、実は正しい姿勢でいることが体に良いわけではなく、一番大切なのは同じ姿勢を続けないことです。人間って動いていないとダメなんですよ。だから反り腰になっても猫背になっても良くて、とにかくずっと同じ姿勢でいることがダメです。

デスクワークし続けて体に不調をきたす人がいますが、マメに立ち上がったり、同じ姿勢を取り続けないことで体の不調が改善されるはずです。私は患者さんに「整骨院に来るよりも30分おきに立つ方が楽になりますよ」と言っています。

自ら健康を手に入れるための教育のインフラづくりをしたい

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住谷:中野さんはYouTubeチャンネルを開設されていますが、どんな内容を配信しているのですか?

中野:整骨院の先生だと、肩こりを改善する方法や痩せる方法などを配信している人が多いと思いますが、私は体の原理原則をお伝えしたいと思っています。たとえば武道を通した分かりやすい体の使い方、解剖学で紐解かれている普遍的な骨の数など、体のことを伝える活動をしています。

先日もぎっくり腰になった患者さんがいたのですが、「先生の言った通りにしたら治った」と言っていました。体のことを知れば知るほど自分で対処ができるようになるのです。YouTubeを始めたのは、医院に来ることがゴールではなく、自分自身で健康を獲得できる人を増やしたかったからです。

たとえば成人の骨の数は206個あるんですが、小学生のときに頭から骨盤まで覚えて、中学生で残りの骨格を覚える。そして、高校生で筋肉、大学生になったら神経と、だいぶゆっくりとしたペースで学んでも、社会人になり親になる頃には体の原理原則が分かるようになっていますよね。私はそういう教育のインフラづくりのお手伝いをしたいんです。そこを目指して今後も活動を続けていきたいと思います。

経験を活かし選手の気持ちに寄り添うスポーツキャスター

今回のゲストはロンドンオリンピック100メートル背泳ぎと400mメドレーリレーの2種目でメダルを獲得した寺川綾(てらかわあや)さんです。選手時代は「もっと頑張らないと」という気持ちでやっていたと語る寺川さん。競技から離れた後は後進の育成にも携わり、スポーツキャスターとして活躍しています。

ワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈(かわぐちまりな)さんと、総合プロデューサーの住谷が、寺川さんのこれまでの経験やスポーツキャスターとしてのこだわりなどを伺いました。

レベルの高い環境に身を置いたことでオリンピックを意識

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川口:本日のゲストは競泳元日本代表、オリンピックメダリストの寺川綾さんです。寺川さんは、2012年ロンドンオリンピック100m背泳ぎと400mメドレーリレーの2種目で銅メダルを獲得。競技活動を卒業された後は、テレビ朝日の番組『報道ステーション』のスポーツキャスターとして活躍されています。最初にオリンピックの話を伺いたいのですが、寺川さんが水泳を始めたきっかけは?

寺川:水泳を始めたのは3歳のときでした。小児ぜん息を発症して、病院の先生に「水泳は全身運動だからぜん息にも良いよ」とおすすめされてスイミングスクールに通うことになったんです。当時は泳ぐのが楽しいというより、友達に会いに行くという感覚で通っていましたね。でも気づいたら選手育成コースに入っていて、いつの間にかレベルの高い人たちに囲まれていました。

周りには自分より泳ぎがうまかったり、速かったりする子がたくさんいたので、自分が水泳に向いていると思ったことは一度もないです。だから選手時代は「もっと頑張らないと」という気持ちでやっていましたね。周りにオリンピック選手がたくさんいて、オリンピックに出たいというよりは、「出なきゃいけないんだ」という感覚が強かったです。

チームとしての団結力がメダル獲得への原動力に

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川口:選手時代にたくさんの苦労があったかと思いますが、ご自身のなかで最も大きい挫折というと何が思い浮かびますか?

寺川:初めてのオリンピックに出場したのが、大学2年生のときで2004年のアテネオリンピック。決勝に残ることが目標で、実際にその目標は達成することができました。でもやっぱり日本代表として出るからにはメダルをとらなければいけない、それなりの成績を残さなければいけないという周りからの期待があったんです。

決勝には出られたのですが、8人のなかで8位という結果でした。自分のなかでは当初の目標は達成できていたので、泳ぎ終わった後も「よし」という気持ちでプールから上がったんです。でも最初に掛けられた言葉が「残念でしたね」という言葉でした。

自分では納得のいく結果だったんですが、その言葉を聞いて「これじゃダメなんだ」って挫折したというより、へし折られた気持ちになりましたね。自分は満足していても、もっと上の結果を求められていて、そこに対応しきれていない自分に対して悔しくなりました。オリンピックの厳しさを教えてもらった経験でしたね。

川口:オリンピック2回目の出場となる、2012年のロンドンオリンピックでは2種目で銅メダルを獲得されています。念願のメダルだったと思いますが、いま振り返ってみてメダルをとれた一番の要因は何だったと思いますか?

寺川:競泳って個人種目なんですけど、団体競技のようにチームとしての団結力があって、誰かが活躍するとみんな「私たちも!」という気持ちが強くなります。日本のチームとしてメダルを獲得するという目標があって、そこに向かってみんなでクリアしていこうという団結力があったんです。

やっぱり先輩方がオリンピックで代々築き上げてきた結果を「私たちの代で崩してはいけない」という気持ちが強かったんだと思います。そういったチームの力がメダルをとるうえで大きかったですね。

水泳好きの人間としてまだまだ先がある

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川口:ロンドンオリンピックでメダルを獲得された翌年の2013年に競技を卒業されていますが、この時『引退』ではなく『卒業』という表現を使われたのはどのような思いがあったのでしょうか?

寺川:実は引退会見のときまったく話す言葉を準備できていなかったんです。引退会見というと、多くの人が「寂しい」と涙を流すイメージだったのですが、私の場合まったく悲しくありませんでした。自分の感情が想像していたものとまったく違い、うまく考えがまとまらなかったんです。

もちろん競技者としては引退なんですけど、水泳というものは一生続けられるスポーツです。選手ではなくなるけど、これからは選手以外の人たちともプールで触れ合っていけるんだとワクワクする気持ちもあったんです。

水泳が大好きなひとりの人間としてはまだまだ先が続くという思いだったので、引退という言葉は何か違うって思いました。

川口:競技から離れた後は後進の育成にも携わりながら、いまではすっかりおなじみの姿になった『報道ステーション』のスポーツキャスターを2016年から務められています。スポーツキャスターという仕事にもともと興味はあったのですか?

寺川:全然なかったです(笑)。選手のときはテレビ取材があってもあまり表に出ないように意識して、カメラから隠れる感じでした。そのため、声を掛けてもらったときは「絶対できない」と思っていました。

でもやり始めてみるとさまざまな競技に出会えて、色んな選手の話を聞かせてもらって「こんな楽しいことがあるんだ」って思うようになったんです。

話を聞いていくなかで、その選手ならではの競技に対する考え方やプロセスを知れて、これまでの自分とはまったく違う考え方ができ、すごく刺激になっています。だからいまは現場が大好きで、その楽しい仕事を続けさせてもらっていることが幸せでしかないですね。

選手のことをたくさんの人に伝えていきたい

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川口:話を聞くときに意識していることは何ですか?

寺川:私自身、頑張ってきたことに対しての結果に「残念」って言葉を付けられたときの悔しいのか、悲しいのかよくわからない複雑な感情がいまでも強く残っています。他の選手にはこういった思いをさせたくないと思っていますね。

どんな結果であれ、そこに向けて頑張ってきた選手に対して、「この言葉は失礼になるのではないか」と、常に意識をしながらお話を伺っています。

あと、お話を伺っている選手に対して、別の選手について聞くことも失礼なことだと私は思っているので、あまり聞かないようにしています。

カンペには「これ聞け!」と書いてあるんですが、見えていないふりをして……(笑)。私は選手だったこともあるので、どうしても選手に寄り添い過ぎている自覚はあって、反省することもあるんですけどね。

住谷:最後に寺川さんが今後どんなことに挑戦していきたいのか伺いたいです。

寺川:どちらかというと新しいことではなくて、いまやっていることを土台にして続けていきたいです。

スポーツ選手ってたくさんいて、どんどん世代交代をしていきます。多くの競技があり、そんななかでベテラン選手が頑張っていたり、その壁を越えようと若い選手が頑張っていたり、本当にたくさんの選手が努力を重ねています。

今後もそういった多くの選手の話を聞いて、それを自分の言葉でさまざま人に伝えていけたらいいなと思っています。

格闘家デビュー5戦5勝4KO!44歳の挑戦者が挑む極限の世界

今回のゲストは、2回目の登場となる安彦考真(あびこたかまさ)さんです。安彦さんはJリーグ最年長デビューの記録を保持する元Jリーガーです。自身の職業を『挑戦者』とし、常に新たな挑戦に臨んでいます。2022年2月に格闘家としてプロデビューし、これまでにアマチュア・プロの試合で5戦5勝4KOという結果を残しています。今回は格闘家としての安彦さんの挑戦について詳しく伺いました。

MCはワクセルコラボレーターで『走るMC・ラジオパーソナリティー』として活躍する岡田拓海(おかだたくみ)さんとワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。

40歳を超え、Jリーガーそしてプロ格闘家デビュー

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:本日のゲストは2度目の登場となる安彦考真さんです。前回は安彦さんがどのような方なのか、そして格闘家として活躍するようになったルーツをじっくりお聞きしました。今回は格闘家としての安彦さんを掘り下げていきます。

住谷:まずは安彦さんのこれまでの経歴を簡単に伺えますか?

安彦:僕はプロサッカー選手のマネジメントなどの仕事をしていたのですが、39歳のときに仕事を全部辞めて、Jリーガーを目指し始めました。志を持って始めた仕事だったはずなのに、いつしか生活するための仕事になっていて、自分に嘘をつき続ける人生に納得ができなくなったんです。

これまでにしてきた後悔を取り戻すことを決め、40歳でJリーガーになり、41歳で最年長デビューの記録を残すことができました。そして3年間のJリーガー生活を終え、引退セレモニーで「次は格闘家を目指す」と公言し、2022年2月に44歳で格闘家のプロデビューをすることができました。

極限の緊張から解放され、試合後は体重が7kgも増加

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:40歳を超えてJリーガーとプロ格闘家デビュー、この2つの経歴を持っている人はまずいないので、本当にオンリーワンですよね。現在、安彦さんはアマチュア・プロ通算5戦5勝4KOという素晴らしい戦歴を残されています。格闘家としてデビューされて率直にどうですか?

安彦:改めて考えてみると、ものすごい日々を送っていたと感じますね。試合前は減量していて、「苦しいな、でもストイックにやれているな」と実感はあったんです。けど、振り返ると「とんでもない世界に飛び込んだな」という感覚が強くなりました。ずっと緊張状態だったので、それが解放されたんでしょうね。終わった後は食欲が爆発してしまって、「俺ってこんなに食べるんだ!?」って自分でも驚くくらいの量を食べています。

岡田:安彦さんはビーガンなので、食へのこだわりが強いですよね。試合が終わった後は最初に何を食べましたか?

安彦:試合後はそこまで食欲が湧きませんでしたが、ビーガンのパンケーキやチョコ、アイスなど甘いものを食べましたね。普段から食事はオーガニックのものにしていて、食品表示もすごく気にして見ています。でも、試合が終わった途端にタガが外れてしまって、66kgだった体重が今では73kgになってしまいました。

「自分がどこにいるかもわからない」リングに立った緊張感

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

安彦:いま思えば試合当日は喉の渇きも強くて、すごく緊張していましたね。試合では指が露出しているオープンフィンガーグローブを使いますが、通常のグローブより、顔面や骨へのダメージが大きくなります。

試合前にメディカルチェックをしてくれたドクターが偶然知り合いだったんですが、「44歳でプロデビューすること自体おかしいけど、オープンフィンガーは考えられないよ。僕は心配だよ」と言われて、余計に怖くなっちゃいました(笑)

緊張のせいでデビュー戦は、方向がわからなくなりました。インターバルで青コーナーに戻らないといけないのに、全然違う方向に向かってしまって、自分がどこにいるかもわからない状態でしたね。

相手しか見えないくらい試合に入り込んでしまっていて、セコンドの声も聞こえていなかったです。でも2戦、3戦と試合数を重ねて、4戦目のプロデビューの試合では少し冷静になれました。周りを見渡して仲間のいる場所がわかるくらい落ち着いていて、相手をよく見て試合することができました。

「思考と肉体の間に精神がある」格闘技で気づいた新たな感覚

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

岡田:プロデビューまでに場数を踏んだ結果ですね。プロデビューというプレッシャーがあるなか、冷静になれたことはすごいです。

安彦:格闘技をするようになって、人間には思考とは別に『精神』というものが存在することを感じました。もともとは思考がすべてで、体を動かすことは脳と肉体の伝達作業だと思っていたんです。でも頭で考えるほど緊張して、判断が遅くなってしまいます。

いざというときに反応してくれるのは肉体なので、思考に委ねていては格闘技で通用しません。精神の状態が良いときに体が直感的に動いてくれるので、思考と肉体の間に精神があって、精神をコントロールする必要があることがわかりましたね。

岡田:言っていることはなんとなくわかるんですが、僕や住谷さんが実感することは難しそうですね(笑)

住谷:これは極限状態になった人にしかわからない世界なのかもしれませんね。

五感が研ぎ澄まされた「侍」の世界を体感

最年長Jリーガー安彦考真×ワクセル

安彦:だから、これは“侍の世界”なのかなって気がします。侍のいた時代って常に刀を持っていて、いつ切られてもおかしくないわけじゃないですか。そんなときに頭で思考して、後ろから不意打ちされたら絶対かわせないですよね。

でも精神を穏やかに保つことができたら、五感が研ぎ澄まされて、パッと振り向けたり即座に対応できたりします。第六感というか、そういった直感的なものも含めて肉体が瞬時に反応できるんです。

だから頭で考えて体を動かすというより、体が動いてから頭で考えるという順番に変えないと、格闘技はできないとわかりました。格闘技を始めて、そういう新しい世界を知ることができたのは大きな体験でしたね。

岡田:格闘技で精神的なところに大きな変化もあったようですが、肉体的な変化はありますか?サッカーと格闘技だと使う筋肉が大きく変わりそうですよね。

安彦:サッカー選手は、下半身が太くて上半身が細くなる人が多いですが、格闘技をしてそれが逆になりました。足がシャープになっていって、上半身が大きくなりましたね。極端に言えば男性のトイレマークみたいな(笑)

体型も大きく変わって、心も体もどんどん格闘家になっていることを感じますね。今後もさまざまな変化を楽しみながら、職業『挑戦者』として挑戦することの楽しさを伝えていきたいです。

前回のトークセッション記事


バドミントンから車いすフェンシングへ!美人アスリート河合紫乃さんの笑顔の秘訣

今回のゲストは、車いすフェンシング日本代表の河合紫乃(かわいしの)さんです。

河合さんはもともとバドミントン社会人リーグの選手でしたが、股関節の手術の後遺症で左下肢の不全麻痺を負い、車いす生活を余儀なくされました。辛い経験を乗り越え、車いすフェンシングに転向して日本代表として活躍。さらに、モデルとしても活躍する河合さんの笑顔の秘訣を伺いました。

MCはワクセルコラボレーターでフリーアナウンサーの川口満里奈さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。

「何でもいいから輝きたい」寝たきり生活からパラアスリートへ

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:河合さんは2018年に車いすフェンシングを始め、その後1年足らずで日本代表に選出され、さまざまな国際大会に出場されています。車いす生活となり、バドミントンからフェンシングに競技を転向したのはどういった理由があったのでしょうか?

河合:小学生の頃にバドミントンを始めて、それから17年間バドミントンをしていました。障がい者になり、パラバドミントンから「メダルに近いよ」と声を掛けてもらったのですが、そのときの私は握力が8kgしかなくて、バドミントンをするのは難しいと感じました。また、健常時の自分と比べて葛藤することがわかっていたので、それなら新たな競技にチャレンジしたいと思ったんです。「ゼロからチャレンジして世界で活躍したらどれだけカッコイイだろう」って。たまたま車いすフェンシングという競技が東京パラリンピックに向けて選手を募集していることを知ったので、「これにしよう」とノリで決めました(笑)

住谷:車いす生活になってからフェンシングをするまでの間に落ち込んだり、何もしたくないと思ったりしたことはなかったですか?

河合:治療のため2年間寝たきりで引きこもりになりました。体重も30kgまで減ってしまい、げっそりして人とも喋れない状態でしたね。でも、入院中、大学時代にバドミントンで一緒に全国優勝をした後輩が、東京オリンピックの候補に挙がっていることを知りました。その後輩と「一緒に東京五輪に出よう」と約束していたことを思い出し、「何でもいいからもう一度輝きたい」と思ったんです。

より成長するために「高い目標を持つ」

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:そもそも車いすフェンシングとはどういうスポーツなのでしょうか?

河合:私が専門にしている『エペ』という競技は、とにかく相手よりも先に突くっていうシンプルなルールです。健常者のエペの場合、相手選手の全身が有効面となりどこでも先に突いたら勝ちとなります。車いすの場合は、車いすを固定して戦い、下半身を突いてもポイントにはなりません。上半身だけでどうやったら相手が前に出てくるか、しぐさなどで駆け引きを行います。すごく頭を使う競技で、駆け引きの仕方などはバドミントンと似ていると思います。

エペで使う剣の重さは770gほどあります。それを片手で持つのですが、私は最初握力が8kgほどしかなかったので、試合が3分間あるのに2分も持つことができませんでした。そのときにコーチからは「やめた方がいいんじゃない」って言われましたね。
でも、バドミントン選手時代の根性というか、負けたくないという気持ちが蘇り、「絶対見返すぞ」と思ったんです。そこからはすごく大変でしたが、2年間かけて今の身体に戻していきました。

代表に入ってからは「結果を残さなくてはいけない」「応援や支援をしてくれる人に恩返しをしなければいけない」というプレッシャーが強くて、最初は苦しかったです。でも「自分を信じてやるしかない」「高い目標を持てば何かが変わるかもしれない」という気持ちで、人としても障がい者としてももっと成長できると信じて今も頑張っています。

「まぁいいか」精神で現実を受け入れ、笑顔を取り戻す

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:河合さんにお会いするにあたってSNSをたくさん拝見しました。笑顔の写真が多くて、見ているだけでパワーをもらえるなと思いました。

河合:私は健常者の経験もあるので、障がい者には“かわいそうなイメージ”があることを知っています。「不幸」とか「笑えないんじゃないか」とか、私も思っていました。実際、私は障がい者になったばかりの頃、現実を受け入れられず笑えませんでした。でもこの障がいがなくなることはないので、考え方を変えるしかないと思い、「まぁいいか」って受け入れることにしたんです。慣れれば苦しくもないし、この身体で何をしようかという考え方に変えることができて、笑顔を取り戻すことができました。

そして、障がい者になってからさまざまな方にお会いする機会も増えました。今回のトークセッションの機会も自分が障がい者になっていなかったら実現しなかったものですよね。だから本当に今の出会いを大切にしているんです。出会う人が増えるほど、たくさんの考え方を知ることもできますしね。今では、障がい者になってすごく楽しいと思えるようになりました。

「成功に変えるから失敗はない」パラアスリートになって得た強さ

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

住谷:河合さんは車いすフェンシングだけではなく、モデルとしても活躍されています。なぜやってみようと思ったのですか?

河合:実はモデルはフェンシングをする前からやっています。今でも続けているのは「世の中の障がい者の概念を変えたい」と思っているからです。障がい者だからポージングができないといった概念を変えたいんです。始めるきっかけは何でもいいと思っていて、「やってみようかな」って軽いノリで始めることがほとんどですね。

住谷:ノリで始めてみて失敗したことはありませんか?

河合:失敗は今のところありません。周りはどう思っているかわからないですけど、必ず成功に変えちゃうので、失敗はないと思っています。私は障がい者になり、パラアスリートになってから強くなったんです。車いすだとコンビニに行っても棚の上部にある商品は手が届かなくて、これまでの自分だったら諦めていました。今では見ず知らずの人に「すみません、助けてください」と言えるようになりました。

最初は一人では外にも出られず、常に誰かいないと行動できなかったんですが、フェンシングを始めてから考え方がどんどん変わっていきました。なるべく自分でやるけど、どうしても一人でできないことは誰かに助けを求めればいいと思っています。勇気を出して自分から声を掛ければ必ず周りの人が助けてくれるので、できないことがあっても「まぁいいか」と思う気持ちが少しずつ出てきました。

「弱い自分はもういない」挑戦することで実感

車いすフェンシング日本代表-河合紫乃-×ワクセル

川口:東京タワーに自力登頂したと伺っています。その挑戦はなぜしようと思ったのですか?

河合:それもノリですね(笑)。私の友人に東京タワーを外階段で上るアスリートがいて、その方に相談して「やってみようかな」って。私は左のお腹から足まで感覚がなくて力もまったく入らないので、右腕で手すりを持って左手に持った杖を足代わりにして上りました。東京タワーの外階段は約600段あって、健常者は15分くらいで上るそうなので私は1時間で上ると目標を立てました。半分くらい進んだところで、酸欠で頭がくらくらしてきてほぼ記憶がないんですが、周りのサポートの人たちがインスタライブを撮影していたので、「変な顔はできない」と思って頑張りました(笑)。結局44分で上り切り、この挑戦を達成したことによって「昔の弱い自分はいない」って実感をすることができましたね。

川口:そんなすごいことを達成したばかりなのに、SNSで「次の挑戦は何にしようかな」という投稿を見ました。「もう!?」ってビックリしたんですが、今後他にも挑戦してみたいことはありますか?

河合:スカイツリーや富士山にも登ってみたいですね。24時間テレビなどの企画で登れたら楽しそう。さまざまな人に私の挑戦を見てもらって「自分も一歩踏み出そうかな」と思ってもらえたら、それが一番うれしいですね。

これから2024年のパラリンピックに向けてチャレンジを続けていきますが、その後の生き方も最近よく考えています。私はやっぱりスポーツが好きなので、アスリートとして生きていきたいです。スパルタンレースという世界最高峰の障がい物レースにも、いつか出てみたいですね。何もできないと諦めていた空白の数年間を取り戻すために、さまざまなことに挑戦していきたいです。


人生を通して「挑戦」し続けるメッセージを届けたい

今回のゲストは、Jリーグ初出場の最年長記録を持つ安彦考真(あびこたかまさ)さんです。安彦さんはコーチ、通訳、選手マネジメントと多角的にサッカーに携わった後、40歳でJリーガーになりました。また、現在は格闘家として活動しており、いつでも「挑戦者」であることを信念にしている方です。今回は安彦さんが挑戦し続ける理由や想いについて詳しく伺いました。

MCは、ワクセルコラボレーターでラジオパーソナリティーとして多方面で活躍中の岡田拓海さんと、ワクセルメディアマネージャーの三木が務めました。

サッカー強豪校への推薦が叶わずヤンキー高校に

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

三木:本日のゲストの安彦さんは1978年に神奈川県で生まれ、高校生の時にご自身で新聞配達をして資金を貯めブラジルに短期留学をされています。2016年にはサッカー日本代表の選手マネジメントに就任。2018年に40歳でJリーガーになり、翌年2019年に41歳でJリーグの最年長デビューという記録を保持されています。そして、2021年には格闘家へと転向されました。

今日は安彦さんのこれまでの経験を、どんどん掘り起こしていきたいと思います。

岡田:まず気になるのは、高校生の頃にご自身で新聞配達をされてまでブラジルに行かれた理由です。どうして留学をしようと思ったのですか?

安彦:中学生の時に推薦でサッカーの強豪校に入れる予定だったんですが、偏差値が足りなかったために推薦が取り消されてしまい、泣く泣く地元のヤンキー高校に通うことになりました。サッカー部に入ったのですが、先輩はみんなリーゼント。まともにサッカーをするような環境ではありませんでした。

でも、そんななかで高校2年生の時に部活仲間の一人がブラジルに行ったんですよ。それが大きな衝撃で「同級生が行けるなら自分も行ける」と思ったんです。キングカズさんに憧れている世代だったこともあり、親にブラジルに行きたいと話したら「部活もまともにやらない、勉強もしない、ワイシャツも来て行かない、そんな奴がふざけるな」と言われてしまったんです。

でも、確かに親が言っていることが正しいと思い、自分で何とかするために新聞配達のアルバイトを始めました。貯まったお金を親に持って行ったら「そういう覚悟があるなら行かせよう」と許可が降り、高校3年生の夏に初めての短期留学に行きました。

Jリーガーを目指すが挫折「嘘の重ね着人生」がスタート

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:高校を卒業した後も、またブラジルに行かれていますよね。

安彦:Jリーグの舞台に行くためにはサッカー強豪校に入ることが王道なのですが、僕はヤンキー高校に行ってしまったのでブラジルで実績を作るくらいしか方法がなかったんです。

2回目の留学中、2年目でようやくプロ契約まで漕ぎ着けたんですが、契約書にサインをした翌日に右ひざの靭帯を切ってしまい、プロ契約を破棄されてしまいました。けれど、なんとか留まる方法を考え、12歳以下のコーチを買って出てクラブに残れることになりました。

岡田:ケガをして、それでもクラブに残ると切り替えられたことに驚きます。日本に戻ってからはどういったキャリアを歩まれたのですか?

安彦:リハビリをし、静岡のプロサッカークラブ「清水エスパルス」の入団テストを受けました。当時の僕は21歳で、周りは高校生ばかり。テストが始まるとボールを高校生にどんどん奪われて、開始早々で怖くなってしまったんです。

でも30分3本勝負だったので、2本目で頑張ればいいと思い、1本目はこれ以上ミスをしないよう、声を出すけどボールは受けないというセコイことをしたんですよね。次で挽回するつもりだったのですが、1本目が終わった後、監督に呼ばれて「もういいよ、シャワー浴びて帰りな」と言われてしまいました。

その後の僕の行動が人生に大きな影響を及ぼすのですが、僕は周りに対して「俺は結構いいプレーをしたけど監督と合わなかった」「チームと合わなかった」と自分がビビってしまったことを隠して虚勢を張ったんです。そこから僕の“嘘の重ね着人生”が始まりましたね。

生徒の行動力に突き動かされ、自分のやり方でJリーガーを目指す

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:男は特に虚勢を張ってしまいますよね。安彦さんは日本代表選手のマネジメントもされていたそうですが、それは具体的にどういったことをされるのでしょうか?

安彦:「大宮アルディージャ」の通訳の仕事を経て独立し、選手のマネジメントに行きつきました。僕がやっていたマネジメントとは、たとえば選手が「ベストファザー賞を取りたい」となった時に、勝利インタビューで子どもの話題を出すなどの戦略を立てることでした。3年後、5年後に選手のブランディングになるようなマネジメントです。

三木:コーチのようなことをしているイメージがありましたが、ブランディングプロデュースだったのですね。

岡田:安彦さんはさまざまな立場でサッカーに携われていますよね。そんなキャリアを積みながら再びJリーガーを目指されていますが、これはどういった経緯があったんですか?

安彦:僕はマネジメントの仕事をしながら通信高校の講師もしていました。不登校の子や補導歴・退学歴のあるやんちゃな子が通っていて、そういう子たちを更生させることを目指していました。僕が受け持った授業では、“一次情報が大事”というテーマで「10回の素振りより1回のバッターボックスだ」ということを伝えていたんです。

そして、授業中にある生徒が手を上げて報告してくれました。
「買いたい本があったけど、お金がなかったからクラウドファンディングをしてみました。300円しか集まらなかったです。」
それを聞いたクラスメイトたちは笑っていましたが、「生徒がバッターボックスに立った」という事実を目の当たりにして、膝からガクンと落ちるくらいとショックを受けました。

「お前のモヤモヤしている人生、それでいいのか?」って言われた気がしたんです。その生徒の行動が僕を突き動かして、人生の後悔を取り返しに行くことになったんですよ。

人生の後悔を取り戻しJリーガーデビュー

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

安彦:人生の後悔を書き出してみて、一番時間が経っていて取り返しづらいものが、あの時に虚勢を張って、嘘をついた自分でした。どう考えても40歳でJリーガーなんて無理ですけど、一番難しいものがそれだったので、取り返すことに決めました。

その時Jリーガーを見ていて、お金を出すクラブが上で、お金をもらう選手が下という主従関係が強くなっている気がしていたので、これを変えるチャンスでもあると思いましたね。その日のうちに「仕事辞めます」と電話をし、2017年の夏、39歳からJリーガーを目指し始めました。

岡田:当時“年俸120円のJリーガー”というニュースが流れた時、僕は正直「この人は何を考えているんだろう」と思いました(笑)。安彦さんのなかでお金は問題ではなかったのですね。

安彦:そもそも40歳のおじさんは入団テストを受けさせてもらえません。入団するために「給料を受け取らない」という戦略を立てました。その代わり観客席を20席分もらい、自分で1万円売れば1試合で20万円入るので、その売上のパーセンテージをクラブに渡すという交渉をしたんです。クラウドファンディングを使うなど、別のところで収入を得ることで「切りたきゃ切りなさい」と、クラブと対等でいられました。

岡田:安彦さんのこれまでのビジネス経験を活かした方法ですね。40歳でJリーガーになり、41歳で最年長での初出場記録を更新されています。当時はどんな心境でしたか?

安彦:「やっと出られた」のひと言ですね。ただ、当時ものすごい数のアンチもいました。試合に出ればアンチにも認めてもらえるだろうと思ったんですが、もともとジーコさんが持っていた最年長デビュー記録を越えて「ジーコ超えてるんじゃねえよ」ってアンチが来て、結局何をしても言われるんだなと(笑)。でも、デビューしてチームに貢献することもできたので、僕としてはやり切った思いでしたね。

代名詞は「挑戦者」格闘家へ転向

挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)安彦考真×ワクセル

岡田:安彦さんの挑戦はまだまだ終わらず、現在は格闘家として活動されています。どんな気持ちでチャレンジしようと思ったのでしょうか?

安彦:“今”を語れる代名詞を持ちたいと思ったんです。よく、「○○大学出身」とか代名詞を語る人がいますが、それは過去のことで今を語っていません。僕は今を語れるものが欲しかったんです。

自分の一番の代名詞は「挑戦者」であることと決めて、今よりも過酷なことを目指そうと思った時に格闘技が思い浮かびました。みんなが見ている「RIZIN」というリングに立って、挑戦者というメッセージを伝えていくことを目指しています。

岡田:考えや行動にここまで一貫性がある方は、なかなかいないのではないかと思います。安彦さんが描いている今後のビジョンを伺いたいです。

安彦:現在、アスリートや会社員の今後を応援する「LIFETIMEプロジェクト」という新規事業を、企業と一緒に手掛けています。先ほども話に出しましたが「今を語れる代名詞」を内省で見つけてもらうという取り組みです。僕のこれまでの経験や考え方をノウハウとして残せるよう、事業体として確立させていくことを目指しています。

また肉体的な挑戦で言うと、2022年2月にプロデビューが決まり、「44歳でプロ格闘家の最年長デビュー」という記録が増えます。弱っている自分、妥協しそうな自分、情けない自分など「僕の人生」を見せながら、それでも前に進もうという挑戦し続けるメッセージを届けられたら嬉しいですね。


人生終わりだったのに、今、生きている。こんなラッキーなことはない

“障がいのある人もない人もみんなで一緒に楽しむ「スポーツ×文化」の祭典”として、2012年からスタートした「スポーツ・オブ・ハート」。第1回から参加し、現在はイベントの名誉理事を務める車いすランナー・廣道純さんを今回のゲストにお招きしました。

ワクセル総合プロデューサーの住谷がインタビュアーを務め、イベントの成り立ちや今後の展望をお聞きしました。

オリンピアン、パラリンピアンが一堂に会する新たなイベント

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:まず最初にスポーツ・オブ・ハートの名誉理事、廣道純さんのプロフィールをご紹介します。廣道さんは、1973年12月21日に大阪府でお生まれになり、10代半ばでバイクの事故により半身不随となりました。

その後は日本初のプロ車いすランナーとして活躍。800m種目において、2000年シドニーパラリンピック銀メダル、2004年アテネパラリンピック銅メダル、2008年北京パラリンピック8位、2012年ロンドンパラリンピック6位と、世界トップレベルの成績を残されています。

現在も競技中心の生活の傍ら、テレビコメンテーターやラジオパーソナリティ、全国各地での講演活動、大会やイベントの運営などにも積極的に取り組まれています。

今年で9回目の開催となったスポーツ・オブ・ハートに、廣道さんは第1回目から参加されています。一体どのような経緯で参加するようになったのですか?

廣道:発起人の兵頭さんという方が、第1回目のイベント1週間前に「来週こんなイベントやるんだけど、スケジュールどう?」とわざわざ大分県までやってきたんです。東京開催ですし1週間前なので、「えっ!?」ってとても驚きましたね(笑)。

でも、オリンピアンとパラリンピアンが一緒にステージに上がってトークショーをしたり、スポーツ体験会をやったり、アーティストがライブをするというイベントの内容を聞き、驚きつつも興味が湧きました。それまでパラリンピアンとオリンピアンが一緒に何かをするとか、芸能人と何かをするといった発想は誰も持っていなかったからです。スケジュールが空いていたこともあり、第1回目は普通に参加者として楽しみました。

オリンピックが盛り上がりをみせる一方で、パラリンピックは認知度が低い。その差を考えたときに「テレビでやるかやらないかだ」と兵頭さんは思ったそうです。だったら、テレビで活躍している人たちとパラリンピアンが一緒にステージに上がったら、「あの人もすごい人なんだ」と視聴者は錯覚を起こします。それを続けていけば「錯覚でなく、本当にすごい人に変わる」という発想だったようです。

「毎回新しいことを取り入れたい」と年々イベントが進化

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:現在ではスポーツ・オブ・ハートの名誉理事に就任していますが、どのような経緯があったのでしょうか?

廣道:第1回目に参加したときに「こんなことができるんだ!?」という驚きがありました。でもオリンピアンやアーティストをゲストに呼ぶためにお金がかかってしまい、第1回目がものすごい赤字だったんです。

ただ、兵頭さんが「そんなの時間をかけて返していけばいい。来年もやるぞ」って言っていたことが印象的でした。選手でもないし、僕たちからしたら全くの他人が、そこまで僕たちのためにイベントをやってくれたことに感銘を受け、「絶対に協力しなければ」と思いました。

第2回目からは実行委員に入って、第3回目では一般社団法人を設立することになりました。法人のトップはパラアスリートの方が良いと言われて、名誉理事になって今に至ります。

スポーツ・オブ・ハートは東京で始まりましたが、兵頭さんが大分出身であることと、私も車いすレースのために大阪から大分に移り住んでいたため、第5回目から東京と大分の2ヶ所で開催しています。今年は中継を繋いで2ヶ所で同日開催という初の試みをしました。

同じことを繰り返すうちに、「前回も来てくれた人の興奮度がどうしても低くなってしまう」とスタッフみんなが感じていて、毎回何か新しいものを取り入れることを意識しています。最初はスポーツのイベントに応援ライブが入るだけでしたが、途中から催し物にファッションショーが追加。さらには、パラアスリートやちびっこランナー、芸能人が一緒にタスキを繋いで走るノーマライズ駅伝というものが加わり、どんどん進化してきました。

「もっとみんなに満足して欲しい」という発起人とスタッフの気持ちが強くて、せっかくだからあれもしよう、これもしようって毎回ド派手なことをしてしまうんです。今回なんて花火を上げますから(笑)。

アクシデントにもチームワークで乗り切る

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:今回のスポーツ・オブ・ハートにはお笑い芸人のダイノジさんが来られていて、色んな人に応援されているイベントなんだと感じました。

廣道:東京ではダイノジの2人がMCをやってくれることが多いですね。ダイノジは大分出身なんですけど、大分開催の第1回目から参加して一緒に盛り上げてくれています。大分会場はお笑い芸人「Wエンジン」のえとう窓口君が何度もMCとして来てくれていますが、秋のこの時期はイベントのためにスケジュールを押さえてくれているそうです。高橋尚子さんも第1回目から毎回、応援団長として陸上教室をやってくれています。

他にもライブをしてくださるアーティストがたくさんいて、著名人がまた今年も行こうと思ってくれるのが一番嬉しいですね。

住谷:イベントを開催するにあたってどんな苦労がありますか?

廣道:パラスポーツだけ、健常者のスポーツだけ、と別々でやるとなったら簡単だと思います。でも、コラボして一緒に味わってもらうことが僕のなかでのコンセプトなので、ブッキングには毎回悩まされていますね。

直前になって参加が決定する著名人や、「やっぱり参加できない」など、本番が近くなると色々なごちゃごちゃが起こります。でも窓口君とかダイノジが来てくれると、台本にないことも臨機応変に考えて対応してくれて、チームワークでなんとかなっています。

「もっとパラスポーツを知ってもらいたい」イベントの全国行脚が目標

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

廣道:「他のイベントではこんなことないよ」ってタレントさんに言われるくらい、色々ハプニングが起こるイベントなんです(笑)。
色んなミスが起こってしまうけど、現場のみんながその場で修正してステージ上ではきちっとできているよう見えます。お客さんにもきちっとできているように伝わっているみたいですね。

住谷:私にもそう伝わりました(笑)。今後イベントでやってみたいことはありますか?

廣道:今は東京と大分の2ヶ所で大規模なイベントを開催していますが、今後は全国各地を回ってみたいと思います。東京、大分と同じ規模でやるのは難しいと思うので縮小した形になるかもしれませんが、この2ヶ所プラス毎年1ヶ所でも開催地を増やしていきたいです。現地に足を運んでもらって少しでも多くの人が関わってくれることで、もっとパラスポーツのことを知ってもらいたいと考えています。

住谷:私もそういう活動が必要だと思い、今回ワクセルとしても協力させてもらいましたが、廣道さんが考える課題は何でしょうか?

廣道:一番の課題はパラスポーツ全体の発信力の弱さです。パラスポーツは、“障がいを持った人の特別なスポーツ”と、位置づけられることが多いです。パラスポーツのことを発信したいと思っていても、どこに発信していいかもわからず、観てほしい人にパラスポーツの情報がたどり着かない。大会でも観客は選手の家族や友人がほとんどというのが現状です。

それでも、観てくれたらファンになってくれると思うので、もっと発信していくことが必要です。今は著名な方々がお客さんを呼んでくれないと成り立たないイベントですが、最終的には障がい者も健常者も分け隔てなく、共生社会に沿ったイベント、当たり前に誰もが楽しめるイベントを増やし、お客さんが集まるようにしたいですね。

「残された今あるものを工夫して楽しむ」パラアスリートの考え

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:私も一度観たらファンになると思います。全国各地にスポーツ・オブ・ハートを必要としている人が絶対いるはずです。障がいを持った人たちが輝く場や、取り上げる機会を作っていくことが不可欠ですね。

廣道:障がいを持ったアスリートがステージに上がることによって、障がい者の見方が変わると思います。「可哀そうな人」から「障がい者のスター」に変われば、それを見ていた障がいを持つ子どもたちが「僕もあのステージに上がりたい」って思うはず。障がいを持ってもこんなに輝かしい世界があることを知って、「障がい者になったけどまぁいいか、あそこで頑張ろう」って思ってもらえたら良いですね。

歩けなくなった、片方の手足が使えなくなった、目が見えなくなった、そうなると何もできないと絶望を感じる人が多いです。でもそうじゃない。残されたものがあったらそれを使って工夫して楽しんでいけば良いのです。それがパラアスリートのそもそもの考え方です。足が動かなくても、腕を鍛えたら車いすでフルマラソンを1時間20分くらいで走れますから。

住谷:廣道さんにも落ち込んでしまう時期はありましたか?

廣道:私は怪我を負った直後「死なないで良かった、助かった」ってスタートしたので全く落ち込むことはなかったです。リハビリの先生から「あんたはリハビリの必要はない、スポーツをやりなさい」って言われて、退院して本当にすぐ車いすマラソンを始めました。普通はどうしても落ち込んでしまうものですが、アスリート仲間と話していると私と同じような考えの人も何人かいましたね。

「障がい、国籍、性別関係なくそこに集まったみんなが楽しむ」そんな世の中に

車いすランナー・廣道純さん×ワクセル

住谷:廣道さんのような人が障がいを持つ人の希望になっていくのだと思います。廣道さんはどうやって自分をモチベートしているんでしょうか?

廣道:子どもの頃からっていうのもありますが、私は事故を起こして「あの時死んでいたんだ」ってずっと思っているんです。「人生終わりだったのに、今生きているこんなラッキーなことはない」「あの時よりひどいことにはなっていない」って思うので落ち込みません。

住谷:先ほど全国でイベントをしたいという話もありましたが、廣道さんの展望やこれから社会がどうなっていけばいいかなど、お聞きしたいです。

廣道:障がい者も健常者も性別も国籍も関係なく、そこに集まったみんなが楽しむというコンセプトでスポーツ・オブ・ハートは成り立っています。ノーマライゼーションがどんどん進化して、”ダイバーシティ”や”インクルージョン”などの言葉が生まれ、本当にさまざまな人がいて当たり前という世の中になっています。オリンピックは観るけれど、パラリンピックは知らないなんて時代遅れなんですよね。

スポーツ・オブ・ハートの展望は、スポーツだけでなく、今コラボしている文化やアート、ファッション、それ以外にも色んな分野とコラボしていきたいです。スポーツはできないけれどファッションなら参加できる、絵を描くことなら参加できるといったイベントにし、そのイベント内容のような世の中になっていったら面白いと思います。

だからみなさん、ぜひ応援をお願いします。


どんなときでもプラスの意味づけを!野球を通して人生の勉強をしてきた!

元プロ野球選手で現在は野球解説者・野球評論家の桧山進次郎(ひやましんじろう)さんにインタビューさせていただきました。

桧山さんは1991年に阪神タイガースにドラフト4位で入団、2003年にはチームを優勝に導き、優秀選手賞を獲得されました。2008年からは代打として活躍し「代打の神様」と呼ばれるようになりました。

2013年に引退されてからは野球解説者、評論家、YouTuberとしても活動されています。今回は野球選手時代や引退後の活動について、話を伺いました。

インタビュアーはフリーアナウンサーの川口満里奈(かわぐちまりな)さん、ワクセル総合プロデューサーの住谷知厚(すみたにともひろ)です。最後までお楽しみください。

低迷している阪神タイガースを強くしようと意気込んで入団

住谷:野球を始めたきっかけをお聞かせください。

桧山:父親と2つ上の兄が野球をやっていたので、物心ついたころには野球をやっていました。家の前に公園があり、そこで野球の練習をしていました。体を動かすことが好きだったので、野球ができないときは友達と鬼ごっこやかくれんぼをしていました。

住谷:昔から応援していた阪神タイガースに入団していかがでしたか?

桧山:大学時代は比較的活躍できていたため、プライドも強く「ドラフト3位までに入ったら入団する」と宣言してドラフトに臨みました。しかし結果は阪神にドラフト4位で指名され、正直残念な気持ちでした。

さらに当時の阪神が低迷期であったこともあり、入団するかを悩んでいました。その時に、父から「昔から阪神ファンだったじゃないか。自分がチームを強くしたらええやろ!」と言われ、入団を決断しました。

阪神タイガースに入団してからは、大学野球とのレベルの違いを実感しましたね。トレーニングルームで10歳以上離れた真弓明信(まゆみあきのぶ)選手と一緒になり、自分よりはるかに重いウェイトでトレーニングをされているのを知ったときは衝撃でしたね。

また、新庄剛選手の肩の強さにも驚きました。プロ野球選手でも新庄選手以上に肩が強い人をみたことがありません。加えて足がとても速く、しかもどんどん走りが加速するタイプなので2塁3塁へと走り抜ける姿は迫力がありました。

川口:新庄選手との印象的なエピソードはありますか?

桧山:吉田義男(よしだよしお)監督のときに、新庄選手と3,4番を打っていた時期がありました。お互い感情を表に出さないタイプだったのですが、ある日吉田監督に呼び出され「打てなくて悔しくないのか!もっと感情を表に出せ!野球は心だ!」と怒られました。

このころ僕らはプロ野球にも慣れてきて、なんとなく毎日を過ごしているような感覚もありました。しかし、監督に怒られたことがきっかけで感情を表に出すようになりました。これはとても重要なターニングポイントでした。

上手くいかない時期も「人生の勉強」だとポジティブにとらえる

住谷:阪神タイガースが低迷していた時期、チームはどのような状態でしたか?

桧山:実はわたしが入団した年、阪神タイガースは優勝しているのです。しかし、その後攻撃力不足により低迷してしまいました。選手は他球団との実力差を肌で感じているので、今年は優勝できないなというのがわかります。

優勝できなければ順位はあまり意味がない、そうなるとそれぞれが個人の成績を残そうとして、チームとしてのまとまりがなくなっていました。

川口:チームがバラバラになっていると精神的につらいと思いますが、メンタルのケアはどうされていましたか?

桧山:阪神タイガースではレギュラーとして試合に出られていたのですが、そのことに安心しないように他球団を意識するようにしていました。自分がもし他球団にいたとしたら、レギュラーはとれないと感じていたので、危機感をもって練習をしていました。

野村監督時代に自分の成績が落ち込んでいた年があり、戦力外通告されるかもと思っていた時期もありました。他球団でもレギュラーにはなれる実力はないと感じて、どうしようととても悩みました。

「もう自分はおわった。でもまだ頑張りたい。」という葛藤がありました。野球をやめることも考え、いろいろ考えた結果「自分は野球を通して人生を勉強させてもらっているんだ」と思うようになりました。

このように考えられるようになり、とても楽になりました。自分のことも好きになり、一生懸命野球に取り組めるようになりました。もし一生懸命やってダメだったとしても、後悔なく第2の人生にチャレンジできるなとも思っていました。

住谷:野球でやり残したことはありますか?

桧山さん)ないですね。自分の中では精一杯やってきたので「もっと練習しておけばよかった」などの心残りはないです。しいて言えば、もっと早く「野球を通じて人生勉強させてもらっている」ということに気づくことができたら、もっといい成績が出せたかなとは思います。

若手選手を指導するときも、「実力はあるし、はやく気づけたらいいな」と思うことはあります。ただ自分自身も30歳になってから気づいたので、悩んで自分で気づくことが必要かなと思います。

住谷:野球に限らず、20代の方は頑固になってしまうことも多い気がしますが、いかがでしょう?

桧山:たしかに多いと思います。ただ、頑固なことが悪いわけではなく、芯があることはとても大切です。人の意見に振り回されるのではなく、自分の芯をもったままいろいろな意見も取り入れていくことが重要ではないでしょうか。

若者の勢いはとても大事です。パワーがあるので、それを活かしながらいろいろな意見を取り入れて、同時にブレーキも使えるようになるといいです。また、最短距離を進むだけではなく、回り道や寄り道することも大切です。

準備していれば失敗しても学べることがある

住谷:代打を通じて学んだことはありますか?

桧山さん)監督の意向で、若手に出場機会を与えて成長させようとしている時期でした。もちろんその気持ちはわかりますが、阪神タイガースの成績も奮わず、自分の出場機会が減ったことに対してストレスはありました。

ただ、レギュラーの選手とはまったく違い、一歩引いたところから試合を見ていて、いざという時に出場するというのはとてもいい経験でした。レギュラー選手とはまったく違う世界なので楽しかったですし、同じホームランでも代打として打ったときの喜びは格別でした。

川口:「代打の神様」と呼ばれていましたが、代打として何を大切にされていましたか?

桧山:代打に限らず、代走や控えのピッチャーは短い出場時間のために入念に準備をしています。「こういう状況になったら出番だからな」と言われているので、そこに向けてコンディションやテンションを上げていきます。

ただ、急に状況が変わって出番がなくなることもあります。テンションを上げた状態でネクストバッターサークルに入ったにも関わらず、出番がなくなると精神的にかなりつらいです。

そのため、テンションは一気に上げるのではなく徐々に上げ、バッターボックスに入るタイミングで最高になるようにしていました。

代打を通して、準備の大切さを実感させてもらいました。もちろん準備していてもうまくいかないことはありますが、準備しないで失敗するほうが嫌でした。また、準備して失敗した場合は、その準備が次のチャンスに活きてくるので無駄にはなりません。

いろいろな挑戦が経験となり、ほかのことにも役立つ

川口:現在は野球以外にもいろいろなことに挑戦されていますが、経験を増やすことにどのような意義を感じていらっしゃいますか?

桧山:いろいろなことに挑戦することで、どうやったらできるかなと工夫をこらしたり考えたりします。その経験がまた別のことに役立つことがあります。

例えば釣りの場合、魚との駆け引きを学ぶことができます。人とのコミュニケーションも同様に駆け引きがあるので、釣りで学んだことがとても役立ちます。また、ライブに参加したり、テレビに出演したりするときは「どうやって盛り上げているんだろう?」と考え、盛り上げ方を宴会の場などに活かしています。

ファン感謝デーで初めてのモノマネを提案したのはわたしでした。当時、的場寛一(まとばかんいち)選手が能力はあるのに怪我で思うように活躍できておらず、モノマネに挑戦してもらったらとても評判がよく、彼の知名度も上がりました。

川口:とても気遣い上手だなと感じるのですが、ほかにも気をつけていることはありますか?

桧山:人に何かを伝えるときは、相手の状態をよく確認するようにしています。アドバイスをしていいタイミングなのか、もう少し悩ませておいて自分で気づいた方がいいタイミングなのかを見極めます。また、怒る場合でも本気で怒る場合もあれば、怒ってるフリをすることもあります。

うまくいってないときこそ、プラスの意味づけをしていく

住谷:これからやってみたいことはありますか?

桧山:今までは団体スポーツで頑張ってきたので、今度は個人の力を試せる ”商売” をやってみたいですね。そのために今はたくさんの人と会ったり、チャレンジをしています。何かやりたいものを見つけたいなと思っています。

川口:素敵ですね。現役を引退されてもなおチャレンジし続けたい、というモチベーションの源は何ですか?

桧山:チャレンジしている自分が好きですし、仮にチャレンジが失敗に終わったとしても自分磨きになって成長できるからです。そして、子供や後輩、友だちが悩んでいるときに「似たような経験したことあるよ」と言って学んだことををシェアできたらいいなと思います。人が一番の宝物ですからね。

川口:人が大好きなんですね。

桧山:そうですね。騙されたこともありますが、それも今ではポジティブに解釈して、そういう経験があったからこそ今があると思っています。

川口:前向きに変換できるところが素敵ですよね。

桧山:うまくいっているときは誰でもポジティブに考えられるので、うまくいっていないときにどうポジティブに変換するかが重要ですよね。

車を擦ってしまったときに「なんだよー」とイライラするか、「擦ったということは運転が雑になっているに違いない。安全運転を心がけよう」と思うかで大きく違います。自分にとってプラスになるように意味づけするように意識しています。

自分の芯をもちながらチャレンジする

住谷:20~30代の若者に向けて最後に一言お願いします。

桧山:20~30代になると、ある程度自分の考えがかたまりつつある時期だと思います。その時期に、いろいろな人の意見に耳を傾けて、新たな自分を発見できるとさらに成長できます。

今までと違った自分を見つけ出すには、チャレンジが重要です。そして、チャレンジすることに対して正直に向き合ってください。向き合ったときにどうしたらいいか迷うこともありますが、そのときはもう一人の自分を置いて客観的に見るようにしてください。


ベクトルは常に自分に向けて、失敗から学ぶ。

元サッカー選手で川崎フロンターレ リレーションズ オーガナイザーの中村憲剛さんにインタビューさせていただきました。
インタビュアーは元山形放送所属、2014年度のNNNアナ ウンス大賞新人部門で優秀賞を受賞されたフリーアナウンサーの川口満里奈さんです。

中村さんは2003年に川崎フロンターレへ入団、2006年には日本代表へ初選出、2016年に はJリーグ年間MVPを獲得されています。J1リーグでは通算3回の優勝も経験され、日本を 代表するサッカー選手でした。

2021年1月に現役を引退し、現在は川崎フロンターレリレーションズオーガナイザーとし て活躍。
同月には18年間の活躍をまとめた書籍『THE LEGEND 中村憲剛 2003-2020』 (三栄書房)を発売されました。

その他、ミズノブランドアンバサダーやJFAロールモデルコーチ、JFA Growth Strategist(JFA グロース・ストラテジスト)、育成年代への指導、解説活動など、多方面で 活躍されています。

今回は、18年間の現役時代や引退してからの生活についてインタビューしましたので、最後までお楽しみください。

サポーターに喜んでもらうことをして、サポーターを増やす

川口:川崎フロンターレはユニークなグッズがたくさんありますが、なぜグッズが多いのですか?

中村:川崎フロンターレはJ2リーグからスタートし、僕が加入した2003年の時点 ではサポーターもあまりいませんでした。

ホームスタジアムである等々力陸上競技場(神奈川県川崎市)に足を運んでもらうためには、自分たちからアプローチする必要がありました。

そのため、選手が考えたグッズや記念グッズなど、なんでもグッズにして多くの人に興味をもってもらおうとしました。これが現在も受け継がれ、いろいろなグッズが販売されています。

例えば、真っ白のミニサッカーボールは選手からサインを書いてもらえるようになっていて人気がありますね。
ほかにも、ご祝儀袋やポチ袋といった珍しいグッズも販売しています。

「プロサッカー選手はボールを蹴ることで稼ぐ」というイメージをもって入団したのですが、グッズの企画やイベントへの参加など、ほかの役割も多くて驚きました。

川口:サポーターと銭湯に行ったこともあるんですよね?

中村:はい、引退してからサポーターと銭湯に行かせていただきました。現役時代にはきっかけがなかっただけで、もし機会があれば行っていたと思います。

ただこれには裏話があり、銭湯に入ることは事前に知らされていませんでした。

銭湯に到着して「ロッカーの中を見てください」と言われたので開けると、桶とタオルが入っていたんです。それを見た瞬間「あ、入るんだな」と思いました(笑)

そして、サポーターと裸の付き合いをさせていただきました。
自分でも何をやっているんだろうと思いながら入っていましたが、サポーターや浴場組合の方々が喜んでくれたのは嬉しかったです。

そして、この写真や記事をインターネットにあげることで興味をもち、スタジアムに足を運んでくださる方もいらっしゃいました。

このように、最初は川崎フロンターレや中村憲剛を知らない人も、イベントやインターネットを通じて興味をもってくれます。
そして、スタジアムに試合を観にきて、応援してくれるようになるのです。

このようなことを地道に継続してきて、川崎フロンターレは今のような知名度の高いチームになりました。
もちろん、お客さんとの交流が苦手という選手もいるので、それぞれの得意分野を活かし合えたらと思います。

川口:中村さんはお客さんとの交流はお好きですか?

中村:好きですね。お客さんの反応がダイレクトにわかるので楽しいなと思います。
自分が楽しめて、来場者も増えたら最高じゃないですか。

サッカー選手はスタジアムに足を運んでくださる方たちが払ってくれる入場料やグッズ収入などからお給料をいただいています。
そのため、自分たちから積極的に知ってもらい、スタジアムに足を運んでもらい応援していただくことも重要だなと感じます。

新型コロナウイルスの影響でサポーターのありがたみを再認識した

川口:昨シーズンは現役ラストシーズンでしたが、サポーターへの特別な想いはありましたか?

中村:昨シーズンは新型コロナウイルス感染症の影響で、観客が少ない試合が多かったですね。

自分がリハビリ中のときに、1回だけ無観客試合があり観客席から観ていたのですが、正直 とても味気ないなと感じました。
ボールを蹴る音、選手と監督の声だけが響いていました。

そこから少しずつサポーターが増えたときに、声は出せなくても、サポーターのみなさんがいてくれるだけでこんなに雰囲気が変わるのかと驚きました。
チャンスになると、観客の念というのでしょうか、空気がガラッと変わるんです。

以前からサポーターの存在のありがたみは感じていましたが、昨シーズンはラストシーズンということもあり、特に感謝の気持ちが強くなりました。

サポーターに応援してもらうなかで「サッカーができることは当たり前じゃないんだ」と、改めて感じることができてよかったです。

日本代表に選出されたのは、プロに入ってからの努力

川口:2003年から2021年にかけての、現役時代18年間を振り返っていかがですか?

中村:長かったなと思います。
18年というのは、生まれた赤ちゃんが高校3年生になりますから。

若手の選手に「2003年のとき何歳だった?」と聞くと、「小学生でした」や「生まれていません」といった答えが返ってきて驚きます(笑)

キャリアのなかでも、2006年に日本代表に選ばれた経験は大きかったですね。
それまでアンダーカテゴリーと呼ばれる、世代別の日本代表(U-18など)にも入ったことがなかった ので本当に嬉しかったです。

日本代表に入る前に選ばれた大きな代表は、小学校6年生のときの関東選抜でした。
それ以降は代表に選ばれたことがなかったので、学生時代は劣等感も抱いていました。

ただ「プロになってからは自分の努力次第だ」と思って努力した結果、日本代表の座をつかみ取ることができました。

日本代表に選ばれたことに自信をもってプレーする

川口:はじめて日本代表に選ばれたときはどのような気持ちでしたか?

中村:試合から帰る途中で強化部長から電話があり、驚きのあまり「本当ですか!?」と言いました(笑)

最初に日本代表に合流したのは横浜で、オシム監督は近くで見るととても大きかったのを覚えています。

当然、周りは日の丸を背負ってきた有名な選手ばかり。ずっと日本代表を応援する側だったことので、気おくれするところや、お客さん感覚が抜けず変な感じがしました。

今振り返ると、自分も日本代表なので、もっと堂々としたらよかったなと思います。

川口:新しい場所に挑むとき、気おくれすることがあると思いますが、どう対応しますか?

中村:僕の場合は、ボールを蹴り出したらほかの選手と対等だと思ってプレーしていました。自分は実力を認められて選ばれているのだから、自信もってアピールすべきだと考えていました。

オシム監督の戦術は「考えて走るサッカー」がキャッチコピーでした。学生時代から考えてプレーしてきた自分にとっては、順応しやすく充実感もあって楽しかったです。

南アフリカW杯での後悔が成長に繋がった

川口:2010年の南アフリカW杯で悔しい経験をしたと聞きましたが、どのような経験でしたか?

中村:2010年の南アフリカW杯代表にも選ばれましたが、グループリーグでは出番がありませんでした。

それでも、自分は攻撃的な選手だったので、勝利することが大切な決勝トーナメントでは出場できると思って準備をしていました。
自分が得点に絡んで日本をベスト8に導こうと意気込んでいましたね。

予想通り、決勝リーグ1回戦のパラグアイ戦で起用されましたが、得点はできずPK戦で負けてしまいました。何回か得点のチャンスもあったのですが、決めきれず大きな後悔をしまし た。

特に、玉田選手からのパスを合わせられなかったことをとても悔やんでいます。
自分の選択ミスによってパスがずれてしまい、決められませんでした。正しい選択をしていれば確実に決められたシーンだったので、自分が決めたらベスト8だったと思うと忘れられません。

もし同じシチュエーションになったときに、今度は確実にゴールを決められる選手になろうという気持ちが、そこから僕を成長させてくれました。

サッカーにひたむきに向き合って努力をした結果、年間MVPを獲得できた

川口:その成長の先に得られたのが、2016年のJリーグ年間MVPだと思います。36歳での選出は歴代最年長、ギネス世界記録にも登録されていますが、選ばれたときはどのような気持ちでしたか?

中村:当時はどれだけいいパフォーマンスができるかだけを考えていたので、36歳という年齢は正直気にしていませんでした。純粋に自分がやってきたことを評価されて嬉しかったです。

今振り返ると36歳で獲得したのはなかなか凄いなと思います。Jリーグに36歳で現役の選手はほとんどいないので、ジワジワと実感しています。年齢に関係なく、努力次第で結果を変えられるんだと証明できたのが嬉しかったです。

川口:年間MVP獲得の際、サッカーに向き合う姿勢も評価されていたと思います。サッカーを続ける上で一番大事にしてきた考え方、向き合い方をお聞かせください。

中村:サッカーが好きな気持ちをもち続けることが大切だと思います。とにかく上手くなりたかったので「昨日より今日、今日より明日上手くなるためにはどうしたらいいか」を考えるのが楽しかったです。
あとは、年齢が上がるにつれて試合にも使われにくくなるので、試合に出るために工夫するのもやりがいがありました。

ベクトルは常に自分に向けて、失敗から学ぶ。

川口:自分を冷静に客観視することを大切にされていると思いますが、なぜでしょうか?

中村:自分の主観だけで話すと、失敗を周りのせいにしてしまいます。失敗したときに客観的に自分を見つめ、できない自分を受け入れることが先に進むために必要だなと思っています。

川口:日本代表に入れなかった時期は、どうやってメンタルを切り替えていましたか?

中村:自分が代表に呼ばれないようなパフォーマンスをしていたら納得できますし、呼ばれておかしくないパフォーマンスでも呼ばれないなら、それはしかたないと割り切っていました。
代表に呼ばれるまで高いパフォーマンスを維持しようと思っていました。

あとは、日本代表に入ることがすべてではないと考えていました。まず大事なのは所属クラブの勝利なので、クラブで結果を残すことを最優先にしていました。

代表に選ばれていた時期も、全力でクラブを勝たせたことが評価されていたので、クラブでの活躍があってこそ代表入りできたと確信しています。

代表に呼ばれないときは、「それはそれ。呼ばれない時期なんだな」と思うようにしていました。自分にベクトルを向けて、常にいいプレーをすることだけに集中すること。
誰もが「なんで中村を代表に呼ばないんだよ」と言うくらいのプレーをすれば、いつかは呼ばれるはずなので。

川口:やりたい仕事ができずに、やりたくない仕事をやらなければいけない状況のときは、どう捉えたらいいでしょうか?

中村:まずは自分ができることを100%やることが、あとでやりたい仕事ができたときに役にたちます。

大切なのは準備をしておくことです。今頑張ることが望む未来につながっているので、目を向けるべきは「今」。
何をやったらうまくいくか、自分にベクトルを向けて考えてみてください。

今与えられている仕事にも意味があるはずなので、それをどのように自分にとってプラスの理由に変えていくのかが重要です。

川口:いろいろな失敗を糧にしてきたと思いますが、失敗に対する恐怖心はありますか?

中村:致命的な失敗は避けるようにしているので、怖くはないですね。ある程度は失敗して、そこから学ぶことが大切だと思っています。

サッカー人生でも失敗と成功を積み重ねて、自分のプレースタイルができ上がってきました。失敗は積極的にするべきだと思います。

あとは、失敗をどう捉えるかも大切です。失敗からは何も学ぶものがないという人もいれば、失敗から学ぶ人もいます。

僕自身、失敗したあとは悔しくて「学ぶものはない!」と思ってしまうのですが、あとから振り返ると課題がわかってきます。

そして、課題を修正することで成長できるので、これを繰り返してきました。

これからはプレー以外で自分を表現する

川口:今後の目標をお聞かせください。

中村:「未定」ですね。今は指導者や解説者になるといった目標は、あえて立てていません。

今は見聞を広める時期だと思っているので、いろいろなお仕事をやらせていただいています。どんな方向にも行けるように準備している感覚です。

18年間狭い世界にいましたが、今は大海原に出た気分です。

それに伴い、自分の表現方法も変わってきました。以前はプレーで表現していましたが、今は今回のようなインタビューやテレビなどでの表現を求められています。
そのため、プレー以外に人としての深みと厚みを出す必要があります。

ありがたいことに、表現できる場をいただけているので、期待に応える必要があるなと感じます。なぜ呼ばれたのか、何を話したらいいのかを瞬時に判断する必要がありますから。

とはいえサッカーでもチームの勝利のために一瞬一瞬判断しながらプレーしていたので、似ているなと思います。