「宮崎の地域活性化のために人生を尽くす」政治家・東国原英夫さんの本音に直撃

今回のゲストは東国原英夫(ひがしこくばるひでお)さんです。芸人、政治家として二足の草鞋で活動する東国原さんの思いは、「人々を幸せにするということ」

再出馬の際には、宮崎県を盛り上げるための施策「東国原八策」を、息子の加藤守(かとうまもる)さんとともに作成。東国原さんが胸に抱く宮崎への思いと、今後の展望について教えていただきました。

人々を幸せにしたい!そのために芸人、そして政治家に。

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住谷:本日のゲストは東国原英夫さんです。まずは芸能界に入ったお話から聞かせてください。

東国原:小学校の卒業文集に、将来の夢として「政治家とお笑い芸人になりたい」と書いているんです。1969年の12歳の頃にそんな夢を抱くなんて、頭おかしいですよね(笑)

宮崎県の都城市(みやこのじょうし)って当時人口10万ぐらいの小都市で、将来の夢が政治家とお笑い芸人なんて、そんなことを思う人間はいなかったです。まさに夢のまた夢の話。

小学校の先生から「東くん、将来は政治家とお笑い芸人、両方になりたいんですか。両方の仕事の共通点は何ですか」と聞かれた時があって、私は「両方とも人々を幸せにする仕事です」と答えたのをよく覚えています。

小学校の時は、聡明なお坊ちゃんで、小学生にしてそこが人生のピークでした(笑) スポーツ万能で、12歳の頃には水泳部で市や県の代表になって、体操でも大車輪ができましたし、自分でいうのもなんですが、優秀でしたね。

住谷:宮崎県知事には、2007年に初当選されたんですよね。

東国原:本当に、皆さんのおかげで改革も進みました。県民の皆さんのおかげ、議会の皆さん、県職員の皆さんのおかげです。そしてそれまでに培ってきた芸能界の横のつながりもありましたね。特に一生懸命動いてくださったのが重鎮と言われている方たち。ビートたけしさん、明石家さんまさん、和田アキ子さん、全員が宮崎を盛り上げようという機運になりました。

ただね、通常、タレントさんはだいたい選挙の応援をしないものなんです。CM契約やテレビの契約があって、政治的な中立性を保持しなきゃいけないことが多くて、なかなか応援に駆けつけられないんです。

アメリカやヨーロッパなんかは、タレントさんとか俳優さんも「私は何党を支持しています」とか「○○候補の応援をします」と平気で政治的な発言をするんですが、日本はそういうことはNGですね。

それで「投票率を上げろ」とか言ってもね、そこはもうちょっとオープンにしなきゃダメです。「私は自民党です」「私は立憲民主です」「私は共産党です」でいいじゃないですか。自分の立ち位置を自由にオープンにすべきなんじゃないかなと思います。

住谷:なぜ日本はオープンにならないんですか?

東国原:やっぱりスポンサーがいますからね。テレビの地上波にとってスポンサーは神様だから、スポンサーさんから何かクレームが入ったら何もできないものなんです。だから中立がいいんですね。

でもね、2022年に再出馬した時に、気にせず応援に来てくれたのが、かとうかず子さんだったんです。あれは、うれしかったですね。全然知らなかったから来ていただけると聞いて、びっくりして選挙カーが5センチ浮きましたよ(笑)

再出馬した理由は、宮崎がいまひとつ知名度や存在感が上がらないこと。そして、コロナで地方が疲弊していて、異次元の地方自治をやって宮崎を浮上させないと、周りにはかなわないと思ったんです。このままでも堅実なのはわかるけど、それだけでいいのかなと思ったんです。新幹線を通すとか、ここに数十階のビルを建てるとか、そういう大きな対策をしていかないと。

宮崎をフロリダ化!異次元の『東国原八策』で地域活性

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住谷:その異次元の施策が、“東国原八策”というわけですか?

東国原:はい。宮崎を“フロリダ化”する計画です。WBCは日本のフロリダ(宮崎)でキャンプして、アメリカのフロリダで決勝だったのですが、今後は宮崎をフロリダ化するのが僕の夢なんですよね。宮崎の新しい面は何かと考えた時、南国・宮崎でもなく、スポーツの宮崎でもない。それらはもう当たり前に定着してますから。

フロリダにはあの『IMGアカデミー』もあります。まさに、世界各国からキャンプに行く場所なんです。フロリダには高齢者や富裕層が住んでいますし、医療関係も非常に充実していて、移民も多いんですよ。特に、南米やメキシコからの移民が多いです。

僕は今後、国も移民政策に舵を切っていかざるを得ないと思っているので、その時は、宮崎が移民を最初に受け入れられたらと思っています。と言っても移民の問題は非常にデリケートな話なので、議論しなきゃいけないんですけど、そういう構想もありました。前回23万5602票をいただき、県民の皆さんの信任と期待があったわけですから、それを裏切るわけにはいかんよなというのが今の僕の立ち位置です。

僕は、宮崎の歴史を全部知っていますし、宮崎のいいところも、コンプレックスがある点もわかっています。だから、どうにかしてここを活性化したいというエネルギーが湧き上がってくるんですよね。

僕が有名人になろうと思った理由のひとつも、宮崎出身の芸能人がそれまでいなかったからです。宮崎出身の有名人・芸能人は克美しげるさんか緑魔子さんだけですから(笑)

住谷:芸能界に入りたいと思った理由にも、宮崎県をなんとかしたいという思いがあったんですね。

東国原:そうですね。まずは、1980年にたけしさんのカバン持ちで芸能界に入ったんです。たけしさんは当時オールナイトニッポンというラジオ番組に出ていました。あの頃の中学生・高校生は木曜日深夜の「ビートたけしのオールナイトニッポン」を誰かがカセットで録音して、翌日教室で聞くのが文化というほどの人気ぶりでした。

その時、僕は弟子としてそこにいるわけです。たけしさんは「俺んとこに弟子が来やがって」と半分うれしそう、半分迷惑そうで。「俺なんかまだ弟子を持つような立場じゃないから、あいつを辞めさせたいんだよな」と、リスナーに企画を募って「東を辞めさせようコーナー」が出来上がりました。

その企画で最初に行ったのが、福島県です。リスナーから来たハガキの中に、「シカやイノシシが出るので退治してください」っていうのがあり、そしたら「お前、行ってこい」となったんです。

「翌週の木曜日の生放送に間に合うように帰って来い」って旅費1万円だけもらい、ヒッチハイクなり、何かを手伝うかわりに泊まらせてもらうなり、全部まかなって福島まで行って帰って来る旅です。これが大爆笑で、のちの「電波少年」の企画になりました。

テーマは「1日を大切に生き抜くこと」

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住谷:今回は息子さんの加藤守さんにも来ていただいているので、ご一緒にお話しを聞かせてください。これからの宮崎をどうしていきたいか、展望を教えていただけますか。

東国原:息子はね、ホント真面目なんです。クラス委員をやったりスポーツで代表になったり。私も12歳がピークでしたので、そこまでの私を受け継いでいるんですかね?

加藤:反面教師として勉強させていただいています(笑) 私も前まで、サラリーマンとして政策立案や政策の調査という仕事をしていたなかで、『東国原八策』をつくって、選挙活動を一緒にさせていただきました。

選挙は残念な結果になってしまいましたが、引き続き地域を盛り上げ、宮崎をより活性化していくということにベクトルを向けていきたいと思っています。たとえば、農産品の販路拡大のためには、輸出や全国への展開も必要。さらに、今までやったことがない新しいことを、いろいろな事業者さんを巻き込んでやっていきたいです。

東国原:私の展望は、1日1日を生き抜くこと。我々の歳になると、1日1日が重要で、今日を大切に生きたいんですよ。人生って1回しかないですから、全力で生きたいだけなんです。65歳までいろんな目標を持ってやってきて、叶えられたものもあるし、夢破れたものもあるんですけど、今後は1日1日をとにかく大切に、楽しんで生き抜くのが僕のテーマです。

「応援で人生が変わる!」駅前で朝チア活動をする女性アナウンサーの思いとは

今回のゲストは応援のスペシャリストでもある朝チア代表、クミッチェルこと朝妻久実さんです。朝妻さんは、朝の駅前で出勤や通学途中の皆さんを、チアで応援するという活動を自主的に開催。人を応援することで自分自身がエネルギーをもらえて、夢だったアナウンサーの仕事につけるようになったそうです。その応援の力、夢の叶え方、人を応援し続けるモチベーションについて聞きました。

自分の姿や声で人を元気にするチアの魅力

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住谷:今回は応援のスペシャリストでもある朝チア代表、クミッチェルこと朝妻久実さんに来ていただきました。では、まず朝チアについて教えてください。

朝妻:朝チアを始めたのは、「自分を変えたい」「殻を破りたい」と心の底から思ったことがキッカケです。

今でこそアナウンサーやチアリーダーと人前に出るお仕事をさせて頂いていますが、実は子ども時代はいじめに遭っていました。私は北海道の田舎でのびのびと生まれ育ち、転勤をきっかけに違う街に引っ越しました。環境になじめなかったこともあり、年長の時にいじめにあったんです。

幼心ながらに寂しさとか孤独、自分の気持ちが言えないなど、心の痛みを味わいました。その時は辛かったですが、今思えば人の痛みがわかることは大事ですし、応援する気持ちは共感から生まれるので、ここがある意味、応援のスタートだったのかなと思います。
そして、小学生時代の私は勉強が本当にダメダメで、何をやってもビリだったんです。でも、親友が公文式をやっていたことに影響されて、なんとなく公文式を始めました。
するとだんだん計算が速くなり、さらに頑張ったら、いつの間にか、いつもビリだった私がクラスで1番になったんです。そこから意欲が湧いて、中学では勉強も部活も頑張り、学級委員や生徒会なども務めるように。そこから志望高校にも合格しました。

住谷:すごいですね。ビリから勉強も部活も頑張って成果を出したんですね。

朝妻:はい、すごく頑張りました。念願の高校でしたが、そこは私と同じように頑張り屋さんばかりが集まる進学校だったので、すぐにまた落ちこぼれてしまいました。クラス替えに馴染めなかったこともあり、全体的に心が落ち込んでしまっていました。でも、その当時、弟の勉強の面倒を見ていたのですが、自分が手伝うことによって人が成長していくことの喜びを知り、教育に興味を持つようになりました。

その後、私も勉強を頑張り、東京の大学の教育学部に合格して、部活は憧れのチアリーディングに入部。チアは厳しいけれど、とても楽しくて、部長も務めるほど打ち込んでいました。まさに青春を謳歌していましたね。

教育学部で学んでいたものの、自分が将来学校の先生になるかを悩んでいた頃、文化祭でMCを務めたんですが、お客さんから「君の姿や声を聴いて元気になったよ」と言ってもらったんです。チアを仕事にするのは難しいけれど、自分の姿や声で人を元気にすることってなんだろうと考えました。 そうしたら、中学校の先生が「朝妻はアナウンサーに向いてるんじゃないか」と言っていたのを思い出し、意を決して就活はアナウンサー業界に転向。スクールにも通い、全力で挑戦しましたが、結果的に70社落ちました。

周りからは「アナウンサーだけが人生じゃないよ」と言われましたが、この道しか私にはない!とさえ思っていました。教員採用試験をやめてまでアナウンサーに懸けたわけだから、諦めたくなかったんです。
「どうにかしたい、何か人生のヒントを得たい」と思った時に、北海道でずっと聴いてきたラジオ番組の局に電話をかけたんです。採用のことを聞いてみたのですが、「今年はアナウンサーの採用はない」と言われました。
それでもいいから「何かヒントを掴みたい」と話したら、訪問を許可してくれました。東京から、北海道まで飛んでラジオ局に行くと、プロのアナウンサーの方が学生の私の話をじっくり聞いてくれたんです。

そして、最後に思わぬ言葉を言われました。「朝妻さんだったら絶対にできるから諦めずに頑張ってみたら」と。これが、すごくすごく嬉しくて、「70社も落ちたダメ学生だと思っていたけど、尊敬するアナウンサーの人にそう言ってもらえたんだから、叶えるまで諦めない!」と決めました。
そこから2年かかりましたが、島根県にある山陰中央テレビのアナウンサーに合格することができました。あの時のアナウンサーからの言葉があったからこそ頑張れた。応援や励ましは、人の人生をも変える力があるのだと感じました。そこから山陰中央テレビでアナウンサーの仕事を経験させていただき、色々ありましたが(出版本に詳しく書いてあります)契約満了後、東京に戻ることにしました。

「これだけ実績を積んだのだから、お仕事は沢山あるはず!」そんな勝手な妄想は脆くも打ち砕かれるのでした。東京での活動は、想像以上に厳しく、元局アナという看板や経験があってもオーディションには落ちまくるわけです。仕事が無いからお金もない。周りのみんながキラキラして見える。「私なんてどうせ価値も魅力もないんだ」と自暴自棄になり、うつ一歩手前みたいなとこまでいっちゃいました。

人を応援することで人生が好転!夢だったアナウンサーの仕事に

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住谷:人生のどん底のような状態だったんでしょうか。

朝妻:まさにどん底です。毎日、人のことを妬んでいて、人生真っ黒な状態でした。でも友達から「結局何をやりたいの」「言い訳ばっかりしてるよ」と言われて、改めて、自分に問いかけました。

その時、頭にふと浮かんだのが、学生時代に青春を懸けてきたチアリーディングでした。”朝の駅前で出勤途中の人を勝手に応援するチアリーダーがいる”と教えてもらい、こっそり観に行きました。すごいとは思いましたが、最初からすぐやろうとは思えなくて。
でも朝チアの初代部長が「会社でいじめにあって逃げるように辞めてしまったけど、今度こそ自分らしい方法で誰かの役に立ちたい。自分のように会社に行くことが辛いと思っている人も多いかもしれないこの場所で、得意なダンスでエールを送ることにした。今日ここで私を見かけた皆さんがちょっとだけ勇気を出す、そんなエネルギーになりたいと思う」そんな想いを叫んでいたことに感動して、「私もやりたい!」と思い、参加させていただきました。

実際に朝チアをやってみると、不思議とエネルギーが湧いてきて。路上にはリストラだったり家を失ったり、我が子が病気で苦しんでいたり…様々な人が朝チアに触れることで元気をもらっていってくれました。そこから「自分は無力でも無価値でもないんだ。誰かの力になれるんだ!」と自分の存在価値を認められるようになっていきました。人を応援することで自分自身がエネルギーをもらえて、前向きになるんです。そうするとどんどん人生が好転していき、最終的に私が昔から夢だった、アナウンサーとしてチアリーディングの番組に関わるキャスターのお仕事までいただけたんです。

住谷:すごいですね。応援はされる方だけでなく、する方もパワーをもらえるんですね。

朝妻:はい、そうなんです。応援すると、応援する側もされる側も両方上がるんですよ。応援する側が「ありがとう」「元気になったよ」と言われたら、こちらはめちゃくちゃハッピーになれる。「あなたのおかげで私、頑張れた!」と言われたら嬉しくないですか?
私があなたの役に立てたんだと思うと、自己肯定感も上がって、自分も頑張ろうと思えるようになれます。そうすると、自分自身が発するエネルギーやマインドも変わってくるんですよね。前向きな人には、人やチャンスや運気も巡ってくるんです。実は、応援する側の方が幸福感も高いという研究結果もあって、科学的にも証明されていることなんですよ。今「応援学」というものを立ち上げ構築しているところです。

それからは、全国に出張チアをしたり講演活動をしたり、ここ最近では「応援アワード」を開催したりと、応援を広める活動を精力的に行っていきました。
そんな矢先…たまたま乗っていたタクシーがトラックに激突してしまって交通事故に遭いました。日常生活がままならない状況でしたが、SNSをはじめいろんな方からの励ましや応援が本当に心に染みたんです。元々は介護が必要なくらいの状態だったのに、みんなの応援で元気が出て、リハビリも頑張り、1か月後にはチアができるようになったんです!
これは本当に応援の力、応援って治癒力も上げるんじゃないかと感じました。今は応援の力をもっと世の中に広げていくんだという思いで、今年も「応援アワード」を開催します。(11月11日ベルサール御成門タワーにて)

応援アワード公式サイト

目指すのは「誰かが誰かを応援し合う社会」

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住谷:ご自身も応援の力を感じたわけですね。では、普通の人でも普段からできる応援はあるのでしょうか?

朝妻:はい、もちろんあります!「1秒でできる応援」で、なんなら喋らなくても、拳1つでできます。ガッツポーズをしながら「あなたにもできる!」と目を見て届ける。声かけも、考えすぎなくて良くて。ほんの一言「頑張ってね」とか「お疲れさま」って言うだけで、相手も「よし」という気持ちになるんです。
朝チアも、知らない人が通りすぎるなか、「いつもありがとね」と逆ガッツを送ってくれる人もいます。だから皆さんも、今、目の前に頑張っている人がいたら、ちょっとガッツポーズしてあげてください。

住谷:では、最後に今後のビジョンを教えてください。

朝妻:”応援の日常化”を目指しています。たとえばスポーツとか特別な時だけじゃなくて、普段、職場とか学校のなかで、誰かが誰かを応援し合う文化を作っていきたいです。そのためには、いろんなところに応援が散りばめてある必要があるので、まず応援の全国支部を作ります。朝チアを見て出勤して、今日も頑張ろうという人が増えたらいいなと思います。

もうひとつは、私たちの思いに共感・賛同して、何か自分のできることをやりたいと思ってくださっている方に、私たち全日本応援協会の会員という名目で仲間を増やしたいと思っています。会員(AJO OUEN PARTNER)を1万人にしたいです!

応援することで、私は人生が向上していきました。応援する側もされる側も元気に前向きになれます。また応援された人が今度は誰かを応援する…という優しい連鎖も生んでいきたい。そういう人と人とのつながりを、「応援スパイラルを巻き起こす」イメージでどんどん広めていき、心が前向きになれる社会を創っていきたいと思っています!

行政を動かした「あきらめない人の車いす」開発ストーリーとは

今回のゲストは、世界初の足こぎ車いすCOGY(コギー)を通して、障がい者や健常者も希望を見出だせる社会の実現を目指す、株式会社TESSの代表取締役・鈴木堅之(すずきけんじ)さんです。障がいや寝たきりで下半身不随の人でも、「歩行反射」という機能を使うことで、不自由な足でも自身の力で動かすことができる、「あきらめない人の車いす」を開発。製品化への道のり、開発背景などを取材しました。

障がいや寝たきりで夢を諦めていた人も、COGYにより人生が変化

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住谷:鈴木さんは「足こぎ車いすを製品化したい」という思いから、株式会社TESSを創業、COGYの製品化に成功されました。今まで自分で動くことを諦めていた人がCOGYに乗ることによって、人生を変えて、新しいスタートを切っていけるんですね。

鈴木:そうなんです。今までのリハビリテーションや機能回復の訓練は、夢や目標が実現するかどうかもわからない状態のなか、とにかく頑張るとか、つらくても必死で耐えるという世界でした。

どんなに意志が強い方でも、体力がある方でもこれはとてもつらいことです。ハンディを抱えて、ゴールが見えないなかで訓練するなんて、無理なんじゃないかと思ってしまいます。でもCOGYを使用することで、自分の力で足を動かし進むことができるんです。

障がいや寝たきりでいろいろ諦めていた人も、これまでとは何か違うと感じ、一歩を踏み出せそうと思えます。COGYはモビリティですから、お買い物がしたいとか旅行に行きたいとか、あの人に会いたいという、遠い夢だと思っていたことが叶うわけです。

利用者の声を集め、日常生活で使えるよう行政を説得

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住谷:新しい希望を持てるんですね。開発のきっかけを教えてください。

鈴木:今でこそ医学と工学が連携した医工学部がありますが、30年前はなかったんです。工学部、医学部でそれぞれ研究をしていたんですよね。

でも東北大学では30年前から、医学部のお医者様と工学部の先生たちが、工学と医学を上手にミックスすることで、人間が元来持つ機能を活用しながら、それほど負荷をかけずに、病気やケガの治療ができるんじゃないかという研究をしていました。なかでも特に注目されたのが、人間がもともと持っている「歩行反射」という機能でした。

たとえば、まだ脳が発達していない生後2か月くらいの赤ちゃんを持ち上げて、床にポンと足をつけると足をパタパタ動かします。脳は指令してないのに、反射的に動くという人間の本能です。足がついたという感覚が脳を介さず反対の足に戻ってくるので、足をパタパタして歩いているような動作をするんです。

この歩行反射は消えるわけではないので、たとえば病気やケガで足が動かなくなった方も、同じような条件を作り出して原始的な歩行反射を呼び起こせば、足が本能的に動くんじゃないかと、30年前から気づいた先生方がいるんです。

住谷:商品化するまでの経緯はどうでしたか?

鈴木:車いすって、実は2500年くらいの歴史があります。ギリシャ戦争でケガをした兵隊さんが台車のついた乗り物に乗って生活していたという記録や、『三國志』でも諸葛孔明が車いすみたいなものに乗っています。

車いすは下半身を動かすものではないという感覚が一般的ですよね。ペダルがついた車いすを開発するには、まず法律やルールを制定してもらわなければなりません。ここはすごくハードルが高く大変でした。

COGYを使ってせっかく足が動くとなっても、歩道を走れないとか、不便な思いをしてほしくないです。だからまず、日常で使えるための環境を作らなければなりません。いきなり行政に頼んで制度を整えてほしいと訴えても無理なので、まずは、草の根的に利用者さんの声を集めていきました。

COGYに乗りたい人、乗ってほしい親や親戚、友達などがいる人などのリアルな声をたくさん集めるようにしました。小さなベンチャー企業ですから、大きく制度から変えていこうというよりは地道な活動から展開しました。

COGYに乗り歩行反射を使うことで、可能性が広がる

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住谷:車いすなのになんでペダルがついているんだとか、最初はなかなか受け入れられなかったこともあったのでは?

鈴木:はい、まさにその繰り返しでした。歩行障がいのある当事者の方たちは、リハビリや治療もいろんなことにチャレンジしているけど、動かなかったんです。それなのにペダルを漕ぐ車いすだからって、「足が動かないんだから動くわけがない、何てものを持ってくるんだ!」と、怒られることが多数ありました。

でも最初は訝しげになっていた人も、実際にCOGYに乗って歩行反射を使うことで、自分の力で、ふわっと動かすことができます。その足が動いた瞬間に、ガラッと変わるんです。

「今、あなたが自分の力で漕いでいるんですよ」と伝えると、たちまち笑顔になります。「犬の散歩ができるんじゃないか」とか「今度旅行に行こう」とか盛り上がってくれるんですよ。

念願だった海外旅行を叶えたご夫婦もいます。旦那さんが退職したらふたりが出会ったフランスの下宿にまた行こうと話していたご夫婦ですが、実は退職前に奥さんが脳梗塞で倒れて寝たきりになられてしまったんです。

フランスに行くなんて到底考えられなかったのですが、「自転車が好きな奥さんならCOGYに乗れるかも」ということで試してみたんです。

その読み通り、奥さんはCOGYを上手に使いこなし、散歩をしたりお買い物に行ったりなど、どんどん動けるようになったのです。そしたらあるとき、フランスから写真が送られてきて。思い出の下宿にも行くことができたのこと。フランスは石畳なんですが、そこでもCOGYは大丈夫だったらしく、「私たちが耐久試験をしてあげました」と冗談も言っていました(笑)

今までは叶わないだろうと思っていたことを、どんどん叶えていく方が多いですね。そこは本当に嬉しいですし、やりがいを感じます。

「足で漕ぐ車いすという文化」を創ることで、夢を叶えたい人を応援

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住谷:技術面も、普通の車いすと違っているので、多数の特許を取られたのですよね?

鈴木:足こぎ式の車いすはどこにもないので、そこが基本の特許です。車いすの特許と関係ないですが、特徴的なのがこのハンドルです。ワイヤー2本で引っ張って操舵する仕組みなんで、これはゼロ戦の機能そのまんまなんです。

戦争中は狭いところでも、小回りが利かないといけないですし、壊れたときにも簡単に直せるものではないといけません。その優れた機能を、車いすに搭載しているというのも、たぶん世界で初めてです。

他にもさまざまな特許があり、全部で12個。現在の車いす業界は電動が主流ですが、これは電動の力を使いません。その分、細部の仕組みや設計も大事になります。なので、普通の車いすのパーツは60〜70点ほどですが、COGYは300点近くあるんです。1点作るのも工数が多く大変です。

住谷:では最後にこれからのビジョンを教えてください。

鈴木:歩行困難になったときは選択肢が限られていました。でも「何かにチャレンジしたい」とか「叶えたい夢がある」という人にCOGYの存在を知ってもらうことで、「足で漕ぐ車いすという文化」が生まれます。

今はまだ認知度が低いので、いざ本人がCOGYに乗りたいと言ったときに、周りの人が面倒くさいとか、もう身体が動かなくても仕方ないじゃないかとか思われてしまう場面もあります。

「足で漕ぐ車いす」があるということが浸透すれば、世の中も変わってくると思います。夢を叶えたり、チャレンジしたり、頑張る利用者をみんなで素直に応援する、COGYがそういう象徴になったらいいなと思っています。

自身の闘病生活をきっかけに、患者さん用Wi-Fiを全国の病院に普及させる

元フジテレビアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーとして活躍されている笠井信輔(かさいしんすけ)さんにインタビューさせていただきました。

笠井さんは、2021年3月に最終回を迎えたフジテレビの長寿番組「とくダネ!」で、2019年までなんと20年間レギュラーを務められていました。

現在はフリーアナウンサーに転身されております。

2019年12月には自身が悪性リンパ腫に罹患していることを公表、闘病生活をブログで発信しながら治療を受けられ、2020年6月に完全寛解されています。

入院時には、患者がオンライン面会などに使用できるWi-Fiが病院にないことに驚き、「#病室WiFi協議会」という活動を通じて、病院への患者用Wi-Fiの設置を推進されています。
今回はワクセルコラボレーターの渋沢一葉(しぶさわいよ)氏、ワクセル総合プロデューサーの住谷知厚(すみたにともひろ)をインタビュアーに、フリーへの転身や癌との闘病生活を通して、笠井さんが世の中に伝えたいことをお聞かせいただきました。ぜひ最後までご覧ください。

現場で活躍することへこだわるためにフリーアナウンサーへ!

住谷:本日はよろしくお願いいたします。早速ですが、なぜフジテレビを退社し、フリーアナウンサーになろうと思ったのでしょうか?

笠井:フジテレビに所属していた32年半は、ほとんど生放送の帯番組の司会を担当していました。とても居心地よく働かせていただきましたが、年月が経つと自分の立ち位置も変わってきます。

わたしは「とくダネ!」という番組を放送開始から、小倉智昭(おぐらともあき)アナウンサーと一緒に20年間やってきました。そのなかで、若手アナウンサーの加入などもあり、最終的に自分の出番が減ってきたのです。

わたしは喋ることが好きなのですが、取材やリポートの仕事は減り、部下の指導などを任されることが増えてきました。このままフジテレビにいては、自分の望む活躍はできないのだな、と強く感じました。

自分の限界は自分で見極める必要があると思い、慣れ親しんだフジテレビを離れる決意をしました。同時に、フジテレビの外にはまだ自分を必要としている人がいると思い、フリーランスの道を選びました。

渋沢:「現場に出たい!」という気持ちがとても強いんですね。

笠井:現場が大好きなので、現場に出続けることにはこだわっていました。とはいっても、準備万端で独立したわけではなかったので、清水の舞台から飛び降りるような気持ちでしたね。

最近は、元日本テレビの羽鳥アナウンサーや福澤アナウンサーのように、フリーランスとして活躍する男性アナウンサーも増えています。

しかし、フジテレビは定年まで局に残る人が多く、独立するには勇気が必要でした。「定年まで残れば、退職金を満額もらえるのにもったいない」と言ってくれる人もいましたが、自分自身がアナウンサーとして活躍できる残りの時間を考えての選択でした。

渋沢:奥様は独立することに対してどのような反応でしたか?

笠井:賛成はしてくれました。ただ「もう5年早ければもっと勢いのあるタイミングでよかったのに。5年遅かったわね」とも言われました。さらに、小倉さんにも「5年遅かったね」と同じことを言われたんです。

5年前は「とくダネ!」の喋りの半分ほどを任されていて、たしかに脂がのっている時期でしたが、これだけ仕事を任してもらっているなかで、独立という選択肢は頭にありませんでした。

しかし、客観的にみると独立に絶好のタイミングだったようです。この経験で、人からの見え方と、自分の感情が入った見え方はまったく違うんだなと感じました。

奥様は「ママアナ」の先駆的存在

渋沢:奥様とはどのように出会ったのですか?

笠井:アナウンサーの専門学校で同じクラスだったんです。そこから一緒に就職活動しているうちに仲良くなり、お付き合いしました。

一言で言うと ”リクルートナンパ” ですね(笑)まわりの人からは就活中に何やってるんだと非難されました。

住谷:いやー、女子アナウンサーと結婚するのは男性の夢です!

笠井:奥さんは結婚した当時は報道記者だったので、正確には女子アナと結婚したわけではないんですよ(笑)

うちの奥さんは少し変わっていて、結婚して子供が生まれてから女子アナになったんです。

いまは子供がいるアナウンサー、いわゆる「ママアナ」はたくさんいます。しかし、当時は妊娠した時点で他部署へ移動するのが当たり前だったので、ある意味先駆的な存在でした。

渋沢:子育てと仕事の両立は大変でしたか?

笠井:奥さんはとても苦労していました。奥さんとわたしの両親も手伝いに来てくれて、そのおかげでどうにかやってこれました。

「革新」と「柔軟な変化」が長続きする秘訣

住谷:フジテレビに入社してから「とくダネ!」がスタートするまでは、どのような仕事をされていたんですか?

笠井:ワイドショーのアナウンサーとして働いていました。「めざましテレビ」にも1年半くらい出ていました。あとは、夕方のニュースのメインキャスター、朝のワイドショーの司会などをやらせていただきました。

住谷:なぜ「とくダネ!」は20年以上続いたと思いますか?我々もワクセルを長く繁栄させて、よりよい社会をつくりたいと考えていて、ぜひ長く続くコツをうかがいたいです。

笠井:まずは、新しいタイプの情報番組をつくったことですね。従来の番組はリポーターとキャスター、評論家がサロン的に話しながら番組をまわしていました。

それに対し、今では一般的となった「大きなボードを入れてプレゼンテーションする」スタイルを導入したのが「とくダネ!」でした。

渋沢:いまの情報番組の先駆け的な存在だったんですね。

笠井:ボードやテレビに映した映像をつかったプレゼンテーションがとても好評で、ほかの番組もどんどんマネするようになり、気づけば一つのスタンダードになっていました。こうして老舗的な存在になったことは大きな要因だと思います。

そして、マンネリ化したときはキャスティングを変更したり、内容を変えたりして乗り越えてきました。社会情勢に合わせて、柔軟性をもって番組を変えてきましたし、ときにはプロデューサーが変わることで番組を変化させることもありました。

なかでも一番大きな変化があったのは、5~6年前にインターネットに詳しい方がプロデューサーになったときでした。

「とくダネ!」はもともと新聞や雑誌から情報収集していたのですが、Yahoo!ニュースの人気ニュースを紹介することになったんです。加えて、YouTubeで人気があるおもしろ動画も流すことになりました。

当時はテレビとインターネットはライバルという認識が一般的で、自分たちで取材したものではないインターネットの情報を放送することに抵抗はありました。しかし、このおもしろ動画が大人気となり、視聴率も1位になりました。

これをきっかけに、インターネットの流れをつかみながら番組をつくるということが、テレビ業界の常識になっていきました。このように、世の中の変化を敏感に感じ取り、順応してきたことも長続きできた理由だと思います。

住谷:世の中の変化を感じ取るために工夫していることはありますか?

笠井:自分の得意な分野に関して掘り下げることですね。すべての分野に詳しくなるのは難しいので、自分が人より秀でていると思う分野についてより情報収集しています。

立場関係なく、優秀な人から学ぶ

住谷:フジテレビ時代に部下の育成をされていたとおっしゃっていましたが、人の育成に関して大事にされていることをお聞かせください。

笠井:上司と部下ではなく「少し経験の長い先輩」という立ち位置で指導するようにしていました。

あとは年齢で判断しないことですね。どんなジャンルで経験を積んできたのかを知り、自分が知識のないジャンルに関してはむしろこちらが教えてもらっていました。特にスポーツはまったく知識がなかったので教えてもらうことが多かったです。

一方で、「事故、事件」に関しては負ける気がしなかったので、徹底的に教えこみました。

現代ではライフワークバランスを大切に

渋沢:趣味が映画と舞台鑑賞とのことですが、どれくらいの頻度で鑑賞されるんですか?

笠井:若い頃は年間で新作映画を130~150本、 舞台を150本、観に行っていました。スケジュールをパズルのようにはめこんで観に行く時間を確保していましたね。

映画を観るアナウンサーは多かったのですが、舞台を観に行くアナウンサーはいなかったので、差別化のために観に行っていました。何度も観に行っているうちに、出演者とも仲良くなり「インタビューを受けるなら笠井さんにお願いしたい」とオファーが来るようになりました。

ただ、テレビの仕事もしていたので、体への負担は相当だったと思います。当時は夜10時に帰り、夜中の2時に起きるような生活をしていました。そしてその結果、癌になってしまったのです。

今の時代は健康やメンタルの管理も大事といわれています。ワークライフバランスを意識することが健康に働くためには重要です。自分はワークばかりでバランスが取れていなかったので、みなさんは自分を客観視して気をつけてください。

日本の病院に患者さん用のWi-Fiを普及させる

住谷:病院Wi-Fiの設置活動も含め、これからの展望をお聞かせください。

笠井:健康を維持して、今まで通り一生懸命働きたいですね。病気をしたことで健康の大切さを実感しました。

新型コロナウイルスにより、なかなか思い通りに生活できない時期だと思います。しかし、いずれは今の事態も落ち着いていくでしょう。そのなかで、いままで通りの生活に戻して精一杯働きたいです。

この時期に入院したことで、さまざまな経験をしました。一番驚いたのは病院に患者さんが使えるWi-Fiがないことでした。

病院にお見舞いの方が来れない状況が1年以上続いていて、オンラインでの面会が唯一のお見舞いの方法となっています。しかし、日本で患者さんが使えるWi-Fiを設置している病院は3割しかありません。

そこで、一つでも多くの病院が患者さん用のWi-Fiを導入できるように、「#病室Wi-Fi協議会」を2021年1月に立ち上げました。そして、政治家の方々に補助金を出してほしいと話しに行ったところ、2021年4月には補助金が出ることになりました。

補助金は税金が財源なので、社会的意義と必要性が認められる必要があります。そのため承認のハードルが高いのですが、今回は国が国民を救うために素早く動いてくださり、とても感謝しています。

ただ、補助金の締め切りが2021年9月30日と設定されていて、これが問題になっています。現在、半導体が不足しておりWi-Fiの送受診機がなかなかつくれない影響で納期が遅れているんです。契約してから納品までに1年ほどかかるケースもあるようなので、期限の延長をお願いしているところです。

自分が経験してきたものを、可能な限り社会に還元しようと思って活動させていただいています。

住谷:以前出版された著書『生きる力 引き算の縁と足し算の縁』もその活動の一つですよね。

笠井:現在、世界で年間100万人の人が癌になっています。さらに、日本人の2人に1人が癌になり、男性は3人に2人が癌になるというデータが出ています。自分は癌になって運が悪いと思っていましたが、実はそうではなかったんです。

「どのような治療があるのか」「どのような態度をとれば最適な医療が受けられるのか」「病院でどう過ごしたらいいのか」などについて、自分の経験を通してお伝えしたいと思い書きました。

渋沢:これだけ世の中でWi-Fiが普及しているのに、病院にWi-Fiが通っていないことに驚きますよね。

笠井:政治家の方々にお話ししたときも驚かれていました。入院したことない人はみなさん驚かれますね。また、先進国の病院はほとんどWi-Fi通っているので、外国の方にも驚かれます。

日本の病院にWi-Fiが普及していない状況には理由があります。約20年前に総務省が「Wi-Fiは危険である」と通達し、今もそれを信じている政治家の方々がいらっしゃるからです。技術の進歩によりいまのWi-Fiは安全だということを知ってもらう必要があります。そのためにわたしは「#病室 wifi 協議会」を通じて情報発信を続けていきます。


世界中の子どもたちから学ぶ「生きるよろこび」とは

社会活動家の池間哲郎さんに、インタビューをさせていただきました。

池間哲郎さんは、映像制作などの会社経営の傍ら、一般社団法人
アジア支援機構、認定NPO法人アジアチャイルドサポートの代表理事など幅広く活動されています。また、講演家として、命の尊さや日本人としての誇りを精力的に伝え続けていらっしゃいます。

今回のインタビューでは、多くの国を訪れて貧困の実状をその目で見てこられた池間さんに、今の若者が大事にすべき価値観や、トップに立つ人間として必要な覚悟などをお聞きしました。​

国際協力の活動を始められたきっかけをお聞かせください。

池間:きっかけは、フィリピンのトンド地区にあるスモーキーマウンテンで、とある少女と出会ったことです。

最初から勢いよく始めたわけではなく、まずは自分にできる範囲でコツコツと活動し、のめり込んでいきました。例えば、学校を作るには約800万円が必要です。私は行動するときにはお金のことは考えないのです。なぜかというと、やると決めたらお金がわいてくる(後から自分でつくりだす)と思っているからです。

自分のレベルというのもあり、最初は300万円程度からはじめました。どんどん楽しみが大きくなっていき、本業でさらに稼げるようになってからは、学校を作るために必要な800万円の全てを自分で出すようになりました。

なぜ、のめり込んだのか?それは、楽しかったからです。貧困で大変な思いをしている子どもたちが、笑顔で生き続けるのが嬉しい。喜びが溢れるという感じです。

貧困で苦しんでいる子どもたちを目の前にして、池間さんが感じることは何でしょうか。

池間:言葉は適切じゃないかもしれませんが、子どもたちは命を懸けた最も最高の生き方をしていると思っています。こんな生き方ができる人はそうはいないと思います。

もちろん、国際協力や支援活動は遊びではありません。ですが、アジアの貧しい子どもたちが一生懸命に生きているのを見ると、嬉しいのです。何回も危ない目に遭っているし、何回も死んだと思った人が生き返る。このまま助けなかったら死んでしまっていたかもしれない人々が、ちゃんと生きて、そして幸せになっている。その価値観は大きいかもしれませんね。この喜びが極端に大きかったから、活動し続けているのかもしれません。仕事も一緒で、喜びがないと続けられないと思います。

ただ、仕事における人間関係は別ですね。みんなから嫌われないとできないこともいっぱいあります。普通の人は国際協力やボランティアについて、表面的な部分しか見えていないことが多いと思います。僕は、生死までも見ています。表面的な部分しか見えていない人と合うわけがないし、よく喧嘩もします。だから敵も作るけれど、一方で応援者も増えていくのです。

インタビュアー:池間さんの覚悟が伝わってきます。

池間:私の会社の職員も、みんな同じ覚悟です。うちの職員は、ドーンとした男たちが集まっています。空手のチャンピオンや、アスリートが多いです。男らしい生き方をしている人が多くて、一般的なボランティア団体の感覚は持っていませんね。

職員の待遇も一般企業並みです。ボランティア団体の多くは、結婚もできないくらい安い給料で働いているので、これはボランティア団体や日本社会への挑戦でもあります。しっかりとした給料を出して、社会保険も休みもある。18時以降に会社にいるのは強く禁止しています。

過去に僕は仕事中毒で、朝から晩まで働いて家族に迷惑をかけたからです。子どもの運動会に1回もいったことないのです。そのような経験をすごく反省して、社員たちにはそんな目に合わせちゃいけないなと思っています。給料や待遇も良くする代わりに、仕事に誇りを持つように話しています。本当に良い仲間が揃ったと思っています。

人間関係について質問です。魅力を高めて人が集まる自分になりたいと同時に、人に嫌われたくないと思っている人にアドバイスはありますか。

池間:トップになる人はだいたい孤独です。孤独に耐えられる人である必要があります。

群れることで安心する人もいる。ただ、群れを好む人はトップになれません。組織を引き連れていくのですから、そういった人は、リーダーをやめた方がいい。自分自身を孤独に耐えうる人に育てていく必要があります。

小さな会社でも何でも、リーダーは誰とも仲良くしないこと。友人関係の方が楽しいので、良い人間関係を築けるに決まっています。ただ、リーダーが社員に対して友達付き合いを求めると、指揮系統が崩れて組織がおかしくなってしまいます。私が喋り出したら、社員のみんなの背筋が伸びる。いい意味で関係性をはっきりさせる、そういった姿勢は持ってた方がいいかもしれないですね。

もちろん、個人の楽しみは別です。個人としては遊んでも楽しんでもいい。だから、私にとっては女房がとても大事です。女房には愚痴も弱音も言うけれど、女房以外の人には一切言いません。漏れてしまいますからね。女房はそこを理解して守ってくれるからありがたいですね。

インタビュアー:会社の懇親会ではどのような振る舞いをすると良いでしょうか。関係性を意識しすぎるあまり、色々と考えてしまうことがあります。

池間:もちろんみんなと飲みに行ってもいいと思います。ただ、トップはある程度時間が経ったら先に帰るのが良いと思っています。トップがいることで、社員が気を遣って話せない話題もあるでしょう。自分でつくり上げた会社であっても、会社は個人のものではありません。みんなが勤めていますからね。

リーダーは、自己を見つめるのも一緒で、常に外から眺める訓練が必要です。

落合陽一さんやひろゆきさんといった若者から学んでいるとお聞きしました。そのきっかけや学んでいることを教えてください。

池間:自分の弱いところを見つめたいからです。今の自分では未来が見えない。

これからの時代は、AIの活用により次々と変化が起きます。AI自体は理解していますが、その上で何が大事なのか、僕の勉強不足でまだ見えないのです。AIの専門家と話すと、なるほどと驚くことがたくさんあります。

僕らの世代から見ると若者たちは、ある面で礼儀知らずが多く、力関係でモノを言う人も多いです。でもそれが若者の文化でもあります。そのような文化の流れも見ています。

この前、嘘だと思ったことがありました。速読というのですよね。ぱらぱらぱら~と本をスピード良くめくって読んでる方がいました。この読書方法を教えている人がいて、「理解できているのですか?」と聞くと、理解はできているみたいなのです。

理解するためには、速読と熟読を両方が必要だそうです。情報収集のための部分は、速読で対応する。大事なところは速読を止めて、内容をしっかり熟読するのが大事と聞きました。若い人からも学ぶべきことっていっぱいありますね。

これまでに3724回もの講演を続けられた中で大事にしてきたことをお聞かせください。

池間:初心を持ち続けていることです。

講演というのは、どんなに回数を重ねても、自己評価で100点を取ることはありません。70点を超えることもないのです。自分で話していて、ちょっとおかしいところが必ずあるのです。

これまでに3700回以上の講演をしていますが、この回数以上に毎日練習しています。今日も家に帰ったら、今日の講演の編集機器を前にして、おかしいなと感じる部分を直していきます。

慣れないことが一番大事で、慣れない努力をしています。これが初心を持ち続けることに繋がっているかはわかりませんが、私はこのようにやっています。

「適当」が一番許せません。今日の講演会には1万人近くの参加者がいました。1万人が2時間も時間を使います。人の時間を奪うことは、命をいただくのと一緒だと考えています。だから、中途半端なことは絶対にやりません。徹底してやらないと、聴いてくださっている人の失礼にあたります。

自己との戦いで、どうやったら伝えきれるかを考えている。常に自分との戦いですね。

池間さんの座右の銘をお聞かせください。

池間:私の造語ですが、「一点一歩」です。一点を見つめて、一歩一歩進む。それしかないと、いつも思っています。真剣にやっていくという意思を込めて、一点一歩という事を大事にしています。

今振り返ると、昔の私の一歩は10cmだったと思います。ですが、今は1mくらいになっている。これは影響力が大きくなっただけの話で、私自身が歩いている姿は変わらないのです。

インタビュアー:「一点一歩」という言葉は、どのようなタイミングでつくられたのですか。

池間:常に自分の中にあったものです。

座右の銘は、みんな誰かの言葉を言いますが、私は自分の言葉で言おうよといつも思っています。いつもずーっと見つめて、ずーっと歩いているから。

禅の言葉で、「一点を見つめるとすべてが見える」という意味の言葉があります。これもとても好きな言葉です。突き詰めるというのは何でも大事だなと。とことんやってる人は突き詰めているから、何をやってもできるのです。

私は人にも恵まれたなと思っています。私の生き方に反応した人が向こうから近づいてきています。

最後に、チャレンジしている人に向けて一言お願いします!

池間:チャレンジし続けている人は、やがて目標は変わります。目標が変わる度に。乗り越えるべき壁にぶつかる。壁があるから挫折する。よく聞くけれど、挫折はいい経験だと思います。壁に何度もぶつかったら、はしごをかければいいと思うのです。全て壊す必要はなくて、どんな乗り越え方をするかは個人の自由です。壁にぶつかるほど知恵は出てくるものです。

とにかく向き合い、進む方向性をしっかりと定めて、継続する力と、決して諦めない姿勢が大事だと思います。

若者にはいつも、人間の成長は「不揃いの階段」だと言っています。ちゃんと右肩上がりになってなくて、時には下がる時もある。それに耐えてる人ほど成長します。下がっていて、もうだめかもと思っている時にやり続けることで、右肩上がりになることもあります。上がることが事前にわかっていれば、努力も惜しまないのではないでしょうか。

あまりいい人になる必要もないと思います。人間なので、喜怒哀楽が大事です。怒る時は怒っていい。泣く時は泣いてもいいと思います。常に優しくあろうとしたり、悪の部分を無くしてしまうのは違うと思います。悪い心も自分の一部だからさ。迷惑をかけるのは良くないですが、この部分を大事にして、思いきりチャレンジしてください。