経営者対談

芸人、政治家
東国原英夫 × ワクセル

今回のゲストは東国原英夫(ひがしこくばるひでお)さんです。芸人、政治家として二足の草鞋で活動する東国原さんの思いは、「人々を幸せにするということ」

再出馬の際には、宮崎県を盛り上げるための施策「東国原八策」を、息子の加藤守(かとうまもる)さんとともに作成。東国原さんが胸に抱く宮崎への思いと、今後の展望について教えていただきました。

人々を幸せにしたい!そのために芸人、そして政治家に。

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住谷:本日のゲストは東国原英夫さんです。まずは芸能界に入ったお話から聞かせてください。

東国原:小学校の卒業文集に、将来の夢として「政治家とお笑い芸人になりたい」と書いているんです。1969年の12歳の頃にそんな夢を抱くなんて、頭おかしいですよね(笑)

宮崎県の都城市(みやこのじょうし)って当時人口10万ぐらいの小都市で、将来の夢が政治家とお笑い芸人なんて、そんなことを思う人間はいなかったです。まさに夢のまた夢の話。

小学校の先生から「東くん、将来は政治家とお笑い芸人、両方になりたいんですか。両方の仕事の共通点は何ですか」と聞かれた時があって、私は「両方とも人々を幸せにする仕事です」と答えたのをよく覚えています。

小学校の時は、聡明なお坊ちゃんで、小学生にしてそこが人生のピークでした(笑) スポーツ万能で、12歳の頃には水泳部で市や県の代表になって、体操でも大車輪ができましたし、自分でいうのもなんですが、優秀でしたね。

住谷:宮崎県知事には、2007年に初当選されたんですよね。

東国原:本当に、皆さんのおかげで改革も進みました。県民の皆さんのおかげ、議会の皆さん、県職員の皆さんのおかげです。そしてそれまでに培ってきた芸能界の横のつながりもありましたね。特に一生懸命動いてくださったのが重鎮と言われている方たち。ビートたけしさん、明石家さんまさん、和田アキ子さん、全員が宮崎を盛り上げようという機運になりました。

ただね、通常、タレントさんはだいたい選挙の応援をしないものなんです。CM契約やテレビの契約があって、政治的な中立性を保持しなきゃいけないことが多くて、なかなか応援に駆けつけられないんです。

アメリカやヨーロッパなんかは、タレントさんとか俳優さんも「私は何党を支持しています」とか「○○候補の応援をします」と平気で政治的な発言をするんですが、日本はそういうことはNGですね。

それで「投票率を上げろ」とか言ってもね、そこはもうちょっとオープンにしなきゃダメです。「私は自民党です」「私は立憲民主です」「私は共産党です」でいいじゃないですか。自分の立ち位置を自由にオープンにすべきなんじゃないかなと思います。

住谷:なぜ日本はオープンにならないんですか?

東国原:やっぱりスポンサーがいますからね。テレビの地上波にとってスポンサーは神様だから、スポンサーさんから何かクレームが入ったら何もできないものなんです。だから中立がいいんですね。

でもね、2022年に再出馬した時に、気にせず応援に来てくれたのが、かとうかず子さんだったんです。あれは、うれしかったですね。全然知らなかったから来ていただけると聞いて、びっくりして選挙カーが5センチ浮きましたよ(笑)

再出馬した理由は、宮崎がいまひとつ知名度や存在感が上がらないこと。そして、コロナで地方が疲弊していて、異次元の地方自治をやって宮崎を浮上させないと、周りにはかなわないと思ったんです。このままでも堅実なのはわかるけど、それだけでいいのかなと思ったんです。新幹線を通すとか、ここに数十階のビルを建てるとか、そういう大きな対策をしていかないと。

宮崎をフロリダ化!異次元の『東国原八策』で地域活性

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住谷:その異次元の施策が、“東国原八策”というわけですか?

東国原:はい。宮崎を“フロリダ化”する計画です。WBCは日本のフロリダ(宮崎)でキャンプして、アメリカのフロリダで決勝だったのですが、今後は宮崎をフロリダ化するのが僕の夢なんですよね。宮崎の新しい面は何かと考えた時、南国・宮崎でもなく、スポーツの宮崎でもない。それらはもう当たり前に定着してますから。

フロリダにはあの『IMGアカデミー』もあります。まさに、世界各国からキャンプに行く場所なんです。フロリダには高齢者や富裕層が住んでいますし、医療関係も非常に充実していて、移民も多いんですよ。特に、南米やメキシコからの移民が多いです。

僕は今後、国も移民政策に舵を切っていかざるを得ないと思っているので、その時は、宮崎が移民を最初に受け入れられたらと思っています。と言っても移民の問題は非常にデリケートな話なので、議論しなきゃいけないんですけど、そういう構想もありました。前回23万5602票をいただき、県民の皆さんの信任と期待があったわけですから、それを裏切るわけにはいかんよなというのが今の僕の立ち位置です。

僕は、宮崎の歴史を全部知っていますし、宮崎のいいところも、コンプレックスがある点もわかっています。だから、どうにかしてここを活性化したいというエネルギーが湧き上がってくるんですよね。

僕が有名人になろうと思った理由のひとつも、宮崎出身の芸能人がそれまでいなかったからです。宮崎出身の有名人・芸能人は克美しげるさんか緑魔子さんだけですから(笑)

住谷:芸能界に入りたいと思った理由にも、宮崎県をなんとかしたいという思いがあったんですね。

東国原:そうですね。まずは、1980年にたけしさんのカバン持ちで芸能界に入ったんです。たけしさんは当時オールナイトニッポンというラジオ番組に出ていました。あの頃の中学生・高校生は木曜日深夜の「ビートたけしのオールナイトニッポン」を誰かがカセットで録音して、翌日教室で聞くのが文化というほどの人気ぶりでした。

その時、僕は弟子としてそこにいるわけです。たけしさんは「俺んとこに弟子が来やがって」と半分うれしそう、半分迷惑そうで。「俺なんかまだ弟子を持つような立場じゃないから、あいつを辞めさせたいんだよな」と、リスナーに企画を募って「東を辞めさせようコーナー」が出来上がりました。

その企画で最初に行ったのが、福島県です。リスナーから来たハガキの中に、「シカやイノシシが出るので退治してください」っていうのがあり、そしたら「お前、行ってこい」となったんです。

「翌週の木曜日の生放送に間に合うように帰って来い」って旅費1万円だけもらい、ヒッチハイクなり、何かを手伝うかわりに泊まらせてもらうなり、全部まかなって福島まで行って帰って来る旅です。これが大爆笑で、のちの「電波少年」の企画になりました。

テーマは「1日を大切に生き抜くこと」

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住谷:今回は息子さんの加藤守さんにも来ていただいているので、ご一緒にお話しを聞かせてください。これからの宮崎をどうしていきたいか、展望を教えていただけますか。

東国原:息子はね、ホント真面目なんです。クラス委員をやったりスポーツで代表になったり。私も12歳がピークでしたので、そこまでの私を受け継いでいるんですかね?

加藤:反面教師として勉強させていただいています(笑) 私も前まで、サラリーマンとして政策立案や政策の調査という仕事をしていたなかで、『東国原八策』をつくって、選挙活動を一緒にさせていただきました。

選挙は残念な結果になってしまいましたが、引き続き地域を盛り上げ、宮崎をより活性化していくということにベクトルを向けていきたいと思っています。たとえば、農産品の販路拡大のためには、輸出や全国への展開も必要。さらに、今までやったことがない新しいことを、いろいろな事業者さんを巻き込んでやっていきたいです。

東国原:私の展望は、1日1日を生き抜くこと。我々の歳になると、1日1日が重要で、今日を大切に生きたいんですよ。人生って1回しかないですから、全力で生きたいだけなんです。65歳までいろんな目標を持ってやってきて、叶えられたものもあるし、夢破れたものもあるんですけど、今後は1日1日をとにかく大切に、楽しんで生き抜くのが僕のテーマです。

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