ダンス世界大会で8年連続優勝した“キングオブダンサー”KENZOさんが語る「夢を実現する方法」

今回のゲストは、世界の頂点を極めキングオブダンサーとも称されるKENZOさんです。ダンス世界大会で8年連続優勝という前人未到の記録を持つKENZOさんに、ダンサーとしての原点や夢を持つ大切さを伺いました。

MCはワクセルコラボレーターの美谷玲実(みたにれみ)さんと、総合プロデューサーの住谷が務めました。

ダンス番組をきっかけに15歳でダンスをスタート

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美谷:本日のゲストは、ダンスボーカルユニット『DA PUMP』のメンバーとして活躍するKENZOさんです。KENZOさんは、ダンス世界大会で8年連続優勝するという前人未到の記録を持つ方です。30カ国以上のダンスイベントに招待され、400回以上パフォーマンスを披露してきました。まずはダンスを始めたきっかけを伺いたいです。

KENZO:高校受験の勉強をしている時に、TRFのSAMさんがやっているダンス番組が深夜に放送していて、その番組のダンサーを観て胸に衝撃が走ったんです。カッコいいな、やってみたいなと思い、ビデオを録画して見よう見まねで練習を始めました。

本当に田舎に住んでいたので教えてくれる人もいませんでした。毎週ダンス番組を録画して、ビデオが擦り切れて音も聞こえなくなるくらい、「こうかな?」と自問自答しながら反復練習していましたね。

それから高校1年生の時に番組でダンスイベントの情報を知り、そこに行って直接ダンサーに「教えていただけませんか?」とお願いして、教室に通うようになりました。

「ダンスを生業にしたい」20歳でダンスグループに加入

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美谷:その後20歳の時にダンスチームで活動を始められたと伺いました。

KENZO:福岡から上京してきて『SHUFFLE!!(シャッフル)』という5人グループに加入しました。ジャスティン・ビーバーさんなど著名海外アーティストのバックダンサーをしたり、振り付けをしたりするメンバーがいて、各メンバーがスペシャリストのグループでした。ダンスを生業にしたい」という同じ夢を持って、時には意見をぶつけ合ったり、言い合いになったりしながらも切磋琢磨してきましたね。

21歳頃に日本で誰もが優勝したいと思う大会で優勝したり、日本代表としてアジア大会に出場したりするようになって天狗になっていた時期がありました。

その時にHICKYというメンバーから「最近のKENZOのダンス良くないよ。全部自分が正しいみたいになっているから、気を付けた方がいいよ」と苦言を呈されたんです。それをきっかけに「自分がやってきたことは間違っていたのかもしれない」と、自分を見つめ直すことができました。

住谷:普通は反発してしまいそうですが、素直に受け入れられたのですね。

KENZO:チームメイトから言われたということが大きかったと思います。同じ道を一緒に歩んできたメンバーだから、どこかリスペクトがあり説得力がありました。その時のメンバーは家族のような存在ですね。

今はみんなそれぞれ色々な仕事をしているので、集まる機会は年末年始とかショーケースの時しかないですが、お互いの人生を認め合って、応援し合っている仲間です。僕が世界大会で8年連続優勝という結果を残せたのも、彼らのおかげだと思っています。

「世界一」は亡くなった幼馴染との約束

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美谷:ダンスをしてきて一番の思い出はありますか?

KENZO:『JAPAN DANCE DELIGHT(ジャパンダンスディライト)』という大会にチームで出て入賞した時に、初めて両親を呼びました。母はずっと支え続けてくれていましたが、父は“ダンスは不良の文化”というイメージが強く、まったく応援してくれなかったんです。むしろ「早くやめて、真っ当に生きろ」と言われていたくらいで。

でも初めて大会に呼んで「朋揮(ともき・KENZOさん本名)がずっと好きで、やり続けていたものはこれだったんだな」って涙を流しながら僕のダンスを観てくれたそうなんです。父が本当に喜んでいたという話を母から聞いて、人の心を動かすダンスの力を体感しました。

住谷:お父様の心を突き動かすことができたんですね。KENZOさんは世界大会を8年連続優勝されています。1回でも優勝できたら満足しそうなものですが、なぜそこまで長く極め続けることができたのですか?

KENZO:僕には世界一を目指す大きな理由があったんです。実は高校生の頃に幼馴染を交通事故で亡くしています。その幼馴染は日本一の洋服屋を目指していて、僕はダンスで世界一になりたいとお互いの夢を話し合っていました。けれど、その2週間後に亡くなってしまったんです。

だから、彼の想いも背負って「2人分の人生を歩んで行こう。彼に言ったことは必ず叶えなきゃ」という気持ちがありましたね。

ずっとダンスをしていると自分の物差しがわからなくなる時があります。自分が納得していないダンスで拍手をもらえている時もあって、大会に出場し続けることはその物差しを合わせる意味もあったと思います。

悩み抜いてDA PUMPへ加入。『U.S.A.』で日本中を笑顔に

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住谷:現在、DA PUMPのメンバーとしても活躍されていますが、加入に至った経緯を伺いたいです。

KENZO:思い返せばかなり自分のなかで葛藤があった出来事ですね。実は2回加入を断っています。DA PUMPはストリートダンスを日本全国に広めたアーティストグループですし、番組でも共演させてもらって素敵な方たちだと知っていたので、リスペクトの念しかありませんでした。

でも、もともと芸能界に興味がなく、ダンサーとして夢を与えるという目標があったので、こんな気持ちで入っても迷惑をかけるだけだと思い、断っていたんです。

2回断っているのにまた呼び出されて事務所行くと、ISSAさん(DA PUMPリーダー)が座っていたんです。ISSAさんから「KENZOの力が必要だから入ってくれないか?」と直接言われ、「僕が力になれることは現状ダンスしかないですけど、それでも良かったら加入させてください」と話して、加入することになりました。

美谷:かなり迷ったうえでの加入だったのですね。DA PUMPと言えば『U.S.A.』の大ヒットが記憶に新しいですが、あれほどの大ヒットを巻き起こした当時の心境は?

KENZO:マネージャーから楽曲が送られてきた時は、あれだけキレイな歌声のISSAさんが「カモンベイベー」と「USA」しか歌ってなくて、1回パソコンを閉じて、何かの間違いじゃないかと思いました(笑)

でも3年半ぶりに出る楽曲で、これが当たらなかったら辞めようと考えているメンバーもいて、とにかくみんなで一生懸命楽しくつくりたいという思いでしたね。子どもたちが笑顔で飛び跳ねてダンスを真似してくれて、こんなに人を笑顔にできる楽曲を出すことができて、本当に良かったです。

夢を持つことは人生を豊かにする

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美谷:KENZOさんは、夢に向かって生きる子どもを育てるキャリア教育『夢授業』という活動にも取り組まれているそうですが、それも踏まえて今後のビジョンを教えてください。

KENZO:僕は夢を持ったり、何かに一生懸命打ち込んだりすることが、人生を豊かにすると考えています。夢授業では、夢を実現するためにはどうしたらいいか、具体的な行動の仕方を教えています。

たとえばダンスで世界一になりたかったら、たくさん練習をする、そんなことは当たり前ですよね。世界一になるためには、練習量は1日これくらい、食事をこれにする、相手のデータ分析も必要で、たくさんの知識もいるし、音楽のことも知らないといけない。それらを全部クリアして、初めて世界一が見えてきます。

実現するためにはただ漫然と頑張るだけではダメで、自分の夢について理解して、具体的な方法を考える必要があります。そういったことを伝える活動をしています。

僕は夢を持ってワクワクする気持ちがとても大切だと思うんです。そのワクワクが未来の自分をつくるので。今後もたくさんの人が笑顔や元気になれる場所をつくり出して、僕自身も常にワクワクしていたいですね。

50歳からNSCに入所した「分析不可能な面白さ」を持つ個性派俳優

今回のゲストは、7月15日に公開された映画『キャメラを止めるな!』にも出演している女優の竹原芳子(たけはらよしこ)さんです。

竹原さんは証券会社、裁判所の事務官などの仕事を経て、50歳でNSC(吉本総合芸能学院)に入所したという異色の経歴の持ち主です。そんな竹原さんは、今年1月に『還暦のシンデレラガール』という自伝も出版されています。

ワクセルコラボレーターの岡田拓海(おかだたくみ)さんと総合プロデューサーの住谷が、竹原さんの個性光る魅力に迫りました。

「織田信長だったら死んでいる!?」50歳で一念発起のチャレンジ

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岡田:まずは竹原さんの経歴をご紹介します。1981年、20歳のときに証券会社に入社し、その後、裁判所の事務官に転職、2010年に50歳でNSC大阪校に入所。2016年には『劇団間座』(間寛平氏が立ち上げた劇団)の公演に参加し、女優活動を開始しました。

2017年に映画『カメラを止めるな!』に出演、2019年には初の連続ドラマ『ルパンの娘』にレギュラー出演と活躍の場を広げています。

さらに今年開催された第75回カンヌ国際映画祭にも参加し、自身が出演した『キャメラを止めるな!』が2022年7月15日に日本で公開。初の著書『還暦のシンデレラガール』も出版されています。

住谷:50歳からNSCに入所され、その後は目まぐるしい活躍ぶりです。どういったきっかけがあり、NSCに入所されたのですか?

竹原:当時は裁判所で事務官の仕事をしていたのですが、50歳を迎えたときに昔見た大河ドラマのシーンが自分のなかでよみがえったんです。織田信長が「人間五十年」と言って火のなかで舞っているシーンなんですが、30年も前に観た映像なのに強烈に残っていました。

それをふと思い出して「織田信長だったら死んでるやん!」って大きな衝撃を受けました。「死んだと思ったらなんでもできる、第二の人生だ」と思いNSCにチャレンジすることにしました。

「第二の人生はやり残したことをやろう」 とNSCへ入所

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岡田:それほどお笑いをやってみたいと思っていたのですね。

竹原:証券会社に入社したばかりのときに、ちょうど吉本で一期生の募集が始まったんです。私は小さいころから新喜劇をよく観ていたので、募集の看板を見つけたときに入りたいと思い、看板の前で30分くらい立ったまま悩んだことがありました。結局は諦めましたが、50歳になって「第二の人生、やり残したことをやろう」と考え、思い浮かんだのがNSCでした。同期には『コロコロチキチキペッパーズ』さんや『霜降り明星』さんがいます。NSCにはさまざまな年代の人がいると思っていたんですが、面接に行ってみたら10代、20代ばかりで、「どうしよう、場違いやん……」と居心地悪かったですね(笑)

でも帰り際、階段を下りているといきなり肩をたたかれ、振り返ると知らない男の子から「頑張ろうぜ!」と言われ、思わずうれしくなって「頑張ろうな」って返して、切り替えることができました(笑)

「分析不可能な面白さ」を武器に女優へ転身

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岡田:芸人としての経歴を重ねた後、2016年に劇団間座(はざまざ)で女優活動をスタートされていますが、なぜ演技の仕事をするようになったのですか?

竹原:55歳で落語の大会に出たときに審査員の先生に、「他の人には真似ができない、科学的に分析不可能な面白さがある」と言われて、その場で私のために賞をつくってくださったんです。それがすごくうれしくて、それから“表現者”という仕事への興味が強くなり、演技も勉強してみようと思いました。

それで劇団間座のオーディションの案内を見つけて、受けてみたら通って、旗揚げ公演に出してもらえたんです。でも「演技は求めてないので、舞台で飛んどいたらいいから」ということで、幕間に出てくる蛾(が)の役でした(笑)

岡田:竹原さんの面白さや独特の雰囲気は本当に唯一無二のものですね。『カメラを止めるな!』は私も観ましたが、竹原さんの出番はそこまで多くないにもかかわらず、すごく味のある演技をされていて、とても印象に残っています。

竹原:『カメ止め』にたどり着いたのも本当にたまたまだったんですよ。上田慎一郎監督のシネマプロジェクトを知って、オーディションを受けたら受かって、上田監督が当て書き(キャラクターを演じる俳優をあらかじめ想定して脚本を書くこと)をしてくださったんです。私の撮影は1日だけでしたが、本当にたくさんの方が広めてくれて、知っていただくことができました。

『キャメラを止めるな!』に出演、カンヌ国際映画祭へ

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住谷:そこからフランス版リメイク『キャメラを止めるな!』に日本人で唯一出演され、カンヌ国際映画祭にも参加されています。レッドカーペットを歩いたときはどのような心境でしたか?

竹原:もう「うれしぃーーー!!!最高やな!!!幸せやな!!!」って感じでしたね(笑)『キャメラを止めるな!』の撮影ではパリにも行かせてもらって、有名な監督さんとあの役者のメンバーに入れていただけて夢のようでした。

岡田:竹原さんのお話を聞いていると、本当に一つひとつを楽しんでいらっしゃることが伝わります。50歳から大きなチャレンジをされてきましたが、葛藤することや迷いなどはなかったのですか?

竹原:私は証券会社を辞めてからずっと、自分に向いているものが何か探し続けてきました。派遣会社に登録して、短期間でいろいろな職種を経験しました。習いごとも、友達から誘われたら何でも行ってみて、「これ!」と思ったものはすぐに申し込みしました。

社交ダンス、エレクトーン、生花など、20個くらいはやったと思います。誘われたら何でも行くし、行き当たりばったりで深く考えていないんです。「やらないで後悔するよりも、やって後悔する方がいい」というスタイルで生きています(笑)

流れに身を任せていたら想像以上の世界へ

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住谷:2022年に入り『還暦のシンデレラガール』という著書も出版されています。この本のタイトルは竹原さんにピッタリだと思いました。

竹原:「今までのことを本にしませんか?」というお話をいただいて、すぐに「出します」って答えましたね。数年前に本を出せたらいいなと考えたことがあって、『還暦のシンデレラ』やなって、頭の中をよぎったことがあったんです。私のことをよく知ってくれているカメラマンさんが「シンデレラストーリーだよ」と言ってくれたこともあって、このタイトルになりました。

岡田:これだけ好奇心を持って人生を楽しまれている方は、なかなかいないと思います。50歳以降の人生をガラリと変えて、さらに今後の竹原さんのストーリーが気になります。

竹原:私もこんなに変わるとは夢にも思っていませんでした。でも、本当に今まで深く考えず「何でもやってみよう」の精神でやってきて、想像以上のことが起きているので、これからも流れに身を任せていこうと思います(笑)

あとは、私は旅行が大好きなんですけど、まだまだ世の中には見たことがない景色がいっぱいあるので、そういう景色を見に行きたいですね。そしてそれが仕事につながったらうれしいです。

700名のシンガーグループを率いる寺尾仁志さんが伝える「歌の力」

今回のゲストは700名のシンガーグループ「human note」のリーダーを務める寺尾仁志(てらおひとし)さんです。寺尾さんは「歌の力で世の中に貢献したい」と2007年にhuman noteを結成、発展途上国や被災地でコンサートをするなどの活動を続けています。

ワクセルコラボレーターの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんと総合プロデューサーの住谷が、寺尾さんの活動や歌の力について伺いました。

「歌の力」を世の中に届けるためhuman noteを結成

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渋沢:本日のゲストは、歌を通して世界中の人とコラボレートし、700名のシンガーを率いる寺尾仁志さんです。まずは寺尾さんのシンガーとしての経歴を伺いたいです。

寺尾:もともとシンガーとしてソロ活動をしていたのですが、2000年にゴスペルグループのリードシンガーとしてメジャーデビューしました。そこから2003年にソロ活動に戻り、音楽教室のゴスペル講師とアーティストの二足のわらじを履いて活動をしていました。

おそらく、どのアーティストも「自分の音楽で人を元気にしたい」「癒したい」という思いを持っているのと同時に、「有名になりたい」「お金持ちになりたい」「モテたい」などさまざまな葛藤を抱えながら活動をしていると思います。

僕ももちろんそうで、友人の河口恭吾さんが紅白に出場したり、身近な人が売れていったりするのを見て悔しい思いをしました。悔しい経験もありますが、うれしい経験も多く、複雑な気持ちを重ねながら活動をしているアーティストがほとんどだと思います。

渋沢:どのような経緯があって human noteを結成されたのですか?

寺尾:音楽教室のゴスペル講師をして生計を立てていたんですが、当然アーティストだけで身を立てていきたいという気持ちで活動を続けていました。そんなある日、ゴスペル教室の皆さんと大きなコンサートをする機会があり、コンサート後に「生活の中に歌があることによって、パニック障害やうつが治りました」とメールをくれた方々がいたんです。「歌の力」に改めて気づかされましたね。

歌の持つ力と自分が培ってきた経験や歌唱スキルを合わせることができたら、世の中に対してとても価値のあるものを提供できるのではないかと思い、2007年にhuman noteを結成しました。

責任を持ちステージに立つことで「心が躍る」体験ができる

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渋沢:human noteにはどういった方々が所属されているのですか?

寺尾:下は12歳から上は79歳のおばあちゃんまで。イギリスやフランス、オーストラリア、マレーシアなど、海外にもたくさんのメンバーがいます。

human noteという名前には「一人ひとりの声は違う。あなたの声であなたの歌を歌ってほしい」という意味が込められています。過去に600名でステージに上がったことがあるのですが、どうしても大勢いると「私ぐらい口パクで大丈夫でしょ」って思う人がいますよね。でも僕は絶対にそれをさせません。

ステージに立って口パクをするなんて、僕には自分を大切にしていないように見えるんです。ステージに立つときは責任を持っていないと楽しめません。だから600名いようが、何千名いようが「あなたの声で歌おう」と伝えています。

僕は「ワクワクする」「楽しい」といった感情のもう一つ深いところに「心が躍る」という感覚があると思っています。責任を持ち、自分と向き合い、人と向き合い、ドキドキしたり冷や汗をかいたりするような経験を通して「心が躍る」体験ができるんです。

世界中の人との交流、歌ってきたからこそできた貴重な経験

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住谷:寺尾さんがhuman noteの活動で世界中の人とコラボレートしているエピソードを伺いたいです。

寺尾:これまでケニアやハイチ、カンボジア、バリ島、ニューヨーク、タンザニアなどに行き、現地の子どもたちや、過酷な状況で生きている人たちに向けて歌ってきました。東日本大震災の後、仮設住宅に何度も通い、熊本などの被災地も訪れています。

被災された方に「頑張ってくださいね」と歌を歌うのではなく、一緒に歌うことを大切にしています。そっちの方が絶対に元気が出ると思うんです。

タンザニアでの経験は特に印象に残っています。縁があって狩猟民族と知り合い、狩りに連れて行ってもらい、槍で鹿を捕まえてその場で捌く様子を見せてもらいました。

そして、狩りが終わったら「歌合戦をしよう」という話になり、まず僕らが歌って、その後に狩猟民族の人たちが歌ってくれたんですが、一人が歌い始めるとそれに対してハーモニーをつくっていたんです。当然楽譜もないのに、感覚的にハモる技術を持っていることに衝撃を受けましたね。

渋沢:狩猟民族の人たちとご縁があるなんて普通では考えられませんね。それも音楽があったからこそつながったご縁ですよね。

寺尾:歌ってきたからこそできた経験がたくさんあります。もう一つとても印象に残っているのが、ハイチに行ったときのことです。ハイチは2010年に20万人以上が亡くなる大地震が起きたのですが、そのとき日本からたくさんの千羽鶴が送られていました。

ハイチの人から「日本からいっぱい送られてくるけど、これはいらないと伝えて」と言われたんです。祈りの込められたものだとはわかったそうですが、「いらない」とはっきりと言われ、良かれと思ってやったことが、一歩間違えるとただの自己満足になってしまうことを知りました。

渋沢:千羽鶴は最近SNSでも話題になっていましたよね。本当に相手のためになっているのか、考えさせられる出来事ですね。

「心が躍る」体験を多くの人と共有したい

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渋沢:human noteには700名ものメンバーがいるので、まとめたり指揮を執ったりするのは、とても大変ではないですか?

寺尾:まとめるのは無理ですね。大阪のおばちゃんなんか絶対まとまらないですから(笑)。歌の力って本当にすごいので、僕はそれをたくさんの人と共有したいだけなんです。

自分がやりたいことを伝えると、それを5mの距離で見てくれる人もいれば、20m向こうから見てくれる人もいて、それぞれの距離感で700名がいます。ですから、まとめるつもりは本当になくて、自分が面白いと思うことを楽しんでやって、その楽しさが伝わり、結果的にまとまって見えたらいいなと思っています。

住谷:今までも歌を通してさまざまな活動をされてきたと思いますが、これからどのような活動をしていく予定ですか?

寺尾:僕は「楽しい」のもう一歩深いところ、「心が躍る」という体験をたくさんの人と共有していきたいと考えています。よく子どもに対して「夢を見ろ」という人がいますが、僕は「大人こそ夢を見ろ」と思っています。

大人が元気だとそれを見た子どもが「大人って楽しそうだな」と感じると思うんです。だから音楽をつくるプロセスのなかで、大人がワクワクする活動をしたいですね。

歌い続けてきたことでお二人にも出会うことができましたし、これからも歌を通してたくさんの仲間とつながっていきたいです。そして、みんなで一緒に大きなステージに立って、最高のエンターテイメントを届けることができたらうれしいです。

還暦プロダンサー!SAMさんが生涯現役でいるための習慣とは

今回のゲストは有名ダンスアンドボーカルグループのメンバーであるSAMさんです。SAMさんは『いつまでも動ける。年をとることを科学する、ジェロントロジー』という加齢学についての本を出版され、老化がネガティブなことばかりではないことを伝えています。

還暦を越えてもなお現役ダンサー・ダンスクリエイターとして活動しているSAMさんに、ワクセルコラボレーターでタレントの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんと、総合プロデューサーの住谷が、第一線で活躍する秘訣を伺いました。

ワクセルコラボレーターページ(SAMさん)

高校時代にディスコダンサーに魅了され、プロを目指す

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:本日のゲストは1990年代から日本に旋風を巻き起こした有名ダンスアンドボーカルグループのメンバーで、ダンス界のレジェンドであるSAMさんです。SAMさんはダンサーの活動はもちろん、ダンススクールの設立、専門学校のダンスパフォーマンス科トータルプロデューサー・講師、健康寿命を延ばすためのダンスプログラムの作成など、ダンスクリエイターとしても多方面で活躍されています。まずはダンスを始めた経緯を伺いたいです。

SAM:ダンスを始めたのは15歳のときでした。学校の友達と初めてディスコに行ったんですけど、白いスーツを着たダンサーがフロアに出てくるとお客さんが盛り上がって、その人を中心にサークルができるんです。その中で踊るダンサーを見て「めちゃくちゃカッコいい!」と思い、次の日から学校で「こんなことしてたよね」って友達とまねしていました。

それからディスコにハマって、数カ月に1回行く程度だったのがいつの間にか週1回になり、高校3年生のときには毎晩になっていました(笑)。もちろん年齢制限はあったと思うんですけど、当時はそこまで制限がうるさくなかったんです。

「何になってもいいから真面目にやれ」医者である父からの激励

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

住谷:ディスコがきっかけでダンスに目覚めたんですね。それから本格的にプロダンサーを目指し始めたのはいつ頃ですか?

SAM:高校2年生くらいでしたね。僕らの世代ってダンスがうまい人はいましたが、ディスコダンサーとしてご飯を食べている人がいなかったんです。「なんでこんなにうまいのにプロにならないんだろう?」って不思議に思っていて、「だったら俺たちがプロになろうぜ」って、ダンス仲間と毎晩のように何時間も語り合っていました。

住谷:SAMさんは医者の家系と伺ったのですが、ご家族からの反対はなかったのですか?

SAM:医者の息子だったので医者になるように育てられていました。けれど、それが本当に窮屈で、高校2年生のときに家出をしたんです。でも2週間くらいで見つかって、そのときに初めて父親と母親に思いをぶつけました。

父親から「何がしたい?」と聞かれたので、「自由になりたい」と伝えました。するとちゃんと学校に行くことと、居場所を連絡することを条件に、自由にしてもいいことになったんです。父親から「何になってもいいから真面目にやれ」と言われ、「ダンスを真面目にやろう」と決意しました。

「メンバーそれぞれがリスペクト」結成30年の絆

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:ダンスボーカルグループが結成されて30周年になるそうですね。これまでさまざまなことがあったと思いますが、30年も継続してきて率直にどのようなお気持ちでしょうか?

SAM:30年間ずっと走り続けてきたというよりは、割とのんびりやってきているので、気づいたら30年もたっていた感覚です。デビュー当初は忙しかったですが、その後に6年くらいまったく活動していない時期もありました。

2000年から2006年まではまったく新曲をリリースせずに、それぞれがほぼ個人活動をしていました。その頃の僕は『V6』や『東方神起』など、他のアーティストのライブをプロデュースしたり、別ユニットを組んでライブをやったりしていましたね。

渋沢:音楽活動をされていると「方向性の違いでもめる」ということをよく聞きますが、そういったことはなかったのですか?

SAM:割とみんな同じ方向を向いていたと思います。デビューしたとき、僕とDJ KOOが同い年の31歳、他のメンバーも25歳くらいと、そこそこみんないい大人なので、けんかはあまりなかったですね。

最初の頃は僕とDJ KOOがぶつかることもありましたけど、男同士で同い年なので、ちょっと話せばすぐに和解していました。そういうことを繰り返しているうちに絆ができて、メンバーそれぞれが相手をリスペクトする良い空気が出来上がってきたと思います。

現役で活躍する秘訣は「少しだけ」気を使った生活習慣

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:SAMさんは生涯現役を宣言して、実際に還暦を越えた今でも現役で活躍されています。ダンスはすごい運動量だと思うのですが、どうしたらSAMさんのようにずっと現役でいられるのでしょうか?

SAM:常に踊っていられるために体と向き合っているので、自分の体調には割と敏感な方だと思います。でも、食事制限などストイックな健康管理は全然していないんですよ。

20代はダンスの基礎をつくっている時期だったので、ストレッチや筋トレ、食事にも気を使っていましたが、段々そういう生活が板についてくると、「これくらいはいいだろう」とふり幅がわかってくるんです。食事が偏ってきたら戻すとか、体を冷やさないようにしようとか、最低限のことが当たり前にできるので、長年のいい生活習慣の蓄積だと思います。

「老化はネガティブなことばかりじゃない」加齢学についての本を出版

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:SAMさんは『いつまでも動ける。年をとることを科学する、ジェロントロジー』という本を出版されています。「ジェロントロジー」とはどういうものなのでしょうか?

SAM:ジェロントロジーとは加齢学といって、老化していくことを科学する学問なんです。人は20歳くらいで成長過程が終わって、そこから老化が始まります。老化と聞くとネガティブなイメージを持つと思いますが、「ネガティブなことばかりじゃないよ」ということをこの本で伝えています。

たとえば絵を描いたり、小説を書いたりといった創造力というものは50代から60代がピークだと言われていて、年をとるほど創造性は豊かになるんです。

年齢を重ねるってことは、それだけ経験値を積むということです。60年生きた人と30年生きた人の間にある「30年の経験値の差」って埋められないですよね。どんな経験をしたかは人によってもちろん違いますが、30年長く生きている、僕はそれだけですごいことだと思います。

年齢にあらがうことももちろん必要かもしれませんが、あらがうことばかりじゃなく、ポジティブなこともいっぱいあるということを知っていただきたいですね。

能とストリートダンスのコラボレーション、新たな舞台を目指す

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

住谷:ダンス業界でこれまで多くの功績を残してきたSAMさんですが、還暦を越えて今後どのような目標を持っているのかとても興味があります。

SAM:60歳になってからもやりたいことがたくさんあります。僕は3、4年前から最古の伝統芸能と言われる「能」を始めました。50歳を過ぎたあたりから自然と興味が湧いてYouTubeで見たり、自分で研究したりしていたときに、雑誌の対談で宝生流(ほうしょうりゅう)の能楽師の先生と出会ったんです。実はうちの先祖にも宝生流の能楽師がいて、まったくの偶然ですがすごい巡り合わせを感じましたね。

いろんな話をするなかで「能」と「ストリートダンス」のコラボレーションをすることになり、すぐにその方に弟子入りしました。いまの最も大きな目標は、「能」と「ストリートダンス」がコラボレーションした新しい舞台を作ることです。

他にも、認知症など高齢者が抱える疾患に効果が期待できる『リバイバルダンス』というダンスプログラムがあるので、それを全国にもっと広めていきたいですね。規則正しい生活とコミュニティがあれば誰でも楽しく老化していけます。多くの人が持つ老化に対するネガティブなイメージを変えていきたいですね。

「辞める選択肢はなかった」必要とされる声に応え車いすアイドル誕生

猪狩ともか(いがりともか)さんは、地下アイドルグループ『仮面女子』のメンバーです。不慮の事故で脊髄を損傷し車いす生活を送ることになりましたが、アイドル活動を継続し現在は作詞まで手掛けています。

ワクセルコラボレーターでタレントの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんとワクセル総合プロデューサーの住谷が、アイドルやパラ応援大使など、精力的に活動する猪狩さんの素顔に迫りました。

就職活動に苦戦して21歳からアイドルに挑戦

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:本日のゲストは「誰かの夢見る気持ちを後押しできるような存在になりたい」と地下アイドル『仮面女子』のメンバーとして活動する猪狩ともかさんです。まずは、猪狩さんがなぜアイドルを目指し、仮面女子になったのか聞いていきたいと思います。

猪狩:小学生のときに『モーニング娘。』が大好きで、アイドルに対する憧れはずっと持っていましたが、特にアイドルに挑戦することはありませんでした。

21歳のときに管理栄養士の専門学校に通っていて就職活動を始めたのですが、働きたいと思うような心ときめく場所が見つけられなかったんです。そのときに「あっ!アイドルに挑戦してみよう」と突然思いつきました。きっと就職活動につまずいたことによって、心の奥にずっと持っていた願望がポッと出てきたんだと思います。

通常のアイドル事務所は「16歳まで」「20歳まで」などと年齢制限が設けられていることが多く、21歳でオーディションを受けるチャンスがあったのが今の事務所だけだったんです。地上の輝かしい事務所に入れるような存在でもないので、結果的にちょうど良かったと思っています(笑)。

「仮面女子でしかできない表現をしたい」とアイドル卒業を撤回

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:猪狩さんは仮面女子からの卒業を発表されましたが、そこから卒業を撤回されて現在も活動を続けています。どのような心境の変化があったのでしょうか?

猪狩:卒業を一度決めたのは27、8歳の頃です。仮面女子としてやり切った気持ちがあり、年齢的に考えても新しい道に進むときだと思いました。そして、「ソロ活動を頑張っていこう」と、2020年2月に「今年の秋ごろに卒業する」と発表しました。

秋に仮面女子のワンマンライブが開催される予定だったので、そのライブに出てひと区切りをつけようと思ったんです。でも、コロナウイルスが蔓延してワンマンライブが延期になり、ライブに出ないまま卒業することは嫌だったので、卒業も延期することにしました。

その後、私が作詞した曲が入ったファーストアルバムが出ることが決まりました。「私が作詞した曲が出るのに卒業するのはおかしくない?」と考え、ファーストアルバムが出るまで卒業もさらに延期。

そうこうしている間に「車いすの私が当たり前のように一緒に舞台に上がっている見せ方は、仮面女子にしかできない」と気づいて、「私にしかできない表現をもっとしていきたい」という気持ちが強くなり、卒業を撤回することにしました。

「やっとなれた仮面女子」わずか1年で事故に遭遇

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:先ほど“作詞”という話が出ましたが、作詞活動もされているんですよね。作詞することになったきっかけも伺いたいです。

猪狩:作詞に対する憧れはずっとありました。事故に遭って入院しているときにプロデューサーに「作詞がしてみたい」という話をしたら、「やってみてよ!」って言ってくださって、病院のベッドの上で初めて歌詞を書き始めたんです。

『ファンファーレ』という曲なんですが、私が事故に遭ったとき、さまざまな方からの応援に背中を押してもらったので、「次は私が曲でお返しするぞ」という気持ちで作詞しました。

渋沢:『ファンファーレ』を聴かせてもらったのですが、「いくぞ」という内に秘めた思いがストレートに書かれていると感じました。猪狩さんはご自身のつらい経験を笑顔でお話しされていて、その姿に本当に勇気づけられます。でも、事故に遭われたときは相当に苦しい思いをしたのではないでしょうか?

猪狩:仮面女子としてデビューするために、見習い生からスタートして、ようやく仮面女子になれたんです。なのに、その1年後くらいに事故に遭い「やっとスタートラインに立てたと思ったのに、これからどうしよう」と私生活のことより、仮面女子の活動への心配が大きくて、そのことばかり考えていました。

「どうやったら活動できるだろう?」と考え、事故後もアイドル活動を継続

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

住谷:仮面女子を辞めるか迷っていたということですか?

猪狩:よく驚かれますが、辞めるという選択肢はなかったです。というのも、周りの人が「車いすに乗っていても必要としているよ」って思いをすごく伝えてくれたので、辞めるか辞めないかで迷うことはなく、「どうやったら活動していけるだろう?」ということを考えていました。

住谷:事故に遭われてから何か変化はありましたか?

猪狩:今まで見えていなかったものが見えてきたように思います。例えば車いすで道を通っていると、「歩いているときには気づかなかった傾斜があるな」と気づきます。「障がいのある方はこれまでこういう苦労があったんだな」って、自分が当事者になって知ることが多いですね。

装着型サイボーグ『HAL®』を利用したリハビリで体に変化

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:猪狩さんは現在『TRP』というリハビリに励まれているそうですが、どのようなリハビリを行っているのですか?

猪狩:TRPは『ともか・リジェネレーション・プロジェクト』の略称なんですが、私の失われた機能を回復しようというプロジェクトです。『HAL®(ハル)』という装着型サイボーグを使い、オーストラリア・メルボルンのビクトリア大学で博士をしている長野放(ながのはなつ)先生の指導の下、リハビリを受けています。

通常、人は脳から指令を受けて手や足を動かしていますが、私の場合は脊髄を損傷しているので、脳からの指令が足まで届きません。リハビリに使っている『HAL®』は、脳からの指令を皮膚に貼ったセンサーで検出して外側から体に伝えてくれるものなんです。その仕組みを使って運動することにより、神経の回復を狙う取り組みをしています。

『HAL®』を使っても動かせない人がいるなかで、私はひとつ目のステップをクリアすることができ、その時点でも大きな喜びを感じました。リハビリを始めて1年くらいたつのですが、今まで感じなかったおなかの痛みを少し感じるようになったり、整体の先生に「お尻に筋肉がついたね」と言われたり、体幹が鍛えられている実感があります。歩けるようになったなどの大きな変化はないですが、少しずつ前に進んでいる感じですね。

車いすの人をもっと身近に感じてもらうためにSNSで情報を発信

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

住谷:少しずつでもリハビリの効果を感じられているのはうれしいですね。今後の変化が楽しみです。最後に猪狩さんの今後の目標もお聞きしたいです。

猪狩:先ほど渋沢さんが「大変なことを明るく伝えてくれるのが良い」って言ってくださったんですが、まさに今SNSを使ってそういう発信をしています。コロナ禍では直接会ってやりとりするのが難しいので、SNSを活用してさまざまな発信を今後も続けていくつもりです。

障がい者が不便に感じていることも知ってもらいたいですね。車いすだからって敬遠されるのが嫌なので、私の発信で車いすに乗っている人をもっと身近に感じてもらえたらうれしく思います。

若きファッションデザイナー若生隆人さんが語るファッション哲学

若生隆人(わこうたかと)さんは、ファッションの名門校の文化服装学院在学中に数々のコンテスト入賞の実績を持つ、期待の若手ファッションデザイナーです。ブランド『Pablo Griniche』を立ち上げ、2022年2月にはコンセプトストアをオープンするなど、精力的に活動をしています。

今回は、ワクセル総合プロデューサー住谷とメディアマネージャーの三木が、ファッションの道にのめり込んだ経緯やイギリス留学など、若生さんのこれまでの経験を伺いました。

グランプリ受賞し、イギリスへ留学

新進気鋭のデザイナー若生隆人×ワクセル

三木:若生さんは専門学生だった頃に数々のファッションコンテストに入賞されていたそうですが、どのようなコンテストに参加されたのですか?

若生:有名なものでは『装苑賞(そうえんしょう)』があります。コシノジュンコさん、山本寛斎さん、山本耀司さんなど、日本を代表するデザイナーが受賞している賞です。僕はファイナリストに選出されましたが賞は取れず、とても悔しい思いをしました。それでも、デザインしたものがランウェイを歩くというとても貴重な経験をさせてもらいました。

三木:若生さんは、神戸ファッションコンテスト2016でグランプリを受賞し、イギリスのノッティンガム・トレント大学への留学権を取得。留学中には服飾学生を対象としたアワードでベスト20に入っています。イギリス留学でどのようなことを学んだのか伺いたいです。

若生:イギリス全土の学校から1,000人ほどの学生が集まり、コレクションが行われたのですが、20人に選出してもらって賞をいただくことができました。イギリスに留学したことで、海外と日本のファッションとの大きな違いを認識する機会になりました。

日本人は良くも悪くも同じような服を着ている人が多いと思います。「みんな同じがいい」という教育を受けてきているので、同じような服を着ていると安心するのかもしれません。現在、売れている日本のブランドは、突き抜けているデザインのものが少ないように感じます。それに比べ、海外では常に新しさを求めている印象があります。「人と違ったほうが素敵」という考え方は、日本人とは根本的な差があるように感じました。

言語の壁をモノづくりで乗り越える

新進気鋭のデザイナー若生隆人×ワクセル

三木:留学中に苦労したことはありましたか?

若生:やはりコミュニケーションには苦労しましたね。最初の半年間は語学学校に通い、その後ノッティンガム・トレント大学に行ったのですが、クラスメイトは全員イギリス出身で、半年間学んだ英語が通用しませんでした。聞き取ることも伝えることも苦労し、学校には顔を出す程度で、ほとんど自宅でモノづくりをするようになりました。でも、作った作品を学校に持っていき、机に置いた時に、それまでほとんど話したこともないクラスメイトが「それどうやって作ったの?」と声をかけてくれたんです。その時に“モノづくりで人の気持ちが動く”ということを体験でき、言葉の壁を越えられたと感じました。

三木:そもそも、若生さんがファッションに興味を持たれたきっかけは何でしたか?

若生:小学生の時に、母親が絵の教室に通わせてくれたことがきっかけです。絵を見せると母親や周りの人が喜んでくれるのがうれしくて、夢中になったのを覚えています。また、その教室にアルマーニしか着ない先生がいて、真っ黒な服装に金髪というとがったファッションに、小学生ながら「カッコイイ」と憧れていました。絵だけじゃなく、料理やモノづくりという体験もさせてもらい、いつしかファッションの道に進みたいと強く思うようになりました。

自分に向き合いファッション哲学を確立

新進気鋭のデザイナー若生隆人×ワクセル

住谷:若生さんがデザインするうえでこだわっていることやテーマはありますか?

若生:カウンターカルチャーであることです。何事も主流のことに対して反対意見を持つようにしています。別の角度から物事を捉えるように意識しているので、僕のデザインは突飛だと思われることが多いと思います。僕が憧れている海外のデザイナーは、カウンターカルチャーを切り開いてきた人たちで、その人たちの影響を受けたファッション哲学を追い求めているんです。そのため僕のデザインには反骨心や戦う姿勢が強く表れているのかもしれません。

僕は自分のことを深めたいという気持ちがあったので、一人で作品を作る時間を大事にしてきました。学生時代は飲み会や友達からの誘いを断って一人の時間をつくり「自分らしさとは何か」を探していましたね。

今思うと苦しい時間でしたが、コンテストのために1日何十枚も絵を描き、努力をしてきたことが今につながっていると思います。ファッション業界は途中で挫折してしまう人もたくさんいますが、僕はうまくいかなくても泥臭く続けることを意識してきました。たくさんの人に助けてもらい、今まで続けることができたと思っています。

仲間の助けを借りながら築いたブランド

新進気鋭のデザイナー若生隆人×ワクセル

住谷:今までどのような助けがあったのか、印象に残るエピソードはありますか?

若生:たくさんありますが、神戸ファッションコンテストでグランプリを取れたのは、クラスメイトだった友人たちのおかげです。提出期限前日の朝まで寝ないで手伝ってくれました。僕は3日間くらい寝ておらずヨロヨロになっていたのですが、友人たちがタクシーを捕まえて「行ってこい!」と送り出してくれました。それでもまだコンテスト用の服が完成していなかったので、タクシーに乗っても服を作っていて、運転手さんに試着の協力をお願いするくらいの状態でした。

神戸の会場に着いても未完成のままでしたが、同じようにコンテストに参加していた他のクラスメイトが「こうやるんだよ」と手伝ってくれました。そんな状態でしたがプレゼンがうまくいき、僕のデザインを評価してもらえたので、本当に友人たちに救われたと思っています。

三木:留学から帰国後、そのご友人たちと一緒にブランドを立ち上げたのですよね?

若生:学生時代から一緒にいた4人と「いつかやろう」と決めていたんです。ただ、そのブランドはワンシーズンで終わってしまいました。その友人たちとはルームシェアをしながら、一緒にブランドを立ち上げたのですが、当時の僕は古着屋にも勤めていて、どうしても友人たちと生活が合いませんでした。結局、うまくいかずに僕は離れましたが、とてもいい経験になったと思っています。

その後、古着屋とブランドを展開している会社に入り、そこでブランドの立ち上げを任せてもらいました。ただ、その会社でもさまざまなことがあり、退職しました。僕が作ったブランドは会社のものだったので、在庫や権利を買い取る必要があり、借金をすることに……。自分自身のブランドができるまでたくさんの苦労がありましたが、仲間たちのおかげで2、3カ月で借金を返すことができ、『Pablo Griniche』というブランドを立ち上げることができました。

「古着は教科書」先人から学び取る

新進気鋭のデザイナー若生隆人×ワクセル

住谷:若生さんの今後の展望についても教えてください。

若生:2022年2月から東京・上野にあるアトリエと契約をして、コンセプトストアをオープンします。僕の哲学で選んだ古着やアンティーク、ヴィンテージ、自分のブランドなどを置くお店で、1年間限定でガムシャラにやってみるつもりです。

僕にとって古着は教科書みたいなものです。昔の人が作った服を見ると、生地や作り方から学べることがたくさんあります。どんな本を読むよりも古着から学ぶことが多く、僕のそばには常に古着があります。それが僕の人生というかスタイルなんですよね。今後は古着に専念するのか、ブランドに専念するのかわかりませんが、この1年でこれからの道を決められたらと思っています。


日本とブラジルの架け橋となるアーティスト

今回のゲストは、「日本産 ブラジル製」のアーティスト・KAUAN OKAMOTOさんです。

KAUANさんは日本人とブラジル人のMIXで、日本語、ポルトガル語を操るシンガーソングライターです。15歳から大手芸能事務所でエンターテイメントを学び、作詞・作曲だけでなく、ダンスの振り付けや演出など、多岐にわたって活躍しています。ブラジルで視聴者数3,000万人を超える人気番組に日本人として初めて出演。国内外で大注目のマルチアーティストKAUANさんに、これまでの軌跡を伺いました。

MCは、ワクセルコラボレーターでタレントの渋沢さんと、ワクセルメディアマネージャーの三木が務めています。

初ステージが東京国際フォーラム

アーティスト-KAUAN-OKAMOTO×ワクセル

渋沢:まずお聞きしたいのは、15歳で芸能界に入ったきっかけは何でしょうか?

KAUAN:母がモデルに応募してくれたのがきっかけです。当時はテレビでハーフタレントが流行りだした時期だったんです。自分を表現することや、MIXであることを生かしたいと思ったときに、「モデルやったらいいんじゃない?」と母に勧めてもらいました。

また、当時の僕は音楽によってすごく救われていると感じていました。こんな雰囲気なのでビックリされるかもしれませんが、小田和正さんの曲をよく聴いていたんですよ。洋楽ではアッシャーや、ジャスティン・ビーバーが好きで、「歌って踊れるのってカッコいい」と思いました。音楽に救われる側から、音楽を“自分も表現したい”に変わった頃に、たまたまジャニーズ事務所のジャニーさんから声をかけていただきました。

急に知らない番号から電話がかかってきて、電話に出ると「ボクだよ、ボクだから」と言われました。話していてジャニーさんだとわかりましたが、最初はオレオレ詐欺ならぬ“ボクボク詐欺”かと思いました(笑)。ジャニーさんから「今すぐ国際フォーラムに来て」と言われ、生まれて初めての新幹線に乗って東京へ向かいました。

会場に着いてみるとオーディションではなく、ライブ会場でした。ジャニーさんから「YOU、今日のライブに出ちゃいなよ」と言われ、ビックリしながらも急遽ライブに出演することに。そこでジャスティン・ビーバーの『Baby』をアカペラで歌ったことでジャニーズ事務所に入ることになりました。ジャニーさんのおかげで人生が変わったので、そこから奇跡を信じるようになりましたね。

事務所から独立してソロデビュー

アーティスト-KAUAN-OKAMOTO×ワクセル

渋沢:ジャニーズで活躍した後に、今では独立してソロ活動をスタートされていますが、どのような背景があったのでしょうか?

KAUAN:日頃からジャニーさんとは方向性について密に話したり、自分で作詞・作曲をしたものを見てもらったりもしていました。カメラマンを自分で手配して、自分で監督を行い、出来上がったPVが『Fantasy Dance』です。ジャニーさんも後押ししてくれたので、何とかジャニーズの中でできる道がないか模索しましたが、なかなか難しかったですね。

「YOUが決めた道が一番いいんじゃない」とジャニーさんも言ってくれたので、悩んだ結果、20歳になる前にジャニーズ事務所を辞めて、自分の夢を追いかけることにしました。お世話になったジャニーズ事務所には、いつか恩返しできればと思っています。

その後、新たな音楽事務所に入りました。事務所と一緒になってメンバーを集め、僕もメンバーの一員として1年ほどの活動を経て2017年にデビューしました。今では完全にセルフプロデュースで活動しています。

渋沢:すベて事務所にやってもらっていたところから、自分でやらなきゃいけないって状況に変化したときに、困ったことや苦労した点はありますか?

KAUAN:それはすごくありますね。ジャニーズの頃はバラエティに出させてもらっていましたが、今日のような撮影はすごく久しぶりなんですよ。テレビでは、スタッフさん全員でいい番組を作ろうと動いてくれていますが、一人でやるとうまくいかないことばかりです。

「メイクさんがここまでやってくれていたのか」とか、「カメラは1台だと全然撮りたい画が撮れなくて、4台必要なんだ」とか、やってみて初めてわかることがたくさんあります。セルフプロデュースで活動していくには人がついて来る自分になる必要があります。そこが大変だと感じました。

目指す音楽は、ラテンとアジアンPOPの融合

アーティスト-KAUAN-OKAMOTO×ワクセル

三木:大手事務所からソロ活動になり、海外で広く活動していくなかで、周囲からの反対や逆境などはありましたか?

KAUAN:特に言われたのは、「辞めるのはもったいない」「ジャニーズにいた方がよかった」。言われるのは辛かったですし、カチンとくることもありました。それでも自分としては腹をくくって辞めたので、何かしら言われることは覚悟していました。

渋沢:アーティストとして、自分が表現したい世界観を今はやれている実感はありますか?

KAUAN:そうですね。春にはまたブラジルへ渡る予定があって、今年の目標としてはラテン要素と、J-POP、K-POPの要素を融合させるということです。何も隠さずに、僕のアイデンティティを全部出しきった音楽を生み出します。僕はカメラマンやプロデューサーなどを自分で集めてクルーを組んでいるのですが、ブラジルでのクルーと組み合わせて行ったり来たりしながら、クリエイティブ制作をしようと考えています。

ブラジルは世界最大の日系人居住地であり、アジアに対してのリスペクトも強いです。国民性としてライブや音楽を好きな人が多く、世界一大きいライブ会場があり、本当に夢を見させてくれるようなムードがブラジルにはあります。日本とブラジルを代表して世界に発信できるようなアーティストを目指したいですね。

繊細さとおもてなしの心を持つ日本。情熱的で愛情に溢れるブラジル。真逆といっても過言ではない文化ですが、僕はそれが魅力だと思っていて音楽で多様性を表現していきたいですね。地球の反対側にある日本とブラジルが、お互いを尊敬しあえる夫婦のような関係になれるのではと思います。

コロナ禍の“洞窟”で見つけたひとすじの光

アーティスト-KAUAN-OKAMOTO×ワクセル

三木:昨年にリリースされた『Cave』という曲を聴きましたが、とてもメッセージ性が強いと感じました。どのような思いを曲に込めているのか聞かせてください。

KAUAN:『Cave』は、“洞窟”という意味ですが、まさにこのコロナ禍での体験を表しています。ソロとして掲げた目標に対していい結果が出ていたのに、一度ストップせざるを得なくなり、やるせなさを感じていました。お金も時間もかけたものが一瞬でなくなり、まさに洞窟にいるような感覚だったところから、どうやって這い上がろうかなと……。

Aメロは「A loser or lover(俺は負け犬なのか愛されてるのか)」から始まり、心の奥にある思いを吐き出しています。「I’m a star(俺はスターだ)」って歌詞は、ものごとをストレートに表現するブラジル人らしさがあります。自信があるから言っているわけではなくて、「そうでも言わないとやってられない」と、自分を奮い立たせています。洞窟の中で光を探しているんですよね。

Bメロでは、「もっと優しくみんなに接していこう」という歌詞など、自分も光を灯せる人になりたいというメッセージがあります。僕の曲は、まず自分に問いかけてから、相手に伝えているところが多いんですよね。サビでは「I hope light will open your gloomy way(光が君の澱んだ道を照らしてくれるように願っている)」と歌っていますが、この“君”とは、自分のことでもあるし、相手のことでもあります。みんなが洞窟の中にいて、「一人だけじゃないんだよ」という思いを込めています。

三木:これからも世界でますます大活躍かと思いますが、今後のビジョンについて聞かせてください。

KAUAN:まずはブラジルで、ラテン・アジアンPOPの要素を取り入れた曲を話題にすることです。自分のSNSの数字を伸ばすことも目標のひとつとしてあります。数字を伸ばすということは、みんなの心に届いているということですよね。「KAUANの曲を聴いて、生きる意味を見出した」と言ってくれる人もいるので、そうやって人の心に残る曲を作りたいです。まずは自分のアイデンティティである「ラテン・アジアンPOP」のなかでどこまで表現できるか、自分との勝負です。

ワクセルのようないい番組はなかなかないので毎回出たいくらいです。今後は一緒に何かプロジェクトなどやっていきたいですね。

 


デザインの力で戦争を無くしたい

2001年に『世界がもし100人の村だったら』という絵本の広報に携わり、「デザインの力で社会課題を解決すること」を目指して多方面で活躍する石川淳哉(いしかわじゅんや)さんをゲストにお招きしました。

MCは、ワクセルコラボレーターでタレントの渋沢さんと、ワクセルメディアマネージャーの三木が務めています。”ソーシャルグッドプロデューサー”として、たくさんの人に影響を与えている石川さんに、これからの社会課題について、そして私たちが何を意識していくべきなのかについて詳しく伺いました。

社会課題の解決に向けて、「入り口」を作りみんなを巻き込む

ソーシャルグッドプロデューサー-石川淳哉×ワクセル

渋沢:
石川さんは現在『ソーシャルグッドプロデューサー』として活躍されていますが、どういったお仕事なのでしょうか?

石川:
クリエイティブの力を使って社会課題の解決を目指しています。社会課題はたくさんありますが、そもそもどんな課題があるのかに気づいていない人が多いので、まず入り口を作って、みんなを巻き込むようプロデュースする仕事です。

2001年に『世界がもし100人の村だったら』という絵本の広報に携わったことが、大きなきっかけになりました。それまで数多くの広告を手掛けて、ありがたいことに大きな広告賞をもらったこともあり、広告についてやり切った気持ちがあったんです。

そんな時に『世界がもし100人の村だったら』の広報に関わることができ、それを通じて社会課題の解決ができることに自分の脳が喜んでいることを体感しました。これまでの広告の仕事と比べ、圧倒的に仕事の楽しさを感じ、「もっと難しいテーマを扱いたい」究極をいうと「デザインの力で戦争を無くしたい」と考えるようになりました。

『世界がもし100人の村だったら』絵本で社会課題の解決に乗り出す

ソーシャルグッドプロデューサー-石川淳哉×ワクセル

石川:
あの絵本の内容は、もともと『世界がもし1000人の村だったら』という話が題材。非常に長いものだったのですが、わかりやすい入り口にするためにグラフを使った絵本にしました。小学校3年生の女の子にお母さんが読み聞かせるようなイメージで作ったので、ひらがなで書かれています。それまでは社会課題を絵本で解決するといった取り組みはなかったので、新しい試みでしたね。

渋沢:
『世界がもし100人の村だったら』は私も読んだことがありますが、非常にわかりやすい内容で強く印象に残っています。さらに2011年に復興支援情報ポータルサイト『助けあいジャパン』を設立されていますが、こちらではどのような取り組みをされていますか?

石川:
『助けあいジャパン』は、支援したい人がSNSを中心に情報を共有して、助けあうための新しいプラットフォームです。今日僕が着ているベストがユニフォームなんですが、何か災害が起こるとこれを着て被災地に行っています。これを着ていると、被災した人たちに「助け」が来たとすぐにわかってもらえるんです。

東日本大震災が起こった時に、地盤の揺れと同時に”時代”が揺れたことも感じました。2万人が亡くなり大きな経済被害が起こった時に、このまま元に戻ることを目指すのではなく、次の災害発生に備えて、より強靱な地域づくりをしようという「ビルドバックベター」な考え方が必要だと思ったんです。

ビルドバックベターのカギとなるのが”情報の共有”です。『助けあいジャパン』を作ったことにより、支援をしたい人たちがSNSを利用して一緒に情報を集めて、足りないものを届けたり、ボランティアを派遣させたりと、情報のマッチングが実現できました。

2018年に、女性誌を一冊丸ごとSDGs特集に

ソーシャルグッドプロデューサー-石川淳哉×ワクセル

渋沢:
ボランティアの形もどんどん変わってきているのですね。2018年には女性誌で一冊丸ごとSDGs特集をしたことが話題になりましたが、こちらも石川さんが携わっているのですよね?

石川:
2015年にSDGsが国連サミットで採択され、2030年までに17個のゴールと169個のターゲットが設定されました。今では多くの人にSDGsという言葉が知られるようになってきましたが、2018年の段階では女性の認知率がまだ14%くらいしかありませんでした。そういった背景があり 、強い影響力を持つ女性やファッションリーダーたちからSDGsを広めて世間を引っ張っていってほしいと『FRaU』という雑誌で一冊丸ごとSDGs特集を始めたのです。それが現在まで続いて、2021年12月の発行で10号になります。

三木:
雑誌を作るにあたり大変だったことはありますか?

石川:
まず、丸ごと一冊をSDGs特集で作るだけの広告主が必要ですし、読んでくれる読者がいるのかも心配でしたね。社会課題の解決に興味のある仲間を集めて、広告主に「みんなで社会課題を解決したいので雑誌に広告を出してほしい」と言うのではなく、「一緒に作りたいからパートナーになってくれませんか?」とお願いしました。

すると、賛同してくれる人たちがいてお金が集まり、無事に雑誌を作ることができました。今後も社会課題を解決していくためのバイブルとして、この雑誌を入り口としてSDGsを知ってくれる人が増えたら嬉しいですね。

みんなで集まって社会課題の解決にあたることが重要

ソーシャルグッドプロデューサー-石川淳哉×ワクセル

渋沢:
石川さんのお仕事は「届ける」仕事なのですね。2021年にはソーシャルグッドプロデューサーの育成塾を開講されていますが、育てることにも注力している理由を伺いたいです。

石川:
育成塾では、「本気で社会を変えたい」「社会が良くなってほしい」という気持ちをもち、自分がプロジェクトリーダーになりたいと思う人しか採っていません。
全国の自治体、地域プロデューサー、ソーシャルグッドの事業をやりたい方、メディア関係者、高校生など、さまざまな人がいます。

世の中を変えていくためには、ゴールに対して一人で頑張るとか、一社で頑張るのではなく、課題に対して協力できる人が集まり、みんなで解決していくことが必要です。自治体、省庁、大企業、中小企業、ベンチャー、大学、主婦など誰もが協力できるプロジェクトがあれば、お金を出す、愛を出す、勇気を出す、時間を使うなど、人それぞれのやり方で参加ができます。

これを”コレクティブインパクト”というのですが、どうやって仲間を作ってコレクティブインパクトを起こしていくかを学んでもらっています。

一人ひとりの意識が世界を変える

ソーシャルグッドプロデューサー-石川淳哉×ワクセル

石川:
2021年8月9日にIPCC(気候変動政府間パネル)からある発表がされて、僕は以前の地球とはまったくの別物になったと感じています。

三木:
最新の報告書で「気候変動の拡大が深刻化している」と発表がありましたね。

石川:
それまで気候変動は人間のせいかもしれないし、地球のライフサイクルのせいかもしれないと言われてきました。でも8月9日の発表で、産業革命以降の人類の生活が気候変動に影響を与えることが明らかになったんです。

世界中でニュースになっていますが、まだ気づいていない人は多いです。気候変動が人間のせいということは、僕のせいでもあるし、お二人のせいでもあるということです。逆をいうと僕らが何かを変えれば、途端に気候変動をストップできる可能性が広がります。

たとえば電気を作る方法には原子力発電、火力発電、水力発電、再生可能エネルギー、太陽光などがあります。福島の原発が止まっているので、東京では火力発電が使われていることが多いですよね。ただ、世界的にCO2排出削減に向けて動いているなかで、「日本は相変わらず化石燃料だよね」と言われ、COP22(第22回締約国会議)でも、COP26でも言われ続けているんですよ。

若者がこの事実を知り、こぞって家の電気が何を使っているかのかを確認して代えるだけでも、大きな変化が起きるはずです。今まで「自分にとってベスト」という自分主体の考え方の人も多くいましたが、これからは自分と他者、地球が共存していくことを考えていく必要があると思います。

三木:
ワクセルはチャレンジする人を応援することをテーマにしていますので、ぜひ石川さんと一緒に新しいプロジェクトを手掛けて、社会課題の解決を進めていきたいです。

石川:
僕は、上手くいかなくてもチャレンジし続ける自分でいれば、未来が開けると思っています。チャレンジして上手くいかなくて、打ちひしがれて諦めてしまう人もいますが、そこで諦めず継続できるような社会を一緒に作っていきたいですね。


偏見や差別のない多様性を受け入れた世の中へ

アートディレクターをはじめ、野球界(以下、球界)での通訳・渉外担当など異色の経歴を歩んだ後、男性から女性へと性転換手術を受け、現在はミュージシャン、女優として活躍するコウタさんを、今回のトークセッションのゲストにお招きしました。

コウタさんのこれまでの経歴や経験を踏まえ、現在の活動や多様性を受け入れる価値観についてお話しいただきました。

MCは、ワクセルコラボレーターでエステサロンソフュージュ代表の萩野さんと、ワクセル総合プロデューサーの住谷です。

性別への違和感、17回の転校、葛藤した子ども時代

萩野:
私はプライベートエステサロンを運営していて、仕事柄こういった表舞台に立つことはなかったので今日はとても緊張しているんですが、ゲストのコウタさんにお会いできるのをすごく楽しみにしていました。

住谷:
コウタさんはお会いした瞬間から明るく、すごいエネルギーを持っている方だと感じました。今日はまずコウタさんの経歴から、詳しく聞かせていただきたいと思います。

ニューヨークにあるパーソンズ美術大学に在学中の1984年にスカウトされ、アートディレクターになられていますが、そもそもコウタさんがアートの世界に入った理由が気になります。

コウタ:
私は東京生まれですが、父親が新聞記者で海外特派員だったため、4歳の時にロンドンに渡り、それ以降もニューヨーク、東京、インド、ロサンゼルスを転々とし、ハイスクールを卒業するまでに17回も転校しました。

さらに物心ついた時から、「僕は男じゃない、女の子なんだ」っていう思いを持っていて、あまりにも普通ではない育ち方をしたんです。

そういう背景もあり、いつしか感覚を表現する世界、何か自分で作り出す世界に入っていきたいと思い、ニューヨークの美大に入りました。

住谷:
在学中にスカウトされアートディレクターになられていますが、どういう経緯でスカウトされたんですか?

コウタ:
私が勤めていた広告代理店は世界中にオフィスを持っていて、国籍の違う人たちが集まって会議をしていました。

そのため、文化の違いや言葉の壁が生まれてしまい、意思の疎通が図れないことがあります。そういう問題が起きたときに、英語と日本語どちらも話せるアートディレクターを育てようとなったらしく、その条件に私がピッタリとハマりスカウトされました。

アートディレクターから球界への転身

住谷:
その後は球界に入り、通訳や渉外担当をされていますが、アートディレクターから驚きの転身をされていますね。

コウタ:
1988年に福岡ダイエーホークスに入団しています。その当時、日本の球界では、異文化を理解し合っていない、通訳を担当されている方がご高齢の方であるなどの背景から、外国人選手との関係性に色々と問題が生じていました。

そういう状況の中で当時ダイエーのオーナーだった中内さんとご縁があり、通訳・渉外担当のオファーをいただいたんです。

萩野:
突然の異業種への転身に、周りのみなさんは驚かれたのではないでしょうか?

コウタ:
ニューヨークのアートディレクターは花形の仕事だと思われていたので、みんなからは「何を考えているんだ?」「おかしくなったのか?」と言われましたね。

でも私は心の中で自分は女の子だという葛藤を常に持ち、自分が何者なのか、いつも自分探しをしていました。

大きな悩みを抱えている子どもの頃から野球はずっと大好きだったので、私が役立てるならぜひやりたいという気持ちになったんです。

住谷:
その後WBC開催のためご尽力され、通訳・渉外担当という枠を超えた仕事をされています。

コウタ:
1997年に環太平洋事業部長という立場でニューヨーク・ヤンキースに入団したのですが、通訳・広報を担当していた伊良部選手の成績が振るわなかったので、解雇されることになりました。

しかし、すぐスカウトをされ1998年にニューヨークメッツに入っています。そしてニューヨークメッツが日本で開幕戦を行った時に、読売巨人軍にスカウトされたんです。

読売巨人軍に入団後、ヤンキースとの業務提携、今でいうWBCの企画運営に取り組みました。

萩野:
全く経験のない業界だったのにすごい活躍ぶりですね!

「自分に嘘をつきたくない」性転換手術へ

コウタ:
かなり無茶な働き方をしていて、このままいけば球界で偉くはなっていけるだろうとは思ったんですが、でもやっぱりどこかで“自分は女性なのに、自分自身にずっと嘘をついている”と感じていました。

やっぱりもう自分に嘘をつきたくないと思い、安泰した生活を捨て2003年にホルモン治療を始め、その後声帯手術、性転換手術を受けました。

萩野:
それまで抱いていた葛藤を乗り越え、行動に移されたんですね。

コウタ:
私が手術したころは、私のような人はみんなニューハーフと呼ばれていました。でも今では死語になっていますよね。

今後の日本でももっと多様な生き方を受け入れて、LGBTなんて言葉もなくなって、これが当たり前になってほしいと思います。

住谷:
2008年にアメリカから帰国後、ライブハウスでウェイトレスとして働きながら音楽活動に取り組まれています。

またこれまでと全く違う活動をされていますが、これはどういうきっかけでしょうか?

コウタ:
ホルモン治療を始めると、それまで自分が慣れ親しんだ体が変わってきました。味覚も変わり、体が求めるものが変わり、脳への影響もあるのでアンバランスな状態になってしまうんです。

特に男性から女性へ性転換した人は自殺を考える方が多く、私も自殺未遂を図ったことがあり、一時期は施設に入っていました。

そこでレクリエーションの一環でギターに触れ、そのメロディが自分の琴線に響き「ようやく本当の自分になれたんだから、これからは表現者として表に立って生きていきたい」と考えるようになったんです。

「今が第二の青春」何歳からでも夢中になれる

住谷:
2010年になってからはさらに女優業に挑戦し、映画にも出演され、表現の幅をどんどん広げられていますね。

コウタ:
つい1ヶ月前、演出家の松崎悠希さんが企画した『モザイク・ストリート』という映画の撮影をしていたんですが、その映画は多様性が受け入れられた日本が舞台になっています。

萩野:
多様性が受け入れられた日本とは具体的にどのような映画なんですか?

コウタ:
私が演じた役はトランスジェンダーの探偵、そのアシスタントは同性愛の女性、もう一人のアシスタントはアフリカ系と日本系のハーフの女性。人種や障がいの有無、性的指向などが特別視されず、当たり前にある世界観になっています。

ジェンダーを越え、一切そういう言葉も使わない多様性にあふれた世界があることを示してくれる映画です。

住谷:
コウタさんは現在、音楽活動、女優業、翻訳家、講演活動、またご自身の経験からLGBTの啓蒙活動にも積極的に取り組まれているそうですが、現在特に力を入れられているものは?

コウタ:
今回の『モザイク・ストリート』という映画で松崎悠希さんに演技指導を受けて、改めて演技という分野の新しい局面を開けた気がしています。今はとにかく演技に夢中で、一番心を燃やしています。もう還暦間近ですが、私は今まさに第二の青春を生きているんです。

今回ワクセルさんに力を借りて、この歳になってもまだまだ新たなものに出会いポジティブに楽しく生きられる、人生捨てたもんじゃないってお伝えできることがとても嬉しいです。

住谷:
本当にイキイキされているコウタさんを見て、素直に素敵だと思います。

行動をしているとどうしても壁にぶつかりますが、今のコウタさんのメッセージで勇気づけられる人が多くいると思います。

コウタ:
私は海外でも日本人というだけで偏見の目で見られたり、日本に帰ってきても外人と言われたり、自分が何者なのかわからなくなっていました。

でも今になってようやく本当の「コウタ」を見いだせているような気がします。私の今までの経験は神様から与えられたものだと考えて、世の中に貢献できるメッセージを発信していきたいです。

私だけじゃなく、世の中には本当に多様性にあふれた色んな方がいますので、みんなで手を取り合って偏見や差別のない世界を作っていこうと伝えたいです。

住谷:
今後もワクセルのファミリーとして、多様性に富んだより良い社会を一緒に作っていただければと思います。


テレビ業界人の参入で編集技術がアップ!YouTubeのテレビ化が進む

テレビ業界でディレクターとしてさまざまなヒットを飛ばし、最近ではYouTubeでも活躍が目覚ましいマッコイ斉藤さんと、東京ストリートコレクションなど2万人規模のイベントを制作する株式会社GALDir Media(以下、ガルディアメディア)の小泉陽嗣さんを招いてTALKSESSIONが行われました。

今回は、テレビとイベントの制作の裏側だけではなく、今後のエンタメ業界がどのように変化していくのか、お二人の視点から話を聞かせていただきました。

インタビュアーはTikTokで活躍している「くびれ姉さん」ことタレントの渋沢一葉さんです。ぜひ最後までご覧ください。

SNSで様変わりしたイベントの集客事情

渋沢:
まず小泉さんにお聞きしたいのですが、ガルディアメディアとはどういった会社なんでしょうか?

小泉:
僕の会社は主にイベント制作を行っていまして、2019年には「Tokyo Street Collection」というイベントをパシフィコ横浜で行い、2万人を動員しています。

渋沢:
2万人!?すごい大規模なイベントですね。

続いて、マッコイさんも自己紹介をお願いします。

マッコイ斉藤:
僕はもうYouTuberですよ。

渋沢:
YouTuberなんですね!?私デビューして17年になりますが、デビュー当時から「テレビディレクターのマッコイさんといつか仕事がしたい」と思っていたんですが(笑)

まず最初に、お二人からバラエティ番組、イベントの舞台裏をそれぞれ教えていただきたいです。

小泉:
やっぱりイベントを作る上で大切なのはキャスティングです。でも、キャスティングって順番を間違えると上手くいかないので、その辺は意識してやっていますね。

集客については、最近はSNSがすごく多様化しているので、10年前といまでは様変わりしています。

渋沢:
私も規模はまったく違うんですが、イベントやショーを作っていて、集客が本当に大変です。2万人集めるなんて本当にとんでもないことです。

小泉:
いまはテレビで人気がある人をキャスティングしたからと言って、人が集まるわけではなくなりました。

一方で、認知はまだそこまでじゃなくとも、コア層に人気のあるYouTuberをキャスティングすると一気に集まることもあります。

でも協賛企業の賛同を得るためには、YouTuberだけキャスティングするわけにもいかず、
テレビで活躍している認知タレントも組み込む必要があるので、そのバランスがとても難しいです。

悪いことの先読みがテレビをつまらなくする

渋沢:
マッコイさんにもテレビ番組の裏側について伺いたいです。

私は、有吉さんと7、8年くらいレギュラーをやらせてもらっていて師匠と慕っているんですが、一番きつかったのが、その番組で雪山に水着で何時間も放置されたことなんです。

マッコイ斉藤:
僕も半年くらい前にやりましたよ。アイドルグループの恵比寿マスカッツに水着を着てもらって、真冬の相模湖に落としました。

渋沢:
そういうのっていまはコンプライアンス的にダメなのかと思っていたんですが…。

マッコイ斉藤:
みんなやらないだけで、ダメじゃないですよ。「心臓麻痺を起こして死んだらどうする?」って悪いことを先読みして、テレビがつまらなくなっているんですよ。

渋沢:
マッコイさんはYouTubeもやられていますが、いまはSNSとテレビが共存してきていますよね。

今後どうなっていくと思いますか?

マッコイ斉藤:
YouTubeって素人さんがやっているので、編集レベルが本当に低かったんですが、最近はテレビの人がどんどん参入してきているので、YouTubeがよりテレビっぽくなっていると思います。

編集技術、テロップ技術、音を付ける技術が上がってきているので、よりテレビっぽく観られるようにYouTubeは進化していくでしょうね。逆を言うと、テレビは本当に危ういと思います。

渋沢:
この点については、色んな人がテーマとして扱っていると思うんですが、やっぱりテレビって危ういんですか?

マッコイ斉藤:
危ういですね。だからいま、若年層を取り戻すために若者向けの番組を作り始めていますよね。

昔は世帯視聴率を取ろうとしていましたが、いまはそこを捨ててテレビのコア層を作ろうしているので、3、4年前とは考え方が大きく変わってきています。

いまはYouTubeに若いコア層が取られているので、テレビに人気を戻すために、コント番組がとても増えていますよね。

SNSの台頭で好みが細分化、ターゲットを絞ったコアなイベントに

小泉:
僕は仕事柄テレビも観るんですけど、最近はどっちかっていうとYouTubeのチェックをすることの方が多いです。

さっきの集客の話になるんですが、僕が知らない子たちがものすごい集客力を持っていることもあります。

でも移り変わりがとても速いんですよね。フォロワー数が多く、ブームになったTikTokerがいても、3ヶ月経ったら全然集客力無くなっていることもあって。

あと、かなり有名になってきて、今後が楽しみだなと思っているところで、不祥事が出てしまうことも多い。

渋沢:
そういえばそうですね。。そういう方って事務所に入っていない人が多いですからね。

小泉:
大事なタイミングで不祥事もあり、人気の入れ替わりがとても速いので、大型イベントがとてもやりづらくなっています。万人受けする大型イベントってコンセプトもまったりしているので、人が集まりにくい。

いまはどちらかというと、ターゲットを絞ってやるコアなイベントがやりやすくなっていると感じます。

渋沢:
コアなイベントというと、どういったものでしょうか?

小泉:
昔はテレビでブームが生まれて、共通認識が強かったですが、いまの若者はあんまりテレビを観ず、スマホでYouTubeとかTikTokを観ますよね。

個人がそれぞれ好きなジャンルを観るようになって、好みが明確に分かれるようになったので、しっかりコンセプトを作って、ジャンルを分けたイベントをやらないとうまくいきません。

渋沢:
すごくシビアな世界ですよね。私もイベントに呼んでいただくこともあるんですけど、数字を見られているなって常に感じています。

小泉:
僕もInstagramのフォロワー数や、Twitterのフォロワー数を見て、「この子たちをイベントにキャスティングしたらこれくらい反響があるんだろうな」と予想を立てます。

でも「フォロワー数が多い」イコール「集客ができる」というわけではないので、インプレッションの数とかを見ながら、このアカウントに本当に力があるのかシビアに見ますね。そこら辺の見極めがイベントを作る上で大変かなと思います。

フィールドを変えて新たな挑戦へ

渋沢:
改めて集客を意識した活動を頑張ろうと思います。

次のテーマですが、マッコイさんがYouTube番組を始めたきっかけを聞きたいです。

マッコイ斉藤:
やっぱり時代の流れですよね。

テレビの視野の狭さというか、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけないって、いい子ちゃんじゃなきゃいけなくなりました。そのうちに、ただご飯を食べて、クイズをやるっていう流れが本当に嫌になっていました。

そんな時に家に帰ると息子や娘がYouTubeを観てるんですよ。テレビのリモコンにYouTubeのボタンや、Netflixのボタンが付いているのを見た時に、もしかしてこっちのフィールドに行ったらもっと面白いことができるかもしれないと思ったんですよね。

小泉:
マッコイさんのYouTubeを初めて観た時は衝撃を受けました。力のある人がYouTubeに入ると全然違うんだなって感じましたね。

マッコイ斉藤:
ありがたいです。YouTubeと言っても、配信するということはテレビと一緒なので、そんな恥ずかしい編集や適当な編集はできませんから。

でも、どんどんYouTuberの編集技術は上がってきていると思いますよ。

渋沢:
お二人に今後の野望についても聞きたいです。

小泉:
YouTuberがこれだけいらっしゃるので、「YouTuberアワード」のようなイベントは、まだどこもやっていないのでやってみたいですね。

YouTubeにも色んなジャンルがあるので、ノウハウ系部門、バラエティ部門とか、ジャンルを分けてやったら面白くなりそうだなと思います。

YouTubeって世界中で観られますから、最終的にカンヌ映画祭みたいに世界的なイベントができたらいいですよね。

マッコイ斉藤:
YouTubeアワードジャパンとかね。それが実現した際には、ぜひ私を初代MVPあたりに……。

今後ともズブズブの関係でお願いします(笑)

いま、Hulu、Netflix、Amazonプライムとかさまざまな配信サービスがあって、全裸監督のようなシリーズドラマが世界中で観られて、どこで大ヒットが出るのかわかりませんよね。だからこそテレビにこだわらず、作品を撮り続けていきたいと思います。

僕は50歳を過ぎているんですけど、いまだに映画だけ当てたという実感がないので、映画を当てたいですね。

小泉:
楽しみです。映画のジャンルはもう考えているんですか?

マッコイ斉藤さん:
僕は北野武さんに憧れて生きてきたので、アウトレイジとか武さんの映画は全部観てますけど、やっぱり笑いなしで勝負しているのがカッコいいと思うので、笑いなしの不良映画を撮りたいです。

渋沢:
その際はぜひ渋沢もお願いします(笑)
今日は本当にありがとうございました。