バラエティプロデューサー角田陽一郎さん×ワクセルコラボレーター松下りせさん対談「モチベーションの見つけ方」

バラエティープロデューサー角田陽一郎さんの新著『どうしても動き出せない日のモチベーションの見つけ方』(大和書房)刊行を記念した出版イベントを、ワクセルが代官山蔦屋書店と共催。対談者は『恋と推し活とショッピングに学ぶ知識ゼロからの女子株』(ダイヤモンド社)の著者であり、未来デザイン×資産運用アカデミー ハナミラ代表でワクセルコラボレーターの松下りせさん。今回のトークセッションでは、出版イベントでの対談の様子をお届けします。

人類の最大の敵は、“面倒くさい”

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松下:著書に『どうしても動き出せない日のモチベーションの見つけ方』がありますが、そんな日のモチベーションは、角田さんはどのように見つけていますか?

角田:個人的には好奇心を持つことが大切だと考えています。たとえば新しい番組を作ろうとするときも、お金を儲けようとかではなく、好奇心からです。『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』という番組を中居くんと始めたときも、普通のテレビマンは中居くんと何をしたら盛り上がるかを考えますが、せっかく中居くんとやるのなら「中居くんを楽しませたい」と、僕は考えます。

『さんまのSUPERからくりTV』のときも、明石家さんまさんを笑わせるぞと思って、“ご長寿早押しクイズ”などを制作しました。つまり、その人を笑わせたいという好奇心なんです。さんまさんは笑わなかったけど、マニアックなネタだと関根勤さんには笑っていただけることもあります(笑)

そういう好奇心を持って、「あの人を笑わせるにはどうしたらいいのか」を分析していくと、どんどん面倒くさいという気持ちが消えていきます。僕、人類の最大の敵は“面倒くさい”だと思っていますから(笑)

僕がそもそもテレビ局に入ったのは、サービスするのが嫌だったからです。たとえばお医者さんは、患者さんにサービスしなきゃいけません。弁護士は顧客にサービスしなきゃいけないですよね。

でもテレビマンとして、視聴者にサービスしようと思ったことは実は1回もないんですよ。自分が面白いと思うことをやって、それでさんまさんとか中居くんとかが笑ってくれればいいと思ってはいるけど、サービスしていると思ったことはないですね。

就職した当初から面白いことはやりたいけど、絶対にサービスしないと決めてテレビ局に入りました。大学時代に演劇をやっていたのですが、演者側にチケットのノルマがあって、自分で演技しているのに自分でチケットを売るなんて、すごく虚しいと思っていました。

でも、テレビ局に入ってクリエイティブなことに携われば、視聴者が勝手にスイッチをつけて見てくれるわけだから、チケットを売らなくてもいいし、サービスしなくてもいいと考えたのです。

自分なりのスイッチやきっかけを思い出す

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松下:そういう考えのもと、テレビ局でキャリアを積まれていったのですね。著書の中に、「一押しのモチベーションの上げ方」が書かれていますね。

角田:僕が一番好きな箇所ですね。朝起きられないときって皆さん、どうしていますか?実はこのパートが、この「モチベーションの見つけ方」の本の真髄だと思うんですけど、朝起きられないときは、起きてみるんです。

どういうことかと言うと、脳科学者の池谷裕二(いけがやゆうじ)さんの本に書いてあったんですが、脳って身体より騙しやすいんです。起きられないのは、脳が起きられないと思っているから、身体を一度起こすと脳が騙されて起きるんです。最初は起きるのが辛いけど、1回起きてボーッとしているとだんだんと目が覚めてきます。脳を騙すというとちょっと語弊があるけど、催眠をかけるみたいな感じです。

僕はバラエティ番組を制作しているから、催眠術師と仕事をしたことがたくさんありますが、AD時代、番組のリハーサルで催眠術にかけられて100キロくらいの男性に腹に乗られても大丈夫だったんです。催眠ってすげえ!と興奮したんですが、翌朝は腹が痛かった(笑)

脳が騙されている瞬間は痛くないけど、我に返るとやっぱり痛い。こういう経験をしていると、人間ってそのシチュエーションに脳を持っていけば何でもできると思いました。よくスポーツ選手が“ゾーンに入る”というのと同じで、人って土壇場になるとパワーが出るもんなんです。

以前、『からくりTV』で“からくりビデオレター”を担当していた時も、実際に地方に撮りに行って、おじいちゃんおばあちゃんに話してもらうんですけど、何回やっても面白いものが撮れないときがあります。

でも飛行機の時間があって「もう次で決めないと間に合わない!あと5分しかない!」みたいなときに、面白いことを思いつくんですよね。そういう経験をしているので、自分を火事場に持っていくと、面白いことやアイデアが生まれることを知っちゃったんです(笑)

ただし、ずっと火事場に持っていきすぎると心身が疲れちゃうから、時々、火事場でスーパーサイヤ人になればいいと思います。たとえばですが、舞台女優さんって汗をかかないんですよね。「今は女優として舞台に立っている」と脳が認識すると、本当に汗をかかなくなります。

自分の経験でいうと、ロケバスで移動中、普段は車酔いするけど、自分がディレクターでカメラを回していると酔わないのです。自分なりのモチベーションスイッチ、きっかけを思い出して、脳に思い込ませること。そう意識するだけで、今日からモチベーションへの意識が変わるんじゃないかと思います。

モチベーション低下の原因は他人を気にすること

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松下:角田さんはとにかく人生を楽しんでいるという印象を受けます。人生を楽しむコツとして意識していることは何でしょうか?

角田:他人にどう思われるかとか、他者のことを気にしないことが大事だと思っています。他人を意識しすぎた結果、いろいろなことのモチベーションの低下につながることは、皆さんも気づいていると思います。たとえばSNSに投稿したのにリプが少ないとか、僕は一切気にしていないです。

さっきも言いましたが、相手にサービスしようと思っていないからなんですよね。バズるもバズらないも結果論だから、自分へのフィードバックにはしません。他者と比較することをやめてみると、また物事の見方が変わってくるんじゃないかな。

僕の4冊目の著書『「好きなことだけやって生きていく」という提案』という本の中で書いていますが、好きなことと嫌いなことに分けるのではなく、”すべての中で好きなものを探す”と考えるだけで見方が変わると思います。

たとえば、僕の知り合いでサラリーマンだけど漫画家になりたい人がいて、社内報に4コマ漫画を描いたら、それがWebに載って評判を呼んで、漫画家デビューした人がいます。今は会社でも漫画家になれるという意味でいうと、自分の置かれた環境の中でも自分のやりたいことがちょっとでもあれば、そこを広げていくことも実はできると思います。

僕は46歳でTBSを辞めていますが、当時はそのことに気づけませんでした。辞める、辞めないの2択ではなくて、TBSの中で仕事の領域を広げても良かったのかなと思うときもあります。

松下:なるほど。考え方の原点が伝わりました。本の中で「モチベーションを上げない」というところもありましたが、こちらはどういう意味合いなのでしょうか。

角田:モチベーションが上がるということは、下がることもあります。そのアップダウンに疲れてしまうこともあります。しかも、モチベーションが上がっている時に考えたことは、平常心の時とまた違うこともあるので、その違和感があるんです。モチベーションを急に上げすぎない、平常で常に上がっていくような感じがいいなと思っています。

僕は「見立て」ということを大事にしていて、あるものや事象を自分がどう感じて、どう見立てていくかということを意識しています。見ているものが同じでも、絵が得意な人なら画家になるし、音楽が得意ならアーティストになるかもしれません。

できるかできないかではないし、人がどう思うかなどは関係ないのです。だからこそ、「人を気にしないようにする」という考えが僕の根底にはありますね。

明石家さんまさんからいただいた言葉で印象的だったのは、「おれ、迷いたいねん!恋も人生も迷うからおもろいんや」という言葉。人ってできるできないの二極で考えがちですが、できなくても楽しいことはあるんですよね。

最近は、タイパ、コスパだとよく言われますが、迷ったり止まったりする時に閃くこともあります。だから、自分がどう感じるか、見立てを大事にして、人を気にしないという姿勢は、モチベーションにおいても大事だなと思っています。

※本トークセッションの内容を動画でご覧になりたい場合は下記で視聴できます。
■ワクセル公式チャンネル YouTube

社会問題や自分自身の怒りや不満をアートに昇華!新進気鋭なアドレナリンアーティストの根底にあるものは

今回のコラボレーターはアドレナリンアーティスト(ADRENALINE ARTIST)の東樹生さん。アドレナリンアートとは、身体に絵具を塗布し拳や頭突きを全力で作品に叩き込んで制作するもの。自身のエネルギーを最大限に込めた表現は命をかけた戦い、テーマは「フラストレーションの昇華」だという、東さんの根底にあるもの、意図するものとは?

テーマは「フラストレーション・怒りの昇華」

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住谷:今回のコラボレーターはADRENALINE ARTIST(アドレナリンアーティスト)の東樹生さんです。ADRENALINE ART(アドレナリンアート)という芸術は、どういったものですか?

東:簡潔に説明すると身体じゅうに絵の具をつけて、自分の拳と額を使い、キャンバスにたたきつけ色を載せていくアートです。ヘッドバットやパンチ、キック、エルボーなどを用いて全力でキャンバスにたたきつけて作品にしていきます。

作品との闘いなので、全身全霊、すべての力をぶつけていきます。制作中は作品とのにらみ合いの時間。作品と間合いを詰めながらやっていると、時間もけっこうかかりますし、当たりどころが悪いと途中で失神する場合もあって、翌朝に目覚めることもあるんです。

住谷:なぜこのスタイルで作品制作をしようと思ったんですか?

東:もともとは芸術系の大学に通って絵を描いていたのですが、そのころ、運動部出身の自分は、なかなか周りの学生たちにはなじめず、壁にぶつかったんです。絵を描き続けてもうまくいかず、焦りで追いつめられていました。

そんな3年生のある日、筆を持ち、キャンバスと向き合うなかで、周りの評価や思うようにいかない自分自身へのいらだちが募り、衝動的に拳を描きかけのキャンバスにたたきつけました。何度も何度も夢中でパンチし、疲れ果て、眠ってしまいました。でも、目を覚ましたときに、拳でつけた絵の具の跡の色彩になぜかひかれたんです。

そして、次にこの手法で壁にデカい絵を描いていて、頭突きで失神して目が覚めたら、シャツに絵の具の色彩が広がっていました。それを見たとき、本能的に俺は死ぬかも知らんけど「これでやっていこう」と思ったんです。アドレナリンアートが降りてきた感じですね。

だから、アドレナリンアートのテーマは「フラストレーション・怒りの昇華」なんです。自分の怒りや気持ちを、絵にぶつけることによって気持ちがどんどん昇華され、落ち着いていきます。

制作途中はアドレナリンで全然痛さを感じないんですが、描き終わってからが痛いです。ケガをすることもありますし、鼻は何回か折っています。身体には負担がかかりますが、辞めようと思ったことは一度もありません。

先ほども話したように、アドレナリンアートのテーマはフラストレーションの昇華。誰もが感じるであろう、社会問題や自分自身の現状などへの怒りや不満。それを自分の肉体を使い、全力で作品にぶつけていく。うまくフラストレーションを昇華できない人たちの代弁者となり、作品を通して伝えていくという意味合いもあります。

アートで天下をとる!狙うは展示会開催の領土拡大

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住谷:将来の目標や今後の展望を教えてください。

東:アートで“令和の豊臣秀吉”になって、天下をとることです。今のスタイルでやっていたら、ケガも多いし痛いし、朝起きたら血が出ていることもありますが、命懸けで作品にぶつかることによって、魂やエネルギー、パワーが生まれます。

それは見ている方にも、自分自身もわかることなので、このスタイルで天下をとるのが目標です。秀吉は何もないところから天下人になったというのが、自分と重なるところがあると思うんです。

大学時代には全国的コンペ『リキテックスザチャレンジ』にも入選し、アート1本で食えるようになりたい、アートで天下をとりたいと思いました。親には反対されましたが、今はこのアート1本で食えるようになって、スタッフも雇えるようになりました。秀吉と重ねていつも自分を奮い立たせていましたね。

住谷:アートで天下をとるというのは具体的にはどんなことですか?

東:僕も正直わかんないです(笑)。ただ、東樹生が天下人の基準になればいいと思っています。たとえば100年後・200年後、1億年後・2億年後とか、もっと先の未来に、若い子が天下をとりたいと思ったときに、東樹生みたいになりたい、「天下人と言えば東樹生」という男になれればいいなと思います。

具体的には僕の作品が国家予算レベルまで価値が上がるとか歴史の教科書に僕がドーンと5ページくらい載るとか。そんな人はいないから僕が最初になりたいと思います。

現在の活動としては、北は東京から南は鳩間島(はとまじま)まで、さまざまなところで展示会をしています。鳩間島は沖縄の離島で、台湾に近く、人口40人くらいの小さな島。そこに企業からの案件で1カ月間滞在し、地域の方々と交流しながら制作しました。

島のパワーでアドレナリンにも拍車がかかるというか、覚醒した状態で制作できたのが印象的でした。今年の10月には大阪で個展を開催する予定で、現在、オーダーも受けています。開催する地域をどんどん拡大し、秀吉でいう“領土拡大”を意識しています。制作パフォーマンスは僕ひとりではなく、仲間と一緒にやっているので、仲間と天下をとっていきたいと思います。

『Hiragana Song』で日本文化を海外に向けて発信!世界を変える日本人に選出されたその躍動のきっかけとは

今回のゲストはYouTubeやTikTokなどのSNSを通して、日本文化を海外に発信するコンテンツクリエイターのサイバーバニーさんです。日系アメリカ人で、2018年にハワイから日本に移住。2022年にはアメリカの経済雑誌フォーブスの『世界を変える30歳未満の30人』のひとりに選出されるなど、その活動は世界的に支持されています。

フォーブスやSNSで評価された個性

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住谷 :サイバーバニーさんは、YouTubeやTikTokなどのSNSを通して、日本の文化を海外に発信するコンテンツクリエイターとして活動されています。2022年にはアメリカの経済雑誌フォーブスの『世界を変える30歳未満の30人』のひとりにも選出。現在どのような活動をされているのか詳しく教えてください。

サイバーバニー:海外の視聴者に向けて日本の文化や習慣、言語などをSNSにアップしています。私は日系アメリカ人で、2018年にハワイから日本に来ました。東京に親戚もいたので、小さい頃から、ハワイと日本を行ったり来たりしていましたし、日本の学校に体験入学をしたこともあります。

ハワイと日本の違いを言うと、日本は壁を作る文化があるかなと思います。初対面のときは壁をつくりますが、時間をかけてだんだん仲良くなっていきます。一方、アメリカではまず最初に仲良くなっちゃいますね。ハワイでは挨拶のときにハグしますが、日本はお辞儀なので少し距離を感じます。

また、海外にはジェントルマンというか、レディファーストの文化がありますね。お店などでもドアを開けてくれますし、女性も後ろの人のためにドアを手で押さえてくれています。でも日本ではあまりやらないですし、むしろなんでドア開けてるの?と不審に思われることも。

ビジネスシーンでは、日本人は会議の説明が多く長い、アメリカはダイレクトなので会議がショート。日本には先輩と後輩カルチャーがあるけれど、アメリカはみんなフェアで、新人もベテランも同じ立場です。

それと海外から見た日本の印象は「出る杭は打たれる」というものがありますね。アメリカではさまざまなバックグラウンドを持つ人が多いので、ちょっと変わった人も個性として見ますが、日本人は「あの人変わっている」となりますよね。

TikTokで『Hiragana Song』が話題に

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住谷:動画を作るうえで苦労したことはありますか?

サイバーバニー:YouTubeチャンネルを始めて4年目に入ります。最初の2年は毎日泣いていましたね。『Hiragana Song』も最初は再生回数が良くなかったんですが、コロナになってから始めたTikTokにアップしたら、次の日にはYouTubeの登録者数が一気に1万人増えてびっくりしました。

だから自分をアピールするときは、いろいろなプラットフォームを活用した方がいいと思いました。それと諦めないで続けることが大事です。これは私のパッションなんですよね。

最初の2年間は自分のアイデンティティがわからなかったんです。何を着ていいかわからなかったし、個性がないと自分でも思っていました。でもその後、おばあちゃんの着物を着るようにしたら日本らしさを感じられるようになって。日本のカルチャーを教える動画をつくることで、だんだん自分のスタイルが固まっていき、パッションを感じるようになりました。

住谷:今は音楽活動に力を入れられているそうですね。

サイバーバニー:YouTubeには『Hiragana Song』や、『Days of the Week Song/一週間の歌』、『Greeting Song in Japanese/あいさつのうた』もあり、これは海外の人向けにつくった曲です。

日本のことが好きな外国人には、もっと日本のことを知りたいし、日本文化にも興味があると思っている人がたくさんいます。なので、まずはひらがなとカタカナと少しの漢字を覚えてほしいという思いからつくりました。

私は勉強が苦手だし集中力がないので、踊ったり体を動かしながら、気持ちを込めてメモリーに入れるというコンセプトでつくっています。『あいうえおのうた』は踊りたくなるような感じにしました。

リズムとバックミュージックをある人がつくってくれて、私が歌詞を書いたんです。本当にシンプルなメロディーですが、みんなが踊ってくれたらすごくハッピー。子どもが大好きなので、子どもでも大人でも、家族全員で楽しめるチャンネルをつくりたいと思っています。

夢は日本語を世界に広め、みんなハッピーになる世界を作ること

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住谷:普段からインパクトがあるファッションですが、何をイメージされていますか?

サイバーバニー:洋風と和風のミックスプレートみたいなファッションですね。ウサギの格好は、ハワイで7年間飼っていた白いウサギからのインスピレーション。また、小さい頃、セーラームーンになりたかったという夢もあり、大人になったセーラームーンをイメージしています。

夢といえば、フォーブスに選出されるのも、小さい頃の夢だったんです。壁にその夢を書いて毎日頑張っていました。自分の個性を出して、他の人があまりやっていないことをやり続けたのが評価されたんだと思います。

住谷:ではサイバーバニーさんの今後のビジョンを教えてください。

サイバーバニー:ビジョンが3つあって、まずは『Hiragana Song』のような曲をもっとつくりたいですね。また、日本人向けのJ-POPアルバムをつくりたいです。テーマは「自分の幸せを探すか、社会に従うか」です。3つめは、発展途上国の子どもたちに日本語を教えたいです。サイバーバニーのグッズの日本語ノートを送って、ひらがなを覚えてもらって、世界に広めたいです。

みんながハッピーになれば、私もハッピーなんです。海外の人に日本語を教えたいし、日本語も英語も、両方の世界が大好きなので、みんなで楽しめたらいいなと思っています。

『1万人の夢手形龍プロジェクト』 國分夢志の33メートル一筆龍ライブアートft.KENTO MORI

(写真左から、住谷、國分夢志さん、ケント・モリさん)

ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』(主催:嶋村吉洋)が定期的に開催しているトークセッション。

龍を描くことで世界をつなぐDragonArtistを志し、今までに世界中の著名人を含む約30,000人に詩・画を書き下ろし、さまざまなメディアに出演している國分夢志さん。マイケルジャクソンやマドンナが認めた世界的ダンスアーティストのケント・モリさんとタッグを組み、『33メートル一筆龍ライブアート』を行いました。ファシリテーターはワクセル総合プロデューサーの住谷が務めました。今回は、そのトークセッションの模様をお届けします。

『1万人の夢手形龍プロジェクト』スタートの日

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ファシリテーター:33メートルの龍を描くということで、実際にやってみて何を感じましたか?

國分:今回初めてダンサーの方とコラボして龍を描いたのですが、リハーサルの段階で「夢志さんは絵を描くことに集中してくれればいい、場の空気は僕が作っていくから」と、ケントさんに声をかけていただききました。

だから絵を描いているときは集中というかほぼ無心状態で、とにかく目の前のことに集中しようと進めていきました。

ケント:今回のこのパフォーマンスをした、2022年8月8日は一生忘れられないものになりました。本当の意味で、“画竜点睛”とはこのことかと。龍がただ目の前で奉納されるというだけでなく、自分のなかで「生きた・宿った」という、言葉では言い表せない実感がありました。

2009年4月15日にマイケル・ジャクソンに会って握手した瞬間と、2013年8月1日と2016年8月1日に伊勢神宮で奉納した瞬間。それらと同じくらいこの2022年8月8日は、僕の人生でもう二度とないくらい、龍が解き放たれたかのような瞬間でした。

プロジェクトのきっかけと裏話

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ファシリテーター:今回のプロジェクトをやろうと思ったきっかけや、お二人がコラボレートするに至った経緯を教えてください。

國分:最初のきっかけは、僕ではなかったんです。ゴールデンウィークに、100メートルのギャラリーが浅草にあるという話を聞き、オーガナイズしてくれている花子さんから「30メートルの絵を描いてみよう!」という話になりました。本番の4日前くらいにいきなり話がきて、不安はありましたが、とりあえず面白そうだからやってみようと思いました。

実際にやってみてグダグダになってしまったんですが、それがきっかけで「33メートルの絵を描いて縦に掛けて全体を見てみたい」という話になりました。その絵を東京タワーに掛けられないかという話になったときに、東京タワー関連でケント・モリさんとつながりました。

ケント:そうなんです。東京タワーに『RED° TOKYO TOWER』という新しい施設ができて、その施設のスタジオで僕がイベントをやっていたところから、夢志さんとつながりました。

けれど夢志さんと関わったのは、そのときが初めてではなかったんです。7年前、僕がダンサーとして活動していたときに、通訳のイリちゃん経由で夢志さんから似顔絵をいただきました。

当時は、その似顔絵を描いてくれたのが夢志さんとは知らなかったのですが、東京タワーでつながったときに、描いてくれたのが夢志さんだと知りました。この瞬間も僕にとって、忘れられない瞬間です。

ちなみにこれは初めて話すことですが、その似顔絵をもらったのは、僕が初めて作詞作曲をしたオリジナル曲を披露したイベントの日でした。曲のタイトルが「1and1」すなわち「1対1で世界を変える」という意味で、これは宇宙のすべてを語ったような曲なんです。

そんな曲を初披露した日にもらったのが、その似顔絵だったんですよ。本当に全部宇宙がつながっていて、正に龍と一緒で、本当につながりまくっているんですよ。だから僕にとって夢志さんは、この宇宙が運命として出会うべくして出会わせた人だったんだと瞬間的にわかったんです。

しかも今日披露した2曲「ガンタッチ」と「ドラゴンフライ」は、実は2曲とも夢志さんに出会う前に作った曲なんですよ。あらかじめ案件があって作った曲じゃないんです。もう宇宙がシンクロして、起こるべくして起こっているんですよ。宇宙や星の創成と一緒です。

國分:ちょうどケントさんが「ガンタッチ」という龍に関わる曲を作ってるときに出会った偶然ということで、それが本当に運命だなって話です。

ケント:ちなみにプロデューサーのショーンが音楽を始めたきっかけは、マイケル・ジャクソンだったんです。すべてつながっているんですよ。

また僕はオンラインサロンを運営して今年で4年目なんですけど、オンラインサロンの名前が『Dream Salon』といいます。ここでは僕も含めて夢を志す人たちと週1回共有しているんですが、そんなときに目の前に“夢志”さんが現れたんです。冗談かと思いましたよ。

ファシリテーター:このプロジェクトは、時間もかなりタイトななかスピーディーに作り上げていったと思います。その際、できるかどうか不安はなかったですか?

國分:今回のイベントをやろうと話が挙がったのが約2か月前だったのですが、お互い8月8日にやるのがいいというのが頭に浮かんでいました。僕は8月8日を龍の日だと認定していたので、ケントさんに伝えたら、「僕は88に縁が多いから、8月8日がいいと思っていた」とケントさんもおっしゃって、もうこの日にやるしかないということになりました。

ですが、33メートルの絵を描けるようなイベントができる会場がなかなか見つかりません。ようやく今日の会場が見つかったのがイベント開催の2週間前だったんです。

ケント:僕にイベントの詳細がきたのが、数日前でした。だから最初は、「僕はパフォーマンスはできない、出演するだけであればできるけど」と伝えてあったんです。

けれど、このイベントは絶対に神回になるということはわかっていました。そこからのパフォーマンスの準備はギリギリの放物線のようで、龍ってこんな感じで地上に浮上していくんだと思いましたよ。

國分:直前までタイムテーブルが変わったりもしていたので、このイベントの流れそのものが龍だと思って、なんか途中から笑えてきました。

ケント:夢志さんが今こうして笑っていますが、僕だけは知っているんです。夢志さんは言われたくないかもしれないですが、僕の独断で言っちゃいますね。2日前の夜に夢志さん、一瞬会話の中で涙ぐんでいました。

夢志さん・僕・花子さんの3人で喋ってるときに、凄まじい想いをいろいろとあらためて感じたんだと思うんです。僕としては、このイベントは神楽であり奉納であり、龍をどう踊るかではなく、龍そのものになってしまうことだと思いました。

楽しいだけじゃなく、ものすごい気合いとプレッシャーと責任を感じているなかで今回のイベントを実現したことは、「本当にありがとうございます」と言いたいです。もう言葉じゃ足りないくらいです。

國分:2週間なんで、当然バタバタなわけですよ。積み上げていかなくちゃいけない階段がめちゃくちゃあるなかで、人員も全然足りてないという状況。それでも必ずやるんだっていう想いはあったから、その中でウルっとしたのはありましたね。

これからの夢について

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ファシリテーター:今回のプロジェクトは、まさに『夢』がテーマであると思いますが、お二人の今後の展望や夢をお伺いできますか?

國分:僕の展望は、このプロジェクトを1年間一生懸命やっていくことですね。内容を詳しくお話しすると、1年間で1万人の『決意の手形』を集めます。その手形を持ってエベレストを登り、頂上で絵を描くという夢を叶える、というところまでビジョンとして描いています。

エベレストの頂上で絵を描きたいという夢は昔からあったのですが、どこか物足りないと感じていました。せっかくなら多くの人を巻き込んで登ることができたなら、もっとやる気が出ると思ったんです。33メートルの龍の絵に手形を押してもらうというアイディアが頭に浮かんだときに、これはエベレストまでつながると思いました。

ケント:夢志さんのお話を聞いて本当に凄いと思いました。エベレストって地球上で一番高い山ですよ。しかも手形の目標数は、1,000人ではなく1万人を選んでいるじゃないですか。この「1」という単位を持ってきているところも、僕は夢があることだと思う。正に夢を志している方だなって思います。

僕は少し抽象的な表現になってしまうのですが、「どこまでいっても自分は夢を見てみたい」と言うのが夢なんです。僕は2022年2月22日から、自分の職業を「むしょく」だと名乗りました。みんなちょっと笑っちゃうんですけど、「むしょく」の「む」は「夢」と書きます。英語で言うと「ドリーマー」であり、これが本当に僕の職業だと思って口に出しました。

生きている間は、夢を見ていたいというのが僕の本当の夢であり、同時に最終的には世界平和を思います。人類みな兄弟です。僕は、「心が生き生きする、光がある状態であってほしい」と願って、自分の息子に「ライブ」と名付けました。

その彼が僕を見たとき、生きていることを感じるような、そして夢を僕が見てるからこそ、彼も当たり前に夢を見られるようになってほしいです。身近な単位で夢を見られるようになれば、それはイコール、僕は世界で同じように実現できると思います。

本当に1人でも多くの人と一緒に夢を見て、みんなが踊りや音楽、またはこういう絵を通して、何か頭の片隅でうんぬん考えていたことが全部ちっぽけになります。

心と心でつながって、本当の意味での感動があって、この地球において33メートルの一筆龍が、龍のようにうねってひとつの単位になるというのが、僕の夢です。

夢を叶えるためのメッセージ

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ファシリテーター:本当に壮大な夢だと思います。今日この会場には子どもたちなどいろんな人がいらっしゃいます。その方々に対して、夢を叶えていく・実現させていくために何を大切にしていくべきか、お二人からメッセージをいただきたいです。

國分:まず第一歩として、この龍の絵に手形を押していただけたらと思います。まずは行動に移すこと。その行動から得られる興奮や小さな成功体験を重ねていくことで、夢につながっていくのだと思います。

ケント:僕が大切にしてる言葉のひとつに、「ワンステップ、ワンライフ」という言葉があります。これは僕がダンスの世界に入ったときに「ワンステップ、ワンソール」という言葉を聞いて、その先に自分が見出した言葉なんです。ワンステップにひとりの人生が乗った瞬間に命を宿して、不可能が可能になるような大きなエネルギーが起きます。

これを象徴的にやったと思う人が、マイケル・ジャクソン。ひとりの人間が世界を変えられるという証明を僕は見てしまいました。そんな彼に影響されて、それこそ龍のしっぽの先から歩み続けて、2009年4月15日に彼本人に出会い握手をしました。その瞬間に僕は、「夢を見ていいんだ、そして叶うんだ」とマイケル・ジャクソンに言ってもらったんです。

どんな人でも関係なく心が躍って、自分が思うそのワンステップにひとつの人生を乗せると何だって起きうると僕は思います。そのときに生かすのか、殺すのか。僕は相手を殺すのではなく生かしたいです。

この八百万(やおよろず)の世界で、龍のように、みんながつながったらいいなと思っています。みんなが必要だという意味で、光に向かってそのワンステップに何か人生を乗せてもらえたら、それはいかなる理由でも本当に現実になると信じています。

最後に、僕からひとつお願いがあります。これからの夢志さんにとって、必要なものがこの手形です。このワンステップ、これから皆さんが押す手形に、自分の人生や夢に対する想いを乗せてほしいと思います。夢志さんが描いてくれたこの夢のプラットフォームに、しっかりスピリットを乗せてもらいたいと思うんです。

そしてもうひとつだけ、夢志さんと約束したいことがあります。僕と夢志さん、同級生で37歳なんですよ。

これは僕の提案ですが、37年後の74歳、2059年8月8日にまた一緒に龍を描きましょう。お互いそれまで必ず生きて、74歳のときに僕は夢志さんが描く龍が見たいし、それまで僕はこの龍を大切にして生きるので。

この37年間で培った龍を僕は目と心に焼き付けたので、あと37年間生きた先の74歳、37年後の8月8日に、僕たちが何を表現して何を言うのか。これをやらないと、僕の人生のドットが打てないです。面白いと思うので、37年後の8月8日にぜひやりましょう。

ファシリテーター:ありがとうございます。続きは37年後にさせていただきますので、ぜひ最後に皆さんの想いをすべて手形に乗せて帰りましょう。

芸能界で初めて育児休業を取得した“イクメン”つるの剛士さんが語る「育児と仕事の両立について」

今回のゲストは、タレント、歌手、俳優など幅広く活躍されている、つるの剛士(つるのたけし)さんです。つるのさんは芸能界で初めて育児休業を取得し、育児休業の文化を広めた立役者でもあります。

タレントの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんと、総合プロデューサーの住谷がMCを務め、5児の父でもあるつるのさんから、家庭円満の秘訣を伺いました。

幼稚園教諭の資格を取得

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渋沢:本日のゲストは、映画、ドラマ、バラエティ、歌手など、マルチに活躍されている、つるの剛士さんです。プライベートでは5児の父であり、今年の3月には短期大学を卒業され、幼稚園教諭二種免許を取得されました。仕事と両立しながら大学に通うことは、とても大変なことだったと思います。

つるの:ずっと子育てをしてきて、専門的な免許や資格が欲しいと思い短大に通うことを決めました。5人も子育てしてきたので、子どもの扱いには慣れているんですが、やっぱり自分の子どもを育てるのと、他の親御さんのお子さんを預かって育てるのは全然違いますね。

お子さんのすごく大切な時期に自分が介入して、お子さんの今後の人生を作っていくため、大きな責任を感じました。だからこそすごく尊い仕事だと思いました。

俳優・河相我聞さんと運命の出会い

住谷:つるのさんがそもそも芸能界に入ったきっかけは?

つるの:ずっと芸能人になりたくて、高校生ぐらいから、バイトをしながらタレント養成学校に通っていました。ある時その養成学校から「エキストラに行ってくれ」と台本を渡されたことが、芸能界に入るきっかけになりました。

僕と同い年の俳優に河相我聞(かあいがもん)君がいるのですが、彼をテレビで観た時になぜか「絶対将来こいつと友達になる」って勝手に思って(笑) そして、渡された台本の主演に河相我聞君の名前があって、友達になるチャンスがやってきたんです。

友達になるためには目立つ必要があると思ったので、当時両目で18万円くらいするカラーコンタクトをバイト代をはたいて買って、目を青くしました。そして我聞君がバンドをやっていて、ドラムが好きなことを知っていたので、ドラムのスティックを持って現場に臨んだんです。

休憩の時間、我聞君の後ろの席に座ることができて、ドラムのスティックを出して、バタバタと叩く練習を始めました。すると我聞君が振り向いて「あれ?君ドラムやってるの?」って話しかけてくれたんです。さらに僕の目を見て「君、目青くない?」って(笑)

渋沢:なるほど。まさに思惑どおりですね(笑)

つるの:それをきっかけに仲良くなり、我聞君が出ていたラジオ番組に遊びに行くと、ディレクターさんに笑い声を気に入ってもらえて、素人なのにコーナーを持たせてもらえることになったんです。

ラジオ局にはレコード会社の人がたくさん出入りしていたので、「事務所紹介してあげるよ」と声を掛けてもらい、現在所属している太田プロに入ることになりました。僕の人生ってこういうことだらけなんですよ。あまり計算せずに直感で動いたことが、後の夢につながることが多々あります。

たとえば『ウルトラマンダイナ』の役に選ばれたのも、偶然なんです。事務所から渡されたオーディションの台本を見たら、キャラ設定がまんま僕だったんです。自分が言うようなセリフしか書いてなかったので、役作りもせず等身大の自分で行ったら「じゃあ君、来週からウルトラマンだから」ってオーディションに受かりました。

今年ちょうど放送開始から25周年で、イベントで25年ぶりに隊員服に袖を通しました。

育児休業を取得しママの一番の理解者に

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住谷:つるのさんは5児の父で、家庭をすごく大事にされているイメージがあります。これだけ多忙のなか、どうやって家庭とのバランスを取っているんですか?

つるの:ヘキサゴンをやっていた時期は本当に忙しくて、1日に8本のバラエティ番組の収録があって、移動中のロケバスの中でも、入れ代わり立ち代わりで違う番組の撮影をしていました。振り返るとその頃は家庭を顧みることができていませんでしたね。奥さんとよく喧嘩になっていました。

4人目の子どもがもうすぐ生まれるというある時、家の前の海でふと「休もう」と思ったんです。僕の父はすでに他界しているのですが、父も4児の子どもがいて、銀行員ですごく忙しい人生を歩んだ人でした。

その父が「男は外で仕事をするのが当たり前かもしれないけど、家庭という基盤がないと仕事なんて絶対上手くいかない」と言っていたことがパッと脳裏に降りてきたんです。それで「このままではダメだ、俺は休む」と決めて育児休業を取りました。

渋沢:当時すごい話題になったことを覚えています。まさにイクメンの走りですよね。

つるの:芸能界で初めて育児休業を取ったということで、たくさんニュースに取り上げてもらいました。2ヶ月間の育児休業を取り、子育てと家事をして家庭の基盤をつくり、芸能界に復帰した時に「イクメン」という言葉ができて、その年に流行語大賞で受賞しました。

でも僕はただ家庭の基盤をつくり直したいから育児休業を取ったので、イクメンと言われることに今でも違和感を持っています。自分の子どもなんだから育児をするのは当たり前じゃないですか。それから何年か経って5人目の子どもができた時も育児休業を取りました。

僕はそれまで「外で仕事をして稼いだらいい」という考え方だったので、ママの気持ちが全然わかっていませんでした。でも2カ月間お弁当を4つ作ったり、子どもたちのお迎えに行ったりして、ママたちの気持ちがすごく理解できるようになりました。

男ってママがカフェに集まっているのを見て、「何をそんなにいっぱい喋ることがあるんだ?」って思うことがあるじゃないですか。でもその理由が全部わかるようになったんです。たまには自分以外の人が作った料理が食べたくなるし、気持ちのわかるママ同士でそりゃ集まりますよ(笑)

そんな風に日々一つひとつ気持ちが理解できるようになって、ママの良き理解者になることができました。そうするとママも安心してパパに子どもを預けられるようになるし、「パパは忙しいけど私の気持ちをわかってくれるんだ」って、それは家庭も円満になりますよ。育児休業は絶対取った方がいいと思います。

奥さんと2人きりの時間を楽しむことが今後の夢

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住谷:子どものいる僕には、すごいグサグサ刺さります…(笑) つい最近も幼稚園教諭の資格を取得され、大きな挑戦をしていますが、今後のつるのさんの夢や目標をお聞きしたいです。

つるの:直近の夢としては、自分の子どもたちが早く夢を見つけて巣立って行ってくれることですね。今までずっと子育てをしてきたので、奥さんと2人だけの時間って全然なかったんです。だからたまにファミレスに行って、2人でコーヒーを飲むだけでもすごく幸せです。

子どもたちが巣立ったら、奥さんと2人だけで出掛けられることが楽しみなんです。今まで仕事で行ってきた良い旅館とか、温泉とか、美味しいものとか、すべてが奥さんのためのロケハンになるわけですよ(笑)

人生の土台作りをこれまで一生懸命してきたので、これからの2人の時間を楽しむことが、僕の夢ですね。

ダンス世界大会で8年連続優勝した“キングオブダンサー”KENZOさんが語る「夢を実現する方法」

今回のゲストは、世界の頂点を極めキングオブダンサーとも称されるKENZOさんです。ダンス世界大会で8年連続優勝という前人未到の記録を持つKENZOさんに、ダンサーとしての原点や夢を持つ大切さを伺いました。

MCはワクセルコラボレーターの美谷玲実(みたにれみ)さんと、総合プロデューサーの住谷が務めました。

ダンス番組をきっかけに15歳でダンスをスタート

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美谷:本日のゲストは、ダンスボーカルユニット『DA PUMP』のメンバーとして活躍するKENZOさんです。KENZOさんは、ダンス世界大会で8年連続優勝するという前人未到の記録を持つ方です。30カ国以上のダンスイベントに招待され、400回以上パフォーマンスを披露してきました。まずはダンスを始めたきっかけを伺いたいです。

KENZO:高校受験の勉強をしている時に、TRFのSAMさんがやっているダンス番組が深夜に放送していて、その番組のダンサーを観て胸に衝撃が走ったんです。カッコいいな、やってみたいなと思い、ビデオを録画して見よう見まねで練習を始めました。

本当に田舎に住んでいたので教えてくれる人もいませんでした。毎週ダンス番組を録画して、ビデオが擦り切れて音も聞こえなくなるくらい、「こうかな?」と自問自答しながら反復練習していましたね。

それから高校1年生の時に番組でダンスイベントの情報を知り、そこに行って直接ダンサーに「教えていただけませんか?」とお願いして、教室に通うようになりました。

「ダンスを生業にしたい」20歳でダンスグループに加入

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美谷:その後20歳の時にダンスチームで活動を始められたと伺いました。

KENZO:福岡から上京してきて『SHUFFLE!!(シャッフル)』という5人グループに加入しました。ジャスティン・ビーバーさんなど著名海外アーティストのバックダンサーをしたり、振り付けをしたりするメンバーがいて、各メンバーがスペシャリストのグループでした。ダンスを生業にしたい」という同じ夢を持って、時には意見をぶつけ合ったり、言い合いになったりしながらも切磋琢磨してきましたね。

21歳頃に日本で誰もが優勝したいと思う大会で優勝したり、日本代表としてアジア大会に出場したりするようになって天狗になっていた時期がありました。

その時にHICKYというメンバーから「最近のKENZOのダンス良くないよ。全部自分が正しいみたいになっているから、気を付けた方がいいよ」と苦言を呈されたんです。それをきっかけに「自分がやってきたことは間違っていたのかもしれない」と、自分を見つめ直すことができました。

住谷:普通は反発してしまいそうですが、素直に受け入れられたのですね。

KENZO:チームメイトから言われたということが大きかったと思います。同じ道を一緒に歩んできたメンバーだから、どこかリスペクトがあり説得力がありました。その時のメンバーは家族のような存在ですね。

今はみんなそれぞれ色々な仕事をしているので、集まる機会は年末年始とかショーケースの時しかないですが、お互いの人生を認め合って、応援し合っている仲間です。僕が世界大会で8年連続優勝という結果を残せたのも、彼らのおかげだと思っています。

「世界一」は亡くなった幼馴染との約束

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美谷:ダンスをしてきて一番の思い出はありますか?

KENZO:『JAPAN DANCE DELIGHT(ジャパンダンスディライト)』という大会にチームで出て入賞した時に、初めて両親を呼びました。母はずっと支え続けてくれていましたが、父は“ダンスは不良の文化”というイメージが強く、まったく応援してくれなかったんです。むしろ「早くやめて、真っ当に生きろ」と言われていたくらいで。

でも初めて大会に呼んで「朋揮(ともき・KENZOさん本名)がずっと好きで、やり続けていたものはこれだったんだな」って涙を流しながら僕のダンスを観てくれたそうなんです。父が本当に喜んでいたという話を母から聞いて、人の心を動かすダンスの力を体感しました。

住谷:お父様の心を突き動かすことができたんですね。KENZOさんは世界大会を8年連続優勝されています。1回でも優勝できたら満足しそうなものですが、なぜそこまで長く極め続けることができたのですか?

KENZO:僕には世界一を目指す大きな理由があったんです。実は高校生の頃に幼馴染を交通事故で亡くしています。その幼馴染は日本一の洋服屋を目指していて、僕はダンスで世界一になりたいとお互いの夢を話し合っていました。けれど、その2週間後に亡くなってしまったんです。

だから、彼の想いも背負って「2人分の人生を歩んで行こう。彼に言ったことは必ず叶えなきゃ」という気持ちがありましたね。

ずっとダンスをしていると自分の物差しがわからなくなる時があります。自分が納得していないダンスで拍手をもらえている時もあって、大会に出場し続けることはその物差しを合わせる意味もあったと思います。

悩み抜いてDA PUMPへ加入。『U.S.A.』で日本中を笑顔に

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住谷:現在、DA PUMPのメンバーとしても活躍されていますが、加入に至った経緯を伺いたいです。

KENZO:思い返せばかなり自分のなかで葛藤があった出来事ですね。実は2回加入を断っています。DA PUMPはストリートダンスを日本全国に広めたアーティストグループですし、番組でも共演させてもらって素敵な方たちだと知っていたので、リスペクトの念しかありませんでした。

でも、もともと芸能界に興味がなく、ダンサーとして夢を与えるという目標があったので、こんな気持ちで入っても迷惑をかけるだけだと思い、断っていたんです。

2回断っているのにまた呼び出されて事務所行くと、ISSAさん(DA PUMPリーダー)が座っていたんです。ISSAさんから「KENZOの力が必要だから入ってくれないか?」と直接言われ、「僕が力になれることは現状ダンスしかないですけど、それでも良かったら加入させてください」と話して、加入することになりました。

美谷:かなり迷ったうえでの加入だったのですね。DA PUMPと言えば『U.S.A.』の大ヒットが記憶に新しいですが、あれほどの大ヒットを巻き起こした当時の心境は?

KENZO:マネージャーから楽曲が送られてきた時は、あれだけキレイな歌声のISSAさんが「カモンベイベー」と「USA」しか歌ってなくて、1回パソコンを閉じて、何かの間違いじゃないかと思いました(笑)

でも3年半ぶりに出る楽曲で、これが当たらなかったら辞めようと考えているメンバーもいて、とにかくみんなで一生懸命楽しくつくりたいという思いでしたね。子どもたちが笑顔で飛び跳ねてダンスを真似してくれて、こんなに人を笑顔にできる楽曲を出すことができて、本当に良かったです。

夢を持つことは人生を豊かにする

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美谷:KENZOさんは、夢に向かって生きる子どもを育てるキャリア教育『夢授業』という活動にも取り組まれているそうですが、それも踏まえて今後のビジョンを教えてください。

KENZO:僕は夢を持ったり、何かに一生懸命打ち込んだりすることが、人生を豊かにすると考えています。夢授業では、夢を実現するためにはどうしたらいいか、具体的な行動の仕方を教えています。

たとえばダンスで世界一になりたかったら、たくさん練習をする、そんなことは当たり前ですよね。世界一になるためには、練習量は1日これくらい、食事をこれにする、相手のデータ分析も必要で、たくさんの知識もいるし、音楽のことも知らないといけない。それらを全部クリアして、初めて世界一が見えてきます。

実現するためにはただ漫然と頑張るだけではダメで、自分の夢について理解して、具体的な方法を考える必要があります。そういったことを伝える活動をしています。

僕は夢を持ってワクワクする気持ちがとても大切だと思うんです。そのワクワクが未来の自分をつくるので。今後もたくさんの人が笑顔や元気になれる場所をつくり出して、僕自身も常にワクワクしていたいですね。

50歳からNSCに入所した「分析不可能な面白さ」を持つ個性派俳優

今回のゲストは、7月15日に公開された映画『キャメラを止めるな!』にも出演している女優の竹原芳子(たけはらよしこ)さんです。

竹原さんは証券会社、裁判所の事務官などの仕事を経て、50歳でNSC(吉本総合芸能学院)に入所したという異色の経歴の持ち主です。そんな竹原さんは、今年1月に『還暦のシンデレラガール』という自伝も出版されています。

ワクセルコラボレーターの岡田拓海(おかだたくみ)さんと総合プロデューサーの住谷が、竹原さんの個性光る魅力に迫りました。

「織田信長だったら死んでいる!?」50歳で一念発起のチャレンジ

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岡田:まずは竹原さんの経歴をご紹介します。1981年、20歳のときに証券会社に入社し、その後、裁判所の事務官に転職、2010年に50歳でNSC大阪校に入所。2016年には『劇団間座』(間寛平氏が立ち上げた劇団)の公演に参加し、女優活動を開始しました。

2017年に映画『カメラを止めるな!』に出演、2019年には初の連続ドラマ『ルパンの娘』にレギュラー出演と活躍の場を広げています。

さらに今年開催された第75回カンヌ国際映画祭にも参加し、自身が出演した『キャメラを止めるな!』が2022年7月15日に日本で公開。初の著書『還暦のシンデレラガール』も出版されています。

住谷:50歳からNSCに入所され、その後は目まぐるしい活躍ぶりです。どういったきっかけがあり、NSCに入所されたのですか?

竹原:当時は裁判所で事務官の仕事をしていたのですが、50歳を迎えたときに昔見た大河ドラマのシーンが自分のなかでよみがえったんです。織田信長が「人間五十年」と言って火のなかで舞っているシーンなんですが、30年も前に観た映像なのに強烈に残っていました。

それをふと思い出して「織田信長だったら死んでるやん!」って大きな衝撃を受けました。「死んだと思ったらなんでもできる、第二の人生だ」と思いNSCにチャレンジすることにしました。

「第二の人生はやり残したことをやろう」 とNSCへ入所

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岡田:それほどお笑いをやってみたいと思っていたのですね。

竹原:証券会社に入社したばかりのときに、ちょうど吉本で一期生の募集が始まったんです。私は小さいころから新喜劇をよく観ていたので、募集の看板を見つけたときに入りたいと思い、看板の前で30分くらい立ったまま悩んだことがありました。結局は諦めましたが、50歳になって「第二の人生、やり残したことをやろう」と考え、思い浮かんだのがNSCでした。同期には『コロコロチキチキペッパーズ』さんや『霜降り明星』さんがいます。NSCにはさまざまな年代の人がいると思っていたんですが、面接に行ってみたら10代、20代ばかりで、「どうしよう、場違いやん……」と居心地悪かったですね(笑)

でも帰り際、階段を下りているといきなり肩をたたかれ、振り返ると知らない男の子から「頑張ろうぜ!」と言われ、思わずうれしくなって「頑張ろうな」って返して、切り替えることができました(笑)

「分析不可能な面白さ」を武器に女優へ転身

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岡田:芸人としての経歴を重ねた後、2016年に劇団間座(はざまざ)で女優活動をスタートされていますが、なぜ演技の仕事をするようになったのですか?

竹原:55歳で落語の大会に出たときに審査員の先生に、「他の人には真似ができない、科学的に分析不可能な面白さがある」と言われて、その場で私のために賞をつくってくださったんです。それがすごくうれしくて、それから“表現者”という仕事への興味が強くなり、演技も勉強してみようと思いました。

それで劇団間座のオーディションの案内を見つけて、受けてみたら通って、旗揚げ公演に出してもらえたんです。でも「演技は求めてないので、舞台で飛んどいたらいいから」ということで、幕間に出てくる蛾(が)の役でした(笑)

岡田:竹原さんの面白さや独特の雰囲気は本当に唯一無二のものですね。『カメラを止めるな!』は私も観ましたが、竹原さんの出番はそこまで多くないにもかかわらず、すごく味のある演技をされていて、とても印象に残っています。

竹原:『カメ止め』にたどり着いたのも本当にたまたまだったんですよ。上田慎一郎監督のシネマプロジェクトを知って、オーディションを受けたら受かって、上田監督が当て書き(キャラクターを演じる俳優をあらかじめ想定して脚本を書くこと)をしてくださったんです。私の撮影は1日だけでしたが、本当にたくさんの方が広めてくれて、知っていただくことができました。

『キャメラを止めるな!』に出演、カンヌ国際映画祭へ

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住谷:そこからフランス版リメイク『キャメラを止めるな!』に日本人で唯一出演され、カンヌ国際映画祭にも参加されています。レッドカーペットを歩いたときはどのような心境でしたか?

竹原:もう「うれしぃーーー!!!最高やな!!!幸せやな!!!」って感じでしたね(笑)『キャメラを止めるな!』の撮影ではパリにも行かせてもらって、有名な監督さんとあの役者のメンバーに入れていただけて夢のようでした。

岡田:竹原さんのお話を聞いていると、本当に一つひとつを楽しんでいらっしゃることが伝わります。50歳から大きなチャレンジをされてきましたが、葛藤することや迷いなどはなかったのですか?

竹原:私は証券会社を辞めてからずっと、自分に向いているものが何か探し続けてきました。派遣会社に登録して、短期間でいろいろな職種を経験しました。習いごとも、友達から誘われたら何でも行ってみて、「これ!」と思ったものはすぐに申し込みしました。

社交ダンス、エレクトーン、生花など、20個くらいはやったと思います。誘われたら何でも行くし、行き当たりばったりで深く考えていないんです。「やらないで後悔するよりも、やって後悔する方がいい」というスタイルで生きています(笑)

流れに身を任せていたら想像以上の世界へ

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住谷:2022年に入り『還暦のシンデレラガール』という著書も出版されています。この本のタイトルは竹原さんにピッタリだと思いました。

竹原:「今までのことを本にしませんか?」というお話をいただいて、すぐに「出します」って答えましたね。数年前に本を出せたらいいなと考えたことがあって、『還暦のシンデレラ』やなって、頭の中をよぎったことがあったんです。私のことをよく知ってくれているカメラマンさんが「シンデレラストーリーだよ」と言ってくれたこともあって、このタイトルになりました。

岡田:これだけ好奇心を持って人生を楽しまれている方は、なかなかいないと思います。50歳以降の人生をガラリと変えて、さらに今後の竹原さんのストーリーが気になります。

竹原:私もこんなに変わるとは夢にも思っていませんでした。でも、本当に今まで深く考えず「何でもやってみよう」の精神でやってきて、想像以上のことが起きているので、これからも流れに身を任せていこうと思います(笑)

あとは、私は旅行が大好きなんですけど、まだまだ世の中には見たことがない景色がいっぱいあるので、そういう景色を見に行きたいですね。そしてそれが仕事につながったらうれしいです。

700名のシンガーグループを率いる寺尾仁志さんが伝える「歌の力」

今回のゲストは700名のシンガーグループ「human note」のリーダーを務める寺尾仁志(てらおひとし)さんです。寺尾さんは「歌の力で世の中に貢献したい」と2007年にhuman noteを結成、発展途上国や被災地でコンサートをするなどの活動を続けています。

ワクセルコラボレーターの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんと総合プロデューサーの住谷が、寺尾さんの活動や歌の力について伺いました。

「歌の力」を世の中に届けるためhuman noteを結成

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渋沢:本日のゲストは、歌を通して世界中の人とコラボレートし、700名のシンガーを率いる寺尾仁志さんです。まずは寺尾さんのシンガーとしての経歴を伺いたいです。

寺尾:もともとシンガーとしてソロ活動をしていたのですが、2000年にゴスペルグループのリードシンガーとしてメジャーデビューしました。そこから2003年にソロ活動に戻り、音楽教室のゴスペル講師とアーティストの二足のわらじを履いて活動をしていました。

おそらく、どのアーティストも「自分の音楽で人を元気にしたい」「癒したい」という思いを持っているのと同時に、「有名になりたい」「お金持ちになりたい」「モテたい」などさまざまな葛藤を抱えながら活動をしていると思います。

僕ももちろんそうで、友人の河口恭吾さんが紅白に出場したり、身近な人が売れていったりするのを見て悔しい思いをしました。悔しい経験もありますが、うれしい経験も多く、複雑な気持ちを重ねながら活動をしているアーティストがほとんどだと思います。

渋沢:どのような経緯があって human noteを結成されたのですか?

寺尾:音楽教室のゴスペル講師をして生計を立てていたんですが、当然アーティストだけで身を立てていきたいという気持ちで活動を続けていました。そんなある日、ゴスペル教室の皆さんと大きなコンサートをする機会があり、コンサート後に「生活の中に歌があることによって、パニック障害やうつが治りました」とメールをくれた方々がいたんです。「歌の力」に改めて気づかされましたね。

歌の持つ力と自分が培ってきた経験や歌唱スキルを合わせることができたら、世の中に対してとても価値のあるものを提供できるのではないかと思い、2007年にhuman noteを結成しました。

責任を持ちステージに立つことで「心が躍る」体験ができる

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渋沢:human noteにはどういった方々が所属されているのですか?

寺尾:下は12歳から上は79歳のおばあちゃんまで。イギリスやフランス、オーストラリア、マレーシアなど、海外にもたくさんのメンバーがいます。

human noteという名前には「一人ひとりの声は違う。あなたの声であなたの歌を歌ってほしい」という意味が込められています。過去に600名でステージに上がったことがあるのですが、どうしても大勢いると「私ぐらい口パクで大丈夫でしょ」って思う人がいますよね。でも僕は絶対にそれをさせません。

ステージに立って口パクをするなんて、僕には自分を大切にしていないように見えるんです。ステージに立つときは責任を持っていないと楽しめません。だから600名いようが、何千名いようが「あなたの声で歌おう」と伝えています。

僕は「ワクワクする」「楽しい」といった感情のもう一つ深いところに「心が躍る」という感覚があると思っています。責任を持ち、自分と向き合い、人と向き合い、ドキドキしたり冷や汗をかいたりするような経験を通して「心が躍る」体験ができるんです。

世界中の人との交流、歌ってきたからこそできた貴重な経験

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住谷:寺尾さんがhuman noteの活動で世界中の人とコラボレートしているエピソードを伺いたいです。

寺尾:これまでケニアやハイチ、カンボジア、バリ島、ニューヨーク、タンザニアなどに行き、現地の子どもたちや、過酷な状況で生きている人たちに向けて歌ってきました。東日本大震災の後、仮設住宅に何度も通い、熊本などの被災地も訪れています。

被災された方に「頑張ってくださいね」と歌を歌うのではなく、一緒に歌うことを大切にしています。そっちの方が絶対に元気が出ると思うんです。

タンザニアでの経験は特に印象に残っています。縁があって狩猟民族と知り合い、狩りに連れて行ってもらい、槍で鹿を捕まえてその場で捌く様子を見せてもらいました。

そして、狩りが終わったら「歌合戦をしよう」という話になり、まず僕らが歌って、その後に狩猟民族の人たちが歌ってくれたんですが、一人が歌い始めるとそれに対してハーモニーをつくっていたんです。当然楽譜もないのに、感覚的にハモる技術を持っていることに衝撃を受けましたね。

渋沢:狩猟民族の人たちとご縁があるなんて普通では考えられませんね。それも音楽があったからこそつながったご縁ですよね。

寺尾:歌ってきたからこそできた経験がたくさんあります。もう一つとても印象に残っているのが、ハイチに行ったときのことです。ハイチは2010年に20万人以上が亡くなる大地震が起きたのですが、そのとき日本からたくさんの千羽鶴が送られていました。

ハイチの人から「日本からいっぱい送られてくるけど、これはいらないと伝えて」と言われたんです。祈りの込められたものだとはわかったそうですが、「いらない」とはっきりと言われ、良かれと思ってやったことが、一歩間違えるとただの自己満足になってしまうことを知りました。

渋沢:千羽鶴は最近SNSでも話題になっていましたよね。本当に相手のためになっているのか、考えさせられる出来事ですね。

「心が躍る」体験を多くの人と共有したい

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渋沢:human noteには700名ものメンバーがいるので、まとめたり指揮を執ったりするのは、とても大変ではないですか?

寺尾:まとめるのは無理ですね。大阪のおばちゃんなんか絶対まとまらないですから(笑)。歌の力って本当にすごいので、僕はそれをたくさんの人と共有したいだけなんです。

自分がやりたいことを伝えると、それを5mの距離で見てくれる人もいれば、20m向こうから見てくれる人もいて、それぞれの距離感で700名がいます。ですから、まとめるつもりは本当になくて、自分が面白いと思うことを楽しんでやって、その楽しさが伝わり、結果的にまとまって見えたらいいなと思っています。

住谷:今までも歌を通してさまざまな活動をされてきたと思いますが、これからどのような活動をしていく予定ですか?

寺尾:僕は「楽しい」のもう一歩深いところ、「心が躍る」という体験をたくさんの人と共有していきたいと考えています。よく子どもに対して「夢を見ろ」という人がいますが、僕は「大人こそ夢を見ろ」と思っています。

大人が元気だとそれを見た子どもが「大人って楽しそうだな」と感じると思うんです。だから音楽をつくるプロセスのなかで、大人がワクワクする活動をしたいですね。

歌い続けてきたことでお二人にも出会うことができましたし、これからも歌を通してたくさんの仲間とつながっていきたいです。そして、みんなで一緒に大きなステージに立って、最高のエンターテイメントを届けることができたらうれしいです。

還暦プロダンサー!SAMさんが生涯現役でいるための習慣とは

今回のゲストは有名ダンスアンドボーカルグループのメンバーであるSAMさんです。SAMさんは『いつまでも動ける。年をとることを科学する、ジェロントロジー』という加齢学についての本を出版され、老化がネガティブなことばかりではないことを伝えています。

還暦を越えてもなお現役ダンサー・ダンスクリエイターとして活動しているSAMさんに、ワクセルコラボレーターでタレントの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんと、総合プロデューサーの住谷が、第一線で活躍する秘訣を伺いました。

ワクセルコラボレーターページ(SAMさん)

高校時代にディスコダンサーに魅了され、プロを目指す

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:本日のゲストは1990年代から日本に旋風を巻き起こした有名ダンスアンドボーカルグループのメンバーで、ダンス界のレジェンドであるSAMさんです。SAMさんはダンサーの活動はもちろん、ダンススクールの設立、専門学校のダンスパフォーマンス科トータルプロデューサー・講師、健康寿命を延ばすためのダンスプログラムの作成など、ダンスクリエイターとしても多方面で活躍されています。まずはダンスを始めた経緯を伺いたいです。

SAM:ダンスを始めたのは15歳のときでした。学校の友達と初めてディスコに行ったんですけど、白いスーツを着たダンサーがフロアに出てくるとお客さんが盛り上がって、その人を中心にサークルができるんです。その中で踊るダンサーを見て「めちゃくちゃカッコいい!」と思い、次の日から学校で「こんなことしてたよね」って友達とまねしていました。

それからディスコにハマって、数カ月に1回行く程度だったのがいつの間にか週1回になり、高校3年生のときには毎晩になっていました(笑)。もちろん年齢制限はあったと思うんですけど、当時はそこまで制限がうるさくなかったんです。

「何になってもいいから真面目にやれ」医者である父からの激励

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

住谷:ディスコがきっかけでダンスに目覚めたんですね。それから本格的にプロダンサーを目指し始めたのはいつ頃ですか?

SAM:高校2年生くらいでしたね。僕らの世代ってダンスがうまい人はいましたが、ディスコダンサーとしてご飯を食べている人がいなかったんです。「なんでこんなにうまいのにプロにならないんだろう?」って不思議に思っていて、「だったら俺たちがプロになろうぜ」って、ダンス仲間と毎晩のように何時間も語り合っていました。

住谷:SAMさんは医者の家系と伺ったのですが、ご家族からの反対はなかったのですか?

SAM:医者の息子だったので医者になるように育てられていました。けれど、それが本当に窮屈で、高校2年生のときに家出をしたんです。でも2週間くらいで見つかって、そのときに初めて父親と母親に思いをぶつけました。

父親から「何がしたい?」と聞かれたので、「自由になりたい」と伝えました。するとちゃんと学校に行くことと、居場所を連絡することを条件に、自由にしてもいいことになったんです。父親から「何になってもいいから真面目にやれ」と言われ、「ダンスを真面目にやろう」と決意しました。

「メンバーそれぞれがリスペクト」結成30年の絆

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:ダンスボーカルグループが結成されて30周年になるそうですね。これまでさまざまなことがあったと思いますが、30年も継続してきて率直にどのようなお気持ちでしょうか?

SAM:30年間ずっと走り続けてきたというよりは、割とのんびりやってきているので、気づいたら30年もたっていた感覚です。デビュー当初は忙しかったですが、その後に6年くらいまったく活動していない時期もありました。

2000年から2006年まではまったく新曲をリリースせずに、それぞれがほぼ個人活動をしていました。その頃の僕は『V6』や『東方神起』など、他のアーティストのライブをプロデュースしたり、別ユニットを組んでライブをやったりしていましたね。

渋沢:音楽活動をされていると「方向性の違いでもめる」ということをよく聞きますが、そういったことはなかったのですか?

SAM:割とみんな同じ方向を向いていたと思います。デビューしたとき、僕とDJ KOOが同い年の31歳、他のメンバーも25歳くらいと、そこそこみんないい大人なので、けんかはあまりなかったですね。

最初の頃は僕とDJ KOOがぶつかることもありましたけど、男同士で同い年なので、ちょっと話せばすぐに和解していました。そういうことを繰り返しているうちに絆ができて、メンバーそれぞれが相手をリスペクトする良い空気が出来上がってきたと思います。

現役で活躍する秘訣は「少しだけ」気を使った生活習慣

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:SAMさんは生涯現役を宣言して、実際に還暦を越えた今でも現役で活躍されています。ダンスはすごい運動量だと思うのですが、どうしたらSAMさんのようにずっと現役でいられるのでしょうか?

SAM:常に踊っていられるために体と向き合っているので、自分の体調には割と敏感な方だと思います。でも、食事制限などストイックな健康管理は全然していないんですよ。

20代はダンスの基礎をつくっている時期だったので、ストレッチや筋トレ、食事にも気を使っていましたが、段々そういう生活が板についてくると、「これくらいはいいだろう」とふり幅がわかってくるんです。食事が偏ってきたら戻すとか、体を冷やさないようにしようとか、最低限のことが当たり前にできるので、長年のいい生活習慣の蓄積だと思います。

「老化はネガティブなことばかりじゃない」加齢学についての本を出版

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

渋沢:SAMさんは『いつまでも動ける。年をとることを科学する、ジェロントロジー』という本を出版されています。「ジェロントロジー」とはどういうものなのでしょうか?

SAM:ジェロントロジーとは加齢学といって、老化していくことを科学する学問なんです。人は20歳くらいで成長過程が終わって、そこから老化が始まります。老化と聞くとネガティブなイメージを持つと思いますが、「ネガティブなことばかりじゃないよ」ということをこの本で伝えています。

たとえば絵を描いたり、小説を書いたりといった創造力というものは50代から60代がピークだと言われていて、年をとるほど創造性は豊かになるんです。

年齢を重ねるってことは、それだけ経験値を積むということです。60年生きた人と30年生きた人の間にある「30年の経験値の差」って埋められないですよね。どんな経験をしたかは人によってもちろん違いますが、30年長く生きている、僕はそれだけですごいことだと思います。

年齢にあらがうことももちろん必要かもしれませんが、あらがうことばかりじゃなく、ポジティブなこともいっぱいあるということを知っていただきたいですね。

能とストリートダンスのコラボレーション、新たな舞台を目指す

ダンスクリエイターSAM×ワクセル

住谷:ダンス業界でこれまで多くの功績を残してきたSAMさんですが、還暦を越えて今後どのような目標を持っているのかとても興味があります。

SAM:60歳になってからもやりたいことがたくさんあります。僕は3、4年前から最古の伝統芸能と言われる「能」を始めました。50歳を過ぎたあたりから自然と興味が湧いてYouTubeで見たり、自分で研究したりしていたときに、雑誌の対談で宝生流(ほうしょうりゅう)の能楽師の先生と出会ったんです。実はうちの先祖にも宝生流の能楽師がいて、まったくの偶然ですがすごい巡り合わせを感じましたね。

いろんな話をするなかで「能」と「ストリートダンス」のコラボレーションをすることになり、すぐにその方に弟子入りしました。いまの最も大きな目標は、「能」と「ストリートダンス」がコラボレーションした新しい舞台を作ることです。

他にも、認知症など高齢者が抱える疾患に効果が期待できる『リバイバルダンス』というダンスプログラムがあるので、それを全国にもっと広めていきたいですね。規則正しい生活とコミュニティがあれば誰でも楽しく老化していけます。多くの人が持つ老化に対するネガティブなイメージを変えていきたいですね。

「辞める選択肢はなかった」必要とされる声に応え車いすアイドル誕生

猪狩ともか(いがりともか)さんは、地下アイドルグループ『仮面女子』のメンバーです。不慮の事故で脊髄を損傷し車いす生活を送ることになりましたが、アイドル活動を継続し現在は作詞まで手掛けています。

ワクセルコラボレーターでタレントの渋沢一葉(しぶさわいよ)さんとワクセル総合プロデューサーの住谷が、アイドルやパラ応援大使など、精力的に活動する猪狩さんの素顔に迫りました。

就職活動に苦戦して21歳からアイドルに挑戦

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:本日のゲストは「誰かの夢見る気持ちを後押しできるような存在になりたい」と地下アイドル『仮面女子』のメンバーとして活動する猪狩ともかさんです。まずは、猪狩さんがなぜアイドルを目指し、仮面女子になったのか聞いていきたいと思います。

猪狩:小学生のときに『モーニング娘。』が大好きで、アイドルに対する憧れはずっと持っていましたが、特にアイドルに挑戦することはありませんでした。

21歳のときに管理栄養士の専門学校に通っていて就職活動を始めたのですが、働きたいと思うような心ときめく場所が見つけられなかったんです。そのときに「あっ!アイドルに挑戦してみよう」と突然思いつきました。きっと就職活動につまずいたことによって、心の奥にずっと持っていた願望がポッと出てきたんだと思います。

通常のアイドル事務所は「16歳まで」「20歳まで」などと年齢制限が設けられていることが多く、21歳でオーディションを受けるチャンスがあったのが今の事務所だけだったんです。地上の輝かしい事務所に入れるような存在でもないので、結果的にちょうど良かったと思っています(笑)。

「仮面女子でしかできない表現をしたい」とアイドル卒業を撤回

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:猪狩さんは仮面女子からの卒業を発表されましたが、そこから卒業を撤回されて現在も活動を続けています。どのような心境の変化があったのでしょうか?

猪狩:卒業を一度決めたのは27、8歳の頃です。仮面女子としてやり切った気持ちがあり、年齢的に考えても新しい道に進むときだと思いました。そして、「ソロ活動を頑張っていこう」と、2020年2月に「今年の秋ごろに卒業する」と発表しました。

秋に仮面女子のワンマンライブが開催される予定だったので、そのライブに出てひと区切りをつけようと思ったんです。でも、コロナウイルスが蔓延してワンマンライブが延期になり、ライブに出ないまま卒業することは嫌だったので、卒業も延期することにしました。

その後、私が作詞した曲が入ったファーストアルバムが出ることが決まりました。「私が作詞した曲が出るのに卒業するのはおかしくない?」と考え、ファーストアルバムが出るまで卒業もさらに延期。

そうこうしている間に「車いすの私が当たり前のように一緒に舞台に上がっている見せ方は、仮面女子にしかできない」と気づいて、「私にしかできない表現をもっとしていきたい」という気持ちが強くなり、卒業を撤回することにしました。

「やっとなれた仮面女子」わずか1年で事故に遭遇

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:先ほど“作詞”という話が出ましたが、作詞活動もされているんですよね。作詞することになったきっかけも伺いたいです。

猪狩:作詞に対する憧れはずっとありました。事故に遭って入院しているときにプロデューサーに「作詞がしてみたい」という話をしたら、「やってみてよ!」って言ってくださって、病院のベッドの上で初めて歌詞を書き始めたんです。

『ファンファーレ』という曲なんですが、私が事故に遭ったとき、さまざまな方からの応援に背中を押してもらったので、「次は私が曲でお返しするぞ」という気持ちで作詞しました。

渋沢:『ファンファーレ』を聴かせてもらったのですが、「いくぞ」という内に秘めた思いがストレートに書かれていると感じました。猪狩さんはご自身のつらい経験を笑顔でお話しされていて、その姿に本当に勇気づけられます。でも、事故に遭われたときは相当に苦しい思いをしたのではないでしょうか?

猪狩:仮面女子としてデビューするために、見習い生からスタートして、ようやく仮面女子になれたんです。なのに、その1年後くらいに事故に遭い「やっとスタートラインに立てたと思ったのに、これからどうしよう」と私生活のことより、仮面女子の活動への心配が大きくて、そのことばかり考えていました。

「どうやったら活動できるだろう?」と考え、事故後もアイドル活動を継続

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

住谷:仮面女子を辞めるか迷っていたということですか?

猪狩:よく驚かれますが、辞めるという選択肢はなかったです。というのも、周りの人が「車いすに乗っていても必要としているよ」って思いをすごく伝えてくれたので、辞めるか辞めないかで迷うことはなく、「どうやったら活動していけるだろう?」ということを考えていました。

住谷:事故に遭われてから何か変化はありましたか?

猪狩:今まで見えていなかったものが見えてきたように思います。例えば車いすで道を通っていると、「歩いているときには気づかなかった傾斜があるな」と気づきます。「障がいのある方はこれまでこういう苦労があったんだな」って、自分が当事者になって知ることが多いですね。

装着型サイボーグ『HAL®』を利用したリハビリで体に変化

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

渋沢:猪狩さんは現在『TRP』というリハビリに励まれているそうですが、どのようなリハビリを行っているのですか?

猪狩:TRPは『ともか・リジェネレーション・プロジェクト』の略称なんですが、私の失われた機能を回復しようというプロジェクトです。『HAL®(ハル)』という装着型サイボーグを使い、オーストラリア・メルボルンのビクトリア大学で博士をしている長野放(ながのはなつ)先生の指導の下、リハビリを受けています。

通常、人は脳から指令を受けて手や足を動かしていますが、私の場合は脊髄を損傷しているので、脳からの指令が足まで届きません。リハビリに使っている『HAL®』は、脳からの指令を皮膚に貼ったセンサーで検出して外側から体に伝えてくれるものなんです。その仕組みを使って運動することにより、神経の回復を狙う取り組みをしています。

『HAL®』を使っても動かせない人がいるなかで、私はひとつ目のステップをクリアすることができ、その時点でも大きな喜びを感じました。リハビリを始めて1年くらいたつのですが、今まで感じなかったおなかの痛みを少し感じるようになったり、整体の先生に「お尻に筋肉がついたね」と言われたり、体幹が鍛えられている実感があります。歩けるようになったなどの大きな変化はないですが、少しずつ前に進んでいる感じですね。

車いすの人をもっと身近に感じてもらうためにSNSで情報を発信

仮面女子-猪狩ともか×ワクセル

住谷:少しずつでもリハビリの効果を感じられているのはうれしいですね。今後の変化が楽しみです。最後に猪狩さんの今後の目標もお聞きしたいです。

猪狩:先ほど渋沢さんが「大変なことを明るく伝えてくれるのが良い」って言ってくださったんですが、まさに今SNSを使ってそういう発信をしています。コロナ禍では直接会ってやりとりするのが難しいので、SNSを活用してさまざまな発信を今後も続けていくつもりです。

障がい者が不便に感じていることも知ってもらいたいですね。車いすだからって敬遠されるのが嫌なので、私の発信で車いすに乗っている人をもっと身近に感じてもらえたらうれしく思います。