将来の夢は、プロレスラー
14歳の時にプロレスの試合を観て「俺のやりたいことはこれだ!」とひらめき、以来自己流でプロレスラーを目指し、23歳の時にアマチュア大会で全国制覇した池本誠知さん。その後も第3代DEEPウエルター級チャンピオンを獲得し、現在もなお現役格闘家として活躍しています。今回のコラムでは、どんなきっかけでプロレスラーを目指したのか、どんな信念で夢を実現したのか、語っていただきます。
中学時代に魅了された”リングで戦うオトコ”
14歳の頃の自分は、塾に3つ通っていた。私立受験を目指すメンバー達と毎日、深夜まで勉強。勉強は、嫌いでは無かった。それまで習い事は、野球、スイミング、そろばんあたりをやってきたかな。
中学に入った時は、サッカー部。当時Jリーグが無かったので将来できないのならと熱が冷めてしまい退部。成績は、クラスで男子で2番だった。将来は漠然と良い大学に入ろうと思って勉強を頑張っていた。
いつも深夜まで勉強してて、母親が、夜食や紅茶とか作ってくれた。勉強を頑張るひとつの楽しみだった。勉強の合間にひと息ついてなんとなく、TVをつけると全日本プロレスの試合中継が流れていた。
TV画面に流れた光景は、天龍源一郎というプロレスラーが気持ちのこもった熱い戦いを繰り広げていた。お客様も大熱狂していた。その瞬間に、池本少年はリングで戦うオトコに魅了された。魂が震えた。「人をこんなに熱くさせる仕事あるんだ」
衝撃的だった。自分もあのリングに上がりたい。プロレスラーになりたい。それから、勉強に興味が無くなり必要最小限しかやらなくなり塾も辞めて、毎日、腕立て、スクワットを自己流でトレーニングを始めた。
プロレスマンガや雑誌を買い漁り、毎週プロレス番組を録画した。間近で、勉強からプロレスにシフトするのを見ていた親はビックリした。いつまで続くのかな?って感じていたのかと思う。
「いつか絶対に見返してやる」プロレスラーへの誓い
学校でもプロレス協会を作って、休み時間になると、廊下や教室の後ろをプロレスのリングに見立てて、友達とプロレスごっこを楽しんだ。あまりにプロレスをしたくて学校が休みの日に体育館のガラスを割って侵入して、セフティーマットやロールマットを使いリングっぽく作ってプロレスごっこをした。
最後は、パワーボムという技で1人の肩が脱臼して体育館を出れなくなり、用務員のおっちゃんに鍵を開けてもらってなんとか出られたが、次の日呼び出されてこっぴどく怒られた。中学のアルバム整理してたら、修学旅行でブレンバスターしてる写真を見つけたよ。
海やプールに行っては、プロレス。
ベッドやセーフティーマットを見つけては、プロレス。
とにかくなりたい職業を見つけた中学時代。
また、アマチュアプロレス団代JWAにも入団した。そこではあのCIMA選手と出会った。中2の時の夢は、プロレスラーだった。
中3の時には、進路相談の面談が始まった。自分は、プロレスラーになるから高校は行かないと決めていた。
担任の先生からは、「成績上位だし、高校に行かないのはもったいない」とか、なによりめちゃくちゃ身体の線が細かった(ガリガリ)自分のカラダを見て「プロレスラーは、危ないしなられへんよ」と言ってきた。
自分は悔しくて「いつか絶対に見返してやる」と心に誓った。
出来ないと決めつけず出来ることに目を向ける
最終的には、塾にいつも通わせてくれた親が、「高校生活は、友達を作ったりたくさんいろんな経験を積めるから行ってほしい」と言われて、勉強する気はないけど、行ってみようという気になった。
もちろん行って良かったが、進学校に入ったため勉強についていけず、遅刻は3日に1回、昼から行ったり途中で帰ったり、そんな感じだった。
高校に入ってまず考えたことは、プロレスラーになるためのクラブ探しだった。一番に気をひいたのは体操部。バク転ができたら派手な技が出来るし、何よりセフティーマットがあるのは、技の練習ができるから魅力的だ。
体操部に見学に行く前に柔道部に寄ったら「タッパがあるから」とスカウトされて入部になった。柔道部は2年間やった。自分は向いて無かったが、格闘技の基礎の部分を叩き込まれた。
足を骨折した時に「運動場を走れません」と顧問に伝えた時に、「ケンケンで走れ」と言われ、当時は、ムカついた記憶があったが、今思えば当たり前のことであり感謝しています。
簡単に出来ないと決めつけずに出来ることをする。これは、凄く大事な考えです。多くの人は、出来ないことに目を向けがちなのではないでしょうか。そんな中学時代から高校時代を歩んだわけです。
次回は、高校卒業の日に格闘技ジムに入門してプロデビューするまでをご紹介したいと思います。