宮崎から世界へ!ボクサーが描く“守る強さ”の物語

ワクセル編集部

ワクセル編集部

column_top_FujinakaSyusaku

元プロボクサーの藤中周作(ふじなかしゅうさく)さんは、2011年度ウェルター級全日本新人王・元日本2位、元WBOアジア5位の実績の持ち主です。現在は、Gloving Boxing Gym会長、青島・宮﨑・日本を盛り上げるRUSHWAVE JAPAN代表で起業家としても活躍されています。今回のコラムでは、これまでの経歴と現在の活動についてお話を伺いました。

命を懸けた挑戦が始まった日

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_藤中周作_元プロボクサー選手

私がボクサーを目指したのは、中学2年生の頃でした。きっかけは、当時大きな話題を呼んだ「畑山選手対坂本選手の世界戦」です。その試合の直前に放送されたドキュメンタリー番組で、両選手が世界戦に向けて極限まで自分を追い込む姿が映し出されていました。全身全霊で夢に挑む姿を見て、「自分もこんなふうに生きたい」と心を動かされたのです。加えて、兄の存在も大きかったです。1つ年上の兄は体格も大きく、宮崎県のわんぱく相撲で何度も優勝し、中学卒業後には高砂(元・貴ノ花)親方部屋に弟子入りしました。そんな兄に力で勝てない悔しさ、そして「力だけで支配する」ような世界に違和感を覚えたことも、私をボクシングへと導きました。力でねじ伏せるのではなく、大切な人を守れる“調和を保つ強さ”を身につけたいと思ったのです。

高校に進学すると、17歳でプロテストを受け、最短でプロボクサーになりました。高校2年生で宮崎県代表としてデビューし、その後、福岡県のジムに所属して本格的にプロの道を歩み始めました。デビュー戦は白星発進。2戦目の名古屋で引き分けたことをきっかけに、「東京で戦わなければチャンピオンにはなれない」と決意を固め、5年後に上京しました。

1度目の全日本新人王挑戦では、名門・輪島功一さんの息子に惜しくも判定負け。しかし2度目の挑戦で全日本新人王を獲得し、日本ランキングにも名を連ねることができました。それから約10年間、ウェルター級のランキングに名前が載り続け、ボクシングファンなら一度は「藤中」の名を目にしたことがあるかもしれません。大きな栄光ではなくとも、確かにボクシング界に生き続けていた時間でした。

リングの外でも闘い続ける日々

見出し2画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_藤中周作_トレーニング

ボクシングの世界で生きるということは、単に強さを追い求めるだけではなく、「続ける力」を自分に問い続けることでした。戦績は30戦、勝ち越しです。ですが、それ以上に誇りに思うのは、どんな状況でも逃げずに努力を積み重ねたことです。多くのボクサーは昼はアルバイト、夜は練習という生活を送りますが、私は会社員として働きながらボクシングを続けていました。不動産会社に勤め、家庭を持ち、子どもを育てながらリングに立ち続けたのです。プロボクサーの多くは結婚を控えるものですが、私は全日本新人王を獲得した後に結婚し、2人の子どもを持ちながら現役を続けました。今では3人の父親です。朝はランニング、昼は仕事、夜はスパーリング。休みなどほとんどなく、遊ぶ暇もない生活でしたが、すべての時間を「夢の延長線上」に使ってきました。

最も印象に残っている試合は、ウェルター級元世界チャンピオンで2階級制覇を果たしたランドール・ベイリー選手との対戦です。韓国で行われたタイトルマッチで、相手は“ノックアウトキング”の異名を持つ強豪。メイウェザーの叔父がセコンドにつくほどのビッグファイトでした。私は7ラウンド目で勝負をかけ、渾身のラッシュを仕掛けましたが、カウンターをもらい逆転負け。あの試合に勝っていれば、マニー・パッキャオ戦が組まれていた可能性がありました。人生で一番、世界の頂に近づいた瞬間でした。それでも「挑戦できた」という事実が、私を前へ進ませました。ボクシングは常に「自分との戦い」です。自分の弱さを、逃げずに見つめ続ける競技だと確信しています。

私は学生時代から集中力が続かないタイプでした。興味がないことには全く集中できず、テスト勉強にも苦労しました。しかし、ボクシングだけは違いました。何があっても続けたいと思えた。だからこそ、「自分には継続力がある」と気づくことができたのです。リングで積み重ねた経験は、後に経営者としても大きな財産となりました。どれだけ困難でも、やればできる。時間は有限でも、熱量次第で限界を超えられる。そう信じられるようになったのは、ボクシングのおかげです。

人を救うために、再びリングへ

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_藤中周作_電動ジェットボード

今、私は再び“現役復帰”に向けて動き出しています。引退したつもりは一度もありません。ボクシングは、私にとって「生き方」そのものだからです。

同時に、ボクサーとして培った精神を“命を救う活動”へとつなげる挑戦も始めています。電動ジェットボードを活用した「水難救助プロジェクト」です。きっかけは、同じボクサー仲間が娘を助けようとして命を落とした出来事でした。ほんの数秒の判断で命が失われる現実を知り、「自分が救える命があるなら、何かを変えたい」と強く思いました。ジェットスキーでは入れない浅瀬でも、電動ジェットボードなら即座に駆けつけることができます。現在、ライフセービング器具を手掛ける櫻井工業と共同で「人命救助専用ジェットボード」を開発中です。世界的にも前例の少ない試みであり、法整備や安全基準の制定を国とともに進めていく構想です。

この取り組みの根底にあるのは、「強くなければ守れない」という信念です。ボクシングも、命を守る活動も、すべては“人の笑顔を守る”ためにあります。私は母子家庭で育ち、母の苦労を間近で見てきました。だからこそ、今の自分が社会にできる恩返しは「守る力」を形にすることだと思っています。ボクシングジムの経営、青島商店街の地域活動、そして水難救助プロジェクト、すべてが繋がっています。どれも、子どもたちや地域の人たちが笑顔でいられる未来をつくるための挑戦です。

「夢は、誰かの命を救う力になる。」

この言葉を胸に、私はこれからも拳を握り続けます。宮崎の子どもたちが希望を持てるように。そして、自分の挑戦が、誰かの「もう一度立ち上がる勇気」になるように。人生というリングの上で、これからも闘い続けていきます。