経営者対談

丹 有樹
ワクセル

今回のトークセッションでは、首都圏を中心に親しまれている立ち食いそばチェーン「名代 富士そば」を展開するダイタングループの2代目、丹 有樹(たん ゆうき)さんをお迎えしました。創業者であるお父様の起業ストーリーや独自の経営哲学、現場の店長たちと築いてきたリアルな人間関係、そしてテニス界の次世代育成や世界進出にかける熱いビジョンまで、赤裸々に語っていただきました。

富士そばの原点――不動産業からの創業と社内文化の継承

waccel-TanYuki2.png

住谷:富士そばの立ち上げの経緯や、なぜお蕎麦屋さんだったのか、そして店内に流れる演歌や入社当時の現場との関わりなど、富士そば独自の文化がどのように受け継がれてきたのかを詳しく教えていただけますか?

丹:父は愛媛県の出身で、若くして上京し、事業を立ち上げては失敗してを4回ほど繰り返していました。15歳くらいで東京に出てきて炭鉱で働くなど、必死にお金を稼ぎながら立ち上げの挑戦を続けた叩き上げの人間です。その4回目に埼玉県川口市で始めた仕出し弁当屋が当たり、仕出し先の方々を含めた4人で、のちの日拓不動産の前身となる会社を立ち上げました。事業は拡大しましたが、父は「不動産業は景気に左右されやすく、いつどう転ぶか分からない」という強い危機感を持っていました。そこで、毎日確実に日銭が入るビジネスとして社内で小さな蕎麦屋を始め、のちに独立する際にその事業を持って一本立ちしたのが、現在の富士そばの原点です。

なぜ蕎麦だったのかというと、父が東北旅行中に電車が止まり、駅のホームで時間がない中に急いで蕎麦をすする乗客の姿を見たことがきっかけでした。「この慌ただしい動きは、都内で働く人たちの生活スタイルそのものだ」と直感したんです。人通りの多い都内の駅前で親しまれている蕎麦を素早く提供すれば、大きなビジネスチャンスになると確信したと聞いています。

富士そばは店内で流れている有線の演歌も有名ですが、これは戦略ではなく、もう20〜30年続く父の趣味なんです(笑)。実は父はもともと歌が好きで作詞家になりたいという夢があり、事業が8割ほどが形になった頃に作詞の勉強を始め、実際に演歌を書き始めました。その流れで店内に有線の演歌チャンネルが流れるようになり、昔は父が作詞した曲を歌う歌手の方のポスターを置いたりと公私混同も甚だしい状態でした。僕が入社する頃には「富士そば=演歌」のイメージが定着しており、あえて変える理由もなかったので今もそのまま流し続けています。

教育方針について、父から細かく指示されたり英才教育を受けたりした記憶はありません。父自身は苦労人ですが、息子の僕が普通に勉強してレールに乗っている姿を見て、自分とは違う安心感を持っていたのかもしれません。僕自身は大学卒業後にイベント業界で働き、のちに役員として入社しました。当時はすでにグループ内で分散経営が確立されており、創業者の父が現場に張り付かなくても自律して組織が回っていました。そのため、最初の頃は社内をじっくり観察し、自分の役割を探す日々が続きました。

当時の社内は好立地ゆえに「広報なんて不要」という方針でしたが、SNSの広がりを見てWeb戦略の必要性を感じ、公式ホームページの立ち上げなどできることを増やしていきました。当時の店長たちは昔気質の職人ばかりで、飲み会では「おい、息子! 飲め!」と絡まれて泥酔することもありましたが、それだけ自分の店に対する誇りと富士そば愛が強かったんです。そうした現場の懐の深さがあったからこそ、僕もすんなり組織に受け入れてもらえました。

「不動産屋」としての出店戦略と現場主導の店舗運営

waccel-TanYuki3.png

住谷:富士そばが東京のアイコンとして広く認知され成長した強みと、出店場所の見極めや現場主導の店舗・メニュー運営の仕組みについて詳しくお聞かせください。

丹:富士そばが広く知っていただけるようになった一番の要因は、単純明快に「場所(立地)」の力に尽きます。創業者の父は根本が不動産屋なので、蕎麦の調理や製麺といった技術的なことは「自分は素人だから分からないし、分からなくていい。専門業者に任せればいい」と割り切っていました。その代わり「もっとこういう麺を作ってくれ」と明確に要望を出していました。父は極端な話、「蕎麦アレルギーが増えて売れなくなったら、この場所で別の商売をやればいい」と言っていた人でした。ですから、私たちの本質は飲食業というよりも徹底した不動産業なんです。駅の改札を出た日常の導線上で目にする機会が多いからこそ、親しんでいただけています。

この「最高の場所を押さえる」という強みを守るため、社内には独自のルールがあります。現在6人の常務が6社を管理していますが、物件情報が出た際、最初に僕へ電話やLINEで「ここをやりたい」と連絡してきた常務に出店権利が与えられます。エリア分けは関係なく、千葉の2店舗も別々の会社が見ていますし、渋谷の5店舗も4社に分かれています。最初に見つけて手を挙げた人が運営を担当するスピード重視のルールです。また、「来期は何店舗出店する」といった数値目標はあえて持ちません。目標を作ると焦って妥協した物件に手を出してしまうリスクがあるため、いい物件が出れば出店し、出なければ出さないという軸を全員で共有しています。(物件の選定基準に関しては、ワクセル会議の会場参加者限定で、特別にお話いただきました。)

店舗運営に関しては、現場のアルバイトから叩き上げで上がってきた各常務に全権を委ねています。従業員の多くが1日8時間しっかり働いて生活基盤にしているため、OJTを通じて理念や空気感が浸透しやすい強みがあります。メニュー開発も現場の裁量が大きく、池袋店の店長が考案したカレーかつ丼のように全店展開へ広がったヒット商品もあります。また、僕がシンガポールの料理から着想を得たバクテーそばのようなメニューもあります。一方で紅生姜天そばのように、発売後に売上が落ち着いても「育てていけば象徴になる」と経営判断で残し続け、看板メニューに育ったものもあります。現場の自由度と経営的なブランディングのバランスを大切にしています。

次世代を支えるテニス支援と2代目として挑む海外展開

waccel-TanYuki4.png

住谷:富士そばの経営にとどまらず、テニスの国際大会支援を通じた次世代育成や、長年挑戦されている海外展開など、丹さんの描く未来のビジョンについてお聞かせください。

丹:テニスの大会支援を行っている背景には、前職のイベント会社で日本男子テニス界の課題に向き合っていた経験があります。松岡修造さんの時代から錦織圭選手が登場するまでの間、日本男子が世界で勝てなかったのは、世界ランキングに必要なATPポイントを国内で獲得できる大会が少なかったからです。0ポイントの選手は海外遠征しても予選にすら入れません。そこで、出場するだけで1ポイント獲得できるチャレンジャー大会を日本で初めて立ち上げ、選手が世界へ出る足がかりを作りました。

今回、6月に東京の有明で開催される国際大会のメインスポンサーを務めることになったのは、かつて僕たちのジュニア大会に出ていた内山靖崇選手がプロになり、自ら国際大会を主催する中で「東京で開催するならぜひ協力したい」と声をかけたことがきっかけです。この大会は若手選手が世界へ駆け上がるための登竜門となる重要なカテゴリーです。商業的な利益だけでは維持が難しい育成の場を守り、次世代の挑戦を持続可能な形で支えたいと考えています。

そして、富士そばとしての展望ですが、実は12年ほど海外事業に泥臭く挑戦し続けています。インドネシアで7ヶ月で撤退し、台湾やフィリピンでも撤退を経験するなど失敗の連続でした。それでも日本の蕎麦文化はいつか必ず世界に広がると確信しています。そのときに『富士そば』の名が世界にないのは、2代目として受け継いだ身として絶対に嫌なんです。現在はシンガポールを中心にアメリカやオーストラリアで天丼業態を展開して海外市場とのパイプを保ちつつ、機が熟したときに富士そばとして世界へ打って出る準備を進めています。

僕は「0から1」を生み出した創業者ではありませんし、真っ白なキャンバスに自由に絵を描く才能はそれほどありません。しかし、受け継いだ「1を100にする」ために創意工夫し、描きかけの絵を美しくまとめていくことこそが僕の役割です。創業者の築いた強固な軸を守りながら、次世代育成や世界進出といった新しい価値を積み重ねていきたいと思っています。




トークセッション一覧にもどる