情熱大陸にも取り上げられた会社員がドーバー海峡横断するまでの軌跡
津軽海峡横断における日本人最速記録の保持者KENICHI SETSUMASA(節政健一)さん。会社員をやりながら、オープンウォータースイマーとして、津軽海峡横断(当時、世界新記録)・ドーバ海峡横断と確かな実績を残しています。本コラムではオープンウォータースイミングを始めたいきさつや、今後の活動の展望についてお聞きしました。
オープンウォータースイミングとの出会い
私は5歳から水泳を始め、中学高校では競泳選手として競技に取り組んでいましたが、その後は趣味としてやる程度でした。20歳のときに日本テレビの番組で、目の見えない女子高校生が芸能人の方と津軽海をリレーで泳ぐという企画がありました。その番組を見て雷に頭が打たれたように「俺も津軽を泳ごう!」と決めたことが始まりでした。
インターネットで「津軽の泳ぎ方」と調べてみましたが、今みたいに情報があふれている時代ではなかったですし、もちろん周りに津軽海峡を泳いだことがある方もいません。少ない情報のなかで、オープンウォーター競技というものがあることを知り、その大会に出場することで、津軽海峡の泳ぎ方を知っている人に出会えるのではないかと考えました。
しかし大会に参加しても、何百人と大勢の方がいらっしゃるので、そこから津軽海峡の泳ぎ方の情報を手に入れるのは難しいと思いました。そこで、逆に向こうから声をかけてもらう方法はないかと考え、「出場する大会すべてで優勝したら良い」という結論に至りました。
初年度は13レースに出場して11レースで優勝。すると、「宮崎県から来た大会荒らしがいる」と話題になり、作戦どおり向こうから声をかけていただくようになりました。
夢の津軽海峡横断で世界新記録を
オープンウォーター競技の大会に2年くらい出場して実績をつくるなかで、津軽海リレーの企画に参加した水泳のコーチが神奈川県で活動していると知りました。早速その方がコーチをしているプールに出向き、「津軽海峡の泳ぎ方を教えてください」と思いを伝えに行きました。
しかし、私自身が何者であるか信用もなかったですし、世界各地から津軽海峡を泳ぎたいという問い合わせが殺到する方だったので、すぐに教えていただくことはできません。
そこから、月1で津軽海峡を泳ぎたい思いを長文のメールで送ったり、直筆の手紙を書いたりしていたら、1年後くらいにようやく向こうから連絡が来ました。「1枠だけ空いているので、やりますか?」という内容に即答して、津軽海峡に挑戦することが決まりました。
待ちに待った当日は、海の状態も良く絶好のチャレンジ日和。最初は、潮の流れも良く順調に泳いでいけましたが、途中、潮の流れが逆向きになり見える景色がまったく変わらず、精神的にとてもつらくて諦めたくなりました。
しかし自分を奮い立たせて泳ぎ続けることで、潮の流れが再び変わり、7時間30分でゴール。当時の世界記録が9時間ほどでしたので、それを大きく上回り世界記録まで達成することができました。
自分の挑戦が誰かの夢になることが喜び
津軽海峡横断後は、ウッチャンナンチャンの番組の企画「ドーバー海峡横断」を見ていたので、「津軽海峡を泳いだ次は、ドーバー海峡だな」と決めていました。
津軽海峡を泳いだ経験を生かして、1年間はトレーニングと海域の勉強をするパワーアップに時間を当てました。ドーバー海峡は、「海のエベレスト」と言われる世界一の海峡で、泳ぐための予約待ちで2年かかりました。
ドーバー海峡に向けた練習を自分のHPを作って情報を発信していたところ、あの情熱大陸からドキュメンタリーの取材をしていただくことになりました。
僕が挑戦をした当時、16人の日本人がドーバー海峡横断を成功させていて、17人目の挑戦は面白くないと思いました。調べて分かったのは、ドーバー海峡の往復は日本人では誰も成功してないということ。「挑戦するなら、誰もやったことのないとんでもないことをやってみよう」と思いドーバー海峡往復を決断しました。
そう決意して挑戦しましたが、当日途中で海が大荒れになり、ドーバー海峡の横断はすることはできましたが、審判の判断により、残念ながら往復は中止と宣告されてしまいました。
今後もオープンウォータースイミングの活動を続けていく予定ですが、私の泳ぐ姿を見て「こいつができるなら、自分もできるかも」という、水泳に限らず誰かのチャレンジの後押しになる存在になれたらうれしく思います。
実際、自分が水泳指導をしていた高校生の教え子たちが私の海峡を泳ぐ姿を見て、「津軽海峡を泳ぎたい」と申し出てきて挑戦したときはとてもうれしかったです。また、今後はまだ誰も泳いだことのない場所を見つけて、これからも新たな挑戦をしていきたいです。