絶望や困難な壁を諦めずに乗り越え続ける。個性とオリジナリティーを持った男の29年間の生き様。

峰島 新

峰島 新

2025.03.24
column_top_(Arata Mineshima).png

峰島新(みねしまあらた)さんは、システムエンジニアとして働く傍ら、映像制作やWeb制作ホームページ制作、さらには画像編集やライティングといった仕事を複数行っています。

本日2025年3月24日(月)は峰島新さんの29歳のお誕生日。
そこで、生まれてから現在に至るまでの取り組みについてお話を伺いました。

生い立ち

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_  峰島新さん.png

本日、2025年3月24日(月)をもって、私、峰島新は29歳となりました。

この日を無事に迎えられたのも、私を29年間支えてくれた親族との関わりや、
友人との出会いがあったからこそだと思っております。

幼少期、私は東京都江東区の住吉で育ちました。生まれたばかりの頃は特段喚くこともなく、人前で泣くこともなく、比較的大人しい感じの子どもであったそうです。

しかし保育園入園後は、とある行事の一環で「男子、女子それぞれで並んでください」と指示があった際に、私は性別の区別がつかず、女子の列に並んでしまったり、通常のお昼休みの時間でも他の人とはまったく違う行動を取ったりすることが多々あったそうです。それを心配した先生が、私の両親に対して、私の脳の発達に問題があるのではないかと相談をしたそうです。

そこで私は病院で検査を受け、「広汎性発達障がい(PDD)」という診断が下りました。主な特徴として、人の話の意味や意図を理解することが難しく、内容を理解できたとしても、空気が読めず、独自に解釈して行動してしまうことがあるとのこと。

その診断が下りた後、医師より精神障がい者手帳の発行を進められましたが、当時はそれが何なのかもよく理解していなかった私はそれをお断りし、「自分は一般の人と同じだ」と考えて、生活する日々を送っていました。

しかし、両親は私の度重なる変わった行動や言動に心配の念を抱き、障がいについての理解がある小学校に進学させた方が良いのではないかと考えました。そこで私は保育園を卒園した後、故郷である住吉を離れて世田谷区に引っ越し、その小学校に通うことになりました。

その学校は、幼・小・中・高・大・院と幼稚園から大学院まで一貫の学校であり、私は、小・中・高校まで通い続けました。しかし当時の私は人見知りで、人との関わりが苦手なタイプであったため、一度同じクラスや他のクラスの同級生から「変な奴」というレッテルを貼られてしまうと、なかなか周りに溶け込むことができずにいました。

その結果、当時はいじめのターゲットになる事も多く、教室にある私の椅子を盗まれたり、上履きを隠されたりしました。ひどいときは、当時カバンやランドセルに常時携帯していた防犯ブザーのひもを他の同級生に引っ張られて防犯アラームが鳴ったまま校内をウロウロした事もありました。

しかしながら私は後輩の面倒見が良いタイプでもあり、特に小学生の頃は夜18時近くまでずっとカラーボール野球をしながら、後輩と良好な関係を築いていたときもありました。そのため、小・中・高校時代は周りの同級生や先輩後輩から嫌われないように、基本は大人しくして、周りに合わせて過ごした12年間だったと感じます。

そんな引きこもりがちな自分を変えるためには、このまま一貫校に通い続けても自分自身の成長につなげる事はできないと私は考えました。そこで大学から別の私立の学校に通い、私はそこで学園祭実行委員の企画部に所属しました。

しかし、一貫校に通っていた際に何かしらの運動部や文化部での活動を積極的に取り組んでいた訳ではありませんでした。その結果、所属後も他者に迷惑をかけ、バタバタする日々もありましたが、無事に大学1、2年間と長く企画部の一員としてやり遂げる事ができました。

そして大学3年になった際に、新卒の就職活動としてインターンシップを繰り返し行いました。大学4年の春には大手の会社への採用内定が無事に取れ、通っていた大学を卒業しました。

しかし、卒業後に起きたある事故をきっかけに右腕を負傷し、近くの病院で診てもらったところ、「上腕骨骨幹骨折」と診断され、早急のオペ(手術)を必要としてしまいました、その結果希望していた大手の会社の内定が取り消しとなってしまい、すべては振り出しに戻ってしまいました。

怪我と向き合った約4ヶ月間

見出し2画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_  峰島新さん.jpg

オペを必要とされ、医師より大学病院の紹介状を書いていただき、すぐにその病院で

右腕の状態を診てもらいました。ところが、レントゲンで確認したときには骨が完全に折れていたため、早急なオペが必要と診断されました。しかし、CTで確認したところ、骨の芯がまだつながっていたため、自然治癒で完治する事が可能であると分かり、「全治3カ月」との診断が下りました。

骨折により右手は大きく腫れ上がり、腕も自分の力で上げる事はできない状態でした。さらに厄介なのが、就寝時に横になると、腕の角度と重心がずれてしまう関係で横になることすらできなかったことでした。そのため、肘掛け用の椅子に枕とかけ布団・敷布団を敷いて、椅子に座るような形で完治するまでの約4カ月間は寝ていました。

とはいえ骨折している間は左手や左腕を中心に文字を書いたり、お箸を持ったり、荷物を持ったりと長期間行っていくことで、左利きを習得する事ができました。そのため現在は両利きで、文字書きやお箸を持つ際は右手で、荷物を持つ際は基本的に左手を使用して生活しています。

そして4カ月後に右腕が完治して、職業訓練校等に通いながら再び就職活動を始め、

2019年に大手損害保険グループの会社に無事に入社しました。それから4年後に、キャリアアップで転職及び副業を開始し、現在では正社員でシステムエンジニアとして仕事をしながら、副業(フリーランス)として映像制作やWeb制作やホームページ制作、さらには画像編集やライティングやダンスインストラクターとお仕事の幅をどんどん広げました。

来年30歳になる自分自身や周囲に向けて今伝えたいこと

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_  峰島新さん.jpg

「諦めない」

私は幼少期から今にかけて、いじめを受けたり、障がいを診断されたり、けがをしたりと波乱万丈の生活をずっと続けてきたため、失うものも沢山ありました。しかし、だからこそ得たものが沢山あったことも事実です。

これから多くの楽しいこともあれば、つらいことも沢山あるかとは思います。特に発達障がいに関しては、生涯ずっと付き合っていかないと行けない病気です。これからの対人関係でもうまくいかないことも、もしかしたらあるかもしれません。

しかしそれでも、これまでの様に何があっても諦めずに自分の道を突き進んでいく事で、いつか必ず自分自身の事を理解してくれる人や環境がやってくるはずだと私は信じています。そのためには、やはり自分自身が「諦めない」ことが大事であると私は思っています。

改めて、本日で29歳のお誕生日を迎えましたが、これからも変わらずに自分の個性と感性を大事に、さらに向上させていきたいと思っています。陰ながら私を応援してくださる皆様、引き続きよろしくお願いします。