「地方を支える“破天荒な人”になる」東国原英夫を父に持つ男が宮崎県に移住したワケ
元宮崎県知事の東国原英夫さんと、女優のかとうかず子さんの息子である加藤守さん。立教大学からジョージタウン大学の大学院へ進学し、日本に帰国後は、野村総合研究所で公共政策の仕事をしていました。東国原英夫さんの政策担当として宮崎県に2022年に移住し、現在では地域活性化の活動に尽力されています。どのような経緯を辿って今に至ったのか、これまでの経緯を伺いました。
高校の文化祭がきっかけで経営に興味を持つ
僕は東京で生まれ育ち、小学校から大学まで池袋にある立教学院に通いました。大学では、経営学部国際経営学科で国際経営学を専攻。ビジネスや起業に関する分野に興味があり、日本だけではなく世界を視野に入れたキャリアを目指していました。
僕が経営学に興味を持ったきっかけは、高校時代に文化祭の実行委員長を務めたときです。僕が文化祭の実行委員長に就任した2007年は、父が宮崎県知事に就任した年と同じでした。父に対するある種の”対抗意識”があり、高校生ながら実行委員長の任を全うすることに心血を注いだ思い出があります。
僕は、「学生がより主体的、自発的に文化祭を創り上げられる環境をつくることが必要」と考えていました。さまざまな取り組みを行うなかで、組織を動かすためには「マネジメント」の考え方が非常に重要と実感し、大学で経営学を学ぼうと決意しました。
大学2年生の終わりごろに、東日本大震災が発生しました。この出来事をきっかけに、企業利益の最大化を目指すビジネスよりも、公益の最大化に関わる公共政策というフィールドに進みたいと思うようになりました。
当時、交換留学生として1年間アメリカに行く機会を得ていたのですが、現地での学びは非常に新鮮で、勉強方法がとてもユニークだと感じました。
日本では、教授が教壇の上で講義し、学生が着座で聴講するスタイルが多いと思いますが、アメリカの大学では多くの授業でグループワークやディスカッションが行われます。学生が自分で意見を考え、議論し合い、自発的に学びを深めるのが当たり前のスタイルで、それが僕にはとても魅力的に感じました。
大学卒業後、次は正規の学生としてアメリカに渡り、公共政策をテーマに学びを深めたいと考え、ジョージタウン大学の大学院へ進学しました。
アメリカのシンクタンクで学んだこと
大学院を卒業した後は、そのままアメリカで働いていました。働いたというよりも、一時的な就労が許された学位取得者という立ち位置だったので、ワシントンDCのシンクタンクや企業で、インターンシップやフェローシップとして勤務していましたね。
僕が勤務させていただいたシンクタンクの中に、外交・安全保障を専門とするシンクタンク『CSIS(Center for Strategic and International Studies)』がありましたが、とても刺激的なアメリカ生活の思い出として、記憶に刻まれています。
CSISは、日本とも所縁が深く、日本をはじめとするアジアの政治・経済、安全保障について分析を行い、それをもとに「アメリカはどうするべきなのか」ということを政治家や市民に提言する役割を担う組織になります。
当時日本では集団的自衛権の行使や憲法解釈の見直しなどの動きがありました。これらが今後どのようにアジア情勢に影響するのかを調べ、その結果を英語でまとめて所長に提出する業務を担当していました。一見すると華やかな仕事と思われがちですが、実際には泥臭い仕事もたくさん経験しました。
例えば、僕が所属していたジャパンチェア(日本部)で最初に与えられた任務は、ファイルに乱雑に収められた大量の名刺を、アルファベット順に整理するというものでした(笑)
およそ数千枚にのぼる名刺を、アメリカ政府関係、日本政府関係、経済関係などのカテゴリーに分けて、それらを更にABCD順に並べ替えるよう指示されました。
途方もない量の名刺を目の前に、一瞬目まいがしましたが、それでも名刺の整理を通じて、「CSISに出入りするのはこのような人なのだ」ということや、ワシントンにおける、人の相関図が次第に見えてくるようになりました。
一見シンクタンクの仕事とは思えないことでも、社会や政治を知るうえで欠かすことの出来ない要素を学ぶことが出来ましたし、重要なことや物事の本質は「地味かもしれないが、小さい部分に存在する」と捉えるようになりました。ポジティブ過ぎますけど(笑)
父親を支えるために会社を退職して宮崎県に移住
2016年に日本に帰国し、日本のシンクタンクである野村総合研究所に就職しました。野村総合研究所では、学生時代の経験を活かして、中央省庁や地方自治体の調査や政策提案の仕事をしていました。実は2022年4月にシンガポールへ赴任する予定でしたが、外資規制の関係で赴任が延期となりました。
そんな時、父が再び宮崎県知事選に立候補することを知人から聞きました。子供の時以来、たまに連絡を取るか取らないかという程、疎遠になっていた父ですが、立候補の動機を聞くと、地域社会への課題意識と”ピンチをチャンスに”、ワクワクする地域をつくっていきたいという話を聞いて共感しました。
これを機に、「これまでの公共政策の経験を活かし、宮崎県で父をサポートするのも良いかもしれない」と考え、会社に辞表を提出しました。実は最初、父からは「絶対にやめろ」と強く反対されたんです。ですが、すでに辞表を出した後でした(笑)
「もう戻れない」と言ったところ、「仕方ないから来てもいい」と渋々宮崎入りの承諾を得ました。僕も父も、自分の進路は事後報告で共有するタイプです。また、とにかく決めたことは突っ走る性質なので、この部分は少し似ているかもしれません。
結果的に、2022年末の宮崎県知事選挙で父は僅差で敗れてしまいました。多くの反省点があったと思います。ただ、せっかく一生懸命考えたマニフェスト。思えば、民間の立場でも出来る取組みが多くあるのではないかとふと考えました。
知事選はあくまでも手段に過ぎません。もともと「宮崎県に移住する」と決めた時から、「地域を盛り上げ、新しいムーブメントを生み出したい」という気持ちで動いていますので、宮崎県に残ることを決めました。
現在は、ベンチャーのような立ち位置で、地域の発展に向けた取組みが出来ないかと模索しています。たとえば、農産品のPR活動や販路拡大などの取組みを進めています。
地方を見て感じたのは、僕が想像していた以上に深刻な人口減少です。これらの課題は、地域に入ってみないと実感できません。いわば、コンサルティングのプロジェクトに参加しているような感覚で、宮崎県の地域課題を自ら定義し、解決に向けて”仮説検証”の作業を行っています。きっと、宮崎だけではありません。日本全国を見ても、地域における人口減少、労働力不足は危機的状況に陥っていると思います。
遥か昔は、行政と民間企業の縄張り争いのようなものがあったと思いますが、現在はおのおのの領域が徐々に小さくなっており、第一次産業、第二次産業、第三次産業、行政、どこを見ても担い手不足が顕著になっていると感じます。この状況が続けば、地域では取り返しの付かない状態になってしまうかもしれません。
「民間企業のサポートがないために製品が生産できなくなる」「行政サービスが縮小されている」など、現実に多くの問題が生じていると思います。これらの問題を解決する役割を担っているのは、NPOや政治家、あるいは“破天荒な人”ではないかと、ふと思います。
行政と民間企業のギャップを埋める役割を担う仲間を増やし、また官民連携の架け橋となるようなリーダー人材を育てていくことが重要と考えています。僕たちは地域の課題に挑戦していくつもりですし、その中で何か出来ることはないか、日々考えるようにしています。
今後も宮崎県で活動の場を広げながら、宮崎県がモデルケースとなるような事例をたくさんつくれれば幸いです。