阿部慎之助のモノマネで人生が激変!30歳から芸人にチャレンジした男の軌跡
あれしんのすけさんは高校卒業後、スポーツインストラクターの正社員として勤務。30歳に芸人を目指すために上京し、元・読売巨人軍の阿部慎之助選手(現・ヘッドコーチ)のモノマネ芸人として活躍しています。数々のバラエティ番組で活躍するあれしんのすけさんに、芸人を目指すきっかけ、仕事をする上で大切にしていること、今後の展望をお伺いしました。
30歳で一歩を踏み出して芸人へ
私が芸人になったのは30歳になる年でした。それまでは北海道で、スポーツインストラクターの正社員として働いていました。私の世代はピンポイントでありますが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』にすごいハマっていて、中学2年生の頃から芸人になることに憧れを抱いていました。30歳になる時、「ここで一歩踏み出せなかったら、俺は一生スポーツインストラクターなんだろうな」と思って、芸人になることを決意しました。
当時は結婚をしていましたが、別れることになって身軽になることが、ある意味で背中を押すきっかけにもなりました。30歳から芸人を目指すことに不安は大きかったですが、守るものもないと思いながら、夢に描いていた芸人を目指すために上京しました。最初はワタナベエンターテインメントに所属して、養成所に通いました。ただ、最初はモノマネ芸ではありませんでした。
まずは相方を見つけて事務所所属になったのですが、養成所では1年間テレビに出演できなかったら除名されるというルールがありました。活動するだけでは生き残れないシビアな世界で、コンビでの活動以外に、阿部慎之助さんのモノマネを始めたのは、周りからの声がきっかけでした。
阿部慎之助のモノマネが人生の転機に
「プロ野球選手の阿部慎之助さんに似ている!」と周りから良く言われていて、モノマネをやってみることを強く勧められました。ただ、それまで私自身は野球経験もなければ野球を見たこともありませんでした。まずは阿部慎之助さんのことを知り、野球を勉強するところからのスタート。
ありがたいことに、フジテレビの『とんねるずのみなさんのおかげでした(細かすぎて伝わらないモノマネ選手権)』に出演させていただいたり、紅白歌合戦では、ナインティナインの岡村さんとお会いすることもできました。
モノマネとコンビ活動での漫才を並行してきましたが、相方は事務所から除名を受けることになりました。自分だけ残ることを選択し、8年間ピンのモノマネ芸人として活動しています。
私はあまりメディア露出しているわけではないので、「あの番組やCMを見たから、あれしんのすけを起用したい」となることはほとんどありません。私が選ばれるのは阿部慎之助さんがその瞬間、何をしているかに大きく依存しています。
年間2,000本安打を達成した時や、400本の本塁打を打つ時がピークとなるくらい仕事を多くいただきました。阿部慎之助さんが現役を引退する時、そして巨人が優勝や日本一となる時に仕事にも出演依頼が入ってきます。次は侍ジャパンの監督になるタイミングではないかと思っています。
「フッ軽」がモットー
ありがたいことに、フジテレビさんも日テレさんも私のことを知ってくれているので、阿部慎之助さんのニュースがある時には、最初に名前をあげてもらうことが多いです。テレビに出させてもらう時は、モノマネがメインです。阿部慎之助さんのモノマネなので、肩が強いだろうと思われてドッジボールの番組に呼ばれたこともあります。
ただ、モノマネで呼ばれるときにはトーク力は求められません。自分が話せると思われることは少ないですが、最近になって知り合いの紹介から元木大介さんのトークショーでMCをやらせてもらいました。
モノマネ以外では、普段から足を使ってのコミュニケーションを意識しています。「フッ軽」がモットーで、呼ばれたら何時でも行くくらい飲みニケーションを大切にしています。呼ばれているうちが花だと思っているので、誘われたら飲みに行くことは徹底していますね。
今後は、トークでMCのような仕事が入ってくるようにしたいと考えています。また、イラストを描いているので、モノマネ以外でも自分が活躍できる場をつくって、本名の『告幸祐(つげこうすけ)』としての活動を広げ、メディアへの露出を増やしていきたいと思います。