多様性を認め合う世界を作る①
吉川プリアンカさんは、ミス・ワールド日本代表で、現在は株式会社イーストヘンプの代表取締役社長です。インドと日本のミックスということで学生時代はつらい時期を過ごしますが、そこからモデルになり、ミス・ワールド日本代表になりました。本コラムでは2回に渡り、ミックスとして生きてきて感じたこと・そこから「吉川プリアンカ」として生きることについて語ります。
自分のアイデンティティを否定していた学生時代
私は、父がインド人で母は日本人のミックスです。東京で生まれて、幼少期をアメリカとインドで過ごし、11歳のときに日本に帰国しました。帰国後はインターナショナルスクールではなく、普通の公立の学校に通いました。そのとき、私は学校で唯一のミックスだったんです。
吉川プリアンカって名前ですが、本名はゴーシュというカタカナの名字のため、クラスで目立つんです。外国人だとすぐわかるし、日本語も話せていない、日本語の読み書きもままならない。それでいじめられました。ミックスだから必ずしもいじめられるものではないですが、クラス全員が敵みたいになったんです。そのときは、自分が何か不十分なのか、何が足りないのかと考えていました。
学校行事のときに来るのはインド人の父親で、父が学校に来ることが当時はすごく嫌でした。そう思ったことが1番恥ずかしくてみっともないのですが、完全にアイデンティティを否定していました。日本人ならこんな思いはしなかったのかもしれない、だから日本人に憧れを抱いたんですね。
自分は不十分で、何か足りなくて、自分がおかしいと思っていました。だけど、いじめられた理由は、自分で変えられない生い立ちや見た目です。当時は居心地の悪い学生時代を送っていて、学生時代には楽しい記憶がありません。
だから、英語を話したり、学校外のコミュニティに自分らしさや居心地のいい場所を求めたりしていたので、アメリカで育ったのは小学生まででしたが、今も英語がネイティブに話せます。
いじめられっ子からモデルの世界へ
いじめがあったので、学校で人気になれないから日本で有名になろうと思って、高校1年生でモデル事務所に所属して芸能界に入りました。そして、高校も通信制に編入しました。
世界に発信したいというブランドのオーディションには受かりましたが、国内の仕事は落ちることが多かったです。そのときも「また私は不十分なんだ、自分に才能がないのかもしれない」と、ずっと思っていました。
でも気づいたのは、モデルというのは商品なので、ブランドイメージでマーケットに1番刺さるモデルを採用するんですよね。モデルが全員魅力的でキレイですばらしくても、「ブランドのイメージに合うか」「どれだけ購買につながるか」などの視点から採用が決まります。
今では過去に比べると見るようになってきましたが、白人の方の起用数に比べると黒人やブラウンなどダークトーンの方の起用数はまだまだ少ないと感じています。
そんな中、今立っているステージは自分が想像していたところとは違うと感じていました。それは努力不足かもしれないですし、タイミングじゃなかったかもしれませんが、そこで一旦事務所を辞めることを決めました。
そのあとはバイトをしながら外国に遊びに行くという生活。遊んでいるなかでさまざまな人に出会い、色んなことを知っていくなかで、私は「目標・目的がある人生を歩みたい」と気づいたんです。
毎日旅行に行っていてもきっと満たされないと思いました。旅行のなかでも何か目的があったり、自分の人生を通して何か提供したりすることで、意味のある時間に変わる気がするんです。だからもう1度、25歳くらいまでは芸能の仕事を真剣にやってみようと決めました。
ミス・ワールド日本代表になって気づいたこと
東京コレクションでミス・ワールドの事務局の人にスカウトされて、22歳のときに日本代表になりました。日本代表初のミックスだったので、たくさんインタビューをしていただいて、注目を浴びるようになりました。
そこからずっと吉川プリアンカという芸名で活動しています。英語と日本語が話せるのもあって、BBCやCNNやTimesなどのインタビューを受けました。
私はずっとモデルだけじゃなくて発信できる人になりたかったんです。同じミックスの人たちや、その人たちの声になって代弁したり、自分の経験を話して誰かにいい影響を与えたりできるのかもしれないと気づき、「多様性」というキーワードが自分の軸に変わりました。
芸能をやってその後に起業するという目標をマイルストーンとして持っていました。芸能の仕事はさまざまな人に出会うので、何で起業するかは芸能の先にあるはずだと思っていたんです。何のアイデアもありませんでしたが、日本代表任期が終わる23歳後半で1つ目の会社を設立しました。