今野 裕之
医療法人社団TLC医療会ブレインケアクリニック名誉院長
精神科医

『ブレインケアクリニック』『一般社団法人日本ブレインケア認知症予防研究所』を運営する精神科医の今野裕之(こんの ひろゆき)さんの連載コラム第3弾です。2026年6月、脳科学ラボ株式会社を設立されました。 脳の健康をより良い状態に維持することによって、健康長寿やいわゆるアンチエイジングに役立つ製品開発の事業されています。 「なぜ精神科医がそんなことを始めたのか」と聞かれることが多いので、その経緯を綴っていただきました。
医師になって、日本大学医学部附属板橋病院で研修を受けました。 そのあとは精神科病院の勤務医として、うつ病、統合失調症、認知症などの患者さんを診てきました。
なかでも引っかかり続けたのが認知症です。
当時、認知症の患者さんにできることは本当に少なかった。 薬を出して、進行を少しでも遅らせる。 生活が難しくなってきたら、福祉サービスにつなぐ。 興奮や攻撃性といったBPSDが強くなり、ご家族では支えきれなくなれば入院してもらう。 場合によっては保護室を使い、薬で鎮静する。
それで患者さんは落ち着きます。 ただ、静かになっただけで、病気が良くなったわけではありません。 診療のたびに、そのことが頭から離れませんでした。
医師なのに、病気そのものにはほとんど手が出せない。 この無力感が、その後の進路を決めたと思っています。
今でもよく思い出す方が二人います。
一人は高齢の男性で、弁護士をされていました。 最初はうつ病として治療していた方です。 とても知的な方で、話題も豊富であり、外来で話をするのが私の楽しみでもありました。
うつ症状が良くなったあと、今度は物忘れが少しずつ目立ってきました。 認知症が進むにつれて、あれほど豊かだった会話が乏しくなっていきました。 手は尽くしましたが、やがて身の回りのこともできなくなり、最後は亡くなられました。この時の徐々に元の人格が失われていく様子は忘れられません。
もう一人は、専業主婦をしていた女性です。徐々に物忘れをはじめとした症状が出現し、些細なことで混乱するようになってうつ症状が目立つようになり、「死にたい」といって徘徊を繰り返すようになってしまいました。「認知症になってしまったら本人は意外と幸せ」という人もいますが、自分の記憶が定かでなくなっているということは、病気の初期の段階では本人も自覚しています。これはご本人にとっては本当に辛い体験なのです。
知性も、記憶も、人格も、日々の暮らしも、脳が支えています。 それが失われていくのを、私は現場で何度も見てきました。
治療法がないなら自分で研究するしかない。 そう考えるようになったのは、この頃です。
2011年に順天堂大学医学部大学院に入り、加齢制御医学講座で研究を始めました。 テーマは、老化をどう制御するかです。 認知症の予防につながる臨床研究に取り組みました。
ここで出会ったのが中鎖脂肪酸(MCT)です。
当時、米国の医師が認知症になった夫にココナッツオイルなどを摂らせた結果、認知機能が改善したことを本に書いて話題になっていました。 私たちの研究室でも、認知症の方に中鎖脂肪酸を摂ってもらい、その影響を調べました。
すると、短時間のうちに認知機能検査の成績が変わる方が現れたのです。
これだけで「認知症が治る」と言えるわけではありません。 それでも、私には大きな衝撃でした。 臨床で見てきた認知症は、一度始まったら回復することはなく、少しずつ悪くなっていくものだったからです。
条件を変えれば、脳の機能は変わるのかもしれない。 認知症の見方が、ここから変わり始めました。
もう一つ大きかったのが、米国の研究者デール・ブレデセンが提唱したReCODE Protocol(リコード法)です。
認知症はさまざまな要因が重なって発症する病気であるため、 一人ひとりのリスク要因を調べ、食事、運動、睡眠、ストレス管理、認知トレーニング、栄養と、いくつもの方向から介入していくという方法です。
これは研究をしながら感じ始めていたこととほぼ同じであり、これが自分のやるべき治療であり、世の中に広める責任があると確信しました。
そこで2016年にブレインケアクリニックを開きました。 薬を出すだけでなく、脳機能が落ちている背景を調べ、原因やリスクにできる限り介入する。 それを実際の医療として提供したいと考えたからです。
やってみると、簡単ではありませんでした。 検査項目は多く、データは膨大で、介入の内容も一人ひとり変わります。 手間がかかります。 自由診療なので、患者さんの費用負担も大きくなります。
良いものをつくれば広まる、というわけではありませんでした。 高度な医療は提供できても、必要としている人みんなに届けることはできない。 これが次の壁でした。
それでも試行錯誤を続けるうちに、認知機能や生活機能に変化がみられる患者さんも出てきました。 SNS、学会、研究会、セミナーでの発信も、地道に続けてきました。
クリニックを続けていて、気づいたことがあります。
私が追いかけていたのは認知症でした。 ところがうつ病、発達障害、統合失調症、ブレインフォグなど、脳や精神に関するさまざまな問題を抱えた方たちも増えてきました。
診ていくと、病名は違っても、認知機能という観点で見れば共通して考えられる部分がありました。 食事、運動、睡眠、ストレスといった認知症予防の方法も、認知症に限った話ではありません。
関心は、認知症をどうするかから、脳そのものをどう健康に保つかへ移っていきました。
さらに言えば、脳だけを身体から切り離して若く保つことはできません。 脳の老化を考えると、どうしても全身の老化を考えることになります。 こうしてテーマは、認知症予防から脳と身体のアンチエイジングへ広がっていきました。
若い頃はどちらかというと年上に見られることが多かったのですが、30歳を過ぎた頃から、実年齢より若く見えると言われることが増えました。もちろんお世辞が入っていることは重々承知していますが、 40代、ときには30代と言われることもあります。
私が若く見えるという個人的な経験で、医学的な効果を証明できるわけではありません。 ただ、私にとっては考えるきっかけになりました。
脳の老化を防ぐために、食事、運動、睡眠などの生活習慣を長年研究し、自分でも実践してきました。 脳を若く保とうとして続けてきたことが、身体や見た目の老化を防ぐことにもつながるという実例になろうと決めました。
認知症を防ぐために始めた研究が、脳の健康、全身の健康、健康寿命、見た目を含めたアンチエイジングへとつながっていきました。
しかしどれだけ良い方法があっても、医療機関の中で提供しているかぎり、届けられる人数には限りがあります。 精密な検査と個別の介入には、時間もお金もかかります。
私がやりたいのは、一部の人に高額な医療を提供することではありません。 もっと多くの人に、もっと早い段階から、もっと手軽に、手の届く価格で 脳と身体の老化を防ぐための知識と方法を届けたい。
これが、次のステップに進もうと決めた理由です。

そこで2026年6月に、脳科学ラボ株式会社を立ち上げました。
精神科医としての診療、大学院での老化研究、クリニックの経営。 その中でたまってきた知識と経験を、実際のプロダクトとして医療機関の外に届けるための会社です。
その核になるのはアンチエイジングをテーマにしたオンラインコミュニティです。私が中心になって、脳科学と医学の知見をもとに、脳と身体の老化をどう防ぐかを継続的に伝えていきます。 知識を渡して終わりにはしたくありません。 集まった人たちと一緒に学び、実践できる場にしたいと考えています。
その先に、抗老化に関する商品やサービスの開発があります。
商品開発の第一弾として進めているのが、中鎖脂肪酸の代謝物であるケトン体を活用したドリンクです。これまでの知見を結集し、より効果的に働くように設計しました。
大学院時代に中鎖脂肪酸と出会い、脳のエネルギー代謝に関心を持ちました。 いまのケトン体への関心は、そこから続いています。 精神科病院で感じた無力感から始まった探究が、15年以上かかって、ようやく一つの商品になろうとしています。
出発点は、目の前の患者さんに何もしてあげられないという無力感でした。 華々しい話ではありません。
だから研究を始めました。 研究だけでは患者さんに届かないと思い、クリニックをつくりました。 クリニックをつくったら、今度は高額になって届く人が限られるという現実にぶつかりました。 それで今は、医療機関という枠の外に出ようとしています。
精神科病院、大学院、クリニック、オンラインコミュニティ、ケトン体ドリンク。 並べるとばらばらに見えるかもしれません。 私の中では一本の線でつながっています。
年齢を重ねても、できるだけ長く、自分らしく、頭も身体も健やかに生きられる社会をつくりたいということです。
認知症の患者さんを前に何もできなかった頃から、ずっと同じ課題に向かって進んできました。そしてこれからも挑戦を続けるつもりです。
これからも応援よろしくお願いします。