後の先が教えてくれた、介助の“ちょうどいい距離感” 〜香港での車いすツアーで実感した、武道の哲学〜

オーガニック製品の販売やコンサルタント、飲食事業を展開されている野寄聖統(のよりまさのり)さんの第3弾コラムです。今回は、野寄聖統さんが考える武道の哲学について、綴っていただきました。
「後の先」とは何か

武道には「先(せん)」という概念が三つある。
先の先(せんのせん)……相手より先に制する。
先(せん)……相手が動く瞬間に制する。
後の先(ごのせん)……相手の動きを受けて、最適なタイミングで応じる。
この 後の先 は、一見「後から動いている」ようで、
実際には 相手の“気配”を先に受け取って動く 技法だ。
呼吸の変化、重心のわずかな揺れ、視線の向き。
そうした小さな“起こり”を見て、必要なぶんだけ寄り添う。
奪わず、押しつけず、
相手の意思を尊重しながら支える。
これが、日本武道の根幹にある「後の先」。
居合抜刀道は、特に“気配の武道”

居合は「斬る技」よりも、
相手がこれから何をしようとしているかを読む力 を何より重視する。
「刀を抜く前に勝負が決まる」と言われるほど、
勝敗は気配・呼吸・間(ま)の読み合いで決まる。
肩の上がり方、呼吸の吸い込み、視線の端の揺れ。
0.1秒の変化から“次の行動”を読み取る。
これは武術であると同時に、
人の心に寄り添うための洞察力 を育てる稽古でもある。
■香港で、後の先の感覚がそのまま介助に生きた

今回の海外は、
お世話になっている英会話教室のエリ先生親子と、車いすのママさん親子のアシストが大きな目的の旅でした。
香港ディズニーランドや街中を一緒に移動する中で、
自然と武道で培ってきた感覚が働いていた。
ママさんが
「段差に備えて体を固めた瞬間」、
「不安を感じた時の呼吸の揺れ」、
「向かいたい方向を見る視線の動き」——
そのすべてが“気配”として伝わってくる。
まさに居合で言う “起こりを見る” のと同じだった。
エスカレーターは、最も“後の先”が必要だった場所

特に大きかったのが、香港の駅での エスカレーター乗降の場面。
ママさんは病気の影響で足をあげるのが困難でエスカレーターに乗るのが難しく、
一歩を出すタイミングが非常に繊細になる。
車いすを止めて、
ママさんが自分の足で乗り降りする瞬間、
ほんの少しの重心の揺れや、
どちらの手すりに寄りたいのかという動きが、
一瞬で“気配”として伝わる。
後ろからでは見えない、
同じ視点だからこそ分かる気配がある。
だから、自分は
横(サイド)に立って支える形にした。
横に立つことで、
- どちらの足から踏み出そうとしているのか
- 体が前へ行きたがっているのか、まだ迷っているのか
- 乗った瞬間にバランスを崩しそうかどうか
がすぐに分かる。
「今は触らず見守る」
「ここだけ肘を軽く支える」
「次のステップでぐらつくかも」
こういう判断が、すべて“気配”のおかげでできた。
これが、まさに介助版の 後の先の間合い だった。
気配の中には、“親としての目線” も含まれていた

今回強く感じたのは、
ママさんの気配には 身体の動きだけでなく、娘さんを見る視線の向き も含まれていたこと。
娘さんが次にどこへ行きたいのか、
どの方向へ駆け出しそうなのかに合わせてママさんの視線が動く。
その視線の変化が「向きたい方向」の“起こり”になり、
車いすの向きやポジションを自然に変える判断につながった。
これも居合で培った、
「相手の視線の先=次の動き」
という読み方がそのまま活きていた。
結論:後の先とは、“優しさのタイミング”

後の先をひと言で言えば、
「気配を受け取り、相手の尊厳を守りながら動く技法」。
武道で学んできたことが、
香港での介助の現場でそのまま形になった。
力で押さえつけない。
先回りしすぎて“奪わない”。
危険な場面だけスッと支える。
気配に合わせて距離とタイミングを決める。
これこそ、後の先が持つ“優しさの型”。
刀を握る場面ではなく、
人を支える場面でこそ輝いた技だった。
完璧ではありませんでしたが、今回の任務は果たせたと思います。
そしてママさんが言っていた、
「障がいがあっても、車いすでも、それを理由にして諦めず、家族との旅行や、楽しみたいことにチャレンジしてほしい」
という言葉が胸に響きました。
日本に帰り着く頃には、
「次はもっと遠くへチャレンジしたい!」
と意欲満々で、むしろ自分のほうが勇気をもらった旅になりました。
“後の先”とは、相手の動きをただ待つことではなく、
相手の意志が立ち上がる“起こり”を感じ取り、
そっと背中を押せる間合いに立つこと。
今回の旅で、ママさんの中に
「もっと遠くへ行ける」という火が灯ったことこそ、
最大の学びであり、何よりの報いでした。
そして今回、サポートが必要な状態は決して一括りではなく、
そこには無数の個別性と、変化の連続があることをあらためて痛感しました。
自分の母は、脳や神経のダメージがあり、回復することはありません。
そしてできないことは、これから先、ゆっくりと増えていきます。
だからこそ、
「行ってみたい」「やってみたい」「体験してみたい」「試してみたい」
この感情が芽生えた“今”は、
二度と同じ形で訪れない、かけがえのない瞬間なのです。
時間が経つほど同じ挑戦は難しくなる。
あの時できたことが、次の季節にはできなくなるかもしれない。
健常者と比べると、“想い出を創る時間”には
どうしても“期限”を感じてしまう。
だからこそ今回の数日は、当たり前ではありませんでした。
ママさんと娘さんが挑戦した時間に、ご一緒できたことは、
自分にとっても深い光栄でした。
今日という日が、未来のどこかで
そっと背中を押せる想い出でありますように。
そして、障がいの有無に関わらず、
人生の中で挑んだ体験の数々が
いつか「間に合ってよかった」と
優しく思える日になりますように。
心より、ありがとうございました。
武道において、技とは相手を倒すためでなく、
いつか誰かを支えられるように磨く “生き方(型)” でもある。
(文中の写真はママさんから「より多くの人に知ってほしい」と許可をいただいています)
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