
歴史が苦手だった私が、未来を創る「体力」に目覚めるまで
皇居での勤労奉仕をきっかけに、歴史への苦手意識を克服した奥山貴成さん。戦争の悲劇や多面性から目を背けずに向き合う中で、「体力」こそが未来を力強く歩むための鍵だと気づきます。歴史から学び、日々の生活を前向きに生きるための、心と体の繋がりについて奥山さんの考察が語られます。
歴史との出会い直し:皇居勤労奉仕で芽生えた探究心
皆さんは、学生の頃「歴史の授業」は得意でしたか? 私はとても苦手でした。
「過去の歴史を知って何になるの?」 「年号や出来事を丸暗記することが何かの役に立つの?」 そんな疑問ばかりが浮かび、 授業に身が入らず、成績も良くありませんでしたし、 数字や単語の羅列に意味や価値を見出せませんでした。
そのため、「歴史は難しい」「自分には縁がないもの」と割り切って生きてきました。
そのまま社会人になってトレーナーとして活動する中で、日本に古くから伝わる古武術に触れる機会がありました。 私自身は武術自体に強い興味があったわけではなく、あくまで体の仕組みに興味があって学び続けていたのですが、 合理的な身体の使い方を学ぶうちに、「達人」と呼ばれる人たちとの根本的な違いや、目には見えない“力”の存在を意識するようになったのです。
そんなあるとき友人の勧めで「皇居の勤労奉仕活動」に参加しました。
御所周辺の清掃活動に携わる中で、日本の中心ともいえる皇居が、神様をとても大切にしている場所であることを知り、初めて日本の歴史への関心が芽生えました。
それまで「神様は宗教だけの話」と思っていましたので、日本の中枢や国家公務員の方々も神様を大切にしている姿には本当に驚きました。
「今、自分が生きている日本は、どんな国なのだろう?」 と歴史に興味をもったのはこれが初めてでした。
悲しみや怒りの先に見た、歴史の多面性と向き合うということ
日本の歴史を学ぶ上でどうしても戦争の話は避けて通れません。 しかし歴史を知ることで、自分がこうして生きていることの有り難さや、戦争をきっかけに変わったたくさんのことを深く考えるようになりました。
私の知識や理解力では正しいかどうか判断の付かないことも多いのですが、自分なりに日本の歴史や戦争から感じたことを、ここに書き起こしていきたいと思います。
戦争にまつわる過去を知れば知るほど、私たちの心には悲しみや憤り、やるせなさ、喪失感、理不尽さ……といった重い感情が湧いてきます。
しかし、その感情にただ飲まれるだけではいけないとも思います。
歴史や戦争に「ひとつの真実」があるわけではありません。
これも、私が歴史を知ろうとする中で気づいたことのひとつです。
“答えにたどり着かないもどかしさ”を感じることもありますが、この「はっきりと答えが見えない感覚」こそ、歴史と向き合うときに大切なことなのかもしれません。
歴史を語る上でつい安易に、 「悪いのは○○国だ」 「日本は△△に傷つけられた」 と決めつけてしまいがちです。
でも実際には、戦争や出来事の渦中には、兵士や指揮官、政治家、民間人、子どもたちなど、たくさんの立場や想いが存在したはずです。 今となっては、すべての人の声を聞くことはできません。
なので歴史について学ぶときには、 「何が正義で何が悪か」というモノサシだけで歴史を見ることは何かを過剰に美化したり正当化することになったり、反対にネガティブな感情に苛まれることに繋がってしまいます。
「いつまでも悲しんでいる」 「ずっと怒っている」だけでは、 歴史の複雑さや本質に蓋をしてしまうだけです。
本当の学びは、その感情の先に「自分はどうしていきたいのか」「何を次に繋げて活かしていくのか」と問い続けることだと思います。
というのも、 私もさまざまな史料やドキュメンタリーで歴史に触れてきましたが、「歴史の答えは闇の中にあるのだ」と感じたからです。
どれだけ調べても、語る人の立場や体験によって“事実”の見え方は違ってきます。
たとえば多くの人が経験した出来事に例えるなら「コロナ禍」もそうでした。
コロナ禍は多くの人が苦しんだ出来事でしたが、ある人にとっては人生が好転するきっかけにもなりました。 同じ出来事でも、立場が違えば受け止め方も違います。
戦争についても同じように、 「日本は侵略の歴史だった」と言う人もいれば、「正義のために戦いだった」と語る人もいます。 どちらの意見にも、それぞれの価値観や背景があります。
現代に残っている証言や記録も、その人の目に映った一部の切り取られた世界です。 どれもが真実を表す一側面ですが、それ自体が「絶対的な答え」ではありません。
だからこそ、現代を生きる私たち学ぶ側は、いろいろな立場や視点があることを理解した上で様々な意見に耳を傾ける姿勢が大切だと感じるのです。
過去から学び、未来を力強く歩むために
歴史や戦争を知って、事実として亡くなった理不尽な形で亡くなった方も多く、悲しみや怒りに心がいっぱいになる時もあると思います。
私は、悲しみや怒りという感情が湧いてきたら、「立ち向かうこと」が大切だと考えています。
ここでいう“立ち向かう”とは、誰かを責めたり、過去を否定したり日本の正当性を主張することではありません。
現代を生きている自分の“生き方”に目を向け、 前に進むためのエネルギー”へと変えていくことです。
怒りや恨みを手放せないでいると、やがてその感情が行き場をなくし、自分自身が苦しくなってしまいます。
私が大切だと思うのは、 「過去から何を学ぶか」そして「これからどう生きるか」という視点です。
湧いてきた感情を押し殺す必要はありませんが、「私はどう生きたいか」「この歴史からどんな未来をつくりたいか」と問い続け、次に続く一歩を踏み出す姿勢が大事だと感じます。
次の一歩を踏み出すための「体力」の重要性
では、“次への一歩”とは何でしょうか。 私がたどりついたのは、自分自身の土台である身体、特に「体力」に目を向けることだと考えています。
たとえば江戸時代の飛脚は、一日に何十キロも走り抜けたといいます。 これは特別な伝説ではなく、当時の日本人が本来もっていた身体能力であり強靭な精神性を表しています。
しかし現代では、長時間座り続け、便利な交通機関を使い、身体のポテンシャルを活用する機会が減りました。
必然的に使われない能力は衰え失われていきます。 「敗戦を期に、二度と戦争を起こさないように日本は教育から変えられ弱体化させられた」とも言われていますが、 如実に弱っているのはフィジカルです。 そしてフィジカルの弱さは気力や精神力にも影響します。
歩き方・姿勢・筋肉の使い方や鍛え方などどれもが西洋化し私たちのなかに眠っている本来の力が発揮されないままになっているのです。
教育や生活様式も大きく変わり、日本人としての“体と心の軸”が見えにくくなっているように感じます。
私はトレーナーとして身体の機能を探る中で、「体力」というシンプルで根源的なテーマにたどり着きました。
昔の日本人は、日々の暮らしの中で長距離を歩くことそのものが、心と身体を鍛える一番のトレーニングになっていました。
もし 「すぐ疲れて座りたくなっちゃう」 「長く動き続けられない」 「疲れるから体を動かしたくない」 「もう年齢かな」 「年齢だからしようがないよね」 「無理しないようにセーブしよう」 と感じることがあれば年齢のせいにせず体力低下を見直していきましょう。
歴史を知って、ただ「悲しみに溺れる」「誰かや何かを恨み続ける」だけで終わってしまうのは、もったいないと感じます。 それすらも体力不足の表れかもしれません。
歴史や戦争のことに限らず生きていく上で「立ち向かう」ことはとても大切だと思います。
他人と対立するためではなく、自分自身の身体や命に感謝しながら、しっかりと未来へ進む。
それができるのも体力があるからこそです。
体力はとても大切です。
たとえどんなに筋力や柔軟性がどれだけあったとしても、それを発揮するためには体力という土台があってこそです。
スポーツだけではなく、仕事、家事、育児、パートナーシップ―― 人生を前向きに進めるうえで、体力はとても大事な要素だと考えられます。
たとえば、仕事に打ち込んだり、家族や仲間のために動いたり、 子どもと全力で遊んだり、「やってみよう」と新しいことに挑戦したりできるのも体力があるからこそです。
逆に体力が落ちてしまうと、気持ちも後ろ向きになってしまいがちです。 「誰も助けてくれない」「どうして自分ばかり」とつい他人のせいにしたくなるときも、 実は体力が足りないサインだったりします。
本当は誰かに「助けて」と言えれば良いですが、それが難しい場合は、自分で失った体力を取り戻すしかありません。
もちろん、家事代行やサポートサービスを利用する方法もありますが、 やはり一番は自分の体力やエネルギーをしっかり取り戻してあげることだと思います。
一般的にはトレーニングやエクササイズで「外から体力をつけよう」としても、その体力はすぐに落ちてしまうことも多いです。
本当に大切なのは、もともと自分に備わっていた体力やエネルギーを呼び覚ますことです。
あなたのなかに眠っている本来の力が目覚めれば、必ず心にも余裕や穏やかさが戻ってきます。
私は、そのための具体的な方法やアクションプランを、「オンライン尻活」という形で分かりやすくお伝えしています。
11月に皇居近辺で「歩き」をテーマにした講座も開催予定です。
「未来につながる一歩を踏み出し人生を変える体づくり」を一緒に始めましょう。
