【インタビュー】株式会社エミネント、紳士用スラックス一筋、地元密着企業の歴史とこれからのヴィジョンとは

アイキャッチ画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_髙野圭右さん

1949年創業以来、紳士スラックスの専業企業として走り続けている株式会社エミネント。代表取締役の髙野圭右(たかのけいすけ)さんにこれまでの歴史やこれからのヴィジョンについて語っていただきました。

創業73年、紳士スラックスの専業企業として

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私たちは1949年の創業以来ずっと紳士スラックスを専門に取り扱ってきました。創業当時は軍服から洋装へと社会が変化する時代でしたから、その中で紳士服のスラックスを取り扱うようになりました。なぜスラックスを専門に扱うようになったかと言えば「上着を着ない男性はいても、ズボンを穿かない男性はいないだろう」という創業者の考えがあったようですね(笑)。

2017年に「MADE IN NAGASAKI」のスーツブランド『WESTORY』を立ち上げました。普通はジャケットもシャツもスラックスも同じ工場で作るのですが、『WESTORY』はそれぞれ別の工場で作っています。ジャケットは平戸市にあるアリエス株式会社様のジャケット専門工場、シャツは山喜株式会社様の長崎工場、そしてスラックスは松浦市に工場を持つ弊社と、「MADE IN NAGASAKI」にこだわったブランドです。サッカーJリーグのV・ファーレン長崎の移動用のスーツとしても採用していただきました。

地元密着企業として、松浦市への恩返し

見出し2画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_工場

1969年に長崎県松浦市に松浦工場を新設してからは、松浦市の地元密着企業として、歴史を刻んでいます。従業員は全員地元で採用し、ほとんどは地元出身者の方です。

元々は大阪にあった工場を松浦市に移転したのですが、炭鉱中心の産業からの脱却を目指していた松浦市からお声がけいただいたことがきっかけでした。当時の市長からの工場用地として用意いただいた候補地の中には現在の市役所の建っている土地もあり、一企業に市役所の候補地を与えてくれようとする志に感動し移転を決めたと、先代は語っていました。

それから50年以上、良い時期も悪い時期も松浦市と共に歩んできている分、地元への恩返しの思いは強いですね。

地元の松浦高校の学生服が替わる際は、生徒さんを中心に先生方と協力し、新しい学生服をつくるお手伝いをさせていただきました。松浦市唯一の高校の学生服ですから、シンボルとなるような学生服にしたいと思い、松浦タータンと名付けたタータンチェックの学生服をつくりました。

縫製工場から出る切れ端を使って、新たな物作りができないかと、松浦高校・長崎県立大学と協力して、工場から出る裁断くずを利用するキャンペーンを行ったりもしました。

従業員の働きやすい環境作りも地元への恩返しの一つ

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_製造場

『WESTORY』も長崎を盛り上げていこうという思いがあり、「MADE IN JAPAN」ではなく「MADE IN NAGASAKI」にこだわりました。国内の縫製業がだんだんと少なくなる中で地元雇用を守ることにもつながるかと思っています。

『WESTORY』を共に作っている2つの工場とも情報交換をし、互いの工場の従業員が結婚等で引っ越しをする際には通いやすい工場に転職できるようにしたりと、協力していただいたりもしています。

松浦市に移転してきた当時、長崎県も松浦市も女性雇用が社会発展・経済発展の鍵になるだろうと考えていらっしゃいました。縫製業の工員の多くは女性で、私たちの工場も同じです。女性が活躍できる環境が縫製工場にはありますし、私たちもそこに着目していました。

弊社では私たちの工場が松浦市に移転してきた時から働いてくれている女性が取締役になり、活躍してくれています。経営というと男性がするものというイメージもありますが、縫製業こそ女性が経営に入ってくるべきだと思います。働きやすい環境作りにとっても、男性には気がつくことのできない細かい心配りができることもあります。ロッカーの位置や扇風機の数を増やすなど細かい改善の連続ですね。

親子2代や3代で働いてくれている方が多いのも、地元雇用を大切にしている私たちの特徴です。

これからのヴィジョン~松浦市から世界へ~

見出し4画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_対談

松浦市で作った商品を世界に届けていこうと活動しています。

紳士服の大きな展示会として、イタリアのフィレンツェで年に2回開催される『PITTI IMMAGINE UOMO』が有名です。全世界のバイヤーが訪れるこの展示会に、弊社も10回ほど出展し、日本のモノ作りを世界に提案しています。その甲斐もあって日本のセレクトショップからオーダーが次々と入ってきています。

松浦市長が仰っていた「松浦市の市民が自分の街に誇りを持ってほしい」という言葉に、私たちも共感しています。松浦高校は、なぎなたや駅伝の強豪校でその事を通じて市民に誇りを与えています。私たちも彼らと同じように縫製業を通じて地元の方々が「ふるさと愛」を感じていただけるような環境作りをしていきたいと考えています。

「過去の自分」と「流れ」にとらわれず自分の夢にチャレンジを

アイキャッチ画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_佐藤由佳さん_プロシール写真

佐藤由佳(YORIKA sato)さんは2021年9月、医学部5年目のときに「クリエイティビティを発揮する仕事がしたい」と考え、物語のついたアクセサリーブランド『Tellu』を始動。本コラムでは、大きくジャンルを変えて挑戦している佐藤さんが、仕事をするうえで大事にしていることを語っています。

医学部生からアクセサリーのブランドディレクターへ

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_佐藤由佳さん_アクセサリー

小学校3年生の頃から脳神経外科医を目指しはじめた私は、医学部を見据えて高校に進学し、志望大学には現役で合格できました。しかし、大学5年生で実習の段階まで来たとき、10年以上前から思い描いてきたはずの自分の将来像に違和感を感じたんです。

医学という学問自体はおもしろかったですが、実際に仕事にするとなると、自分にしか成しえないという意味でのクリエイティビティを発揮することはできないと思いました。何かもっと自分らしい道はないかと思ったときに、文章を作るのが好きだったこともあり、最初は表現力を使える司法系を目指しました。

弁護士、あるいは裁判官として判決文を書くのがいいのではないかと思い目指してみましたが、結局「おもしろい学問」止まりでした。そこで、文章を作りたい欲求と手術のような細かい作業がしたい欲求の2つを満たしてくれる「物語ついたアクセサリーブランド」を立ち上げました。

やりたいことに挑戦できないのはもったいない       

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ブランドを立ち上げて約1年になります。綿密に計画を立ててから始めることが好きなので、開業前に自分に向けて事業計画書を立てたのですが、これが大変でした。

事業計画書をつくるうえでこだわったポイントは、手仕事が命のブランドが趣味の延長線上にならないようにしたこと。そして、経営者・クリエイター・デザイナーとしての3つの立場を明確に分け、その3役を全部私が担っていると意識しました。たまたま私1人が3役担っているというだけで、それぞれが3分の1の成果で許されるわけではないということです。

順調に医学の道を進んでいたところからいきなりアクセサリーブランドを立ち上げたので、「突然いなくなったよね」と友達には言われました。あらゆる人に「もったいない」「医師免許と学歴があれば潰しがきくのに」と言われましたが、過去の自分の夢に執着して挑戦できない方がよっぽどもったいないと思いこの道に進みました。

最初は「ブランドを大きくして個展やアトリエを持ちたい」といった、自分のブランドありきの広がり方を考えていました。やってみると今まで付き合ってきた人たちと全く違う種類の人との出会いがあふれていて、考えてもみなかった世界が次々と見えてきました。

展示会などを企画する側になる、またこれまで学んできた医学につなげて義足や装具にジュエリーを纏わせるブランドを創る、といった現時点での目標すら、ブランド始動前には思い付くはずのなかったことです。まさに、目標の幅がどんどん増えていく、「見つめる先が拡大する」感覚です。

仕事を通して、人を幸せにしたい

 

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_佐藤由佳さん_アクセサリー

どんな仕事をするにしても核心に置いているのは、「人を幸せにする」ということです。もともと医療現場では、自分の手で手術をして人を救うという方法で「この人がいてよかった」と幸せを与える存在を目指していました。今はそのやり方こそ変わりましたが、芸術的な方面から人を幸せにするという核の部分は変わりません。


医学部にいると、人間関係を構成する人の環境が互いに似通っていることもあり、自分で道を切り開いていくのは難しいです。肩書きのパワーが強くエスカレーターに乗っていれば確実に上までのぼれる状態なので、わざわざ道を外れて身一つで知らない世界に飛び込むのは勇気のいることかもしれません。

でも、長い宇宙史の中でたった1つの星のたった1人の人間がたった100年の寿命で奇妙な行動をとったところで、いったい誰が気にかけるでしょう。やってみたらきっとたいしたことはないですし、また違ったら戻ればいい、道を変えればいいわけです。

新たな一歩を躊躇わせるのは「過去の自分」と「流れ」

とりあえず何事もチャレンジしてみたらいいと思います。

「健康経営」がカギ!女性が仕事と家庭を両立できる社会へ

アイキャッチ画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_赤羽亜希さん_ご本人

家庭と仕事の両立。多くの女性が結婚や出産を理由に職場から離れ、戻りにくい社会であることに疑問を抱いた赤羽さん。3人の子供が生まれる度に離職を繰り返した経験から、女性でも働きやすい職場を作ることを意識して『健康経営優良法人』に3年連続で認定。ご自身の出産と育児の経験を活かした、スタッフの健康経営について語っていただききました。

社会復帰の難しい女性の苦悩

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_赤羽亜希さんヘッドスパ

近年、男性の育休が認められたり、”主夫”がなじみのある言葉となったり、女性が育児や家事をすることが当たり前の風潮は消えつつあります。それでも、ライフイベントの度に仕事を辞めざるを得ない女性は多くいます。

特に、美容業界では専門的な知識を身につけ、キャリアを積んだ方でも結婚や出産によって仕事の継続を断念するケースが多々あります。離職が多いとサービスの質が一定にならず、顧客満足度の伸び悩みや技術力の向上が難しい状態となります。女性が働き続ける環境の未整備が多く、業界的にも社会的にも改善が急務となっています。

私自身が、3人の子供を出産する度に仕事を辞めたり、軌道に乗った多店舗展開のお店を任された矢先に第一線から退く経験をしました。「女性が仕事と育児を両立できる環境を作るべきでは」と、3人目の子供を出産後、サロンの経営を始めました。

しかし、環境がすぐに整うわけではありません。健康経営を意識して、スタッフが働きやすい職場を目指しましたが、赤字が続く日々。女性が仕事を続けられる環境づくりを心がけていましたが、スタッフも顧客も満足しながら持続的に経営を行うことの大変さを体感しました。

『健康経営』に選ばれるまでの道のり

見出し2画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_赤羽亜希さん施術

利益は上がらなくても、スタッフが幸せな状態であることに価値があると思います。しかし「本当に健康経営を続けて社員が幸せになるのか」と、正直、経営に不安を感じていました。スタッフは仕事に誇りを持っているので、自分のやっていることを信じて健康経営の取り組みに乗り出しました。

スタッフのことを第一に考えることで、少しずつ経営も軌道に乗りました。技術や知識を伸ばす研修を取り入れたり、月1回はお休みにして振り返りをする場を設けたりしました。何事も近道はありません。地道にやってきたことが、ゆっくりと実ることの方が多いです。スタッフを大事にすることは、顧客を大事にすることに繋がります。

スタッフの成長に伴って、顧客へのサービスの質が向上し、リピート率が高くなります。結婚や出産でも辞める人がいないので、顧客の信頼にも繋がります。そのため、店舗のクレームはゼロです。「ここで働きたい」という人が広告費をかけずとも応募してくるので、スタッフの教育費により一層投資することができます。

健康経営に取り組んだ当初は、良い待遇に甘えて成長しなかったり、給与面での還元を多くすることができませんでした。ただ、諦めずスタッフと向き合い、顧客に寄り添った質の高いサービスを提供し続けることで、実を結んできたのだと思います。今では、スタッフの報酬面を高くするシステムの開発も検討しています。

これからの社会に必要な働き方

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_赤羽亜希さん施術部屋

仕事と家庭の両立を誰もが必要とするなかで、実現するには根気強くやっていく必要があります。それでも健康経営が軌道に乗ることで、多くの好循環が生まれました。

・スタッフが元気だから、お客様に良いものを提供できる
・売り上げとしてお店に還元され、スタッフにも還元できる
・お客様からの紹介が増えたり、一緒に働きたいと言ってくれる人が増える
・スタッフの定着率も高くなりサービスの質が向上する


自分が心身ともに健康でないと何事もうまくいきません。健康により一層の関心が高まる世の中だからこそ、健康的に働き続けられる環境が必要だと私は考えます。

好きという気持ちを大切にして仕事をする

アイキャッチ画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_齊藤 友美恵さん_ご本人

プライベートサロンの代表であり、ネイルスクールで講師もしている齊藤友美恵さん。キャビンアテンダント、アパレル店員とさまざまな仕事を経験し、現在はネイルという自分の好きな仕事でお客様に喜びを提供し続けています。「仕事は好きでやることが大切」と語る齊藤さんの仕事観をお聞かせいただきました。

恩師との出会いがネイリストになる夢をくれた

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_齊藤 友美恵さん_マニキュア

私は大学卒業後すぐにネイリストになったのではなく、新卒として航空会社に就職しました。就職活動をするなかで航空会社の方が先に内定をいただいたので入社したんですが、アパレルもずっとやりたい仕事でした。キャビンアテンダントの仕事をしながらもアパレルをやりたい気持ちがずっと残っていたので、航空会社を辞めてアパレルの道に進みました。

アパレルへの転職後は身なりが自由だったので、本を見て自分でネイルを塗ってみたり絵を描いてみたりしていました。だけど自分でやるにも限界を感じ、休みの日にネイルスクールに通うようになりました。もっと勉強したいと思っているときに、先生から勧められて検定試験を受けることになり、そこからネイルの世界にハマり始めました。

そこで私の恩師に当たる方と出会い、その方のネイルサロンに見学のお誘いをいただいたのが、大きなきっかけですね。そのサロンの雰囲気やネイリストさんを見て、ネイルの仕事をやってみたいという気持ちが芽生えました。

そのまま当時の仕事を辞めて、恩師のサロンで勉強をしつつアシスタントとして雇っていただきました。その方に出会っていなかったら今はネイリストをやっていなかったと思います。

私がネイリストに転職したのは29歳なので、ネイルをはじめるには年齢的にも決して早い方ではありませんでした。長くやっていくなら資格を取った方がいいと言われ、講師資格を取りました。ネイルサロンに3年くらい勤めて独立したという流れですね。

独立して得られた自由と時間

見出し2画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_齊藤 友美恵さん_ネイル

独立したと言いましたが、実は最初は独立する気は全然ありませんでした。恩師のサロンは家庭の事情で一度辞めたんです。落ち着いてから違うサロンで働くことにしたのですが、そのサロンは週1お休みの朝10時から終電まで働くというかなりの激務でした。

このままの働き方でいいのかなと考えて、もう1度お休みをしようと決めてそのサロンを辞めました。辞めたときに、今まで指名をいただいていた方からご連絡がありました。「道具があるなら自宅などでやってみれば」と提案いただいて今に至る感じです。だから、最初から独立心満載で始めたのではないんです。

独立して変わったことは、1番は自分が気に入った材料などを取り入れられることですね。お客様に対して「これいいんですよ」と自分で選んだものをおすすめできることが喜びです。

最初はお休みが全然なかったですが、今はうまく自分の中でお休みを調整できるようになりました。私のお休みの日と週1回ネイルスクールの講師をしている日は、友人が私のサロンを使ってくれています。サロンに務めてしまうとシフトで全部決まってしまいますが、独立してそこが自由になったと思います。

ずっとネイリストをしていますが、実家が五反田で居酒屋を50年以上やっていたこともあり、飲食業をやってみたいという気持ちも少しあるんです。今は両親が他界したのでお店は閉めてしまったのですが、いつかそこを継ぎたいと思っています。

ただ、今はネイルのことで頭がいっぱいです。技術が日々進化し、新しいことを学んでお客様に提供していくことがとても楽しいです。誰かに任せられるような器になったときに、時間を作って料理の勉強もしたいですが、その時間がないのが現状ですね。

好きになった気持ちを大切にする

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ネイルの魅力は、目の前のお客様のテンションがあがったり、喜んだりしていただけることです。髪の毛もそうですけど、自分の手元がきれいになるとうれしくて気持ちもあがりますよね。コロナ禍でも意外とみなさん来てくださっていました。世間は気持ちが塞ぐような状態ですが、「ネイルをやると気分があがるから」と言っていただきました。

ネイルは1時間半〜2時間ほどお話をしながら施術をしています。愚痴とか悩みとか、そういうコミュニケーションを取るなかで少しでも気分転換していただけたらうれしいですね。

ネイリストになったときの私の小さな目標は、お客様がこれをやりたい、こんなデザインにしたいと言われたときに、「できない」と言わないネイリストになることです。今後もその想いを大切にして、日々色んな情報を収集して勉強していきたいと思っています。

ネイルサロンは即戦力を求めていることが多いので、今後はスクール生がネイルサロンですぐに働けるような場所を提供していきたいと考えています。サロンに送る立場として、ステューデントサロンみたいなものを立ち上げながらネイリストを育てたいと思っています。

私は転職もして、ネイルを学び始めた時期も遅く、検定試験に落ちることもありました。だけど、諦めずに自分が好きになった気持ちを大切にして勉強をしていけば、道も開けると思いますし、お客様もついてきてくれるはずです。ネイリストになりたい方にはずっとネイルを好きでいてほしいですね。

多様性を認め合う世界を作る②

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吉川 プリアンカさんは、ミス・ワールド日本代表で、今は株式会社イーストヘンプの代表取締役社長です。インドと日本のミックスということで学生時代はつらい時期を過ごしますが、そこからモデルになり、ミス・ワールド日本代表になりました。本コラムでは2回に渡り、ミックスとして生きてきて感じたこと・そこから「吉川プリアンカ」として生きることについて語ります。

コネクションを生かした事業の立ち上げ

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芸能を目指したきっかけはいじめだったので、自分の経験から人にいい影響を与えられる人生に変えたかったんです。努力をしていく過程で、協力してくれる人が出てきたり、そのタイミングが来たときに事業案にたどり着くのではと思っていました。

そしてカタチは少し違えど、実際にミス・ワールドの日本代表になってからお話をいただいたり、聞く耳をもってもらえることが多くなりましたね。

モデルの仕事だけじゃなく、自分の言葉で伝える機会も徐々に増えていきました。起業は25歳までにしたいという目標があったので、日本代表任期を終える23歳後半に「今だ!」と思って起業しました。

私が日本代表になったミス・ワールドは、世界118カ国が参加する最大級のコンテストです。118カ国の出身の人に会ってコネクションを作れるところなんて、レアな場所だなと思いました。世界で結果を残したいという思いと共に、「友達をたくさん作りたい!」という思いも持ちながら世界大会へ行きました。

結果として、その当時築きあげたコネクションを利用した、インバウンド・アウトバウンド向けのインフルエンサーマーケティング事業が一番最初にはじめた事業です。

「多様性」を軸に、吉川プリアンカを生きる

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立ち上げたものの、自分は撮影でインドを行き来しているし、経験もないので会社をなかなか回せません。当時のマネージャーに「会社を回すのはお前にはまだ早い」と言われ、負けず嫌いの気持ちに火がつき、何かしなきゃと思って異業種交流会にたくさん行きました。そこで年齢・業種も関係なく、たくさんの人に相談しました。

そのおかげもあり、コストがあまりかからない事業を吸収してマネタイズさせました。そしてインフルエンサーマーケティングから、データマーケティング・クローリング事業等へと拡大。会社は軌道に乗ってきたものの、私が情熱を注げる事業かと問われたら正直わかりませんでした。

たくさん営業もしましたが、私はこのために起業したかったわけではありません。自分と改めて深く向き合うと、色々と見えてくるものがありました。海外で仕事をしたい思いもあったので、2019年に今の全事業の母体となる『株式会社イーストヘンプ』を設立。

最初は子会社にしようと思っていましたが、事業内容も違うので別の会社として設立しました。この会社にフルコミットするため、ひとつ目の会社を2年で譲渡しました。そこから、本当にやりたかったことが実現できています。前の会社みたいにとんとん拍子ではないけれど、自分のライフワークのような形で経営しています。

『MUKOOMI』というブランドは、私のパッションプロジェクトです。私は人に触れたり、人をサポートしたりするのが好きで、そこに生きがいを感じています。『MUKOOMI』には、ありのままで、その人がその人らしく、という私の思う多様性の意味も込められています。それは『MUKOOMI』が人に寄り添えるブランドでありたいという想いも込められています。

この会社は継続しますが、それとは別に私個人でもできるような仕事をやりたいと考えています。コーチングを学び直していたり、18歳のときに取ったアートセラピストの資格と心理学を融合させたような事業をやりたいです。

コーチングのためのコーチメソッド提供や、講演会の講師などももっとやっていきたいです。やりたかったことがどんどんできてきているから、今はすごく楽になってきているんです。自分らしくいるために「吉川プリアンカ」という職業になりたいですね。

人とつながるコミュニティを作る

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_吉田プリアンカさん_本人

私たち『MUKOOMI』はブランドではなく、人と人がつながる”場所”でありたいというのを掲げています。「コミュニティ・エンパワーメント・ブランド」という立ち位置を目指しています。

何か壁にぶち当たったときって、誰かが同じ壁にぶち当たっていたらその人から学べばいいのに、同じ苦労をしないといけないみたいな考え方がありますよね。もちろん自分が経験しなきゃいけないこともありますが、人から学べることもたくさんあると思うんです。

そのように人と人が触れ合って学び合って、どんどん向上していくような場所を作りたいですね。『MUKOOMI』があったり、リトリートがあったり、コーチングのセッションがあったり、吉川プリアンカが持つコミュニティを作ることがミッションです。

もし、チャレンジしたいことを諦めようと思っても、頭の中に「また戻ってくる」という人がいるのなら、人生1度きりなので絶対やるべきだと思います。やらない後悔よりもやったあとの後悔の方が悔いが残りません。私はいつも「あした死ぬとしたらどうする?」と極論の質問をして選択をしています。

行動は何よりも大事なことです。もちろんリサーチも大事ですが、考えすぎずにチャレンジしてみることはすてきなことだし、絶対楽しいことだからやるべきだと思います。やってダメだったらやめればいいだけです。やめることが悪いことではないので、ぜひチャレンジしてみてください。

多様性を認め合う世界を作る①

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吉川プリアンカさんは、ミス・ワールド日本代表で、現在は株式会社イーストヘンプの代表取締役社長です。インドと日本のミックスということで学生時代はつらい時期を過ごしますが、そこからモデルになり、ミス・ワールド日本代表になりました。本コラムでは2回に渡り、ミックスとして生きてきて感じたこと・そこから「吉川プリアンカ」として生きることについて語ります。

自分のアイデンティティを否定していた学生時代

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_吉川プリアンカさん_本人

私は、父がインド人で母は日本人のミックスです。東京で生まれて、幼少期をアメリカとインドで過ごし、11歳のときに日本に帰国しました。帰国後はインターナショナルスクールではなく、普通の公立の学校に通いました。そのとき、私は学校で唯一のミックスだったんです。

吉川プリアンカって名前ですが、本名はゴーシュというカタカナの名字のため、クラスで目立つんです。外国人だとすぐわかるし、日本語も話せていない、日本語の読み書きもままならない。それでいじめられました。ミックスだから必ずしもいじめられるものではないですが、クラス全員が敵みたいになったんです。そのときは、自分が何か不十分なのか、何が足りないのかと考えていました。

学校行事のときに来るのはインド人の父親で、父が学校に来ることが当時はすごく嫌でした。そう思ったことが1番恥ずかしくてみっともないのですが、完全にアイデンティティを否定していました。日本人ならこんな思いはしなかったのかもしれない、だから日本人に憧れを抱いたんですね。

自分は不十分で、何か足りなくて、自分がおかしいと思っていました。だけど、いじめられた理由は、自分で変えられない生い立ちや見た目です。当時は居心地の悪い学生時代を送っていて、学生時代には楽しい記憶がありません。

だから、英語を話したり、学校外のコミュニティに自分らしさや居心地のいい場所を求めたりしていたので、アメリカで育ったのは小学生まででしたが、今も英語がネイティブに話せます。

いじめられっ子からモデルの世界へ

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いじめがあったので、学校で人気になれないから日本で有名になろうと思って、高校1年生でモデル事務所に所属して芸能界に入りました。そして、高校も通信制に編入しました。

世界に発信したいというブランドのオーディションには受かりましたが、国内の仕事は落ちることが多かったです。そのときも「また私は不十分なんだ、自分に才能がないのかもしれない」と、ずっと思っていました。

でも気づいたのは、モデルというのは商品なので、ブランドイメージでマーケットに1番刺さるモデルを採用するんですよね。モデルが全員魅力的でキレイですばらしくても、「ブランドのイメージに合うか」「どれだけ購買につながるか」などの視点から採用が決まります。

今では過去に比べると見るようになってきましたが、白人の方の起用数に比べると黒人やブラウンなどダークトーンの方の起用数はまだまだ少ないと感じています。

そんな中、今立っているステージは自分が想像していたところとは違うと感じていました。それは努力不足かもしれないですし、タイミングじゃなかったかもしれませんが、そこで一旦事務所を辞めることを決めました。

そのあとはバイトをしながら外国に遊びに行くという生活。遊んでいるなかでさまざまな人に出会い、色んなことを知っていくなかで、私は「目標・目的がある人生を歩みたい」と気づいたんです。

毎日旅行に行っていてもきっと満たされないと思いました。旅行のなかでも何か目的があったり、自分の人生を通して何か提供したりすることで、意味のある時間に変わる気がするんです。だからもう1度、25歳くらいまでは芸能の仕事を真剣にやってみようと決めました。

ミス・ワールド日本代表になって気づいたこと

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東京コレクションでミス・ワールドの事務局の人にスカウトされて、22歳のときに日本代表になりました。日本代表初のミックスだったので、たくさんインタビューをしていただいて、注目を浴びるようになりました。

そこからずっと吉川プリアンカという芸名で活動しています。英語と日本語が話せるのもあって、BBCやCNNやTimesなどのインタビューを受けました。

私はずっとモデルだけじゃなくて発信できる人になりたかったんです。同じミックスの人たちや、その人たちの声になって代弁したり、自分の経験を話して誰かにいい影響を与えたりできるのかもしれないと気づき、「多様性」というキーワードが自分の軸に変わりました。

芸能をやってその後に起業するという目標をマイルストーンとして持っていました。芸能の仕事はさまざまな人に出会うので、何で起業するかは芸能の先にあるはずだと思っていたんです。何のアイデアもありませんでしたが、日本代表任期が終わる23歳後半で1つ目の会社を設立しました。