にじのわコーヒー&ビアスタンド 平田泰之
コーヒー&ビアスタンド
『にじのわ』代表
おそらく日本一不器用な珈琲屋

自身の壮絶な半生を綴る平田泰之(ひらた やすゆき)さんのコラム第6弾です。自身の経験をもとに、誰もが救われる社会を目指して発信する平田さん。家族という密室で尊厳を削られる苦しみは、果たして他人事でしょうか。良かれと思う「教育」の裏に潜む、境界線なき暴力の本質を問います。
僕が人生で一番後悔していることがあります。それは、
『もっと、もっと、もっと、もっと徹底的に、両親たちに対して心を閉ざしまくればよかった』
ということです。
真っ当な家庭で育った人たちには、この結論は理解しがたいものかもしれません。 しかし、僕はその結論を下さざるを得ない過酷な世界で、今日まで生き延びてくるしかありませんでした。
今の僕は、このような悲しい決断をせずに済む人が一人でも増えること、そして、もし僕のような境遇に陥った人がいても、僕のような『生存率1%以下』の人生ではなく、いち早く救われる社会が創られることを切に願っています。
僕がそう思うに至ったきっかけ、成人し大学を卒業した後もなお続いた、母からの執拗な虐待について書き記します。

2011年9月、虐待に関する書籍『毒になる親』『不幸にする親』などを読み込み、考え抜いた末に、僕は両親との「対決」を決断しました。
いきなり感情をぶつけるのではなく、「僕があなたの愛する息子だというなら、僕の想い通りに人生を生きてもいいですよね?」という旨の問いかけをメールで送ることから始めました。
しかし、父も母も返してきたのは、その場しのぎの、中身のない“愛”の言葉ばかり。あまりにも息を吐くように嘘をつく姿に、僕は強く抗弁しました。
この対決の詳細は長くなるので省きますが、母は「泰君の本当の想いが聞けて良かったです」というメールを最後に、二日間だけ食欲不振になったそうです。これまで僕をかなり重い「外食恐怖症」にまで追い込んできた苦痛に比べれば、あまりに軽い反応でした。
その後、再就職先での激しいハラスメントにより自殺寸前まで追い込まれた僕は(この再就職先は3週間で退職。過去のコラムでも触れた会社です)、経済的に困窮し、当時一人暮らしをしていた兵庫県尼崎市にあるアパートも1ヶ月も経たずに離れることになり、泣く泣く実家に戻るしかなくなりました。
当時の僕は、職場で受けたハラスメントが、それまで両親から受けた約20年分の虐待を濃縮したような内容であったことから、「もし僕が親のようになり、周囲を傷つける宿命なのだとしたら、この世から僕が消えてしまうことこそが唯一の僕ができる社会貢献ではないか」とさえ思い詰めていました。極限状態の僕にとって、それは狂った認識とはもはや思えないほどでした。本気でそう、思っていましたーーーとはいえ、僕はその前年に、自らの命を自らの手で終わらせた親友がいたこともあり、結局それはできませんでした。また、発達障害の診断を受けたい、受けなくてはという思いも捨てられなかったことも、僕が生き延びてしまった理由です。
問題の会社を辞めた翌月の2011年12月、ボロボロの状態で実家に戻ると、母は『おかえりいぃぃ~♪♪』と、不気味なほど明るい声で僕を迎えました。今思えば、それは僕を再び自分の支配下に置けることを喜ぶ、残酷な笑顔だったのかもしれません。
9月の「対決」についても、母は僕の肩を叩きながら『わっる♪かった♪なっ♪♪♪』と、悪ふざけのような「謝罪ごっこ」をしてきました。
結局、母も、父も、反省するフリしかできない人たちだったのです。 僕は本当に、この両親に対して、もっと、もっと徹底的に心と魂を閉ざすべきでした。
そして、彼らの「ステルス虐待」は、より巧妙に、より隠微に、その残虐で冷酷非道な本質を変えないまま、牙を剥き始めていたのです。
両親に心を開いてしまったことーーー我が人生、最大の後悔です。

2012年1月、僕は自ら望んで発達障害の診断を受け、無事にアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)であると診断されました。
当初、両親は僕も抱える障害について書かれた関連本を買うなど、僕を理解しようとする素振りを見せました。精神的に弱り切っていた僕は、「両親は変わってくれるかもしれない」と一縷の望みを抱いてしまいました。それが大きな、あまりにも大きな間違いでした。
僕が、過去の反省から「孤軍奮闘」を止め、診断を受けた後、支援機関を頼り、自立に向けて動き出そうとした矢先、母は豹変しました。
それまでの、僕への理解を示すかのような態度はすべて「フェイク」だったのです。それもfake of fake =宇宙最凶クラスの大嘘でした。
冬が過ぎ、春が終わる頃に、彼女が僕に言い放ったことがあります。
『あんた差別されたらどうすんのぉ!?!?』
母は突如、僕の中に差別への恐怖を植え付け、不安を煽り始めました。また、僕の「言葉を字義通りに受け止めてしまいやすい」という特性を逆手に取り、執拗に僕を精神的に追い詰めました。
この特性は日常生活でも何かと出ることが多いものの一つで、こういう特性があるから僕には冗談や皮肉であっても辛いとSOSを出すことも何かとあり、分かってくださる方は『そうだったのか、ごめんね』と謝ってくれるものです。そうして歩み寄って下さる方々とは関係が悪化するばかりか、『雨降って地固まる』がごとく、関係が深化していくこともかなりありました。もしかしたら僕以外の発達障害の方でも、そうでない方でも、似たような経験があるかもしれません。
僕が「その冗談はきついから止めてほしい」と勇気を出して伝えても、母は
『それでも私はそういうこと(冗談など)言うでっ……言うでぇっ!!!!!』
と怒鳴り散らしました。
これは、重いアレルギーを持つ人に対して、「それでも私はお前にアレルゲンを食べさせる!!」と言い放ち、無理やりその人の口に押し込むような暴挙です。人としての尊厳を、足蹴にする行為でした。
アレルギーではありませんが、例えば、イスラム教徒の人を椅子に縛り付け、豚の塊肉(※多くの皆さんがご存じの通り、イスラム教では豚肉を食べることは禁忌)を無理やり食べさせるのは、人として正しいことなのでしょうか?宗教ではないのですが、僕にもビーガンの友達がいますし、彼らに同じような感じで肉や魚、卵などを無理やり食べさせることは、人として正しいことでしょうか?---このコラムを読んでくださった方々の答えは、「NO」であることを祈ります。
家の中には、障害者に対する無言の蔑みが溢れていたことも、また事実でしょう。 テレビで関連ニュースなどが流れれば、ブスッとした顔で無言でチャンネルを変える。それは、世間体を保ちながら、僕という存在をじわじわと摩耗させ、最後は僕が僕の手で自らを消去しようとするまで追いつめる「静かな弾圧」でした。
家事が完璧で、世間での振る舞いが上手い母は、僕に食事を与え、家をきれいにし(ちなみに母は、潔癖症気味の傾向もあると思われる)、最低限の生活をさせながら、僕の心と尊厳を、少しずつ、確実に破壊していきました。

2012年の12月、障害者雇用でとあるメーカー(現在の東証プライムにも上場している)に就職できたのですが、その時も、僕が気の合う先輩と出会えたことを侮辱したり、僕がその先輩に迷惑をかけていると洗脳しようとしたりと、虐待に余念がありませんでした。
この頃、何かと中学時代の同級生達から連続して受けた虐待を告白した際も、母は
『私があんたの年の頃とか中学のクラスメートがどうとかそんなん思わんかったわっ!!』
と吐き捨てました。
…母は確かにそうだったでしょうが、僕には、僕の人生があります。
その母の人生と同じように、僕の人生を彼女のそれと同じであるように見なすことは、『境界線』が完全におかしくなってしまっているとしか言いようがありません。
母にとって、僕の人生は「自分の人生の延長」でしかなく、個別の尊厳を持つ一人の人間としての境界線は完全に崩壊していたのでしょう。僕を、一人の別の個として認め、尊重することは、徹頭徹尾、絶対にありませんでした。
このような虐待を嬉々として、イキイキと言ってきた母ですが、母は僕に対して、僕が20代の頃も、こう高らかに宣言しました。
『私はあなたをのびのびと育ててきた』
…これまでの母の行為が、僕を本当に「のびのびと育ててきた」のかどうかは、皆様のご判断に委ねることにします。
あと2つ、母に関するコラムが続きます。
辛抱強く読んでくださってる皆様、そして僕たちサバイバーに偏見を持たずにいてくださる勇気と優しさ溢れる皆様に、改めて感謝申し上げます。