ブラック企業と家庭の地獄を越えて、見つけた本当の自分

にじのわコーヒー&ビアスタンド 平田泰之

にじのわコーヒー&ビアスタンド 平田泰之

2026.01.30
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自身が発達障がいを持ち、壮絶な虐待被害経験がある平田泰之(ひらたやすゆき)さん。その経験を乗り越え、メンターとの出会いからコーヒーにまつわる活動を始めることになります。第2弾の連載コラムでは、診断に至るまでの道のりや、ブラック企業での体験、そして診断を受けたことで得られた気づきについて、平田さんにお話いただきました。

今でこそ、3歳児健診が広がり、発達障害は早期発見が非常にされやすい状態となりましたが、僕が生まれた世代は、そうした検診が今のような感じで存在していませんでした。 実際に僕が診断を受けたのも、2012年1月21日、僕が23歳の時です。

診断が大人になるまでずれ込んだのは理由があり、ずばり、親です。

特に、世間体や見栄を何よりの好物とする僕の母は、僕が成長し、まさに3歳になるにつれ、僕が母と”似ていない”ところが目立つようになったのと、僕の母は「自分の子供は自分と似ていなければならない」という強迫観念的な考えを、とてつもなく強いレベルで持っていました(なお、今後のコラムで、親から受けた虐待についても、かなり書いていくことになります。悲劇を無くしていくためにも…)。

そんな母は、僕が3歳の頃に強くこう思ったといいます。

「自分の子供が、そんな異常な子供なわけがない!!!」

…このことは、僕が診断を自ら望んで受けた23歳の時(2012年)、まるで僕が死してもなお消えない呪いをかけられるかのように、吐き捨てられた言葉です。

時に、このコラムをご覧になられている方は、この母の言葉には、障害当事者はもとより、そのご家族やご友人に対する、非常に強烈かつ悪辣な憎悪や偏見が込められていることに気づくのではないでしょうか―――こうして僕が”形成”された家は、まさに、徹底的な支配下にある独裁的な家庭だったのです。 実際に歴史上存在したとある国家が、自閉症の方々、知的障害の方々も含めた障害者の方々の多くを、差別・虐待・果ては非人道的に排除してきたことをご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

そんな支配的な両親のもとに生まれ落ちた僕が、20年以上の紆余曲折の末、診断を受けた流れを紹介させて頂きます。

冒頭でも陰鬱な話がありましたが、そうした話がこの先のコラムではしばらく、さらに多くなります。 不快な思いをさせてしまうかもしれませんが、どうかご容赦ください。

ですが、1つ前のコラムで書いたように「僕は診断を受けたことを100%ポジティブに取っている」ので、これから続くコラムが、ただの陰惨な話で終わらないようにしたいと思っています。

悲劇は、終わらせるためにある。

だから僕は、語り続ける。

診断を受けたきっかけ ~ブラック企業での経験~

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僕は、2011年11月、大阪市内のとあるIT系の会社で、毎日のように精神的暴力、人格否定など、ハラスメントを受け続け、自殺に追い込まれかけ(実質命を奪われかけ)ていたのですが、入社1週間ほどで激しい自殺願望が湧いてきたこの職場に早くも耐えられなくなり、自分が障害の自覚を持たざるを得なくなったことが、診断に後々至っていく大きなきっかけでした。

 毎日、「今日はどんなことで怒られるのだろう」と、恐怖と絶望の中で出社しており、この会社を辞めた後も、2015年秋くらいまでの4年ほど、この会社が入っているビルの前を通ることすら恐怖と苦痛のあまりできず、地下鉄に乗って肥後橋駅(大阪メトロ四ツ橋線)を通り過ぎるだけで、著しい抑うつや精神不安定に襲われるくらいでした。

この会社では、例えば、仕事を覚えようとメモを取ろうとしただけで、メモばっかり取ってるの気持ち悪い!誰かの悪口でも書いてるのか!!と、僕の上司(社長の血縁者と思われる人物)に罵声を浴びせられたり、この上司からは他に、一つ前の僕の職場についての悪口をこれでもかと言わんばかりに徹底的に言われました。 例えば「君のいた資材や購買の部門というのは女性を軽視する上司ばっかりおるんや!君の上司もそういう男やったやろ!」「平田君がおった職場はそんな職場なんや!つまりそれが君のレベルや!」など、人生の全てを否定されることは日常茶飯事でした。

ちなみにこの時は、次回からのコラムにさらに詳しく書く予定の、両親からの虐待を受けていた真実を知り、向き合い、両親とも初めて対決して間もない頃で、自尊感情等はどん底の状態でした。

このことから「自分が死ぬことこそ最大の社会貢献なのでは」という発想に簡単に行きついてしまい、それが激しい自殺願望にもつながったと思われます―――しかし、この年の前年、2010年3月に僕は親友を自殺で失っており、彼のご両親にも大変よくして頂いた経験もあったことから、自殺を選ぶことはできませんでした(僕を否定する人たちにとっては申し訳ございません。僕はこの時、死ねませんでした)。

特にこの問題の上司がよく言っていたのが「空気読まなあかん」でした。

ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、私たち発達障害当事者の中には、この「空気読む」―――暗黙の了解や言外の意味を読み取ることが、もはや不可能と言うレベルで難しい人もおり、僕もその例に漏れていません。

また、あいまいな言葉や指示が苦手なことも、僕の抱える特性上よくあります。この上司とは別に、70歳前後の総務担当の社員がいたのですが、非常にあいまいな指示を僕に繰り返し、僕が具体的に何を意味するのかを尋ねたら、「イ~ッヒヒヒヒ…」と侮辱するように笑ったりしました。 その対応は、この過酷な職場の一つ前の職場で僕の直属の上司だった人が、「少しでも疑問に思ったことは、後々の大失敗にならないよう、何でもいいから絶対聞けよ」と言い、僕が何を聞いても露骨にバカにしてこなかったのとは、全く対照的でした。

そんな中で、僕は自分が発達障害者であることの確信を深めていき、会社帰りに本屋に立ち寄り、閉店時間まで発達障害関係の本をむさぼるように読んでいたことも何度もあります。

自殺願望が非常に強かった一方で、「自分は診断を受けるために大阪に戻ってきた」という想いも強めていくことになりました。

そして、忘れもしない、2011年11月18日金曜日、19~20時頃。

前述のメモ禁止を言ってきた上司の、”打合せ”と称した個室に僕を連れ込んでの人格否定の嵐、もはや拷問ともいえそうな時間が始まりました(ちなみにこの”打合せ”という名の精神的苦痛は半ば日常的に、繰り返し行われていたため、”打合せ”という言葉も何年にもわたりかなり大きなトラウマ対象になっていました)。

僕は、空気を読むことを強要されること、度重なる徹底的な人格否定に耐えかねて、「自分は発達障害かもしれません…」と言ってしまい、その時に上司はこう吐き捨てました。

発達障がいって、空気の読めない頭のおかしな人たちのことやろ?君ならそんな人と一緒に働きたいと思う?

社会は誰も、助けてくれません!!!

これは我が生涯最大の愚行の一つなのですが、この上司の「~働きたいと思う?』に対して、僕は「働きたくない」と答えてしまったのです。 この上司の用意した『踏み絵』を踏まないと、僕は社会的にも、その他の意味においても、抹殺されてしまうという恐怖に、僕は勝つことができなかった。

今なお、無念です。 その後、特に30代に入ってからですが、発達障害当事者でもある素晴らしい友人達に恵まれるようになってから、なおそう思います。

余談ですが、残念ながら20代のうちは、この上司が言うような「問題のある行動」が目立つ当事者も、僕は多数見ています――自分も結局こんな連中と同じなのか、この時上司が言い放ったように忌み嫌われ続けなければならないのか…と、絶望にまみれたものです。

ちなみに、2011年11月18日金曜日の夜、「おかしな人たちのことやろ?」の言葉の後の上司の激しい暴言の嵐の詳しい内容は、あまりのトラウマからか、どんな内容なのかすら覚えていません。辛い記憶が残りやすい僕ですらも、記憶が飛んでしまうくらいのショックだったのでしょう。

この日、帰宅してから(当時はまだ一人暮らしをしていたが、この会社を辞めて実家という「(僕が)支配される空間」に不本意ながら帰ることに、そして…)、体から力という力が抜けたように、スーツ姿のまま、ベッドに倒れ込み、1時間近く全く動けなかったのを今でも覚えています。

具体的な診断に至るまでの道

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土日休みの間に、実家に頼らざるを得ず、実家に帰るしかなくなりましたが、両親は、今思えば偽りの優しさでしたが、当時僕がいた職場をこき下ろしつつ(今思えば、そうすることで自分たちの「まともさ」「真っ当さ」をアピールしたかったのでしょう)、実家に帰ることを許可はしてくれました―――その後、9年半に及ぶ実家生活が続くことになり、この過程でも、より巧妙化・凶悪化した洗脳や虐待が続けられることになります。

休みが明けた2011年11月21日月曜日、三日前と打って変わってとても優しい口調になった上司(※ハラスメントをする人は、対象を攻撃した後、急に優しくなることが非常に多い)に対して、退職届を出すことになりました。

その時の上司は「一つだけ大事なこと言っとくわ。『逃げて解決したらあかん』。…いやまあ平田君の今がそうってわけじゃないねんけど」と、謎の笑顔を残しながら言い残しました。

今の僕は、この時、この上司たちとその会社という環境から「逃げて」解決したことは、今なおブラック企業に苦しめられている人たちのためにも、間違いなく正解だったといえるでしょう。 その後も何名もの社会人の方々に、この会社での経験と僕の決断について話しましたが、この会社のあり方をとがめる人はいても、僕をとがめる人は一人もいませんでした。

ちなみに、この問題の上司が「空気を読め」と並んでよく言っていた言葉がもう一つあるので、ご紹介します。 「私の言う通りにしていれば間違いないから」 …きっと、この上司の言う通りにしていれば、”間違いなく”僕が死に至っていたことは、どうやら「間違いなさそう」ですね。

一方で、この上司の言葉を守るまでもなく、「逃げて」解決することを決してしなかったことがあります。

それは、僕が僕自身の生まれて以来の宿命、発達障害当事者だということから逃げなかったことです。

もし僕がこのことから逃げていたら、きっと、僕の命を救ってくださった数々の恩人たちとも、仲間たちとも、今なおこうして繋がり続けることは絶対にできなかったから。(※残念ながら、この運命から逃げ続け、特性由来の課題で周囲を著しく疲弊させてしまう当事者もいる…というのが僕の実感です。当事者だからこそ、あえて厳しいことも言わなければならないと思っています)。

この過酷な会社を辞め、数日後に、のちに発達障害の診断を受ける病院に通い始めました。知能指数検査である『WAIS』や、『ロールシャッハ検査』を受けたりしました。

余談ですが、僕はこの、”会社を辞め数日後に”病院に行ったために、厚生年金ではなく国民年金が適用されることになりました。厚生年金だと障害等級が3級でも障害者年金が出るのですが、国民年金だと障害等級が2級でないと障害者年金が出ません。 この事実は診断を受けてから知り、何度も絶望させられました。 あのブラック企業のせいで、年金という権利も遠のいたような感覚が、今でも消えないことがあります。

また、あえて厳しい言い方をしますが、このことから、今の日本の障害者年金は、明確な、職業や社会的立ち位置等に由来する「不条理な格差」があると思います。 

この格差さえなければ、僕はあの実家から、もっと早く脱出できたかもしれない。人生全体のQOLがもっと高かったかもしれない―――そしてこうして苦しんでいるのは、僕だけではないはずです。 なので僕は今でも、社会全体から虐げられている・虐げられてきた感覚が、障害等級が上がり年金を2022年秋から受けられるようになった今ですら、心のどこかで完全に拭いきれていないかもしれません。

話を戻しますが、2012年1月21日、曇り空の大阪……僕は、『アスペルガー症候群(現在の自閉症スペクトラム障がい)』として診断を受けました。

それまでの人生が、真っ暗闇の中で、ライトが全くつかない車を運転させられていて、もはや自分がどんな車を運転しているかすら分からないとしたら、そのライトがつくようになり、「うわ、自分、軽自動車乗ってると思ってたら大型トラックに乗ってたのか…」が分かるくらい、衝撃の感覚でした。

もともと本で学んでいて自覚もあった数々の障害特性も、これですっかり腑に落ち、この自覚が無かったら―――たとえ、そのあと、母などから猛烈な差別的言動を浴びせられたとしても―――、今、僕に心から微笑みかけて下さる方々と仲良くなることもなく、コーヒーの道に進むこともなかったでしょう。いや、ともすれば、20代のうちに、僕は自ら命を絶っていたかもしれません。

なので僕は、今の僕を認めて下さる方々のため、葛藤する当事者の方々のために結果的にはなっているのかもしれませんが、診断を受けたことは100%、ポジティブに受け取っています