にじのわコーヒー&ビアスタンド 平田泰之
コーヒー&ビアスタンド
『にじのわ』代表
おそらく日本一不器用な珈琲屋

自身が発達障がいを持ち、壮絶な虐待被害経験がある平田泰之(ひらたやすゆき)さん。その経験を乗り越え、メンターとの出会いからコーヒーにまつわる活動を始めることになります。第2弾の連載コラムでは、診断に至るまでの道のりや、ブラック企業での体験、そして診断を受けたことで得られた気づきについて、平田さんにお話いただきました。
今でこそ、3歳児検診が広がり、発達障がいは早期発見が非常にされやすい状態となりましたが、僕が生まれた世代は、そうした検診が今のような感じで存在していませんでした。実際に僕が診断を受けたのも、2012年1月21日、僕が23歳の時です。
診断が大人になるまでずれ込んだのは理由があり、ずばり、親です。
世間体や見栄が何より最高の大好物である僕の母は、僕が成長し、まさに3歳になるにつれ、僕が母と『似ていない』ところが目立つようになったのと、僕の母は『自分の子供は自分と似ていなければならない』という強迫観念的な考えをとてつもなく強いレベルで持っていました。
そんな母は、僕が3歳の頃に強くこう思ったといいます。
『自分の子供が、そんなおかしい子供なわけがない!!!』
…このことは、僕が診断を自ら望んで受けてから間もないころ、まるで僕が死してもなお消えない呪いをかけられるかのように、吐き捨てられた言葉です。
時に、このコラムをご覧になられている方は、この母の言葉には、障がい当事者はもとより、そのご家族やご友人に対する、非常に強烈かつ悪辣な憎悪や偏見が込められていることに気づくのではないでしょうか―――こうして僕が”製造”された家は、まさに、ナチス・ドイツのような家だったのです(実際にナチスは、自閉症の方々、知的障がいの方々も含めた障がい者の方々も、多数虐殺しています)。
そんなナチス・ドイツのような両親のもとに生まれ落ちた僕が、20年以上の紆余曲折の末、診断を受けた流れを紹介させて頂きます。
冒頭でも陰鬱な話がありましたが、そうした話がさらに多くなります。
不快な方がいらしたら申し訳ございません。
ですが、1つ前のコラムで書いたように『僕は診断を受けたことを100%ポジティブに取っている』ので、このコラム、そして今後上梓させて頂くコラムがただの陰惨な話で終わらないことを願います。

僕は、2011年11月、大阪市西区・肥後橋に構えるとあるIT系の会社で毎日のように精神的暴力、人格否定など、ハラスメントを受け続け、自殺に追い込まれかけ(実質殺されかけ)ていたのですが、入社1週間ほどで激しい自殺願望が湧いてきたこの職場に早くも耐えられなくなり、自分が障がいの自覚を持たざるを得なくなったことが、診断の大きなきっかけでした。
毎日、『今日はどんなことで怒られるのだろう』と、恐怖と絶望の中で出社しており、この会社を辞めた後も、2015年秋くらいまでの4年ほど、この会社が入っているビルの前を通ることすら恐怖と苦痛のあまりできず、地下鉄に乗って肥後橋駅(大阪メトロ四ツ橋線)を通り過ぎるだけで、著しい抑うつや精神不安定に襲われるくらいでした。
この会社では、たとえば、仕事を覚えんとメモを取ろうとしただけで、『メモばっかり取ってるの気持ち悪い!誰かの悪口でも書いてるのか!!』と、僕の上司(社長の血縁者と思われる人物)に罵声を浴びせられたり、この上司に、一つ前の職場の悪口をこれでもかと言わんばかりにクソミソに言われ、『君のいた資材や購買の部門というのは女をはべらせる上司ばっかりおるんや!君の上司もそういう男やったやろ!』『平田君がおった職場はそんな職場なんや!つまりそれが君のレベルや!』など、人生の全てを否定されることは日常茶飯事でした。
ちなみにこの時は、次回からのコラムに書く予定の両親からの虐待を受けていた真実を知り、向き合い、両親とも初めて対決して間もない頃で、自尊感情等はどん底の状態でした。このことから『自分が死ぬことこそ最大の社会貢献なのでは』という発想に簡単に行きついてしまい、それが激しい自殺願望にもつながったと思われます―――しかし、前年3月に僕は自殺で親友を失っており、彼のご両親にも大変よくして頂いた経験もあったことから、自殺を選ぶことはできませんでした(僕のことが害虫並みに大嫌いな人たちにとっては申し訳ございません)。
特にこの問題の上司がよく言っていたのが『空気読まなあかん』でした。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、私たち発達障がい当事者の中には、この『空気読む』―――暗黙の了解や言外の意味を読み取ることがもはや不可能と言うレベルで難しい人もおり、僕もその例に漏れていません。
また、あいまいな言葉や指示が苦手なこともよくあります。この上司とは別に、70歳前後の総務担当の社員がいたのですが、非常にあいまいな指示を僕に繰り返し、僕が具体的に何を意味するのかを尋ねたら、『イ~ッヒヒヒ……』と侮辱したように笑ったりしました。その対応は、一つ前の職場で僕の直属の上司だった人が、『少しでも疑問に思ったことは、後々の大失敗にならないよう、何でもいいから絶対聞けよ』と言い、僕が何を聞いても露骨にバカにしてこなかったのとは、全く対照的でした。
そんな中で、僕は自分が発達障がい者であることの確信を深めていき、会社帰りに本屋に立ち寄り、閉店時間まで発達障がい関係の本をむさぼるように読んでいたことも何度もあります。
自殺願望が非常に強かった一方で、『自分は診断を受けるために大阪に戻ってきた』という想いも強めていくことになりました(※一番最初の民事再生になってしまった会社・職場は瀬戸内海の離島にあった)。
そして、忘れもしない、2011年11月18日金曜日、19~20時頃。
前述のメモ禁止を言ってきた上司の、『打合せ』と称した個室に僕を連れ込んでの人格否定の嵐、もはや拷問と言ってもいいそれが始まりました(ちなみにこの『打合せ』は半ば日常的に、繰り返し行われていました)。
僕は、空気を読むことを強要されることに耐えかねて、『自分は発達障がいかもしれません…』と言ってしまい、その時に上司はこう吐き捨てました。
『発達障がいって、空気の読めない頭のおかしな人たちのことやろ?君ならそんな人と一緒に働きたいと思う?』
『社会は誰も、助けてくれません!!!』
これは我が生涯最大の愚行の一つなのですが、この上司の『~働きたいと思う?』に対して、僕は『働きたくない』と答えてしまったのです。
この上司の用意した『踏み絵』を踏まないと、僕は虐殺されてしまうという恐怖に、僕は勝つことができなかった。今なお、無念です。その後、特に30代に入ってからですが、発達障がい当事者でもある素晴らしい友人達に恵まれるようになってから、なおそう思います。
その後の上司の核ミサイルの雨のような暴言の嵐は、あまりのトラウマからか、どんな内容なのかすら覚えていません。
この日、帰宅してから(当時はまだ一人暮らしをしていたが、この会社を辞めて実家という『アウシュヴィッツ強制収容所』に帰ることに、そして…)、体から力という力が抜けたように、スーツ姿のまま、ベッドに倒れ込み、1時間近く動けなかったのを今でも覚えています。

土日休みの間に、実家に頼らざるを得ず、実家に帰るしかなくなりましたが、両親は、今思えば偽りの優しさでしたが、実家に帰ることを許可はしてくれました―――その後、9年半に及ぶ実家生活が続くことになり、この過程でも、より巧妙化した洗脳や虐待が続けられることになります。
休みが明けた2011年11月21日月曜日、三日前と打って変わってとても優しい口調になった上司(※モラハラをする人は、モラハラ対象を虐待した後、急に優しくなることが非常に多い)に対して、退職届を出すことになりました。
その時の上司は『一つだけ大事なこと言っとくわ。「逃げて解決したらあかん」。…いやまあ平田君の今がそうってわけじゃないねんけど』と、謎の笑顔を残しながら言い残しました。
今の僕は、この時この上司たちとその会社というサイコパス虐待者が救う組織から「逃げて」解決したことは、今なおブラック企業に苦しめられている人たちのためにも、間違いなく正解だったといえるでしょう。
一方で、別にこのサイコパス上司の言いつけを守るまでもなく、「逃げて」解決することを決してしなかったことがあります。
それは、僕が僕自身の生まれて以来の宿命、発達障がい当事者だということから逃げなかったことです。
もし僕がこのことから逃げていたら、きっと、僕の命を救ってくださった数々の恩人たちとも、仲間たちとも、今なおこうして繋がり続けることは絶対に、絶対に、絶対にできなかったから。(※残念ながら、この運命から逃げ続け、特性由来の迷惑を大量に垂れ流し、無差別に人を著しく疲弊させる当事者もまあまあいる…というのが僕の実感です。当事者だからこそ、非当事者が言うと差別だと反撃されかねないこういうことも言いやすいかも、と思うのです)。
この生き地獄のような会社を辞め、数日後に、のちに発達障がいの診断を受ける病院に通い始めました。知能指数検査である『WAIS』や、『ロールシャッハ検査』を受けたりしました。
余談ですが、僕はこの、『会社を辞め数日後に』病院に行ったために、厚生年金ではなく国民年金が適用されることになりました。厚生年金だと障がい等級が3級でも障がい者年金が出るのですが、国民年金だと障がい等級が2級でないと障がい者年金が出ません。
この事実は診断を受けてから知り、何度も絶望させられました。あのブラック企業のせいで、年金という権利も奪われたような感覚が、障がい等級が上がって年金が頂けるようになって3年ほどになる今でも消えないことがあります。
あえて機雷並みにトゲトゲで爆発力全開なことを言いますが、このことから、今の日本の障がい者年金は、明確な『職業差別』があると思います。この差別さえなければ、僕はあのアウシュヴィッツ強制収容所のような僕の実家から、もっと早く脱出できたかもしれない。人生全体のQOLがもっと高かったかもしれない―――そしてこうして苦しんでいるのは、僕だけではないかもしれない。
話を戻しますが、2011年1月21日、曇り空の大阪……僕は晴れて、『典型的なアスペルガー症候群』として診断を受けました。
それまでの人生が、真っ暗闇の中で、ライトが全くつかない車を運転させられていて、もはや自分がどんな車を運転しているかすら分からないとしたら、そのライトがつくようになり、『うわ、自分、軽自動車乗ってると思ってたら10tトラックに乗ってたのか…』が分かるくらい、衝撃の感覚でした。
もともと本で学んでいて自覚もあった数々の障がい特性も、これですっかり腑に落ち、この自覚が無かったら―――たとえ、そのあと、母などから猛烈な差別の言動をミサイルの豪雨のごとく浴びせられたとしても―――、今、僕に心から微笑みかけて下さる方々と仲良くなることもなく、コーヒーの道に進むこともなく、いや、ともすればコーヒーの道に入る前、20代のうちに、僕は、両親たちが心底ではきっと望んでいたように、自ら命を絶っていたことでしょう。