なぜ前向きな言葉は日本で拒絶されるのか 〜相手→自分への物事の伝え方編〜

峰島 新

峰島 新

2026.02.17
column_top_MineshimaArata.jpg

峰島新(みねしまあらた)さんは、システムエンジニアとして働く傍ら、映像制作やWeb制作やホームページ制作、さらには画像編集やライティングといった複数の仕事をしています。さらにPC業務だけにとどまらず、ダンスインストラクターのお仕事や趣味でもダンスをされています。そんな峰島さんがワクセルと出会ってから約1年以上、そしてコラムを書き始めてから約1年以上が経ち、今ではより一層活動の幅を広げていらっしゃるので、今回はその取り組みの際に遭遇する、相手との会話の中で起こるエピソードについて、綴っていただきました。

なぜ人は、成功事例のない道を進む者をお説教で止めようとするのか

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_峰島新_成功事例のない道を進む者をお説教で止めようとするのか.jpg

成功事例のない道を進んでいる人に対して、なぜ人はここまで強い言葉を向けるのか。なぜ「共感できない」で終わらず、「甘い」「無駄」「有名になれない」と断定するのか。

これは単なる感情論では説明できない。むしろ、多くの場合、相手は「客観的」であろうとしている。市場データ、経験則、過去の成功と失敗。それらに基づけば、前例のない道が非効率に見えるのは当然だ。再現性も低く、失敗率も高く、回収までが不透明。この分析自体は、論理的に間違っていない。

だが、問題はそこではない。その分析は、特定の前提条件の中でのみ成立する客観性だ。

既存モデルが生む「お説教」のメカニズム

見出し2画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_峰島新_お説教のメカニズム.jpg

多くの人が想定しているのは、単一ジャンル・単一市場・単線キャリアの世界だ。この枠組みの中では、成功事例がない道は「危険」になる。ところが、成功事例のない道を本気で語る人が現れると、相手の中で別の反応が起きる。それは「比較」だ。

「自分はその道を選ばなかった」 「選ばなかった理由は正しかったのか」

この問いは、相手が望まなくても立ち上がる。人は、不安を抱えたまま対等でいることが苦手だ。だから安心できる位置を探す。それが「正しい側」「経験者側」「教える側」だ。 お説教とは、相手を導く行為ではない。自分を安心させるための行為である。

日本社会では特に、止める人、忠告する人、現実を教える人が「大人」とされてきた。だから共感できなくても距離を取る、という選択肢が育ちにくい。さらに、成功事例のない道を語る人は極端に少ない。多くは途中で諦めるか、言語化せずに沈黙する。そのため、覚悟を持って語る人に出会うと、「よく分からない」「会ったことがないタイプ」という反応になる

未知への恐怖と社会的反射

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_峰島新_未知への恐怖と社会的反射.jpg

分からないものは、不安を生む。不安は、お説教を呼ぶ。これは個人の性格ではなく、社会的反射に近い。厳しい言葉の多くは、未来の予測ではない。その人が生きてきたモデルの限界を、他人を通して確認しているに過ぎない。

成功事例の外側を歩く人は、必ず非難され、必ず止められそうになる。それは異常ではない。むしろ、構造的に必然だ。それでも進むということは、結果が出るかどうか以前に、前例に依存しない生き方そのものを引き受けるということだ。

私が大切にしているのは、こうした周囲の反応に飲み込まれないことだ。他者の言葉は、あくまでその人の「世界観」の投影であり、私の未来を規定するものではない。理解されないことは、失敗ではない。お説教されることも、間違いの証明ではない。それは、まだ言語化されていない可能性が、確かにそこに存在している証拠なのだ。

可能性を閉ざさないための「対話」

見出し4画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_峰島新_可能性を閉ざさないための対話.jpg

相手から投げかけられる強い言葉、「ダメだ」「マズイ」「こうしなさい」に対して、私は自分自身の「言葉」で対抗する。それは、相手と同じように「お説教」で返すことではない。私が仕事の現場で実践しているような、相手の可能性を閉ざさない言葉選びを、対人関係すべてにおいて徹底することだ。

お説教してくる相手に対してさえ、私は「あなたの考えは間違っている」とは言わない。ただ、「そういう視点もありますね。一方で、私はこういう危うさを感じ、あえて別の手段も検討しています」と提示する。これは、私自身の道を揺るがせないための防御でもあり、相手に対する最大の敬意でもある。自分の正解を疑わない相手に対し、あえて「問い」や「選択肢」を投げ返すことで、議論の次元を変えるのだ。

沈黙せず、語り続ける責任

見出し5画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセル語り続ける責任.jpg

社会にとって不都合なのは、失敗する人ではない。前例に依存せずに進み続ける人だ。なぜなら、その存在は「他にも選択肢がある」という事実を周囲に突きつけてしまうからだ。多くの人が既存のレールにしがみついて生きている中で、そこから外れて自由に、かつ責任を持って生きている人間の存在は、それだけで眩しく、そして恐ろしい。

だからこそ、私は正そうとしない。だが、黙ることもしない。自分がどのような覚悟で、どのような言葉を使い、どのような景色を見ているのか。それを言語化し続けることが、成功事例の外側を生きる者としての責任だと思っている。

結果として私が歩んでいる道は、一見するとエンジニアリングや映像、ダンスといった多角的な点に見えるかもしれない。しかし、その根底にあるのは「自分自身の人生のハンドルを、既存の成功事例に明け渡さない」という強い意志だ。

理解されないことを恐れず、お説教されることを嘆かず、ただ淡々と、しかし情熱を持って我が道を語り続ける。その積み重ねの先にしか、まだ誰も見たことのない「新しい成功の形」は存在しないのだから。私はこれからも、この挑戦を楽しみ、そして言葉にしていく。丁寧な言葉選びの先に、いつか共感の「輪」が広がっていくことを信じて。