
高卒・偏差値40以下の私が英会話教室を起業・経営するまでの道のり①~前編~
久山 絵里さんは株式会社フレンズの代表を務めています。高校卒業後、印刷工場で勤務していたところから、人生を変えるべく英語力ゼロの26歳のときに、オーストラリア一周一人旅を経験されました。帰国後、大手英会話教室の勤務を経て30歳で「フレンズ英会話」をスタートしました。そんな久山さんが英会話を習得する方法について書かれたコラム連載の第6弾です。
日本が学歴を重視しない社会になってほしい
高卒であることは言わないほうがいい…とアドバイスを受けたことがあります。日本では、なんというか、大卒が当たり前すぎる。
教育業界に限らず、他業界でも高卒では選べない職種も多い。実際に、私は英語教育の業界に入って20年(自分の教室を作って15年)ぐらい経つけど、自分以外で高卒の先生に会ったことがありません。
では、なぜここであえてそれを言っているのか。それは
日本が、学歴を重視しない社会になってほしいから。
高校を出てすぐ社会に出ても、大学を中退しても、道はある、と若い人に知ってほしいから。
学歴がなくても頑張っている人は、たくさんいる。
いや、大学を否定しているんではないんですよ、そこは誤解のないように言っておきたいところです。入試の苦労とか、その後の人生で年収が違うとか、やっぱり何事にもいい面と悪い面があり、それは全て、自分の考え方次第だと思うから。
さて、そんな、ちょっと少数派のひとりである私の人生をちょっと知ってあげてもいいよ、という暇な人だけ、どうぞお読みください(笑)
大学に行かない決意をした、英語とは無縁の中高生時代
私には2つ下の妹がいます。そして、4つ下の弟がいました。中学生だったある日、妹と「会議」を開きました。「高校まで公立に行って、就職しよな」
39歳で他界した弟は、生まれつき脳性麻ひを患っていました。24時間看護が必要で、人工呼吸器のチューブが外れると、夜中だろうがピーピーと大きな音が家じゅうに響き渡る。昼も夜も関係なく、3時間ごとに管に流す流動食、入院時の付き添い。両親は仕事に集中することもできなかったであろうこの環境が普通の我が家で過ごした18年間で、大学に行くことは1ミリも考えなかったし、行きたいとも思わなかったし、行けないと思っていた。そして親から、大学に行けと言われたことは一度もなかった。
「会議」で決めた通り公立に通っていた高校3年生、就職氷河期の夏、A4一枚しかない就職先リストの中から、近所の印刷工場を選びました。理由は「試験なし」「自転車で通える(=通勤手当を電車賃に使わず貯める作戦)」から。大学に行かないことを決めていたから勉強はせず、英語は特に大嫌いで苦手で、学力には全く自信がなかったんですよ。お金も貯めたかった。そして面接を受けて数日後、無事就職決定。
大学生はみんな就職には大変な思いをすると聞くけど、私は全く苦労なく就職することができたんですよ、ラッキー極まりないです。
前置きが長くなりましたが、この話を最初にしたのは「真の英語力ゼロ」ということを言うためです。英語が話せると言うと、だいたい「いい大学出たんだろう」とか「帰国子女では」とか言われる(思われる)ことが多いし、英語は This is a pen. レベルでした、と言っても大体信じてもらえないですもん。
誤解のないように言っておきますが、大学に行った方は入試で相当勉強したはずですし、帰国子女の人たちも現地で苦労や努力、いろんな経験をしているので、ラクして英語習得したでしょと思うのは違うと思います。誰しもが、努力しているはずです。
18年間、私が育った環境は、生きていく力を大いにつける最強のものでした。
お金を貯める18歳
18で勉強から逃れ、自由の身を勝ち得た私の初任給12万円。贅沢なもんです。でももう少し貯めたかったから、夜は近所のディスカウントストアでバイトをしました。朝作って持っていったおにぎりを、印刷工場からバイト先への移動中、自転車に乗りながら食べました。ちまちま苦しい節約…というより、これで100円浮いた!という感じで、なんていうか、無駄を省く節約を楽しんでいました。
でも逆に使うときはドーンといく人でもあります。免許を取って中古の軽自動車を買い、仕事がない日には地方を旅していました。その後ワンルームで独り暮らし(自由にとにかく仕事をしまくってお金をもっと貯めたかった)して、中型バイクの免許も取得、中古の250ccのバイクに乗っていました。行動力だけは、あったんです。
その行動する先、目的地がオーストラリアに変わったのが26歳になったばかりのある日。
先輩夫婦の新婚旅行の写真を見て、感動。「この海めちゃ綺麗ですね!どこなんですか」…それは、真っ白なビーチが有名な、ホワイトヘブンビーチという所。「私、オーストラリア行きます!」
26歳、突然オーストラリアへの道が開ける
7年ほど勤めた印刷工場の後、広告代理店として仕事をしていたのですが、そこでは「自分が動かなければ収入がないだけ」のフルコミッション契約だったので、幸運にもすぐ辞めることができました。車、バイク、独り暮らしのアパート全て手放し実家に戻った私は「オーストラリア行く!」と言い、1ヶ月で飛ぶ!と決め準備開始!
正直、いつ突然亡くなってしまうかもしれない弟がいるのに、すぐ帰国できない距離にある海外へ1年も行くことに、親はどう思うだろうと心配しましたが、母はひとこと「行っておいで」と言いました。「私らのせいで、アンタの人生を縛りたくない。自由に生きよ」とのこと。私もそんな風に思える母になりたいと思った。そして母の立場になった今、娘に対してそう思い育児をしています。
続きは次回、後編へ。
