「侘び寂び」令和版完全解説

黒枠はすみ(Vtuber)

黒枠はすみ(Vtuber)

2025.12.20

VTuber(ブイチューバー)の黒枠はすみ(くろわくはすみ)さんの連載コラム第2弾です。若い世代に向けて、日本の『おもてなしの心』の大切さを発信し、社会がより良くなるための活動を続けています。今回のテーマは、日本の文化「侘び寂び(わびさび)」について。その意味合いや言葉の裏の思いに迫ります。

前回のコラムでは、「日本の美徳は学ぶものというより“思い出すもの”に近い」とお話ししました。
その中でも、よく耳にするけれど説明するのがむずかしい言葉の一つが、「侘び寂び」です。茶道や庭園の世界だけの専門用語ではなく、実は私たちの日常や、おもてなしの感覚にも深く関わっています。
今回のコラムでは「侘び」と「寂び」に分割してそれぞれ解説してまいりますので、今日からあなたも確実にその意味が説明できるようになり、日々に生かすことができるWABISABI MASTERになれること間違いなしです笑

【侘び】Imperfect=欠損による美しさ

「侘び(わび)」は、英語で言うところの imperfect──つまり「不完全さを引き受ける心」に近い概念です。
新品でつるつるの器より、ふちが少し欠けてしまった茶碗を、あえて大切に使い続ける。
完璧で流暢なスピーチより、言いよどみながらも自分の言葉で話す人に心を動かされる。
そこには、「足りなさ」や「欠け」をマイナスではなく、味や物語として受け止めるまなざしが働いています。

侘びの世界では、「不足=欠点」ではありません。

余白や静けさ、ちょっとした不便さを通じて、見えてくるものがあると考えます。
完璧に片づいた部屋よりも、本棚に読みかけの本が一冊開いたまま置かれている光景に、住む人の息づかいを感じるように。
私たちは「もっと完璧に」「もっと効率的に」と自分を追い込んでしまいがちです。
そこに侘びの感覚をひと匙(さじ)だけ加えると、「欠けがあるからこそ、人として愛おしい」という視点が生まれます。
おもてなしにおいても、完璧な対応より、少し不器用でも相手を思う心がにじむ方が、印象に残ることが多いのではないでしょうか。

【寂び】Aging=時の経過による美しさ

一方の「寂び(さび)」は、aging──時間の経過そのものが生み出す美しさを指します。
庭の石に生えた苔、日焼けして色の落ちた看板、柱に刻まれた小さな傷。
それらは“古びた”とも言えますが、寂びの目線で見れば、時間が積み重なった証拠=価値です。


新築の家には、新築の清々しさがあります。
けれど、誰かが長く住んだ家には、その人の暮らしや喜怒哀楽の痕跡が宿ります。
そこに「寂び」を感じ取るとき、私たちは単なる物体ではなく、「時間とともに生きてきた存在」として世界を見ています。
現代社会では、“古いもの”というだけで更新ボタンを押してしまいがちです。
けれど寂びの感覚は、時間を味方につける視点を与えてくれます。
年齢を重ねること、経験を増やすこと、失敗と成功を繰り返すこと。
それらは若さと引き換えに失うものではなく、「深み」という形で静かに蓄積されていきます。
おもてなしの場面でも、年季の入った旅館や、長く通われてきた小さな店に、不思議な安心感を覚えることがあります。
そこには、マニュアルでは作れない“時間の厚み”が漂っているからです。
寂びとは、時の流れを恐れず、むしろ「共に年を重ねる」ことを肯定する、日本ならではの美学なのだと思います。

侘び寂び=完全なる不完全、という解釈

見出し3画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_黒枠はすみ_侘び寂び

では、「侘び寂び」とは何でしょうか。
私は、侘び(Imperfect)と寂び(Aging)が重なり合ったところに生まれる、“完全なる不完全”と解釈しています。

欠けや足りなさを抱えながらも、そのままの姿で時間を重ねていく。
その結果として立ち現れる、静かな調和や落ち着き。
それが侘び寂びの世界です。
完璧な新品は、確かに美しい。
けれど、そこには「これから」の物語しかありません。
一方、侘び寂びの美は、「欠け」と「時間」という、一見ネガティブな要素を抱えながらも、なぜか“もうこれで十分だ”と感じさせる不思議な充足感をまとっています。
人間も同じです。
失敗したことがあるから、誰かに優しくできる。
傷ついたことがあるから、相手の痛みに気づける。
まっさらではないからこそ、にじみ出る温度がある。
おもてなしの本質も、ここにあります。
マニュアルどおりの完璧さではなく、相手を思うあまり、少し段取りを崩してでも柔軟に動いてしまう。
予定調和からはみ出したところにこそ、「この人に出会えてよかった」と感じる一瞬が生まれるのではないでしょうか。


侘び寂びとは、「完璧をあきらめる」ことではありません。
むしろ、不完全さと時間をそのまま抱きしめた先に立ち上がる、もうこれ以上取り繕う必要のない完全さ。
私はそれを、日本が誇る“心のデザイン”だと思っています。

侘び寂びがある日常とは

侘び寂びの感性を日常に持ち帰るということは、
欠けを責めず、時間を恐れず、互いをそっと労わり合うことでもあります。
困っている人には手を差し伸べ、
ご年配の方には、その時間の深みを敬う気持ちを向けたい。
侘び寂びとは、「完全なる不完全」を抱いて歩き続ける、
終わりなき“和の旅”なのかもしれません。