
今野 裕之
医療法人社団TLC医療会ブレインケアクリニック名誉院長
精神科医
「認知症は治らない」──そう信じられてきた常識に挑む精神科医・今野裕之さん。
研究と臨床の両面から脳の健康を追求し、栄養・睡眠・運動・ストレス管理を組み合わせた”ブレインケア”という新しい概念を提唱しています。認知症を「治す」から「防ぐ」へ。その想いと挑戦の原点について語っていただきました。
精神科医として精神科病院で認知症治療に携わってきた私は、長年無力感と向き合ってきました。認知症は、現代医学においてもなお、根本的に治すことができない疾患です。診断を告げる度に、患者さんとそのご家族の希望が失われていく様子を、何度も目の当たりにしました。
しかし、その常識は本当に正しいのか。もっと何かできることがあるのではないのか。そんな疑問が、私の人生を大きく変えることになりました。
「認知症は老化の病気である」ということに気づいた私は、順天堂大学大学院に入学し、脳の老化を防ぐ方法の研究を始め、食事や栄養を介した認知機能の向上について追求していきました。脳の健康は、私たちが日々口にするものと密接に結びついている。この研究での気づきが、その後の臨床実践の礎となりました。
2015年、研究結果から「認知症は治療できる」という自信を深めた私は、より根本的な認知症治療を目的としたブレインケアクリニックを開設しました。そこで私は、自分の考えに非常に近かった「リコード法」を導入しました。リコード法は、単一の薬剤に頼るのではなく、栄養、運動、睡眠、ストレス管理など、多角的な介入を組み合わせる革新的な治療法です。米国の医師が開発した認知症の治療プロトコルで、すでに認知症・認知機能障害の患者の9割を改善したという成果を発表していました。日米の制度の違いなどから、完全な導入はできませんでしたが、私は日本人に合わせた独自のアレンジを加え、この10年で何百人もの物忘れに悩む方々の治療に当たってきました。
そこで積み重ねてきた臨床経験の中で、私が確信を得たことは、「認知機能障害は改善できる」ということです。
認知症の患者さんだけではありません。発達障害を抱える方々、そして近年注目されているブレインフォグ(脳の霧)に悩む方々においても、適切なアプローチによって認知機能の改善が可能であることを、数多くの症例を通じて確認してきました。
これは、医療の現場にいる私たちにとって、そして何より当事者やそのご家族にとって、希望の光となる発見でした。
しかし最も重要なのは、認知症になってからの治療ではありません。むしろ、認知症にならないための予防こそが本当に大事なことです。そのために必要なのが「ブレインケア」という考え方です。
ブレインケアは私が初めて提唱した言葉ではありませんが、私が考えるブレインケアとは、「すべての世代が日常生活の中で自然に実践できる、脳の健康を維持・向上させるための総合的なアプローチ」です。食事、運動、睡眠、ストレス管理、環境対策、仕事の仕方、生きがい、人間関係など、あらゆる分野にブレインケアのコツが存在します。それを知っているか知らないかで、あなたの未来は大きく変わります。ブレインケアを知らずに過ごすことは、案内人なしに地雷原を歩くようなものです。
ブレインケアは高齢者だけの問題ではありません。30代、40代の今こそ、将来の認知機能を守るための投資が必要なのです。
日々高いパフォーマンスを求められる皆さんにとって、脳の健康は最も重要な資本です。
現代社会は、脳が健康であることを前提に設計されています。情報を素早く処理し、的確な判断を下し、複数のタスクを同時にこなす。こうした能力が当然のように求められる社会構造の中で、物忘れや判断力低下などの症状が少しでも出てくれば、適切な判断ができなくなり、仕事上で不利益を被る可能性が高くなります。
認知機能の低下は、高齢になってから突然始まるものではありません。生活習慣の乱れ、ストレス、睡眠不足などによって、20代の若者であっても日常的に起きている問題です。
ブレインケアは個人の健康を超えた社会的インパクトを持つものです。会社の代表や従業員の認知機能を健康に保つことができれば組織全体の生産性も高まり、病気による休職も減って社会全体の医療費負担の軽減にもつながります。ブレインケアの普及は、持続可能な社会の実現に直結します。
私が目指すのは「認知症になる人がゼロになる社会」です。
これは決して一人で達成できる目標ではありません。医療従事者だけでも、研究者だけでも不可能です。それぞれの世界で新しい価値を創造する力を持つ皆さんと共に、この挑戦を進めていきたいと考えています。
一般の人たちが普段の生活の中で、意識することなく自然にブレインケアを実践できる。そんな社会を、一緒に創っていきましょう。