「人生一度はチャレンジを」 元コナミのトップエンジニアが35歳で起業した理由

折原 有武治

折原 有武治

2024.05.08
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折原有武治(おりはらゆういち)さんは、コナミ株式会社(現コナミグループ株式会社)でシステム開発やSNS開発に従事。『ドラゴンコレクション』などのソーシャルゲーム開発に携わった後、グリー株式会社でマネージャー職を経験。2016年に株式会社オリサンキュを設立し、日本酒アプリ『日本酒アプリ ヨイタカ』の開発をしています。現在は教育に力を入れているという折原さんに、独立までの経緯や今後のビジョンについて伺いました。

小説家志望からプログラマーの道へ

見出し1画像_嶋村吉洋社長が主催するワクセルのコラム_ 折原さん

私は元々ライトノベルが大好きで、アニメの原作に携われるような専門学校へ進学したいと思っていました。しかし、親の意向で高校卒業後は就職することが決まっており、工業高校に3年間通った後、メーカーの工場に勤務することに。配属先は、田んぼや畑がある埼玉県内の工場でした。

そこで、農家と兼務するような方が、定年近くになると「あとは死ぬだけ」と話す姿に、電気が走ったような衝撃を受けました。19歳だった私は、人生で何もチャレンジせず、失敗もせずにこのままの路線でいいのかという危機感を覚え、元々の夢であった小説家になるために専門学校へ通い始めたのです。

専門学校の先生は実務主義で、「新人賞を取れたら単位を出す」という方針のもと、私は新人賞に応募しましたが、第一次選考で落選。学校自体は楽しかったものの、社会人としての経験が得られたのかわからない状態に陥りました。小説家の勉強をしてきたため、就職活動では非常に不利な状況でした。

就活では、選考が通らない日々が続きましたが、先生の伝手があり、ゲームのシナリオライターとしてコナミに就職することが決まりました。小説家の勉強で培った文章力を活かせると思っていましたが、入社後に進む道は、グラフィックデザインかプログラミングの2択でした。私はプログラマーを選び、社内の業務システムの構築に従事することになりました。

当時、mixiなどのSNSが流行り始めていました。私は小説家になる夢をもう考えておらず、インターネットサービスの可能性に魅力を感じていました。そんな中、コナミの子会社を立ち上げるプロジェクトが持ち上がり、私は自ら手を挙げて転籍し、SNSサービスの開発運用に携わることになったのです。

30代前半でマネージャーを経験

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インターネットサービスが走り始めたばかりの時代に、私はプログラマーとして名刺を刷っても恥ずかしくないほどまでに成長しました。小説家からの転機で仕事に打ち込めた原動力は、「社会人になりたい」という強い思いでした。小説家として成功しなかった理由が才能不足だとしたら、プログラミングはスキルであり、努力次第で会社員として働けると考えたのです。

子会社で始めたSNSのサービスは思うように進まず、人が離れていくなか、世の中ではソーシャルゲームが登場しました。コナミはゲーム会社だったため、SNSゲームが流行る予感があり、私は制作部署へ異動して『ドラゴンコレクション』の立ち上げに携わりました。当時の伸びは驚くべきもので、毎月数億円の売上を記録するほどの大反響を呼びました。

コナミの子会社でSNSサービスがうまくいかなかった経験から、「自分が開発したものが世の中で使われている実感を得たい」という思いが強くなりました。『ドラゴンコレクション』の大流行により、サービスを作りたい欲求が満たされた感覚を得ることができました。

インターネットサービスの道に進もうと決意した私は、ゲーム会社のコナミからのキャリアアップを模索しました。インターネットのインフラストラクチャーに携わりたいと考え、GREE(グリー)への転職を決意。インターネットサービス業界で、マネージャーかスーパープログラマーのどちらかを選択する機会が訪れた時、私は30代前半でマネージャーへの道を選んだのです。

35歳の節目で起業を決意

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会社員としてタスクをこなし、評価されることにモチベーションを感じていた私ですが、インターネット業界では35歳で転機を迎える人が多く、私にも自分自身を振り返る時期が訪れました。これまではちゃんとした社会人になるために努力してきましたが、キャリアのピークを迎えつつある35歳という節目で、人生で一度くらいチャレンジをしようと決意したのです。

19歳の時に目の当たりにした、「定年を迎えてあとは死ぬのを待つだけ」という人生を送りたくありませんでした。小説家になる夢を叶えられなかった私でしたが、エンジニアとして頑張ってきた経験から、何もないところからでもできるという実感がありました。

私のように頑張ればできる人にチャンスを与えることが、次にやりたいことだと思い浮かびました。自分が自由に活動できる場として起業を決意し、開発会社を立ち上げて未経験者を採用し、育てることができたら最高だとワクワクしたのです。このため、独立の目的は教育であり、すでに何名もの人を採用してエンジニアとして育てています。

これまでは大きな会社に縛られて働いてきましたが、これからは良い意味で自分らしく働ける会社を作り、多様な人を受け入れる器とチャレンジできる環境を整えていきます。受託開発から自社サービスの開発を行っていますが、さらに社会から注目される会社にすることで起業してよかったと思えるところまで事業拡大をしていきます。