挑戦者(元年俸120円Jリーガー、格闘家)
安彦考真 × ワクセル
今回のゲストは、Jリーグ初出場の最年長記録を持つ安彦考真(あびこたかまさ)さんです。安彦さんはコーチ、通訳、選手マネジメントと多角的にサッカーに携わった後、40歳でJリーガーになりました。また、現在は格闘家として活動しており、いつでも「挑戦者」であることを信念にしている方です。今回は安彦さんが挑戦し続ける理由や想いについて詳しく伺いました。
MCは、ワクセルコラボレーターでラジオパーソナリティーとして多方面で活躍中の岡田拓海さんと、ワクセルメディアマネージャーの三木が務めました。
サッカー強豪校への推薦が叶わずヤンキー高校に
三木:本日のゲストの安彦さんは1978年に神奈川県で生まれ、高校生の時にご自身で新聞配達をして資金を貯めブラジルに短期留学をされています。2016年にはサッカー日本代表の選手マネジメントに就任。2018年に40歳でJリーガーになり、翌年2019年に41歳でJリーグの最年長デビューという記録を保持されています。そして、2021年には格闘家へと転向されました。
今日は安彦さんのこれまでの経験を、どんどん掘り起こしていきたいと思います。
岡田:まず気になるのは、高校生の頃にご自身で新聞配達をされてまでブラジルに行かれた理由です。どうして留学をしようと思ったのですか?
安彦:中学生の時に推薦でサッカーの強豪校に入れる予定だったんですが、偏差値が足りなかったために推薦が取り消されてしまい、泣く泣く地元のヤンキー高校に通うことになりました。サッカー部に入ったのですが、先輩はみんなリーゼント。まともにサッカーをするような環境ではありませんでした。
でも、そんななかで高校2年生の時に部活仲間の一人がブラジルに行ったんですよ。それが大きな衝撃で「同級生が行けるなら自分も行ける」と思ったんです。キングカズさんに憧れている世代だったこともあり、親にブラジルに行きたいと話したら「部活もまともにやらない、勉強もしない、ワイシャツも来て行かない、そんな奴がふざけるな」と言われてしまったんです。
でも、確かに親が言っていることが正しいと思い、自分で何とかするために新聞配達のアルバイトを始めました。貯まったお金を親に持って行ったら「そういう覚悟があるなら行かせよう」と許可が降り、高校3年生の夏に初めての短期留学に行きました。
Jリーガーを目指すが挫折「嘘の重ね着人生」がスタート
岡田:高校を卒業した後も、またブラジルに行かれていますよね。
安彦:Jリーグの舞台に行くためにはサッカー強豪校に入ることが王道なのですが、僕はヤンキー高校に行ってしまったのでブラジルで実績を作るくらいしか方法がなかったんです。
2回目の留学中、2年目でようやくプロ契約まで漕ぎ着けたんですが、契約書にサインをした翌日に右ひざの靭帯を切ってしまい、プロ契約を破棄されてしまいました。けれど、なんとか留まる方法を考え、12歳以下のコーチを買って出てクラブに残れることになりました。
岡田:ケガをして、それでもクラブに残ると切り替えられたことに驚きます。日本に戻ってからはどういったキャリアを歩まれたのですか?
安彦:リハビリをし、静岡のプロサッカークラブ「清水エスパルス」の入団テストを受けました。当時の僕は21歳で、周りは高校生ばかり。テストが始まるとボールを高校生にどんどん奪われて、開始早々で怖くなってしまったんです。
でも30分3本勝負だったので、2本目で頑張ればいいと思い、1本目はこれ以上ミスをしないよう、声を出すけどボールは受けないというセコイことをしたんですよね。次で挽回するつもりだったのですが、1本目が終わった後、監督に呼ばれて「もういいよ、シャワー浴びて帰りな」と言われてしまいました。
その後の僕の行動が人生に大きな影響を及ぼすのですが、僕は周りに対して「俺は結構いいプレーをしたけど監督と合わなかった」「チームと合わなかった」と自分がビビってしまったことを隠して虚勢を張ったんです。そこから僕の“嘘の重ね着人生”が始まりましたね。
生徒の行動力に突き動かされ、自分のやり方でJリーガーを目指す
岡田:男は特に虚勢を張ってしまいますよね。安彦さんは日本代表選手のマネジメントもされていたそうですが、それは具体的にどういったことをされるのでしょうか?
安彦:「大宮アルディージャ」の通訳の仕事を経て独立し、選手のマネジメントに行きつきました。僕がやっていたマネジメントとは、たとえば選手が「ベストファザー賞を取りたい」となった時に、勝利インタビューで子どもの話題を出すなどの戦略を立てることでした。3年後、5年後に選手のブランディングになるようなマネジメントです。
三木:コーチのようなことをしているイメージがありましたが、ブランディングプロデュースだったのですね。
岡田:安彦さんはさまざまな立場でサッカーに携われていますよね。そんなキャリアを積みながら再びJリーガーを目指されていますが、これはどういった経緯があったんですか?
安彦:僕はマネジメントの仕事をしながら通信高校の講師もしていました。不登校の子や補導歴・退学歴のあるやんちゃな子が通っていて、そういう子たちを更生させることを目指していました。僕が受け持った授業では、“一次情報が大事”というテーマで「10回の素振りより1回のバッターボックスだ」ということを伝えていたんです。
そして、授業中にある生徒が手を上げて報告してくれました。
「買いたい本があったけど、お金がなかったからクラウドファンディングをしてみました。300円しか集まらなかったです。」
それを聞いたクラスメイトたちは笑っていましたが、「生徒がバッターボックスに立った」という事実を目の当たりにして、膝からガクンと落ちるくらいとショックを受けました。
「お前のモヤモヤしている人生、それでいいのか?」って言われた気がしたんです。その生徒の行動が僕を突き動かして、人生の後悔を取り返しに行くことになったんですよ。
人生の後悔を取り戻しJリーガーデビュー
安彦:人生の後悔を書き出してみて、一番時間が経っていて取り返しづらいものが、あの時に虚勢を張って、嘘をついた自分でした。どう考えても40歳でJリーガーなんて無理ですけど、一番難しいものがそれだったので、取り返すことに決めました。
その時Jリーガーを見ていて、お金を出すクラブが上で、お金をもらう選手が下という主従関係が強くなっている気がしていたので、これを変えるチャンスでもあると思いましたね。その日のうちに「仕事辞めます」と電話をし、2017年の夏、39歳からJリーガーを目指し始めました。
岡田:当時“年俸120円のJリーガー”というニュースが流れた時、僕は正直「この人は何を考えているんだろう」と思いました(笑)。安彦さんのなかでお金は問題ではなかったのですね。
安彦:そもそも40歳のおじさんは入団テストを受けさせてもらえません。入団するために「給料を受け取らない」という戦略を立てました。その代わり観客席を20席分もらい、自分で1万円売れば1試合で20万円入るので、その売上のパーセンテージをクラブに渡すという交渉をしたんです。クラウドファンディングを使うなど、別のところで収入を得ることで「切りたきゃ切りなさい」と、クラブと対等でいられました。
岡田:安彦さんのこれまでのビジネス経験を活かした方法ですね。40歳でJリーガーになり、41歳で最年長での初出場記録を更新されています。当時はどんな心境でしたか?
安彦:「やっと出られた」のひと言ですね。ただ、当時ものすごい数のアンチもいました。試合に出ればアンチにも認めてもらえるだろうと思ったんですが、もともとジーコさんが持っていた最年長デビュー記録を越えて「ジーコ超えてるんじゃねえよ」ってアンチが来て、結局何をしても言われるんだなと(笑)。でも、デビューしてチームに貢献することもできたので、僕としてはやり切った思いでしたね。
代名詞は「挑戦者」格闘家へ転向
岡田:安彦さんの挑戦はまだまだ終わらず、現在は格闘家として活動されています。どんな気持ちでチャレンジしようと思ったのでしょうか?
安彦:“今”を語れる代名詞を持ちたいと思ったんです。よく、「○○大学出身」とか代名詞を語る人がいますが、それは過去のことで今を語っていません。僕は今を語れるものが欲しかったんです。
自分の一番の代名詞は「挑戦者」であることと決めて、今よりも過酷なことを目指そうと思った時に格闘技が思い浮かびました。みんなが見ている「RIZIN」というリングに立って、挑戦者というメッセージを伝えていくことを目指しています。
岡田:考えや行動にここまで一貫性がある方は、なかなかいないのではないかと思います。安彦さんが描いている今後のビジョンを伺いたいです。
安彦:現在、アスリートや会社員の今後を応援する「LIFETIMEプロジェクト」という新規事業を、企業と一緒に手掛けています。先ほども話に出しましたが「今を語れる代名詞」を内省で見つけてもらうという取り組みです。僕のこれまでの経験や考え方をノウハウとして残せるよう、事業体として確立させていくことを目指しています。
また肉体的な挑戦で言うと、2022年2月にプロデビューが決まり、「44歳でプロ格闘家の最年長デビュー」という記録が増えます。弱っている自分、妥協しそうな自分、情けない自分など「僕の人生」を見せながら、それでも前に進もうという挑戦し続けるメッセージを届けられたら嬉しいですね。